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ジョン・F・ケネディとは?

ジョン・F・ケネディ
John F. Kennedy



任期 1961年1月20日1963年11月22日
副大統領 リンドン・B・ジョンソン

任期 1953年1月3日1960年12月22日

任期 1947年1月3日 – 1953年1月3日

出生 (1917-05-29) 1917年5月29日
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ブルックライン
死去 (1963-11-22) 1963年11月22日(46歳没)
アメリカ合衆国
テキサス州ダラス
政党 民主党
受賞 海軍・海兵隊勲章
名誉負傷章
アメリカ合衆国国防章
アメリカ合衆国戦役章
アジア・太平洋戦役章
(銅星3個付)

第二次世界大戦戦勝章
出身校 ハーバード大学 (B.S.)
配偶者 ジャクリーン・ケネディ
子女 アラベラ・ケネディ
キャロライン・ケネディ
ジョン・F・ケネディJr.
パトリック・ブーヴィエ・ケネディ
署名

ジョン・フィッツジェラルド・"ジャック"・ケネディ(英語: John Fitzgerald "Jack" Kennedy1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。名前のイニシャルをとってJFKと呼ばれることも多い。

目次

  • 1 概要
  • 2 生い立ち
    • 2.1 ケネディ家のルーツ
    • 2.2 ケネディの兄弟
    • 2.3 ケネディの家族
    • 2.4 幼少期
  • 3 ハーバード大学
  • 4 海軍へ
  • 5 PT109
  • 6 政界入り
    • 6.1 下院議員
    • 6.2 上院議員
    • 6.3 結婚
    • 6.4 病との闘い
    • 6.5 「勇気ある人々」のピューリツァー賞受賞
    • 6.6 赤狩りへの協力
    • 6.7 マクレラン委員会
    • 6.8 1956年大統領選
  • 7 1960年大統領選
    • 7.1 民主党予備選挙
    • 7.2 民主党全国大会
    • 7.3 宗教問題
    • 7.4 テレビ討論会
    • 7.5 キング牧師釈放への関与
    • 7.6 大統領当選
    • 7.7 選挙不正とマフィアとの関係
    • 7.8 政権の組閣
  • 8 第35代大統領就任
    • 8.1 内閣
    • 8.2 最高裁判所判事
    • 8.3 就任式
    • 8.4 国内政策
      • 8.4.1 経済政策
      • 8.4.2 アポロ計画
      • 8.4.3 人種差別問題
    • 8.5 外交政策
      • 8.5.1 ピッグス湾事件
      • 8.5.2 ウイーン会談
      • 8.5.3 ベルリン危機
      • 8.5.4 キューバ危機
      • 8.5.5 平和のための戦略
      • 8.5.6 ベトナム政策
      • 8.5.7 対イスラエル政策
      • 8.5.8 「平和部隊」
      • 8.5.9 ラテンアメリカと進歩のための同盟
    • 8.6 ホワイトハウスの1日
  • 9 ダラスの凶弾
    • 9.1 ザプルーダー・フィルム
    • 9.2 ウォーレン委員会
    • 9.3 オズワルドとルビー
    • 9.4 クレイ・ショー裁判
  • 10 国葬
  • 11 スキャンダル
    • 11.1 不倫
    • 11.2 モンローとの不倫
  • 12 エピソード
  • 13 ケネディ家
  • 14 ケネディの名を冠した施設など
  • 15 著書および関係書
  • 16 脚注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 出典
  • 17 参考文献
  • 18 ケネディに関連する作品
    • 18.1 映画
    • 18.2 テレビドラマ
    • 18.3 舞台
    • 18.4 音楽
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

概要

1960年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補として指名を受け、対立候補の共和党リチャード・ニクソンと歴史的な接戦の末、わずかな票差で破り合衆国大統領に当選、翌1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。大統領就任時の年齢は43歳で、アメリカ合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としてはもっとも若い大統領であった(就任時42歳であったセオドア・ルーズベルトは選挙ではなく、副大統領からの昇格であった)。

20世紀生まれの最初の大統領であり、カトリック教徒として初の(現在まで唯一の)大統領であり、アイルランド系アメリカ人としても最初の大統領となった。さらに(著作『勇気ある人々』で)ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。ケネディの在任中、ピッグス湾事件キューバ危機ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争公民権運動の高まり、ベトナム情勢の悪化など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応においては「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価する声も聞かれる。若くして大統領となったケネディは就任時からアメリカ国民に期待され、現在にいたるまでアメリカ人の好きな大統領ランキングの上位にいるが、大統領選挙における不正やマフィアとの関係、マリリン・モンローをはじめとする複数の相手との不倫、ピッグス湾事件やベトナム戦争における優柔不断な態度、ラテンアメリカ諸国に対する政治的干渉および軍事的干渉に対する批判も多い。

1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説のため市内をパレード中に暗殺された。犯人として捕らえられたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、わずか2日後にジャック・ルビーによって射殺された。ケネディ暗殺事件は、その衝撃と陰謀説など数々の謎に包まれて、歴史に残る事件となった。

生い立ち

1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民で実業家のジョセフ・P・ケネディ・シニア、ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生まれた。名前は、母方の祖父で、当時ボストンでの実力者で合衆国下院議員ののちにボストン市長を務めたジョン・F・フィッツジェラルドにちなんでいる。

ケネディ家のルーツ

ケネディ家のルーツは1848年にジョン・F・ケネディの曽祖父パトリック・ケネディ(1823 - 1858)が、まだ英国領であったアイルランドでの差別と飢饉を逃れて新大陸アメリカを目指したことに始まる。翌1849年にアメリカに着きボストンに居を構え、ブリジット・マーフィー(1824 - 1888)との間に男子2人を含む5人の子どもが生まれたが、3番目の長男ジョン・ケネディ3世がコレラでわずか2歳に満たずに早世した。末子の二男が祖父パトリック・ジョセフ・ケネディ(1858 - 1929)で、やがてボストンで港湾労働者から身を起こして実業家となり、マサチューセッツ州下院議員、そして上院議員を経て地元ボストンの有力な民主党員となった。彼はマリー・オーガスタ・ヒッキーと結婚して二男二女の4人を育て、次男は早世したが長男がジョセフ・パトリック・ケネディ(1888 - 1969)で、ジョン・F・ケネディの父である。

ケネディの兄弟

ジョセフ・パトリック・ケネディと母ローズ・フィッツジェラルド(1890 - 1995)との間には、四男五女の9人の子が生まれた。

ケネディの家族

36歳のときに結婚。

3人の子どもが生まれた。しかし1人は2日後に死去。

幼少期

ジョン・F・ケネディは10歳まで家族そろってボストンのブルックライン地区で暮らしたが、ジョンは幼少期からいくつもの原因不明の病気にかかり、病弱で不健康な子供だった。生まれつき背骨部分に障害があり、けがをしやすく、しばしば激しい苦痛に襲われた。

3歳のときに猩紅熱にかかった際には、母ローズが教会に通ってその回復を祈るほどであった。これに加えて水疱瘡やおたふく風邪にかかることがあり、また原因不明の「継続的な風邪の症状」に襲われて常に全身が熱っぽく、だるさを感じるものであった。

ケネディはブルックラインでエドワード・デボーション・スクール(Edward Devotion School)の幼稚舎から公立小学校へ上がり、小学4年生からは私立デクスター・スクール(Dexter School)へ転校。そして翌1927年、小学校5年生に上がった10歳のときに一家はボストンを離れてニューヨーク郊外のブロンクス地区リバーデールのハドソン川が見下ろせる家に引っ越し、ジョンはリバーデール・カントリー・スクール(Riverdale Country School)に転校した。この時期に父ジョセフはボストン郊外のケープコッド(コッド岬)のハイアニスポートに別荘を、さらにフロリダ州パームビーチにも別荘を購入した。

1929年にはリバーデールからニューヨーク市郊外のウエストチェスター郡ブロンクスビルへ引っ越し、6エーカーの広大な土地に屋敷を構えた。

1930年、13歳のときにコネティカット州ニューミルフォードのカトリックの寄宿学校であるカンタベリー・スクール(Canterbury School)に入学したがホームシックによる体調不良を理由に、翌年には家に送り返された。父ジョセフはジョンを兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアの在籍していたチョート校(現在のチョート・ローズマリー・ホール)に転校させた。

兄ジョセフ・ジュニアはスポーツ選手として活躍し学校に順応したが、兄に対して激しいコンプレックスを持っていたジョンにとってチョート校での日々も鬱屈したものになり、反抗的な生徒として有名になり、学校では「モッカー」(mocker:校則違反者、人を馬鹿にする人)というあだ名をつけられ、放校処分になりかけたこともあった。卒業の前年には再び体調を崩し、消化器の障害 と判断され、ステロイドの投与を受けた。戦後下院議員になってから副腎機能不全(アジソン病)で苦しむことになるが、常に日焼けしたような皮膚の色であったのはその症状の一つであり、このときの大量のステロイド投与が原因であるとの説もある。ジョンは生涯、背骨の痛みに悩まされた。ケネディ家では「大学時代のフットボール中のけがが原因」とされていたが、実際のジョンはとてもフットボールなどできる健康状態ではなく、生来の腰痛を隠すためともいわれている。

1935年にチョート校を卒業したジョンは、兄ジョセフ・ジュニアと同じようにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスハロルド・ラスキ教授のもとで学んだが、すぐに体調を崩して「黄疸」の診断を受けて帰国した。その後プリンストン大学に入学したが、ここでも体調不良で白血病の診断を受けて通学できなくなり、ボストンの病院に入院し、プリンストン大学にはわずか6週間在学しただけであった。

成績も抜群でスポーツも万能な兄ジョセフ・ジュニアに対する劣等意識、そして厳しすぎる父ジョセフへの負い目がジョンを苦しめた。幼児から何度も胃腸の不調で入退院を繰り返したのもそれが原因とされている。だが勝てないと知りながらも兄に挑戦し続けたことで、困難から逃げず、不可能なことに挑み続ける精神力と根気強さが養われた。彼は決して病弱ではなかった。

のちにケネディの大統領顧問を務めスピーチライターでもあったセオドア・C・ソレンセンが、ケネディ暗殺の2年後に出版した『ケネディの道』の中に、ジョンの幼い日のエピソードを書いている。母方の祖父ジョン・フィッツジェラルドに連れられて政治集会に行った際、老ジョン・フィッツジェラルドは幼いジョン・フィッツジェラルド・ケネディを抱き上げてテーブルの上に乗せ、「これがわしの孫じゃ。世界一の孫だ」と皆の前で紹介すると、幼いジョン・フィッツジェラルドは「僕のおじいちゃんは世界一のおじいちゃん」と言った。その場にいた人々は小さな少年に喝采を送ったという。これがケネディ大統領の生涯最初のスピーチであった。

ソレンセンは、父ジョセフの期待に応えるためや兄の身代わりとして政治家になったなど、ジョンについてのちにそう語られることが多いが、彼の資質は政治家向きであり、不本意ではなく彼自身の理想と関心の表現であり、しかしそれにいたるまでの道のりは絶えず病気との闘いを強いられて、それがジョンに反抗心を植えつけながら練り上げられたものであったと述べている。

またマイケル・ドブズは、ケネディが富と特権を享受する名家に生まれながら典型的な御曹司タイプにならなかったのは、生涯彼を苦しめた健康問題と第二次大戦における最前線での経験(PT109)の2つの要素が彼の人格形成に影響を与えたからだと述べている。

ハーバード大学

1936年、改めて兄のいたハーバード大学に入学した。ジョン・F・ケネディの成績ではハーバード大学入学は不可能だったが、父ジョセフの尽力のもと入学できた。在学中の成績は当初落第ぎりぎりであった。このころから健康を取り戻して水泳、ゴルフ、ヨットに興じていた。

ハーバード在学中に父が在イギリスアメリカ合衆国大使に任命されたこともあり、ケネディは二度ヨーロッパを旅行して見聞を広めた。1939年にベルリンを訪れた際には、駐ベルリン米大使のアレックス・カークから「開戦近し」のメッセージをロンドンの父に届けている。そして1940年にハーバード大学の卒業論文でイギリスのチェンバレン首相とドイツのヒトラー総統とのミュンヘン会談を扱った『ミュンヘンの宥和(Appeasement at Munich)』を書き、この論文で高い評価を大学教授から得て、教授の中には出版してもいいくらいだという意見もあった。早速ケネディがこの論文を父に送ると、父は自らのスピーチライターであるハービー・クレマーに推敲させ、さらに自らの御用記者としていた『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、アーサー・クロックに送った。クロックはさらに原稿を手直しし、チャーチルの著書『英国が眠っている間に(While England Slept)』を踏まえて『英国は何故眠ったか(Why England Slept)』というタイトルをつけ、父ジョセフが依頼して『タイム』および『ライフ』を創刊した保守派ジャーナリストのヘンリー・ルースに序言を書いてもらい、同年に出版した。『英国は何故眠ったか』はイギリスとアメリカで8万部が売れ、ケネディはイギリスでの利益をドイツ空軍により爆撃され被害を受けたばかりだったプリマス市に寄付した。

そしてケネディは優等の成績で1940年6月にハーバード大学を卒業した。

海軍へ

PT109に乗船中のケネディ

1941年の春にケネディは陸軍士官候補学校と海軍を受験したが、健康状態を理由に合格できなかった。そこで父ジョセフは大使館付き武官だったアラン・グッドリッチ・カーク海軍大佐に頼み、海軍士官養成コースに入れるよう手配してもらった。

ケネディは1941年9月25日に海軍士官に任官されたが、父の配慮で戦場に赴くことがないワシントンD.C.海軍情報局に配属された。このころに妹キャサリンがたまたまワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に勤めており(彼女の就職を世話したのがアーサー・クロックであり、また偶然であるが10年後にジャクリーン・ブービエもこの新聞社に勤務した)、その妹がケネディに同僚記者として紹介したのがインガ・アバドであった。彼女はスウェーデン女性で2人はすぐに深い関係となった。

スウェーデンは中立国であったが、FBIジャーナリストの肩書を持つインガが、1936年に開催されたベルリンオリンピックの取材でアドルフ・ヒトラーと会ったことがあり、ナチス党支持者であるだけでなく、ドイツのスパイではないかと疑い、捜査対象となったために周囲の勧めもあって2人は別れた。そしてまもなくサウスカロライナ州チャールストンに再配属となったが、FBIからの警告を受けたにもかかわらずインガとの関係はチャールストンでも続き、ケネディは結婚を真剣に考えた時期もあった。しかし、やがてインガが別の男性との結婚を選び、この恋は終わりを迎えた。

その後、アメリカが第二次世界大戦に参戦したうえに、ドイツからの宣戦布告を受けて交戦状態に入ったことから、父ジョセフはこの後2人が会うことのないように1942年7月に海軍長官ジェームズ・フォレスタルに頼み、息子を海上勤務に転勤させた。そして魚雷艇操縦訓練をとあるアジア人から受けたケネディは、1943年4月25日に大日本帝国海軍と対峙していたソロモン諸島ツラギ島に配属され、パトロール魚雷艇の艦長となった。

PT109

PT109の乗組員ら
ガサとクマナにケネディが託したココナッツ

魚雷艇PT1091943年8月1日ソロモン諸島ニュージョージア島の西で日本海軍艦隊の輸送業務を妨害すべくほかの13艘と出撃したが、深夜になっても敵を発見できず基地に帰還しようとした。その帰路で、8月2日午前2時半、PT109は日本海軍の駆逐艦天霧」に不意に遭遇し衝突された。

小さな魚雷艇の船体は引き裂かれて乗組員は海に投げ出され、2名が死亡、数名が重傷を負った。事故直後は生存していた10名の乗組員は海に飛び込み、日本軍が去るまでじっとしていた。その後、大破した船体の木にしがみついて夕刻になって近くの小島まで泳ぐこととした。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎ、なんとか小さな島(プラム・プディング島。地元ではカソロ島とも呼ばれ、のちにケネディ島と名付けられた)にたどり着いた。そこは全長が100mに満たない島で水も食料もなかった。そこでケネディは、1人でそこからさらに4キロ南にあるオラサナ島とナル島を泳ぎながら往復して救難方法を探り、食糧が確保できるところを探した。そしてオラサナ島に生存していた乗組員全員を導いた。この島にはヤシの実があり、水が確保できた。そこで島民に出会い、ビウク・ガサとエロニ・クマナが操るカヌーと接触した。

ケネディはココナッツにメッセージを刻んでガサとクマナに託し、2人はオーストラリア軍兵士にこれを届けた。司令官は痕跡を残さずに沈んだと判断して、捜索を開始せず、海軍省は乗組員全員が戦死したとみなしていた。しかしコースト・ウォッチャーズのオーストラリア軍監視員アーサー・レジナルド・エヴァンズ中尉はPT109の爆発を確認し、捜索のために原住民のカヌー2艘を派遣していた。救助隊が到着したときには遭難から6日がたっていた。

海軍内では、駆逐艦と魚雷艇の衝突時にケネディがとった行動および彼の魚雷艇指揮に疑問を呈する意見もあった。しかし父ジョセフはこのチャンスを見逃さずケネディが海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手を回した。1944年6月17日付の『ニューヨーカー』誌で記者ジョン・ハーシー にケネディの英雄譚を掲載させ、さらに『リーダーズ・ダイジェスト』1944年8月号がその要約を掲載したことでケネディの名前は全米に知られるようになった。のちにケネディが下院に立候補した際、父ジョセフは『リーダーズ・ダイジェスト』のコピーを大量に配布した。

ただしケネディは自分が英雄視されることを好んでいなかったようで、なぜ英雄になることができたのかを問われた際には「簡単なことだ。日本軍が私のPTボートを真っ二つにしたせいだ」「本当の英雄は戦場で戦っている者だ」と語ったという。戦後、ケネディは「天霧」艦長の花見弘平とは文通による友誼を結び、1952年の上院選と1960年の大統領選の際には天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。またメッセージを書いたココナッツはその後にケネディが大統領に就任してからホワイトハウスの執務室に置かれていた。

ケネディは救出後に部隊に復帰したが、健康不良を理由に1944年1月に本国に帰還した。1944年秋にケネディは海軍病院で背中の治療を受けたが、背中の痛みはとれずマラリア感染も判明したため、1945年3月1日に名誉除隊した。このときには、ヨーロッパ戦線も太平洋戦線もその帰趨が明らかで、第二次世界大戦の終わりが見えていた。父ジョセフはもうすでに戦後の青写真を描いていた。

マイケル・ドブスは、ケネディが富と特権を持つ名家に生まれながら御曹司タイプにならなかった理由として、2つの要素が彼の人格形成に影響を与えたからであるとしている。1つは後述の健康問題で戦後に彼を苦しめることになるが、もう1つの理由として太平洋戦争で魚雷艇PT109での最前線の経験であった。大義のために死んでいくことへの疑問であり、全面戦争や総力戦といった言葉を軽蔑し、政治家は我が子を戦場に送り出すことに留意し、そこには目的が明確なものがなければならないとしている。そして大統領に就任したあとは、大国同士の誤算を懸念し、意図せずして戦争に巻き込まれていく危険を常に意識していた。

政界入り

下院議員

ケネディは父ジョセフの世話でハースト系のインターナショナル・ニュース・サービス社 の特派員となり、ポツダム会談やサンフランシスコでの国連創立総会、イギリスでのチャーチル首相の総選挙敗北を取材した。この通信社の各新聞への配信記事の末尾にジョン・F・ケネディの署名とあわせてその経歴を入れ、「魚雷艇PT109での活躍」「『英国は何故眠ったか』の著者」と書き入れていた。このころには父ジョセフの政界への野心がはっきりとしており、長男ジョセフ・ジュニアが大戦中の1944年8月12日に海軍パイロットとして任務中事故死したため、彼の死去とともに、次男ジョンにかける期待は大きいものがあった。そして1946年6月に、当時マサチューセッツ州で合衆国下院議員であったジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職した。ケネディはまず民主党の予備選挙に立候補し、その後に共和党候補との本選の中間選挙に立候補した。

父ジョセフは長男ジョセフ・ジュニアに期待した政界入りの野望を次男ジョンに担わせた。ジョンは父の支援により政治資金に困ることはなく、公約として戦地から戻ってくる兵士のための住居の保障、老齢年金を強化して老後の生活保障、最低賃金の値上げなどを掲げ、《新しい世代から指導者を》をスローガンにして選挙戦に入った。

選挙戦では母ローズの陣頭指揮でユーニス、パトリシア、ジーンの妹たちとロバート、エドワードの弟たちの支援に支えられながら、長く精力的な選挙活動と母方の祖父で前ボストン市長でもあったジョン・F・フィッツジェラルドと父ジョセフの多大な協力もあり、本選では69,000票を超える記録的な得票を獲得した。得票数26,000票あまりであった共和党候補レスター・ボウエンを破り、29歳の若さで下院議員となった。母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドと、立候補のときには亡くなっていた父方の祖父パトリック・J・ケネディは、ともにボストン政界での民主党の有力者であった。特にフィッツジェラルドはボストン市長を退任してまだまもなく、その支持基盤がそっくりケネディに引き継がれている。1992年にエドワード・ケネディはテレビ番組「ケネディ家 野望と権力の系譜」の中で「ジョンが政界入りできたのも母と母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドのおかげである」と語っている。

下院議員に選ばれてからの5年間は、当時の議会が共和党が多数を占めており積極的に法律の制定を働きかけることはなく、また実際できないことでもあった。新人議員としては教育労働委員会と退役軍人問題委員会に所属することとなったが、それは父ジョセフと親交のあった民主党のジョン・マコーマック下院院内総務の特別な配慮があったとされている。

この間に多くの外国を訪問し見聞を広めた。1951年9月、7週間の視察旅行でインドを訪問した際ににネルー首相と会見した。ネルーから、東西対立で共産主義国が多くなったのは西側諸国がこれらの国に対して何もしないことが原因であり、武力だけでは貧しい発展途上国の共産主義化は防げない、彼らが本当に必要としている問題に取り組むべきだと指摘を受けた。

下院議員のときにまだ独身であったケネディは、さまざまな女性とのロマンスが噂された。映画女優ジーン・ティアニー、モデルのフロレンス・プリチェット、テニスプレーヤーのケイ・スタマーズなどと社交界で浮き名を流した。またジュリー・マルコムの名も上がっている。

上院議員

下院議員を3期務めたあと、1952年にマサチューセッツ州から合衆国上院議員選挙に出馬し、父ジョセフから潤沢な選挙資金を得て総投票数2,353,231の51.5%を獲得、70,737票差で辛うじて共和党候補の現職ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破り、上院議員となった。

ケネディに敗れた対抗馬のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの祖父ヘンリー・カボット・ロッジは、祖父ジョン・フィッツジェラルドの長年の宿敵であった。1893年から亡くなる1924年までマサチューセッツ州から合衆国上院議員を務め、上院外交委員長となって当時のウイルソン大統領の国際連盟加入に反対し、最後は上院院内総務となった実力者であった。1916年の合衆国上院議員選挙でマサチューセッツ州で民主党から立候補したのが母方の祖父ジョン・フィッツジェラルドで、共和党からはヘンリー・カボット・ロッジが立候補しており、ジョン・フィッツジェラルドはこのジュニアの祖父に敗れている。父ジョン・カボット・ロッジは若くして死去したため、孫のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアが1936年の上院議員選挙でマサチューセッツ州から当選して合衆国上院議員となった。そして6年後の1942年にロッジが再選を目指したとき、当時マサチューセッツ州の民主党内が割れて、ジョセフが党内で対抗馬として立てたのがジョン・フィッツジェラルドだった。民主党が分裂したため、ロッジが漁夫の利で勝利した。その後、戦争に参加して上院議員を辞職し、戦後1946年に3度上院議員選挙に立候補して3回目の当選を果たしている。その6年後の1952年にジョン・フィッツジェラルドの孫がロッジを初めて破り、この後ジョン・F・ケネディが大統領となったあとに空席となったマサチューセッツ州の合衆国上院議員に、1962年に選挙で立候補して当選したのが弟エドワード・ケネディである。そのときの共和党からの対抗馬がジョージ・カボット・ロッジ・ジュニアで、ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアの息子であった。19世紀末からマサチューセッツ州の合衆国上院議員を輩出しており1932年以降は無敗を誇ったロッジ家であったが、これ以後2009年にエドワード・ケネディが死去するまでケネディ家がマサチューセッツ州の合衆国上院議員を勝ち続けていく。

またヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア自身は、この上院議員選挙の落選直後に1953年アイゼンハワー政権の国連大使となり、以降8年間務め、1960年にはニクソンと組んで共和党副大統領候補となり、民主党ケネディ・ジョンソン組と争った。その後、ケネディ政権で南ベトナム大使を務め、ケネディ暗殺の直前に起こった南ベトナムのクーデターで大きな役割を果たすことになる。その後もベトナム和平交渉のアメリカ代表を務め、アメリカ外交の分野で功績を残した。

結婚

ジョン・F・ケネディとジャクリーン・ブービエの結婚式 1953年9月12日 於 ニューポート

ケネディは36歳になった1953年9月12日に、フランス系アメリカ人の名門の娘である当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。

ジャクリーンは父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築いたが大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳のときに離婚した。母はその後、裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚していた。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻した。

二人が知り合ったのは、ジャクリーンが1951年にジョージ・ワシントン大学を卒業後、継父オーチンクロスの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者となったときに、ケネディ兄弟と親しいチャールズ・バーレットの自宅で開かれたパーティーに招かれたときだった。1951年6月からデートを重ねていたが、1953年に入ってアイゼンハワー大統領の就任祝賀舞踏会に同伴で出席してから真剣な交際に発展した。

父ジョセフは早くからジャクリーンを気に入った様子だった。二人の仲は深まり、「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」 でプロポーズした。

ジャクリーンがケネディのプロポーズを受け入れると、ケネディ家は豪華な挙式を執り行った。ただし、場所はジャクリーンの継父ヒュー・D・オーチンクロスが持つ97エーカーの広大な土地と豪邸のある、ロードアイランド州ニューポートのハマースミス・ファームであった。まず6月25日にヒュー・D・オーチンクロスとジャネット夫妻の主催で正式な婚約披露パーティーが開かれ、9月12日に結婚式がニューポートのセント・メアリー教会で行われ、クッシング大司教のもとで二人は愛を誓い合った。このとき、ローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられ、また式後の結婚披露宴はハマースミス・ファームで1,300人が出席する豪華なものであったが、この日に参加したジャクリーンの実父ジョン・ブービエは前日に酔い潰れて式に出席できなかった。

病との闘い

病院を退院するため担架で運ばれるケネディ。立っているのはジャクリーン。1954年12月

ケネディは結婚直後からその後2年間にわたり多くの脊椎の手術を受け、上院本会議を長期にわたって欠席せざるをえなくなった。

下院議員時代の1947年9月にアイルランド訪問中に体調を悪くし、ロンドンで診察の結果アジソン病と診断されていた。副腎の機能不全により虚弱体質で食欲不振・体重の減少、そして循環器系が衰弱する病気であり、病原菌に対する抵抗力がなくなるため不治の病と考えられた。その後コーチゾン剤(ハイドロコーチゾン、今日のコルチゾール)の開発で病死を免れて議員活動を続けられるようになったが、そのコーチゾンの副作用は「著しく気分が昂揚し陶酔状態に似て、また精力・集中力・筋力および筋持久力の増進をともなう」とされ、歳を取ってもふさふさの髪、日焼けしたような肌の色、過剰なまでの自信、さらに際限のない性的衝動が現れるともされていた。ケネディの身体はこのときに進行性副腎機能障害で寿命はあと10年か15年と告げられ、今日の医学的見地から見るとすでに彼の脊椎の組織はステロイド治療の影響で壊死しかけていたと考えられている。

ケネディ家はジョンのアジソン病もハイドロコーチゾンによる徹底した治療も一切秘密としていた。

結婚して翌年の1954年の春から夏にかけて、

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出典:wikipedia
2019/11/28 04:25

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