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スペインとは?

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スペイン王国
Reino de España



(国旗) | (国章)
国の標語:Plus Ultra
(ラテン語: 更なる前進)
国歌:Marcha Real(スペイン語)
国王行進曲
公用語
スペイン語
首都
マドリード
【最大の都市】
マドリード
政府
国王
フェリペ6世
首相
マリアーノ・ラホイ・ブレイ
面積
【総計】
504,782km(50位)
【水面積率】
1.0%
人口
【総計(2016年)】
46,524,943人(29位)
人口密度
92人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
1兆0,951億ユーロ (€)
GDP (MER)
【合計(2008年)】
1兆6,117億ドル(8位)
GDP (PPP)
【合計(2008年)】
1兆3,968億ドル(11位)
【1人あたり】
30,620ドル
建国
スペイン王国成立
1479年1月20日
立憲君主制
1812年3月19日
第一共和政
1873年2月11日
フランコ政権
1939年4月1日
王政復古
1975年11月22日

通貨
ユーロ (€) (EUR)
時間帯
UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1
ES / ESP
ccTLD
.es
国際電話番号
34
  1. ^ カタルーニャ語(ヴァレンシア語)、バスク語ガリシア語が該当の自治州においてカスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語として認められている。2010年にはそれまでカタルーニャ州内のアラン谷地域の公用語であったアラン語がカタルーニャ州全体の公用語に規定された。
  2. ^ Cifras de Población a 1 de enero de 2016. Datos Provisionales”. スペイン国立統計局. 2016年12月11日閲覧。
  3. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
  4. ^ 1999年以前の通貨はペセタ
  5. ^ スペインのユーロ硬貨も参照。
  6. ^ カナリア諸島はUTC±0を採用。

スペインは、ヨーロッパ南部イベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリスジブラルタル、北東にフランスアンドラと国境を接し、飛地セウタメリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海バレアレス諸島や、大西洋カナリア諸島北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海アルボラン島を領有している。首都はマドリード

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先史時代から前ローマ時代
    • 2.2 ローマ帝国とゲルマン系諸王国
    • 2.3 イスラームの支配
    • 2.4 再征服を遂げたカスティーリャ
    • 2.5 黒死病にあえぐアラゴン
    • 2.6 カスティーリャ=アラゴン連合王国
    • 2.7 スペイン帝国の宗教と版図
    • 2.8 ハプスブルク朝の経済と戦争
    • 2.9 アンシャン・レジームとナポレオン
    • 2.10 教会財産の循環構造
    • 2.11 地下資源と植民地と財政主権の喪失
    • 2.12 アンダルシアの三十年闘争
    • 2.13 スペイン内戦と分断経済
    • 2.14 フランシスコ・フランコとスポンサー
    • 2.15 ナショナリズム衰退と金融スキャンダル
  • 3 政治
  • 4 軍事
  • 5 国際関係
  • 6 地方行政区画
    • 6.1 自治州と県
    • 6.2 主要都市
  • 7 地理
    • 7.1 地形
    • 7.2 気候
    • 7.3 標準時
  • 8 経済
    • 8.1 欧州統合の効果
    • 8.2 21世紀のブラセロス
    • 8.3 ベーシックインカムの提案
    • 8.4 枯渇が近い鉱産資源
    • 8.5 世界一の臓器提供者数
  • 9 交通
  • 10 国民
    • 10.1 民族
    • 10.2 言語
      • 10.2.1 言語の一覧
    • 10.3 宗教
    • 10.4 教育
    • 10.5 結婚
  • 11 文化
    • 11.1 食文化
      • 11.1.1 アルコール類
      • 11.1.2 スペイン料理
    • 11.2 文学
    • 11.3 哲学
    • 11.4 音楽
    • 11.5 美術
    • 11.6 映画
    • 11.7 観光
    • 11.8 世界遺産
    • 11.9 祝祭日
  • 12 スポーツ
    • 12.1 サッカー
    • 12.2 バスケットボール
    • 12.3 サイクルロードレース
    • 12.4 モータースポーツ
    • 12.5 テニス
    • 12.6 その他
  • 13 脚注
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目
    • 15.1 スペインに関する著書が多い作家・文化人
  • 16 外部リンク

国名

スペイン1978年憲法では正式国名は定められておらず、スペイン語で、España([esˈpaɲa] ( 音声ファイル)、エスパーニャ)、Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)、Estado español(エスタード・エスパニョール)の3つが用いられている。

日本語の表記はそれぞれ、スペインスペイン王国スペイン国。これは英語表記の「Spain」に基づく。漢字による表記西班牙で、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア」である。

「España(エスパーニャ)」とは、フェニキア語で「ハイラックスの島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、フェニキア人が同地に生息していたノウサギをそれと誤認したことから生まれたとされる。その後古代ギリシア語で「Ἱσπανια(Hispania)」、古ラテン語で「Hispānia」、俗ラテン語で「Spania」、アングロ=ノルマン語で「Espayne」と変化していった。

「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオン・ボナパルトの兄ホセの即位時に正式にスペイン国王が誕生した(スペイン国旗が登場したのは1785年)。

1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。

なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い。

歴史

詳細は「スペインの歴史」を参照

先史時代から前ローマ時代

アルタミラ洞窟壁画のレプリカ

アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている。3万5000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州アルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。

鉄器時代の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。

紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人ギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。

ローマ帝国とゲルマン系諸王国

メリダのローマ劇場

紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとし、法と言語とローマ街道によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている。

ローマの支配は409年ゲルマン系スエビ族ヴァンダル族アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。

552年には東ローマ帝国ジブラルタル海峡制海権を求めて南部に飛び地のスパニアを確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年トレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。

イスラームの支配

711年北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力ウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国グアダレーテの戦いで敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語アル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州カンタブリア州ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築いた。

イスラームの支配下ではキリスト教徒ユダヤ教徒啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた。 シリアダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進んだ。785年コルドバにメスキータが、889年グラナダにアルハンブラ宮殿が建設された。

10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人グアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている。イスラーム世界は銀飢饉に苛まれており、元朝が銀を還流させるまで危機がつづいた。

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂をきっかけに、それまで小規模だったナバラ王国カスティーリャ王国アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げた。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝ムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。

再征服を遂げたカスティーリャ

マンサナーレス・エル・レアルの城

722年西ゴート王国ペラーヨコバドンガの戦いに勝利しアストゥリアス王国を建国した。これがスペイン・キリスト教諸国の拡大、すなわちレコンキスタ(再征服運動:Reconquista)の嚆矢であるとされている。数百年にわたるイスラームの支配時期に重なってレコンキスタは進行したが、10世紀のイスラム銀飢饉までは膠着状態にあった。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川ドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。778年、ロンスヴォーの戦いがおこった。フランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。844年、ノルマン人がリスボンとカディスを侵犯した。912年から1002年まで、スペイン・キリスト教諸国と後ウマイヤ朝カリフが不断の抗争に明け暮れた。955年アブド・アッラフマーン3世レオン王国と講和した。961年レオン王国からカスティーリャ王国が事実上独立した。このカスティーリャが以降のレコンキスタを主導することになる。

1031年に後ウマイヤ朝が滅亡しタイファ諸王国に分裂した。ここでキリスト教諸王国は勢力を南下させた。1085年トレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したが、それを第3回十字軍が牽制した。この大遠征は東西教会の分裂を促したが、東ローマ帝国はイスラーム世界の全盛期から奴隷出身の宦官に政治を左右されがちであった。1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝ムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年コルドバが、1248年セビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。

13世紀14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。13世紀、ムーア人王国を除き南スペイン全体はカスティーリャ王国の手におちた。軍団と貴族に恩賞としてラティフンディオが与えられた。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。

黒死病にあえぐアラゴン

1325年、アラゴン王国ジェノヴァ共和国からサルデーニャを奪った。

1348年から1349年黒死病大流行によってスペインは荒廃した。とくにアラゴンのバルセロナが直撃を受けた。カタルーニャでは人口の三割が失われた。1346年に造幣されたフローリン金貨は対外債務の増大により海外へ流出し、これを防ぐために悪鋳されていった。クロアット貨は品位が維持され、投機の対象となり、保有する者は退蔵しがちであった。にわかにフランス貨幣が流入し、日常の交換手段として用いられた。王室財政が王領地の減少と莫大な債務にあえぐ一方で、バルセロナ財政も公債発行に追い込まれた。自転車操業の末、1380年代に公債が軒並み償却できなくなった。バルセロナの個人銀行は、公債を引受けていたところをはじめとして連鎖的に倒産した。バルセロナ市当局は1401年に財政を管理下において欧州初の公営銀行を設立した。バルセロナ他多数の地域とは対照的に、アラゴンのバレンシア王国だけは農産物と羊毛の輸出力を強みとして急速に人口を回復していた。1412年カスティーリャにトラスタマラ朝が成立した。アラゴンはカスティーリャ内政に干渉したが、しかし逆効果であった。カスティーリャとジェノヴァ共和国の同盟関係は強化される一方であった。1430年、カスティーリャのフアン2世と休戦条約をむすび、アラゴン勢力はカスティーリャ内政から締め出された。1453年、カタルーニャ総督にガルセラン・ダ・レケセンス(Galceran de Requesens y Santa Coloma)が任命された。彼は商人や手工業者を主体とするブスカ市政を実現した。ブスカは7年にわたり市政を掌握し、保護主義政策を打ち出した。すると輸入業者や地代生活者からなるビガの反発がおこった。ビガはブスカだけでなく王権にも挑戦した。1462年からジローナを起点として、カタルーニャでは内戦がつづいた。ここへ1466年ごろからフランス軍が侵攻しカタルーニャ総督を任命したので、アラゴンはイングランド王国ブルゴーニュ公国と同盟した。1468年、バルセロナの公営銀行が事実上の破綻をむかえた。

カスティーリャ=アラゴン連合王国

1388年、カスティーリャは遠征してきたジョン・オブ・ゴーントの講和に応じた(バイヨンヌ条約)。ドーヴァー海峡は開放された。

1420-30年代のカスティーリャでは、ガリシア地方の下級貴族が市民・下級聖職者・農民を結集して王権への直属を求め、有力貴族による特権侵害および土地簒奪に対抗した(Irmandade Fusquenlla, 第一次イルマンディーニョス反乱)。前節で言及したようにアラゴンとの抗争も並行した。さらに1442年から1444年、ビスカヤ地方のドゥランゴフランシスコ会士アロンソ・デ・メリャ(Alonso de Mella)が聖書の自由な解釈と財産の共有などを主張し、中世スペイン最大の異端運動に発展させた。そこで1445年、カスティーリャはオルメードの戦いでアラゴン派貴族を破り閉塞状況を打破した(Batalla de Olmedo)。以後トレドでコンベルソを弾圧しながら王権を強化していった。1468年、トロス・デ・ギサント協定により第二次イルマンディーニョス反乱を和解させた。

1469年イサベル女王フェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国アラゴン王国が統合された。それまでカスティーリャは地中海に疎かったが、統合により貿易へ参入した。50年前からの混乱はカスティーリャの経済構造を再編させた。メスタが振興され、メディナ・デル・カンポの大市では大規模な羊毛取引と国際的な為替取引が行われた。ビスカヤ産の鉄製品も輸出された。そしてアンダルシアのワインやオリーブ油もセビリアからジェノヴァ商人の手を経て輸出された。ア・コルーニャは漁港として繁栄した。スペインは現在も欧州最大の漁業国であり、ビーゴ港を主力としている。

再征服は最終段階となった。セビリアでは戦利品としての黒人奴隷が増えていた。1475年に王国は「セビリアの黒人王」を任命し、下級裁判権を与え奴隷間の紛争解決にあたらせた。1478年カナリア諸島を、そして1492年グラナダを陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。彼らはジブラルタル海峡を渡りフェズ王国へ逃れた。

イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった。

スペイン帝国の宗教と版図

スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)

1489年、メジナデルカンポ条約。1494年トルデシリャス条約。1503年セビリアに通商院が設置された。1504年の勅令で、鉱山を発見した国民が五分の一税を納めることで採掘を認められた。ただし別の勅令で富鉱(minass ricas)は王室が独占するところとなった。 アントウェルペン帝国郵便を介してスペインと結ばれたころであった。1516年ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、反宗教改革の擁護者となった。するとコムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)がおこった。1538年プレヴェザの海戦

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出典:wikipedia
2018/02/26 02:41

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