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ジョージア_(国)とは?

ジョージア
საქართველო(サカルトヴェロ)



(国旗) | (国章)
国の標語:ძალა ერთობაშია
(グルジア語: 団結は力なり)
国歌:თავისუფლება(グルジア語)
タヴィスプレバ(自由)
公用語
グルジア語(ジョージア語、カルトリ語ともいう)
首都
トビリシ
【最大の都市】
トビリシ
政府
大統領
ギオルギ・マルグヴェラシヴィリ
首相
ギオルギ・クヴィリカシヴィリ
面積
【総計】
69,700km(118位)
【水面積率】
極僅か
人口
【総計(2014年)】
3,720,400
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
268億ラリ
GDP (MER)
【合計(2013年)】
161億ドル(111位)
GDP (PPP)
【合計(xxxx年)】
321億ドル(111位)
【1人あたり】
7,156ドル
独立
ソビエト連邦より 1991年4月9日

通貨
ラリ (GEL)
時間帯
UTC +4(DST:なし)
ISO 3166-1
GE / GEO
ccTLD
.ge
国際電話番号
995
アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km、人口密度70人/kmとなる。

ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartvelo, 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(ロシア語: Грузия, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)。首都はトビリシ

ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。

コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコアルメニアアゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。

なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 原始・古代
    • 2.2 中世・近世
    • 2.3 ロシア帝国時代
    • 2.4 ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代
    • 2.5 ソ連崩壊後
      • 2.5.1 シェワルナゼ政権
      • 2.5.2 バラ革命
      • 2.5.3 サアカシュヴィリ政権
      • 2.5.4 ロシア-グルジア戦争
      • 2.5.5 サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権
    • 2.6 年譜
  • 3 地理
    • 3.1 地理概況・地勢
    • 3.2 気候
    • 3.3 各州・各共和国の概況
  • 4 政治
  • 5 国際関係
    • 5.1 ロシアとの対立
      • 5.1.1 民族問題
      • 5.1.2 2008年の南オセチア紛争(ロシア-グルジア戦争)
    • 5.2 日本との関係
  • 6 軍事
  • 7 地方行政区分と主要都市
  • 8 経済
  • 9 国民・言語
  • 10 文化
    • 10.1 メディア
    • 10.2 ワイン
    • 10.3 世界遺産
    • 10.4 祝祭日
    • 10.5 スポーツ
  • 11 著名な出身者
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
    • 13.1 和書
    • 13.2 洋書
    • 13.3 雑誌論文等
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

国名

ジョージアの国名」も参照

ジョージア国内での自国の内名(エンドニム)は「カルトリの民」を意味する サカルトヴェロ( საქართველო [sakʰartʰvɛlɔ], ラテン文字転写:Sakartvelo )である。「カルトリ」はグルジア最古の文学作品『聖シュシャニクの殉教』(5世紀)にもみられるグルジア中心地域の古くからの名称である。この「サカルトヴェロ」系統の国名を使用しているのはカルトヴェリ語族の諸語とエスペラントの「カルトヴェリーオ」(Kartvelio)または「カルトヴェルーヨ」(Kartvelujo)など少数である。

日本ではロシア帝国の被支配下にあった19世紀から当地について知られるようになり、ロシア語名の"Грузия"[ˈɡruzʲɪjə] ( 音声ファイル) グルージヤ)を音韻転写した「グルジヤ」と英語名の"Georgia"([ˈdʒɔrdʒə] ( 音声ファイル) ジョージャ)を音韻転写した「ジョルジア」の2系統の外名(エクソニム)が使われていた。大正から昭和初期にかけては「ジョルジア」の方が主流を占めていたが、1956年日ソ共同宣言に前後して共産圏の報道に強みを持つラヂオプレスが「グルジア」を採用していたことなどからロシア語由来の「グルジア」がそれ以前の「ジョルジア」に対して優位を占めるようになった。このロシア語名は一説に、英語名のGeorgiaと同じく中世にペルシャ語で使われていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称がアラビア語などを経由して十字軍時代にヨーロッパへ紹介されたのが由来とされる。スラヴ語圏でも13世紀ごろからこのグルジュに由来する呼称が見られるようになり、その後、キリスト教国であるグルジアの守護聖人聖ゲオルギオスの名に結びつけられていった。

英語を始めスペイン語の"Georgia"(ヘオルヒア)やフランス語の"Géorgie"(ジェオルジ)などは、アメリカ合衆国(米国)のジョージア州綴り字および発音も同一ながら地名の由来(ジョージア州はジェームス・オグルソープ植民地の設立勅許を与えたイギリス王ジョージ2世から命名された)のみならず歴史的にも何の関連性も無い。しかしながら、首都のトビリシはジョージア州の州都であるアトランタ1987年姉妹都市関係を締結しており、1994年にはジョージア国家警備隊とジョージア州兵組織の間で相互協力協定(en:Georgia–Georgia National Guard Partnership)が締結されている。

1995年の憲法採択以降は国名に「共和国」などの政体を含まないのが正式名称だが、英語圏では米国のジョージア州との混同を避けるため国家を"Country of Georgia"、米国の州を"State of Georgia"と呼び分ける慣例があり、日本語でも同様に「ジョージア」(ジョージアこく)と正式名称に含まれない「国」を付加した呼称が使用される場合がある。また、ビートルズの楽曲「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」では、互いに無関係ながら英語では同一の名称で呼ばれる2つの地名に引っ掛けたジョークが歌詞に含まれていることで知られる。

1992年に日本と国交を樹立して以降、モスクワを経由せずに現地の情報が直で入るようになったことから、特に主要民族たるカルトヴェリ人の間で根強い反露感情について日本でも広く知られるようになり、2000年代半ばには特許分野や一部のワイン輸入業者が「グルジア」の使用を取りやめて自主的に英語名の「ジョージア」を使用するようになった。2008年に勃発した南オセチア紛争を機にロシアとの敵対関係が決定的なものとなったことも後押しし、この時期から日本を含めて「グルジア」系統の外名を使用している各国に対して個別に「グルジア」の使用取りやめと英語名の「ジョージア」採用が要請されるようになった。韓国では2010年にこの要請を受け入れて「그루지야」(グルジヤ)から「조지아」(ジョージア)へ外名を変更しているが、北朝鮮では現在も「그루지야」(グルジヤ)を使用している。かつてのソビエト連邦構成国では、リトアニア2018年からリトアニア語の外名を"Gruzia"から"Sakartvelo"へ変更することを国会議長が表明している。

日本政府に対しては、2014年10月の首脳会談で正式に「グルジア」の使用を取りやめて「ジョージア」へ外名を変更するよう要請が行われ、2015年に日本政府が使用する外名の根拠法となる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表の改正案が、国会で衆参両院の全会一致による可決を経て、4月22日付けで公布・施行され、同日には外務省のサイトで外名変更の告知が行われた。日本政府が(政体等の変革を理由とする場合を別にして)外国政府から個別に外名の変更を要請されて受諾したのは、1986年(在外公館設置法の別表改正は2003年)にコートジボワールの外名変更要請(それ以前はフランス語名を意訳した「象牙海岸」を使用していた)を受け入れて以来2例目となる。

漢字表記には「グルジア」に由来する「具琉耳」と「ジョージア」に由来する「喬治亜」の2通りがある。台湾(中華民国)では「喬治亞」を採用しているが、中華人民共和国では格鲁吉亚(簡体字)、香港では格魯吉亞(繁体字)と、いずれも「グルジア」系統の外名が現在も使用されている。

歴史

詳細は「グルジアの歴史」を参照
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原始・古代

近年、ジョージア国内では南東部のドマニシ洞窟から180万〜160万年前頃の原人タイプの化石人骨が発見されている。出土人骨のデータから、従来東アジアで発見されていた原人よりも原始的な特徴をもち、ユーラシア大陸で最古の年代が想定される。この原人は「ホモ・ゲオルギクス」と命名され、遺跡からはいわゆる「礫器」に属するオルドヴァイ石器群や動物化石なども多量に発見された。他に、前期旧石器時代に属し、対称形の礫器が特徴的なアシュール文化や、中期旧石器時代に属し、剥片石器を多数ともなうムスティエ文化期の遺構遺物がグルジア各地の洞窟や遺跡から発見されている。

コルキス盆地やフラミ渓谷、南オセチアなどでは新石器時代の遺跡が発見されており、紀元前6000年から紀元前5000年にかけて以降、刃先に磨製石器を利用したつるはし、石製の、製粉用の摩臼、貯蔵用の土器などが伴う本格的な定住生活と穀物栽培が始まったと考えられる。コムギライムギについては、当地方は最も重要なの発祥地と考えられている。石器の石材には主として地元産のフリント黒曜石が用いられ、などの牧畜をおこない、ぶどうを含む果樹の栽培もおこなわれた。

グルジアを含むカフカス地域は、先史時代にあっては金属精錬の発祥地のひとつとされる。紀元前3700年ころから紀元前2500年ころにかけてのマイコープ文化紀元前3400年ころから紀元前2000年ころにかけてのクラ=アラクセス文化の青銅器時代の遺跡からはおびただしい数の金属器が発見されている。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州)で調査した遺跡によれば、内陸部では紀元前2000年紀には遊牧を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者とみられる人物の墳からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長に富と権力を集中させていた様相が確認されている。

グルジア人の祖先となる民族は、黒海の東岸に広範囲に分布して後にコルキス王国をつくるコルキス人の源流をなすクルハ族と、のちに南西グルジアのタオ地方に定住するタオホイ族の源流をなすディアウヒ族であり、両民族を母体としてかたちづくられたと考えられる。なお、コルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人たちの知るところであり、ギリシア神話におけるコルキス王女メーデイア金羊毛(を持つ金色毛皮)の物語に端的に示されている。

西のコルキス王国と東のイベリア王国

紀元前6世紀以降、黒海に面する西グルジアの地にコルキス王国(コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市の影響のもとで発展を遂げた。黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海ペルシア地域を結ぶ貿易がさかんにおこなわれていた。

コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア、つづいてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した。その領域は今日の中部グルジアのカルトリ、東部グルジアのカヘティ、西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここにはギリシャ文明の影響が直接及ばなかった。住民は西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人びとと土着民との融合によって形成されたと考えられる。首都のムツヘタはクラ川とアラグヴィ川の合流点近くに立地している。

紀元前2世紀、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国のミトリダテスによって制圧され、紀元前65年にはそのポントスが共和政ローマポンペイウス軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった。同じころ、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた。

1世紀に入り、キリスト教が創始されると、グルジアでは十二使徒による福音伝道がおこなわれたと伝えられている。とくにローマ支配の揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者が増加した。これは、カッパドキア出身の聖ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている。ローマ帝国が衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア地域)にはラジカ王国が成立し、古代コルキスを併合した。ラジカ王国は首都をアルケオポリス(現、ナカラケヴィ)に置き、東ローマ帝国との結びつきを強めた。この王国は523年にキリスト教を受容し、562年には東ローマに併合された。

イベリア王国では、330年代にキリスト教に深く帰依したミリアン3世によってキリスト教が国教として採用された。世界でも301年アルメニア王国につづいて2番目に古いキリスト教国教化の例であり、キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後の文化の形成に大きな影響をおよぼした。グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教の管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス(総主教)の座はムツヘタに置かれた。グルジア文字(カルトリ文字)は4世紀から5世紀頃にかけての時期に考案された、グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている。

イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった。6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ王が父の遺言にもとづきムツヘタからトビリシへの遷都をおこなった。

カフカス地域のアルメニア、グルジア、アルバニアの三教会は、431年エフェソス公会議(第3回全地公会)での、イエス・キリストそのものだとしてその神性のみを認める「単性説」の採用に賛成した。ところが、451年カルケドン公会議(第4回全地公会)では単性説が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」としてキリストの神性と人性との位格的一致を説く、いわゆる「両性説」が採決された。506年、3教会の代表者はアルメニアのドヴィンに集まってカルケドン説に反対する旨の決議をおこなったが、以前から「両性説」に傾いていたグルジア教会は7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条を告白する立場に立った。アルメニア教会は、これに対し「非カルケドン派正教会」にとどまった。

中世・近世

ペルシアを支配したサーサーン朝ゾロアスター教を国教としており、その勢力がカフカスにおよぶとキリスト教・ゾロアスター教の両勢力はたがいに抗争を繰り返した。ラジカ王国がキリスト教を国教化すると、サーサーン朝は軍を派遣して527年から533年までつづくラジカ戦争となった。ラジカ王国は最終的に東ローマ帝国、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、ホスロー1世はイベリアの王政を廃止した。7世紀初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは北方のハザールと同盟して遠征をおこなった。627年から629年にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦が起こり、トビリシは一時占領された。

ニハーヴァンドの戦い以降はサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀後半からは新興のイスラームを奉ずるアラブ人の影響が拡大した。トビリシは736年から738年にかけて「ムスリムの征服」を受け、これによってトビリシ首長国が成立した。カフカス地方にもイスラームの教義がもたらされたが、広い山岳地帯をかかえるグルジアへの流入は限定的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。750年グルジア正教会は自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った。

かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハズ人(アブハジア人)が次第に強勢となり、8世紀末にはアンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世が皇帝から王号を許可された。レオン1世は母がハザール王女、妻がカルトリ大公の娘であったことから両者とも友好関係をきずきつつ勢威をふるった。グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家が台頭し、9世紀初頭には、この家からイベリア大公アショト1世が現れた。アルメニアでは、バグラトゥニ家のアルメニア大公アショト1世(イベリア大公アショト1世とは別人)がアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された。こうして、カリフと皇帝の双方の承認の下、アッバース朝版図のアルメニア王国が再興された。

東ローマとイスラームの抗争は、拡大されたアルメニア王国のなかでも繰り広げられ、最終的には小国分立状態がもたらされた。こうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオに本拠を遷して、東ローマ皇帝からクロバラテスすなわち「宮殿の守護者」の称号を獲得するのに成功した。10世紀後半、アッバース朝の繁栄にもかげりがみえるようになり、グルジアではイベリア大公グルゲンがあらわれ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚、イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世に継承された。バグラド3世は、アルメニア王アショトの養子となって将来の地位をみずから保障し、975年にはカルトリ地方の宗主権をも獲得して976年バグラト朝グルジア王国(グルジア連合王国)を建てた。1001年には義父アショトからアルメニアと南西グルジア、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部を継承してカヘティ地方を除く全グルジアの諸公国を統一して、クタイシを首都とする中世グルジア王国の隆盛が始まった。

バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂)を創建し、1010年にはカヘティ地方をも支配下に収めた。王国成立期にはグルジア正教会がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネが活躍し、レオンティ・ムロヴェリによって『グルジア年代記』が書かれたのもこの頃のことである。10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国アラニア(北オセチア)などの王侯貴族とのあいだでさかんに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつきを強めた。

バグラト3世の子ギオルギ1世はムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復をおこない、ギオルギ1世の子のバグラト4世1045年、アルメニアの首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した。1057年シリアアンティオキアで開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている。11世紀後半にはトルコ人勢力が中央アジアペルシアの大部分をふくむ地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝を建設したが、グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。

「建設王」と呼ばれたダヴィド4世が即位したのは1089年のことであった。ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革をおこなってグルジアを強固な国家に改造し、セルジューク朝に勝利、1096年にはセルジューク朝に対する貢納の支払いを停止し、12世紀に入ってからはクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院と付属の王立学校(アカデミー)を創立した。この王立学校はグルジアを代表する科学者神学者哲学者を擁し、トビリシ遷都後も17世紀に至るまでグルジアの文教の中心と

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出典:wikipedia
2018/06/18 11:00

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