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ソビエト連邦とは?

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ソビエト社会主義共和国連邦
Союз Советских Социалистических Республик



 | 1922年 - 1991年 | 

(国旗) | (国章)

国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(万国の労働者よ、団結せよ!)
国歌: インターナショナル(1922年 - 1944年)
ソビエト連邦国歌(1944年 - 1991年)

1945年以後のソビエト連邦領

公用語 なし
(ロシア語が事実上の公用語)
首都 モスクワ
最高指導者党書記長大統領

1922年 - 1924年 ウラジーミル・レーニン
【1924年 - 1953年】
ヨシフ・スターリン
【1953年 - 1953年】
ゲオルギー・マレンコフ
【1953年 - 1964年】
ニキータ・フルシチョフ
【1964年 - 1982年】
レオニード・ブレジネフ
【1982年 - 1984年】
ユーリ・アンドロポフ
【1984年 - 1985年】
コンスタンティン・チェルネンコ
【1985年 - 1991年】
ミハイル・ゴルバチョフ

ソビエト連邦閣僚会議議長首相

【1991年 - 1991年】
ヴァレンチン・パヴロフ
面積
【1933年】
21,352,572km²
【第二次大戦後】
22,402,200km²
人口
【1933年】
163,166,100人
【1970年】
242,768,000人
【1991年】
293,047,571人

変遷

ロシア革命 1917年11月7日
【宣言】
1922年12月30日
【承認】
1924年2月1日
ソ連崩壊
1991年12月25日

通貨
ソビエト連邦ルーブル
時間帯
UTC +2 - +13(DST: なし)
ccTLD
.su

先代
次代
ロシアSFSR
ザカフカースSFSR
ウクライナSSR
白ロシアSSR | 独立国家共同体
ロシア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギスタン
タジキスタン
エストニア
ラトビア
リトアニア
  1. ^ ヨーロッパが4,236,843km、アジアが17,115,729km。
  2. ^ ヨーロッパが109,254,300人、アジアが37,759,300人。

ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語: Союз Советских Социалистических Республик)は、1922年から1991年までの間に存在したユーラシア大陸における共和制国家である。複数のソビエト共和国により構成された連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制社会主義国家でもある。首都はモスクワ

多数ある地方のソビエト共和国の政治および経済統合は、高度に中央集権化されていた。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 歴史
    • 3.1 ロシア革命
    • 3.2 ソビエト連邦の成立
    • 3.3 五カ年計画と農業集団化
    • 3.4 戦間期の外交
    • 3.5 大粛清
    • 3.6 第二次世界大戦
    • 3.7 冷戦の開始とフルシチョフ時代
    • 3.8 停滞の時代
    • 3.9 ペレストロイカ
    • 3.10 民族問題の再燃と連邦制の動揺
    • 3.11 冷戦終結
    • 3.12 崩壊
  • 4 地理
    • 4.1 構成国
    • 4.2 代表的な都市
    • 4.3 汚染地域
  • 5 政治
    • 5.1 一党独裁制
    • 5.2 司法裁判
    • 5.3 歴代指導者
  • 6 外交関係
    • 6.1 対社会主義陣営
      • 6.1.1 中華人民共和国との関係
      • 6.1.2 キューバとの関係
    • 6.2 対資本主義陣営
      • 6.2.1 日本との関係
      • 6.2.2 東三省・満州国との関係
      • 6.2.3 イギリスとの関係
      • 6.2.4 アメリカとの関係
    • 6.3 外国渡航制限
  • 7 軍事
    • 7.1 強力な軍事力
    • 7.2 軍事支援
  • 8 科学技術
  • 9 経済
    • 9.1 計画経済
    • 9.2 消費財の流通
    • 9.3 貿易
    • 9.4 輸入消費財
    • 9.5 アメリカ合衆国との比較
  • 10 農業
  • 11 交通
    • 11.1 航空
      • 11.1.1 アエロフロート
        • 11.1.1.1 国内線
        • 11.1.1.2 国際線
    • 11.2 鉄道
    • 11.3 自動車
  • 12 言論・報道
    • 12.1 国内向け報道管制
    • 12.2 外国向け報道管制
    • 12.3 「クレムリノロジー」
    • 12.4 プロパガンダ
  • 13 宗教
    • 13.1 正教弾圧
    • 13.2 イスラム弾圧
    • 13.3 その他の宗教弾圧
    • 13.4 創価学会との交流
  • 14 文化
    • 14.1 芸術
    • 14.2 ソ連を描いたもしくは題材にした映画
    • 14.3 ソ連を描いたもしくは題材にしたゲーム
    • 14.4 ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ
    • 14.5 ソ連の社会主義体制が描かれている作品
    • 14.6 外来文化
  • 15 スポーツ
    • 15.1 ステート・アマチュア
    • 15.2 モスクワオリンピック
    • 15.3 頭脳スポーツ
  • 16 脚注
  • 17 参考文献
  • 18 関連項目
  • 19 外部リンク

概要

ソビエト連邦は、ロシア帝国を倒した1917年のロシア革命を起源とする。ロシア社会民主労働党の多数派で、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキは、臨時政府を転覆させ、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 (1936年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称) を設立した。この十月革命を皮切りに、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間にロシア内戦が開始された。赤軍は複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、名目上労働者および小作農の代表として振る舞ったソビエトを通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援した。1922年、共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカースウクライナ白ロシア各共和国を統合し、ソビエト連邦を形成した。

1924年のレーニン死去、トロイカ集団指導、短期間の権力闘争の後、1920年代中頃にヨシフ・スターリンが政権を握った。スターリンは自らに対する政治的敵対勢力を抑圧し、自らが創造したマルクス・レーニン主義を国家イデオロギーとし、計画経済を中心に始めた。結果として、同国は急速な工業化および集団農場化の期間を経験し、後の戦争努力および第二次世界大戦後の優勢性への基盤を築いた。しかしながら、スターリンは政治的偏執病を確立し、大規模で恣意的な逮捕を導入し、当局は、軍事指導者、共産党員、一般市民のような大勢の人を矯正労働収容所へと移送又は死刑を科した。

第二次世界大戦初め、国家社会主義ドイツ労働者党アドルフ・ヒトラー率いるドイツ国に対するイギリスおよびフランスのソビエト連邦との同盟拒否後、ソ連はドイツとの独ソ不可侵条約に署名した。同条約は両国間の対立を先延ばしにしたが、1941年にドイツ軍に侵攻され、歴史上最大の戦争となる独ソ戦が開始された。スターリングラードのような激戦での枢軸国に対する優勢確保のための犠牲において、ソ連の戦争死傷者数は同大戦の最大割合を占めた。最終的には、1945年にソ連軍は東ヨーロッパのドイツ軍を破り、ベルリンを占領した。

ソ連は中央および東ヨーロッパにおけるドイツ軍に制圧された領土を占領し、同領土は東側諸国衛星国になった。また1945年8月には日ソ中立条約を破り日本に対する攻撃を開始し、朝鮮半島北部や北方領土を占領し、終戦後に朝鮮半島北部に衛星国の北朝鮮を建国した。第二次世界大戦ではともに戦ったものの、アメリカ合衆国やイギリスなどの西側諸国とのイデオロギーおよび政治的な相違により、経済および軍事協定の形成に至り、最終的に長期の冷戦へと発展した。

1953年のスターリン死後、ニキータ・フルシチョフ政権の下、「非スターリン化」として知られる穏健な社会的および経済的自由化が生じた。その後、ソ連は20世紀の重要な技術的偉業を成し続け、史上初の人工衛星打上げおよび世界初の有人宇宙飛行を行い、宇宙開発競争をもたらした。1962年のキューバ危機は両超大国間で極度に緊張した期間であり、核戦争寸前だと考えられた。1970年代、緊張緩和が生じたが、1979年の新たな社会主義政府の要請により、ソ連がアフガニスタン軍事支援を始めた際に緊張は再度生じた。同軍事作戦は経済資源を消耗させ、有意義な政治的結果を成し遂げられずに長引いた。

1980年後半、ソ連最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフは連邦の改革および北欧型社会民主主義の方向に向かうことを求め、経済停滞期を終わらせるためおよび政府を民主化するためにグラスノスチおよびペレストロイカの政策を導入した。しかしながら、これにより強固なナショナリストおよび分離独立運動が生じるに至った。中央当局はバルト三国、アルメニア、グルジア、モルドバにより参加を拒否された国民投票を実施し、連邦を新連邦として維持することの賛成票が過半数を占める結果に終わった。1991年8月、ゴルバチョフに対し政策を覆させようとする強硬派によりクーデターが企てられた。同クーデターはロシア大統領のボリス・エリツィンがクーデター鎮圧に際立った役割を演じたことで失敗し、共産党の禁止に終わった。1991年12月25日、ゴルバチョフは辞任し、残る12の構成共和国が独立したポスト・ソビエト諸国としてソ連崩壊から現れた。以前のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国であるロシア連邦は、ソビエト連邦の権利および義務を引き継ぎ、同国の継続する各種条約法律上の国家として認識されている。

名称

ロシア語表記の正式名称は「Союз Советских Социалистических Республик」。

通称は Сове́тский Сою́зで、国歌の歌詞にも使用されている。略称は СССР

日本語表記では、ソビエト社会主義共和国連邦。通称はソビエト連邦(「ソビエト」は「蘇維埃」、「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト」「ソヴエト」「ソヴェート」より原語に近付けて「サヴィェート」とも)。略称はソ連邦ソ連、または単にソビエトソヴィエトともする。

「ソビエト」(: Совет)は「評議会」の意味を持つ。第二次世界大戦前は、ロシア帝国時代の神聖同盟のように「同盟」と訳した「ソ同盟(蘇同盟)」も使用されたが、ソ連自体が「СоюзとはФедерация(連邦)である」と説明し、在日ソ連大使館も戦前から一貫して「連邦」の訳語を使用したことから、「連邦」が優勢となっている。なお、構成共和国のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の国名にも「連邦」の文字が含まれるが、こちらはСоюзではなく Федерацияの訳である。旧ソ連圏の統合を目指しているユーラシア連合ユーラシア経済連合Союзは「連合」と訳されている。日本語読みではСоюзソユーズで知られる。

ソビエト連邦は、国名に固有名詞(地名)を含まない世界でも希有な例であるが、連邦を構成する各共和国の国名には「ロシア連邦共和国」など地名が含まれている。

一部の西側諸国ではソビエト連邦全体を指して「ロシア(Russia)」と呼び続ける例も多かった。日本では労農ロシアなどとも呼ばれたが、「ソ連、ソビエト、ソビエト連邦」が一般化した。英語表記では Union of Soviet Socialist Republics。通称は Soviet Union が広く使用された。略称はUSSR中国語を使用する漢字文化圏では「蘇聯」(ソ連)、東側諸国では「ソビエト連邦」に相当する名称で呼ぶことが一般的であった。

歴史

ロシアの歴史


ヴォルガ・ブルガール (7c–13c)
ハザール (7c–10c)
キエフ大公国 (9c–12c)
ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c)
ノヴゴロド公国 (12c–15c)
タタールの軛 (13c–15c)
モスクワ大公国 (1340–1547)
ロシア・ツァーリ国 (1547–1721)
ロシア帝国 (1721–1917)
ロシア臨時政府/ロシア共和国 (1917)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991)
ロシア連邦 (1992-現在)

ロシア革命

詳細は「ロシア革命」および「十月革命」を参照
十月革命2周年を祝うレーニントロツキーカーメネフ (1919)

ペトログラードデモに端を発する1917年3月12日(ユリウス暦2月)の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。

同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、同年11月7日(ユリウス暦10月25日)に権力を奪取した(十月革命)。この11月7日が、ロシア革命記念日である。同日には最初のソビエト大会が開催され、ソビエトによる体制の成立と、政府である人民委員会議が成立した。首相にあたる議長にはウラジーミル・レーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任している。ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込んだ。1918年1月10日からは第三回全国ソビエト会議が開催され、ロシアが労働者・兵士・農民のソビエトの共和国であると宣言され、連邦制をとるとした宣言が採択された(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)。

ボリシェヴィキは1919年に「共産党」と改称した。ドイツ帝国とはブレスト=リトフスク条約によって講和したものの、連合国によるシベリア出兵の干渉戦争や、白軍とのロシア内戦に対処することになった。一方でウクライナ人民共和国アゼルバイジャンバクー・コミューンなどのソビエト政権が各地で次々に成立した。この各政権は独立国であったが、ロシア・ソビエト政府の一部であると自らを定義することもあった。

経済政策では、内戦中に戦時共産主義を導入したが、これは農業と工業の崩壊を招き、数百万人の餓死者を出した。1921年よりネップ(新経済政策)が導入され、経済はようやく持ち直した。

ソビエト連邦の成立

詳細は「ソビエト連邦の歴史」を参照
1922年におけるソビエト連邦の一部としてのロシアSFSR
1936年のロシアの領土変更後におけるソビエト連邦の一部としてのロシアSFSR

ロシア内戦が収束に向かうと、各地のソビエト政権の間では統合への動きが強まった。ロシア共産党の手によって各地の革命政権との統合が進行し、1920年にはロシア連邦共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の間で、緊密な軍事的・政治的な同盟条約が締結され、ウクライナ、白ロシア、グルジア、アルメニアとも同様の条約が結ばれた。これらの国々は憲法を持つ主権国家ではあったが、最高機関は全ロシアソビエト大会と全ロシア中央執行委員会であり、ロシア連邦共和国の主導権は明確であった。

1922年5月にはレーニンが脳出血で倒れ、命は取り留めたものの影響力は急速に低下した。4月にはスターリンがロシア共産党の書記長に就任、党組織を掌握し始めた。8月にはソビエト政権の統合のための委員会が設置され、スターリンが主導者の一人となった。スターリンは9月に各政権が自治共和国として、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦に加入するという統合形式を発表した。この意見はグルジアの反対を除いて採択されたものの、各共和国にとっては不満の残るものであり、レーニンの指導によって10月の中央委員会では、各共和国が対等な共和国として連邦に加入するという形式が定められた。しかしこの修正ではザカフカースの3共和国が一旦連邦となってから加入することが定められたため、グルジアでの猛反発を招いた(グルジア問題)。反対派は次第に追い詰められ、これによってザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が成立している。

12月には第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にロシア連邦共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース連邦の4国が平等な立場で加盟するとしたソビエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言する連邦結成条約が調印された。この連邦には各国が自由な意志で参加・脱退できると定められており、新たな最高機関の設立も決定された。1924年1月31日には最初のソビエト連邦憲法が成立している。

1924年にレーニンが死亡したが、生前にはスターリンとトロツキーの対立を憂い、スターリンを警戒するようになっていた。スターリンはまずトロツキーを孤立させ、次いでレーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフやレフ・カーメネフ、カール・ラデックらを攻撃した。1927年にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを党から除名したことで、明らかな優越者としての地位を確保した。

外交面では連合国の直接干渉自体は無くなったものの、ソビエト政権が旧ロシア帝国の債務支払を拒否したため、関係改善は進まなかった。一方で国際的に孤立していたヴァイマル共和政下のドイツはソ連と接近し、賠償の相互放棄を定めたラパッロ条約の締結となった。ドイツ軍はソビエト領内で軍事開発を秘密裏に行い、ソ連はそれによって情報を取得するという関係も築かれた。この後、中東諸国や中華民国との国交が成立したものの、1925年にはロカルノ条約の成立によってドイツが西欧諸国側になったと受け止められた。これに対してソ連は東欧諸国やフランスと不可侵条約を締結することで対抗しようとした。一方でコミンテルンは各国の共産主義運動を支援する世界革命を目指していたが、一国社会主義を唱えるスターリンの勝利によって、その運動はソ連を守るためのものとなった。

五カ年計画と農業集団化

ネップで農業生産は拡大したが、商品価値の高い生産に集中するようになり、穀物の供給が滞るようになった。スターリンはネップを終わらせ、計画経済への転換によるソ連の工業化をはかった。1928年から第一次五カ年計画が始まり、鉄鋼生産の増強、農業の集団化、電化や機械化に重点を置いた工業化が達成された。1928年と1937年を比較すると、石炭は3倍強、粗鋼は4倍強の生産高に達しており、工業全体では第一次で2倍、第二次五カ年計画で2.2倍に達したと言われる。同時期に欧米諸国が世界恐慌によって多数の失業者を出し、経済を縮小させたのと比較して、ソ連の経済成長率は世界最高を記録した。しかし一方でコルホーズに代表される強引な農業集団化は農民層の強烈な抵抗に遭い、最終的にはソ連の農民層は大部分が工業労働者となったり集団農場に組織されたものの、弾圧や飢餓で多くの犠牲者がでた。カザフスタンでは30%の農民が中国に逃亡した。特に1932年から1933年の大飢饉の影響は悲惨であり、ウクライナで400万人から800万人(ホロドモール)、ソ連全体で600万人から700万人とも言われる餓死者を出したとされる。さらに工業賃金も上昇せず、労働者の実質賃金は12%近く減少している。ソビエト政府はこれに富農狩りなどの強圧政策で臨んだ。また、白海・バルト海運河計画などの大規模インフラの建設には、集団化に抵抗した農民や弾圧された共産党員たちの、いわゆる囚人労働者が動員されていた。レーニンから「党の寵児」と呼ばれ、穏健な計画を唱えたニコライ・ブハーリンはこの時期に失脚している。

戦間期の外交

外交面では、コミンテルンは当初社会ファシズム論を唱え、社会民主主義勢力への批判を強めていたが、ファシズムナチズムについてはむしろ容認していた。しかし、ヒトラー内閣成立後、1933年11月にアメリカと国交を樹立。1934年9月には国際連盟に加盟し、常任理事国となった。おりしもドイツではナチ党政権が成立し(ナチス・ドイツ)、1935年には再軍備を宣言した。ソ連はこれに対抗するために、フランスと手を結ぶ東方ロカルノ政策で対抗しようとし、1935年に仏ソ相互援助条約が締結された。コミンテルン第7回大会においても反ファシズム統一戦線の方針が確認され、人民戦線戦術がとられるようになった。赤軍は1934年には60万人から94万人、1935年には130万人に拡大され、1937年にソビエト連邦海軍の設置が行われるなど急速な拡大が続けられた。

大粛清

詳細は「大粛清」を参照

急進する集団化と工業化については、党内のセルゲイ・キーロフグリゴリー・オルジョニキーゼらといった勢力が穏健化を求めるようになった。その最中に起こった1934年のキーロフ暗殺事件以降、スターリンにより党内の粛清が激化し、ブハーリン、ゲオルギー・ピャタコフ、レーニンの後継人民会議議長であったアレクセイ・ルイコフ、ジノヴィエフ、カーメネフらといった有力党員、ミハイル・トゥハチェフスキーらといった軍人が次々と処刑された。その他多くの党員や軍人、国民が死刑もしくは流罪などにより粛清された。この粛清はスターリンの配下である粛清の実行者ですらその対象となり、ゲンリフ・ヤゴーダニコライ・エジョフらもその犠牲となっている。

流罪の受け入れ先として大規模な ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/22 23:15

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