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スエズ地峡とは?

(スエズ地峡から転送)
【特長】

【全長】
120.11 マイル (193.30 km)
(当初は102 mi または 164 km)
許容最大船幅
77.5 m (254 ft 3 in)
【閘門】
無し
【運営者】
スエズ運河庁
【歴史】

【当初所有者】
スエズ運河会社 (Compagnie Universelle du Canal Maritime de Suez)
【主要技術者】
アロイス・ネグレッリ(en)
【建設開始】
1859年4月25日
【完成】
1869年11月17日
【地理】

【始点】
ポートサイド
【終点】
タウフィーク港(スエズ)
【支流】
新スエズ運河

スエズ運河(スエズうんが、アラビア語:قناة السويس)は、エジプトのスエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海紅海(スエズ湾)を結ぶ、海面と水平な人工運河である。船だけではなく、大東電信会社の電信ケーブルも運河を通った。

目次

  • 1 概説
  • 2 スエズマックス
  • 3 利便性
  • 4 運用
  • 5 運河を横断する構造物
  • 6 環境への影響
  • 7 古代の運河
    • 7.1 紀元前2千年紀
    • 7.2 ネコ2世、ダレイオス1世、プトレマイオスの運河
    • 7.3 紅海の海退とナイル流域面積の減少
    • 7.4 オールドカイロから紅海への道
    • 7.5 ナポレオンの古運河発見
  • 8 歴史
    • 8.1 スエズ運河の検討
    • 8.2 スエズ運河建設
    • 8.3 スエズ運河開通
    • 8.4 イギリスによる介入
    • 8.5 スエズ危機
    • 8.6 第三次・第四次中東戦争
    • 8.7 拡張工事
  • 9 関連項目
  • 10 参考文献
  • 11 邦文文献
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 外部リンク

概説

スエズ運河
凡例

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 | km | 
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 |  | 地中海
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 |  | アプローチ (Southward convoy waiting area)
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 | 0.0 | ポートサイド
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 |  | 灯台、漁港、クルーズターミナル
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 |  | ポートサイド (市)、旧本部
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 |  | ポートサイド港、ポートフアード
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 |  | イーストポート、スエズ運河コンテナ・ターミナル
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 |  | マースクE級旋回ドック
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 |  | スエズ運河橋
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 | 51.5 | 
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 |  | 旧バッラ・バイパス
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 | 59.9 | 
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 |  | 東側レーン:新スエズ運河
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 |  | エル・フェルダン鉄道橋
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 | 76.5 | イスマイリアスエズ運河局本部
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 |  | ティムサ湖
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 | 95.0 | Deversoir
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 |  | グレートビター湖
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 |  | スモールビター湖
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 |  | アハメド・ハムディ・トンネル
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 |  | 横断架空線
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 | 162 | スエズ, スエズ港
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 |  | 石油ドック、テウフィーク港
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 |  | スエズ湾 (Northward convoy waiting area)
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 |  | 紅海

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 |  | 凡例
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 |  | 水路
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 |  | 停泊地
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 |  | ドック, 工業または兵站エリア
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 |  | 主要な町村
 |  |  |  |  |  | 
 |  | 鉄道、鉄道橋

1869年11月開通。本運河によりアフリカ大陸を回らずにヨーロッパアジア海運で連結することができる。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロ・メートルの運河西岸にはイスマイリアがある。

建設当初のスエズ運河は全長164キロ・メートル(102マイル)、深さ8メートル(26フィート)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、2010年段階では全長193.30キロ・メートル(120.11マイル)、深さ24メートル(79フィート)、幅205メートル(673フィート)となった。

スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス (Ballah By-Pass) やグレートビター湖など4ヶ所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。

運河はエジプト政府が直轄するスエズ運河庁(SCA)が所有運営している。しかし、国際協定における規定も存在し、1888年のコンスタンチノープル協定では紛争時を除き航行の自由が保障されたが、「有事の際も平時同様、軍事目的の船舶であっても、所属国の如何を問わず」航行が認められるという解釈もなされている 。

スエズマックス

行き違いのためにバッラ・バイパスに停泊する船
詳細は「スエズマックス」を参照

運河は、喫水20メートル(66フィート)以下または載貨重量数(en)240,000トン以下かつ水面からの高さが68メートル(223フィート)以下、最大幅77.5メートル(254フィート)以下の船が航行できる。これを上限とする基準をスエズマックスという。この基準では、超大型のタンカーは航行できない。載貨重量数が超過するような場合は、荷物の一部を運河が所有する船に一時的に分載して、通過後に再度載せ直すことも行われる。

利便性

1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送郵便やロバート・スチーブンソンの鉄道路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。

スエズ運河を通過しなければ、アフリカ大陸南端のアガラス岬を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要があるスエズマックスを超過する船は、ケープサイズと呼ばれる。ロンドン横浜間を例に取ると、アフリカ回航では14,500海里(26,900キロ・メートル)かかるところを、スエズ運河を通れば距離は11,000海里(20,400キロ・メートル)となり、24パーセントの短縮となる。ただし、21世紀初頭にはソマリア沖の海賊や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた。

運用

スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦ベインブリッジ

スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無く、運河中に閘門は設置されていない。運河を通行できる航路は1レーンのみ設定されており、船がすれ違う場所はエル=カンタラ(en)近郊のバッラ・バイパスやグレートビター湖など5箇所に限定される。そこで通常は、10-15隻程度の船団3つを組んで航行することになる。ある一日を例に挙げれば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊すると南から上る船団を待ち、ここですれ違う。この南からの船団はバッラ・バイパスまで進むとここに留まり、北から来る2番目の船団とすれ違う。運河を通過するには約時速15キロ・メートル(8ノット)の速度で11から16時間かかる。このような低速航行をすることで、運河の岸が波で浸食されることを防いでいる。運河は年中無休で運用されている。

1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は1961年に始まったがスエズ動乱で長く中断し、1975年に再開され1980年に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した。

1995年までに、ヨーロッパで消費された石油の3分の2はスエズ運河を経由した。世界の近海航路を利用する船舶では7.5パーセントがスエズ運河を利用し、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回る。

スエズ運河庁 (SCA) 理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を32メートル(105フィート)から40メートル(130フィート)まで拡大したこと、運河の境界内でダイバーを活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、放射性物質や可燃物などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。

またSCAは、軍艦の通過時に使われるタグボートの隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している。

運河を横断する構造物

環境への影響

紅海の地図

スエズ運河建設に伴って、ナイル川デルタからワーディー・トゥミラート(en)を経由しスエズ南部やポートサイド北部まで通じていた淡水の運河は分断された。これらの淡水運河は1863年には完成され、乾燥地帯に淡水を運ぶ機能を担っていた。この淡水は当初は運河建設に、後には運河沿いの農業や生活用水に利用されていた。

紅海は地中海東岸よりも約1.2メートル(3.9フィート)高いが、グレートビター湖において海水は冬に北へ、夏に南へ流れる。干満は湖の南岸で生じるが、その高さはスエズ市沿岸部とは異なっている。このグレートビター湖はかつて過塩性湖であり、1869年の運河開通後数十年間はその高い塩分ゆえに紅海と地中海の間で生物の移動を防いでいた。しかし長い時間を経て水が入れ替わり、湖の塩分濃度が低下すると、紅海の動植物が地中海東部に進出して生育域を作り出した。紅海は一般に大西洋よりも塩分濃度が高く栄養に乏しい。そのため紅海種の生物は、地中海の中でも高塩分・貧養分の東側領域では大西洋種よりもその環境に馴染み進出したが、逆に地中海側の生物が紅海で繁殖することはほとんど無い。この移住現象はレセップス移動(Lessepsian migration)もしくはエリュトゥラー侵入 (Erythrean invasion) と呼ばれる。

このような地中海東部の生態系への影響は、1968年のアスワン・ハイ・ダム運用開始なども関わった。ナイル川全体のさまざまな開発も伴い、ナイルデルタや地中海へ流れ込む淡水の総量は減少し、栄養分が豊富なシルト類が行き渡らなくなった。これによって海域の塩分濃度希釈が少なくなり、自然に起こる濁度(en)も低下し、地中海東部の環境をより紅海に近い状態にした。

運河の建設によって侵入した紅海種は移入種(en)として、地中海の生態系の中で無視できない数まで繁殖し、環境に深刻な影響を与えている。地中海の地域種や固有種には圧迫され衰退が懸念されるものも多く存在する。既に約300種以上の紅海からの移入種は確認され、潜在的にはそれ以上の数が既に地中海に移動していると考えられる。エジプト政府は運河の拡充を志向しており、生物海洋学らはこのことが紅海種侵入のさらなる拡大に繋がるのではと懸念している。

古代の運河

ファラオの運河

古代、ナイル川から紅海まで達する東西方向の淡水運河があり、ファラオの運河(en)と呼ばれている。 現在も同様のルートを、カイロ市からスエズ市への灌漑用水路が通っている。

これは、センウセルト2世(en)もしくはラムセス2世の拠出によって細い運河が開削されたというもの、もしくはこの運河を組み込みながら ネコ2世の時代に取り組みが始まり、ダレイオス1世の頃に完工した運河を指すものである。

紀元前2千年紀

エジプト第12王朝ファラオのセンウセルト2世(en)やセンウセルト3世(en)など伝説的セソストリス(en)らは、紀元前1897年から紀元前1839年にかけてナイル川紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる。これは、当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖やティムサーハ湖(en)も海域にあった。

アリストテレスは『気象学(en)』にて以下のように記述している。

One of their kings tried to make a canal to it (for it would have been of no little advantage to them for the whole region to have become navigable; Sesostris is said to have been the first of the ancient kings to try), but he found that the sea was higher than the land. So he first, and Darius afterwards, stopped making the canal, lest the sea should mix with the river water and spoil it
.訳:王のひとりは、王国の海運に計り知れない優位さをもたらす運河建設に乗り出した。セソストリスはこれに取り掛かった古代最初の人物と言われる。しかし、彼は海面が地面よりも高いという事実に行き当たった。そのため、彼、そして後のダレイオスも、海水が川に混じり、利水性を損ねることを恐れて運河建設を諦めた。

ストラボンは、セソストリスが運河建設に取り掛かったと記した。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』に、エジプト王セソストリスが船舶用運河で紅海の港とナイル川のデルタ地帯を結び、その延長距離は60マイルであった事、後にペルシアの王ダレイオスが同じ発想を持ち、またプトレマイオス2世も幅100フィート、深さ30フィートの溝をグレートビター湖に至る長さ100マイルに渡って設けた事を書き残している。

19世紀後半、フランスの地理学者は、ティムサーハ湖の東側を通ってグレートビター湖の北端近くまで達する、南北を結ぶ古代の運河を発見した。この運河は前述のものと異なり、ティムサーハ湖付近まで海進していた紅海沿岸を航行した船がそのまま北進する運河だったと考えられる。20世紀には、ティムサーハ湖からバッラ湖(現在のバッラ・バイパス付近)(en)まで延長する工事の跡が発見され、これは運河沿いに建てられた古代遺跡からエジプト中王国以降のものと推測された。これがセソストリス時代の古代運河と同じか否か判明しておらず、東方に対する塹壕の可能性も消されていない。

紀元前1470年のハトシェプスト在位時に行われたプント(en)遠征譚を描いたレリーフには、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある。このレリーフから、運河はラムセス2世在位の紀元前13世紀頃まで存在したと想像される

ネコ2世、ダレイオス1世、プトレマイオスの運河

東西を結ぶ運河の遺構は、古代エジプトのブバスティス(en)、アヴァリス(ペル・ラメセス、Pi-Ramesses)、ビション(en)を結び、これは1799年に技術者や地図製作者を率いたナポレオン・ボナパルトが発見した。これは『エジプト誌』(en)に纏められた。

ギリシアヘロドトスが著した『歴史』によると、紀元前600年頃にネコ2世はブバスティス(en)とピション(ヘリオポリス)(en)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとあり、それをヘリオポリス湾(en)と紅海まで延長したと考えられる。しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる。

ヘロドトスの記述によると、数字には疑わしい点もあるがこの事業で120,000人が死亡したという。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの言では、ネコ2世の運河拡張は57マイルに及び、これは谷を通りながらブバスティスからグレートビター湖へ至る距離に相当する。ヘロドトスが述べた距離1,000スタディオン以上(114マイル以上)とは、当時のナイル川と紅海を完全に繋げる距離である。

ネコ2世が死去すると事業は中止された。ヘロドトスはその理由を、運河の完成は他国に利すると警告する神託があったためという。実際には、ネブカドネザル2世との戦争が事業継続を不可能にした。

ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアのダレイオス1世によって完成された。当時、ヘリオポリス湾と紅海の間にはグレートビター湖のちょうど南に位置したシャルーフ (Shaluf、Chalouf、Shaloof) の町近郊を通る自然の水路があった。しかしこれはシルトで埋まっていたため、ダレイオス1世は浚渫させて船の通行を可能にしたと言われる。こうして造られた運河は、ヘロドトスによると2隻の三段櫂船がオールを出した状態ですれ違うことが出来る程に広く、全長を進むのに4日間を有した。ダレイオス1世はこの事業を記念し、スエズ市から数マイル北にあるカブレット (Kabret) 近郊などナイル川の土手に数多い花崗岩製の石碑を据えた。この「大ダレイオスのスエズ碑銘」(en)は以下のように伝える。

聖なる王ダレイオス:ペルシアの王たる朕は故国を発ちエジプトを征した。朕はエジプトを流れるナイルの川よりペルシア領の端にあたる海まで運河を築くことを命じた。開かれた運河は、朕の意図のままにエジプトからペルシアへ海路を繋げた。

運河はナイル川のブバスティスに繋がっていた。ピション(en)にある記念柱の碑文によると、紀元前270年もしくはその翌年にプトレマイオス2世は、紅海のヘリオポリス湾にあるアルシノエ(en)閘門つき水門を設置し、海水が運河に流れ込まず淡水が維持されるように工夫して運河を再開させたとある。

紅海の海退とナイル流域面積の減少

歴史家の研究によると、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後にはティムサーハ湖やグレートビター湖の位置より遥か南の、現在の位置まで下がったと考えられている。さらに、ナイル川で堆積する泥の存在も、運河が通る国々にとって維持補修することを困難なものとした。プトレマイオス2世から約100年後のクレオパトラ7世の頃には、ナイル川デルタのペルシア川支流に溜まったシルトによって、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった。

スエズ湾北端の地形図、1856年製。オールドカイロへの経路も示される。

オールドカイロから紅海への道

8世紀までの時期、オールドカイロと紅海を結ぶ運河が存在した。ただし、誰によって建設されたかは複数の説があり、トラヤヌスアムル・イブン・アル=アースウマル・イブン・ハッターブのいずれかではないかと考えられている。この運河はナイル川沿いのオールドカイロと現在のスエズ近郊を結んでいた。地理学者のディクイルは、8世紀前半に聖地を巡礼したイギリスの僧フィデリスが、道中にナイル川から紅海へ運河を航行したと話した内容を報告した。

767年には、アッバース朝カリフであるマンスールアラビア半島の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる。1000年頃、ハーキムはオールドカイロと紅海間の運河修繕に乗り出したという意見もあるが、それはごく短い期間にとどまり、再び運河は砂に埋まったという。ただし一部の構造は残り、年1度のナイル洪水の際にそこは水で満たされる。

ナポレオンの古運河発見

ナポレオン・ボナパルトは運河の遺構発見に熱心で、1798年後半に考古学者や科学者および地図学者や技術者らの集団に調査をさせた。この結果は『エジプト誌』(en)に纏められ、そこには、紅海から北へ伸び、そしてナイル川を目指して西へ転じる古代運河の発見について説明する詳細な地図が添付された。

イギリスが牛耳っていたインド貿易へ干渉するため、ナポレオンは地中海と紅海を南北に結ぶ近代的な運河の建設を真剣に検討した。しかし、事前調査を行ったところ紅海の水面が地中海よりも10メートル(33フィート)高いことが判明し、閘門を用いた運河建設には多額の費用や長い期間がかかるため、この計画は頓挫した。ただしこの調査結果は誤っており、これは戦時下で測定を行わざるをえなかったことが影響し、計算の間違いが積み重なった結果であった。

現在でも明瞭になっていないが、ブバスティスから紅海まで繋がる古代の運河ルートは、1861年頃まではところどころ水を湛える場所があった。

歴史

スエズ運河の検討

建設に立ちはだかる海面の高低差は意識され続けたが、ヨーロッパから東へ抜

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出典:wikipedia
2018/12/17 11:51

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