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株式会社ジャニーズ事務所(ジャニーズじむしょ、英称:Johnny & Associates, Inc)は、日本の芸能プロダクションである。
創設者のジャニー喜多川は、その前半生を戦時中の一時期を除いてカリフォルニア州ロサンゼルスで過ごし、その間米国西海岸のエンターテインメントに浴びるように触れる。また、1950年頃から日本の芸能人が箔附けのために渡米するようになり、父の諦道が真言宗米国別院の主監をつとめていた都合上、寺院を公演場所として貸しており、ジャニーはここでもエンターテインメントに触れる一方で、美空ひばりを筆頭に錚々たる芸能人と面識を持った。
1952年、来日して米国大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎近くに近所の少年たちを集め、野球を教えていた。ある日、雨が降って野球ができなくなったため、映画館で『ウェストサイドストーリー』を鑑賞する。これに一同感動し、以降野球のトレーニングそっちのけでダンスのレッスンを始めた。この時の野球少年から選抜されたのが、事務所最初のタレントグループである(初代)ジャニーズであった。ジャニーは単なるタレント育成ではなく、ミュージカル俳優のような歌って踊れるマルチタレントの育成を目指した。1962年、渡辺プロダクションの系列会社としてジャニーズ事務所が創業される。初代ジャニーズは生放送の舞台ショーであった『夢であいましょう』などに出演する。
次いで1968年にデビューしたフォーリーブスは、当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り、「楽器を持たないGS」と通称される。1970年代に入りGSが下火に入ると、変わって台頭したソウルミュージックの路線に切り替える。
1970年代前半、GSのグループやメンバーはそれぞれアーティスト性を強めていた(ニュー・ロック)。また米国の音楽文化の中では、政治的な自我を前面に押し出したフォークソングが新たに誕生し、日本においても吉田拓郎、井上陽水、中島みゆきらが人気を博していた。しかしジャニーズはあくまで非日常な舞台を演出する方針を堅持した。ジャクソン5を模した明るいソウルミュージックに転向し、軽快でポップな舞台を「演じる」路線をとったのである。
1972年、郷ひろみのデビュー時には、その中性的なルックスを前面に押し出し、またGSで特にアイドル性が高かったオックスとタッグを組んでいた筒美京平をプロデューサーに迎えた。郷はその後、1970年代半ばから登場したディスコもいち早く受容したが、1975年に退所する。次いで1977年にデビューした川崎麻世、1980年にデビューした田原俊彦もこの流れを継いだ。舞台演技として一番経験を積んだのは、少年隊である。少年隊はデビュー前から米国に進出するなどそのパフォーマンスを高く評価される。1985年にデビューすると、翌年から2008年まで舞台『PLAYZONE』で主役を張った。1987年デビューの光GENJIもまたミュージカル志向であるが、トレードマークのローラースケートは英国ミュージカル『スターライトエクスプレス』に着想を得たものである。
一方で、1970年代半ばからテレビが普及するにつれて、日常のお茶の間に居ながらにしてちょっとした非日常的な空間を楽しむ、というスタイルが誕生する。この潮流の主軸をなしたのが、『スター誕生!』に関わった阿久悠であった。ジャニーズでこの新たな潮流に最初に合致したのが、近藤真彦(1980年デビュー)である。近藤のやんちゃなキャラクターが1950年代のオールディーズやストリートファッションなどの対抗文化の雰囲気を醸し出していると評され、ディスコ調の曲と並行してロック調の曲も発表された。
1980年代に入るとアイドルの大衆化はさらに進み、歌やダンスなどの「実力」よりも個性などの「魅力」がよりアイドルに求められるようになる。シブがき隊(1982年デビュー)は歌やダンスの技量不足をカバーするために、音楽の企画性を追求した。いわゆるノベルティソング(珍奇な(novelty)歌、いわゆる「ネタ」が先行した音楽)を積極的に練ったのである。その傾向としては、「スシ食いねェ!」に代表されるような、米国視点からのジャポニスムが色濃く見られた。続く忍者(1985年デビュー)は楽曲やパフォーマンスでジャポニズムを前面に押し出した。
1990年代に入るころには、アイドルの虚構性に対する需要がますます低下して、光GENJIの人気も下降した。1991年にデビューしたSMAPは、当初は光GENJIを模した華やかなコンセプトでスタートしたが、セールス面で事務所始まって以来の低迷を続ける。SMAPのマネージャーである飯島三智は起死回生の策としてそれまで縁がなかったバラエティ番組やドラマに積極的に進出させる。お笑い方面への進出自体は過去のタレントも行っていたが、SMAPは手加減することなく、本職の芸人も顔負けの本気でコントに臨んだ。
この方針はジャニーが志向する劇場型のエンターテインメントからは逸脱していたが、この方針転換を自身が率先して行わせた。ジャニーは米国と比べて芸能人の社会的地位が低い日本の文化環境に不満を抱いており、米国のようにすべてのジャンルの芸能人が等しく「芸術家」として尊敬を受ける社会を希求していた。そのため、すべての芸能分野において一流のパフォーマンスを披露する技量を持たせることは方針と合致し、また望ましいことであったのである。
SMAPはバラエティと音楽パフォーマンスを両方こなすことで、スター性がありながらより身近な存在であるという唯一無二の存在位置を獲得することに成功した。衣装についても身近な「リアル」を追求し、光GENJIのような気飾った衣装でもなく、近藤のような対抗文化の衣装でもなく、正真正銘の同時代の「リアル」な等身大の若者のヴィジュアルを保った。既に完成された完璧さではなくてそのメンバーの「物語」を見せ、ファンの共感を呼ぶという手法は、2000年代のアイドルの基本形となり、何よりジャニーズ事務所のほかのアイドルの模範ともなり、以降ジャニーズ事務所は男性アイドル界で圧倒的な勢力を築くに至った。
ジャニーズ事務所草創期の1960年代、日本の芸能界をリードしていたのは渡辺晋率いる渡辺プロダクション(ナベプロ)で、ジャズ奏者出身の渡辺の活動方針は、芸能人の生活基盤の安定のための市場整備にあり、タレントの権利擁護と市場提供を主目的とした。一方でジャニーズ事務所は、ジャニーの舞台芸術に対する憧れが最初にあり、初代ジャニーズ以下、事務所に入所した青少年に対して、エンタテインメントについて手厚い教育を行った。ジャニーは事務所の経営は姉のメリーに任せ、自身は半世紀に渡り、タレントへの教育を自ら行った。
ジャニーズ事務所の特徴はこのタレントに対する教育制度にあり、デビュー前のタレントを総称してジャニーズJr.と呼ばれるようになる。郷ひろみがデビューした1970年代から、Jr.のタレントは顔見せを兼ねて先輩のコンサートのバックダンサーなどの下積みを積むようになる。この育成制度は宝塚歌劇との類似性が指摘されており、ジャニーも取材に対して「男版宝塚をやる」と宣言したことがある。
Jr.内でグループを組み、オリジナル楽曲や単独コンサートを行うほど人気を得ることもある。原則ジャニーの許可を得てレコード・CDを発売することでデビューとなる。所属タレントは原則本名で活動するが、例外的に芸名を用いる者もいる。ジャニーズ事務所に所属しているタレントは、設立当時より基本的にアイドル活動が中心である(個人・グループを問わず、俳優やアーティストなど、他のジャンルと兼務した活動を行っている者も少なからず存在している)。ただし例外もあり、男闘呼組のようにアイドルグループとしてではなく、ロック・バンドグループとして所属していた例もある(ジャニーズ事務所がアイドル活動を中心としないタレントが所属した例は極めて少ない)。中にはCDデビューせず俳優として活動する者もおり、生田斗真、屋良朝幸、風間俊介、長谷川純、佐野瑞樹、ふぉ〜ゆ〜、浜中文一のように俳優業だけでジャニーズJr.を卒業した例もある。
副業は禁止されている事が所属タレントの口から語られている。ただし、事務所の許可を得てした例もある。
かつて、タレントの肖像権を守り、複写等の悪用を防ぐため、その管理に厳しい事務所とされていた。インターネットが普及した以降も、レコード会社・出演映画・ドラマ・CM・音楽番組の公式サイトや新聞のWeb、電子版上で、所属タレントの顔写真や動画を使用することが制限され、マネージャー等も同等とされていた。たとえば出版社のサイトにて雑誌表紙のタレントが白抜きで表示される、CD等の通信販売サイトにてCDジャケットがシルエット表示される、など長らく事務所および所属レコード会社の公式ウェブサイト以外のウェブサイトで所属タレントのCD・DVDのジャケット掲載を行っていなかった。しかし2017年8月ごろから掲載が解禁された。雑誌・書籍表紙についても2018年4月より掲載が認められるようになった。
2017年から2018年にかけて、所属タレントが出演する CM、ドラマやバラエティの予告が公式チャンネルを通してYouTubeなどへアップされるようになり制限が緩和された。2010年頃から、Adobe フラッシュプレイヤーの技術を利用し、閲覧ページを閲覧者が容易に画像などを保存できない設定になっているためかなり緩和されてきていたが、2006年開設の台湾公式ウェブサイトや、契約している広告企業が配布する壁紙などは必ず顔写真に加工が施されていた。
また2017年には、所属タレントの滝沢秀明が日UAE親善大使に委嘱された際、外務省のウェブページに滝沢が写った写真が公開されている。
2017年9月にジャニーズ事務所を退社した香取慎吾については、退社後の写真をWeb媒体に掲載可能である旨が明示されている。これはジャニーズ所属時に存在した写真掲載規制が、退社にともなって解けたことを意味している。
そして2018年1月31日、所属タレントのネット上での写真公開が正式に解禁された。使用できる写真は、所属タレントに対する公開取材での写真で、使用する写真の枚数の制限や写真を二次利用する際の注意点などがあるものの、所属タレントのネット上での写真公開がほぼ例外なく認められる形となり、同日のTwitter上でも、映画『羊の木』の公式アカウントで錦戸亮(関ジャニ∞)が写った写真がツイートされた。
さらに、1月31日の時点では「記者会見、囲み取材、舞台あいさつなどタレント登壇時のものに限る」としていた使用許可範囲は、同年2月12日には事務所や製作者側から配信される写真に限りドラマや映画出演発表の際にも使用可能と緩和され、当日は映画『来る』に主演する岡田准一の写真がネット上に掲載された。
所属タレントの声の露出も制限される場合がある。
ラジオ番組のストリーミング配信においては地域を限定したradikoにおいてはインターネットでの配信を一部の放送局を除き認めている一方、タイムフリーでの聴取はできない。また、有料での配信となっているradikoプレミアム(エリアフリー聴取)やLISMO WAVE、ドコデモFMでは番組が差し替えられている(大半はフィラー音楽となり、代替番組は放送しない)。radikoに関しては2018年4月よりこの規制がなくなり、タイムフリー・エリアフリーいずれも聴取が可能となる。
1980年代以降の音源は原盤権を事務所が所有している。契約しているレコード会社の独自リリースや音源貸出は原則認めておらず、レコード会社の枠を超えてコンピレーション・アルバムに収録されたことがあるのみ。
「所属タレントに優劣をつけさせない」との方針により、「候補者を何人か選び、その中から大賞やグランプリ獲得者を決める」という形式の賞レースへの参加は原則辞退している。受け取るのはそのタレントに直接賞を贈呈するもの(例として「ベストジーニスト」)や日本国外での表彰のみとなっている。
1987年に近藤真彦が日本レコード大賞にノミネートされた際、亡くなった母親の骨つぼを盗まれ「大賞を辞退しろ」と脅迫を受けた事件や、1990年の日本レコード大賞において、忍者が演歌・歌謡曲部門ではなくロック・ポップス部門にノミネートされたのを不服としたことが引き金とされている。2003年にSMAPの「世界に一つだけの花」が日本レコード大賞の候補に挙がったが「歌詞の中にあるように“ナンバー1”を目指すよりも“オンリーワン”を大切に歌ってきた。そのメッセージを貫きたい」という理由で辞退している。
2010年の第52回日本レコード大賞には近藤真彦が最優秀歌唱賞(第50回以降、同賞はノミネート形式から選考形式に変更された)に選ばれた。この時は「近藤はレコード大賞に育てられた歌手」と受賞を受け入れている。
2006年12月の第30回日本アカデミー賞発表の席上で、『武士の一分』に主演した木村拓哉が「事務所の方針で、最優秀賞をほかの人と競わせたくない」との理由で主演男優賞を辞退した事を発表している。同年の第49回ブルーリボン賞において木村拓哉と岡田准一(『花よりもなほ』)が主演男優賞の選考に挙げられた際にも「お世話になっている俳優や所属タレント同士で賞を争うのは本意ではない」と辞退している。
2015年1月、第38回日本アカデミー賞に岡田准一が主演男優賞(『永遠の0』)と助演男優賞(『蜩ノ記』)にノミネートされ、いずれも最優秀賞を受賞した。ジャニーズ事務所は「岡田はこれまで弊社最多の20本の映画に出させていただいており、映画に育てていただいた俳優といっても過言ではございません」というコメントを発表した。
2016年3月、二宮和也が『母と暮せば』の演技で第39回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞してジャニーズ事務所としては2年連続の受賞となった。また山田涼介が新人賞を受賞し、日本アカデミー賞にも参加するようになった。
※ 所属タレントのコンサート・舞台等の主催、企画、チケット販売などを行う「ヤング・コミュニケーション」が設立されており、「ジャニーズチケット販売約款」という規約が作られている。
1980年代中頃まで女性タレントが在籍していた。飯野矢住代、嶋田じゅん、藤島ジュリー景子、VIP、スリーヤンキース、オレンジ・シスターズなどが挙げられるが、1985年のオレンジ・シスターズの引退後は男性アイドルの育成に特化しており、女性タレントは所属していない。
実際にアジアの芸能界にもジャニーズが与えた影響は少なくない。
韓国では、日本大衆文化開放前だった時代にジャニーズの音楽を聴く人が多かった。近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」を初め、光GENJIなども韓国である程度の認知度があった。1990年代に入ってからジャニーズの全盛期が来て、韓国の芸能会社もジャニーズのシステムを模倣して男性アイドルグループをデビューさせた。
代表的に、SMエンターテインメントの創設者であるイ・スマンがジャニーズに影響を受けたことが知られており、H.O.T.や神話などをデビューさせるきっかけとなった。また、DSPメディアに所属していたソバンチャは少年隊、SECHSKIESはV6を参考にして結成されたグループである。歌謡界だけでなく、韓国の映画やドラマなど芸能界全般にも影響を与えた。2000年代に入るとグループを解散したメンバーが俳優として転身・活動することが増えた。ジャニーズの運営方式を韓国の芸能事務所が参考にしている。
2011年3月、同月に発生した東日本大震災復興支援活動「Marching J」プロジェクトを立ち上げた際に、同時点での所属タレント(ジャニーズJr.の主要メンバーを含む)を「全83名」と発表している。
以下は、2018年3月13日時点の公式サイトのアーティスト欄に掲載のある者と、2018年5月23日デビュー予定の者を、デビュー日順に並べた表である。昇順/降順に並べ替え可能。
【氏名】