このキーワード
友達に教える
URLをコピー

スペインとは?

スペイン王国
Reino de España



(国旗) | (国章)
国の標語:Plus Ultra
(ラテン語:更なる前進)
国歌:Marcha Real(スペイン語)
国王行進曲
公用語 スペイン語
首都 マドリード
最大の都市 マドリード
政府
国王 フェリペ6世
政府首班 ペドロ・サンチェス
元老院議長
マヌエル・クルス・ロドリゲス
代議院議長
メリクセル・バテット
【最高裁判所長官】
カルロス・レスメス・セラーノ
面積
総計 506,000(50位)
水面積率 1.0%
人口
総計(2018年) 46,723,749人(30位)
人口密度 92人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2018年)】
1兆2082億ユーロ (€)
GDP(MER)
【合計(2018年)】
1兆4,275億ドル(13位)
GDP(PPP)
合計(2018年) 1兆8,659億ドル(15位)
【1人あたり】
39,934ドル
建国
【スペイン王国成立
(カトリック両王の同君連合として)】
1479年1月20日
立憲君主制
1812年3月19日
第一共和政
1873年2月11日
フランコ政権
1939年4月1日
王政復古
1975年11月22日

通貨 ユーロ (€)(EUR)
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 ES / ESP
ccTLD .es
国際電話番号 34
  1. ^ カタルーニャ語(ヴァレンシア語)、バスク語ガリシア語が該当の自治州においてカスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語として認められている。2010年にはそれまでカタルーニャ州内のアラン谷地域の公用語であったアラン語がカタルーニャ州全体の公用語に規定された。
  2. ^ スペイン王国基礎データ”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
  3. ^ Cifras de Población a 1 de enero de 2016. Datos Provisionales”. スペイン国立統計局. 2016年12月11日閲覧。
  4. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
  5. ^ 1999年以前の通貨はペセタ
  6. ^ スペインのユーロ硬貨も参照。
  7. ^ カナリア諸島はUTC±0を採用。

スペイン王国(スペインおうこく(西: Reino de España)、スペイン国(スペインこく(西: Estado español)またはスペインは、南ヨーロッパイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める 議会君主制国家。首都マドリード。西にポルトガル、南にイギリスジブラルタル、北東にフランスアンドラと国境を接し、アフリカ大陸にある飛地セウタメリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海バレアレス諸島や、大西洋カナリア諸島北アフリカセウタメリリャアルボラン海アルボラン島を持っている。

国名

スペイン1978年憲法では正式な国名は定められておらず、スペイン語で、España([esˈpaɲa] ( 音声ファイル)、エスパーニャ)、Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ) 、Estado español(エスタード・エスパニョール)の3つが用いられている。

日本語の表記はそれぞれ、スペインスペイン王国スペイン国。これは英語表記の「Spain」に基づく。漢字による表記西班牙で、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア」「イスパニヤ」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア」である。

英語表記で国民はSpaniard、形容詞はSpanish

España(エスパーニャ)」とは、フェニキア語で「ハイラックスの島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、フェニキア人が同地に生息していたノウサギをそれと誤認したことから生まれたとされる。その後古代ギリシア語で「Ἱσπανια(Hispania)」、古ラテン語で「Hispānia」、俗ラテン語で「Spania」、アングロ=ノルマン語で「Espayne」と変化していった。

「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年に宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオン・ボナパルトの兄ホセ1世の即位時に正式にスペイン国王が誕生した(スペイン国旗が登場したのは1785年)。

1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。

なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い。

歴史

詳細は「スペインの歴史」を参照

先史時代から前ローマ時代

アルタミラ洞窟壁画のレプリカ

アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている。3万5000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州アルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。

鉄器時代の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。

紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人ギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。

ローマ帝国とゲルマン系諸王国

詳細は「ヒスパニア」を参照
メリダのローマ劇場

紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとし、法と言語とローマ街道によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている。

ローマの支配は409年ゲルマン系スエビ族ヴァンダル族アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国ジブラルタル海峡制海権を求めて南部に飛び地のスパニアを確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年トレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。

イスラームの支配

詳細は「アンダルス」を参照
ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿

711年北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力ウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国グアダレーテの戦いで敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語アル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州カンタブリア州ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる。

イスラームの支配下ではキリスト教徒ユダヤ教徒啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた。

後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータ(モスク)の内部

シリアダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人グアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている。

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国カスティーリャ王国アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝ムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。

イスラーム支配の終焉と統一

詳細は「レコンキスタ」を参照
マンサナーレス・エル・レアルの城

レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨ722年コバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川ドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。

1212年のナバス・デ・トロサの戦い

アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年トレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝ムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年コルドバが、1248年セビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。

カトリック両王フェルナンド2世イサベル1世

13世紀14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年黒死病大流行によってスペインは荒廃した。

1469年イサベル女王フェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国アラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年カナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。

グラナダ王国」、「フェズ王国」、および「シナン・レイース」も参照

イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。

スペイン帝国

詳細は「スペイン帝国」を参照
スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)

1516年ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタント宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。

16世紀前半にエルナン・コルテスペドロ・デ・アルバラードフランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスアステカ文明マヤ文明インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によってを採掘させられ、ポトシグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国イギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された。

スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ中央アメリカの大半、メキシコ北アメリカの南部と西部、フィリピングアムマリアナ諸島北イタリアの一部、南イタリアシチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスドイツの一部、ベルギールクセンブルクオランダを領有していた。また、1580年ポルトガル王国エンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。

フェリペ2世

このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。なお、1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移し、以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。

この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(1568年)、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/11/24 16:57

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「スペイン」の意味を投稿しよう
「スペイン」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

スペインスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「スペイン」のスレッドを作成する
スペインの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail