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ソ連対日参戦とは?

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対ソ防衛戦
戦争:太平洋戦争
年月日:1945年(昭和20年)8月9日 -
1945年(昭和20年)9月5日
場所:満州国 樺太 千島列島 内蒙古 朝鮮北部
結果: ソビエト社会主義共和国連邦の勝利
交戦勢力
大日本帝国
満州国
蒙古聯合自治政府 |  ソビエト連邦
モンゴル
指導者・指揮官
山田乙三
樋口季一郎
根本博
愛新覚羅溥儀
デムチュクドンロブ
李守信 |  アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ホルローギーン・チョイバルサン
スフバータル(en)
戦力
1,217,000 | ソ連 1,577,225
モンゴル 16,000
損害
戦死 21,389〜84,000
戦傷 20,000
捕虜 594,000 | 戦死 9,726〜20,000
戦傷 24,425
日本本土の戦い


ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、満州国において1945年(昭和20年)8月9日未明に開始された日本関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州北朝鮮における一連の作戦戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太千島列島における一連の作戦戦闘である。この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定づけることとなった。

日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻であるが、ソ連側はこれに先立つ関東軍特種演習の段階で、同条約が事実上破棄されたものとしている。

日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の検定済歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。ソ連側の作戦名は8月の嵐作戦

目次

  • 1 背景
  • 2 情勢認識
  • 3 作戦の概要
    • 3.1 ソ連軍
      • 3.1.1 戦闘序列
    • 3.2 日本軍
      • 3.2.1 関東軍
      • 3.2.2 第五方面軍
      • 3.2.3 戦闘序列
      • 3.2.4 居留民への措置
  • 4 経過
    • 4.1 初動
    • 4.2 西正面の状況
    • 4.3 東正面の状況
    • 4.4 北正面の状況
    • 4.5 北朝鮮の状況
  • 5 南樺太および千島の概況
    • 5.1 南樺太の戦闘
    • 5.2 千島列島の状況と戦闘
  • 6 ポツダム宣言受諾後のソ連の戦闘
  • 7 前線部隊の状況
  • 8 在留邦人の状況
  • 9 題材とした作品
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

背景

19世紀帝政ロシアの時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は1933年(昭和8年)からすでに始まっており、当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進したが、1936年(昭和11年)ごろには戦備に決定的な開きが現れており、師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站にわたって極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを大きく凌いでいたと言われる。

張鼓峰事件ノモンハン事件において日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識したが、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争勃発で南方へと移行する。1943年(昭和18年)後半以降の南方における戦局の悪化は関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらした。

満洲国における日本軍の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、ついに1945年(昭和20年)5月8日ナチス・ドイツが降伏した(ヨーロッパ戦勝記念日)ことにより、ソ連軍にヨーロッパ戦線から撤収する余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。

情勢認識

クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じころ対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカでは、太平洋戦争での日本の降伏のため、ルーズベルトはソ連への対日参戦が必須条件としていた。1943年(昭和18年)10月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。このときソ連はナチス・ドイツを敗戦させた後に参戦する方針と回答した。

1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヵ月での対日参戦を約束。ソ連は1945年(昭和20年)4月には、1941年(昭和16年)に締結され、5年間の有効期間を持つ「日ソ中立条約の延長を求めない」ことを、日本政府に通告した。ヨーロッパ戦勝記念日後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、ソビエト社会主義共和国連邦と満州国との国境に、巨大な陸軍による軍事力の集積を行った。

日本政府は、ソ連との日ソ中立条約を頼みに、ソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとした。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことや、ソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年(昭和20年))の8月か遅くても9月上旬あたりが危険」「8月以降は厳戒を要する」と結論付けている。

関東軍首脳部は、日本政府に比べて事態を重く見ていなかった。総司令官は1945年(昭和20年)8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の侵攻はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動して、すぐに司令部に復帰している。

なお、6月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった

関東軍第一課(作戦課)においては、参謀本部の情勢認識よりも遥かに楽観視していた。この原因は作戦準備が全く整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした「希望的観測」が大きく影響した。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、ソ連軍の侵攻が冬まで持ち越してもらいたいという願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は10月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり、関東軍作戦課においては、1945年(昭和20年)の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は、早くとも9月以降、さらには翌年に持ち越すこともありうると判断していたのだった。この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。

関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日、直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。

さらに第四軍司令官上村幹男中将は、情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。

他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕キスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年(昭和20年)5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。

しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太において、陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは、8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更は、それほど大きな影響を与えなかった。

作戦の概要

ソ連軍

ソ連の有利を生み出したのは数ではなく、訓練と装備、そして戦術だった。 ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一にシベリア鉄道による鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ、満州地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極めながらの攻撃という支援的な作戦であった。北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲国における主作戦の進展次第で、南樺太および千島列島への進攻を行なうこととした。 当初ソ連軍の満州侵攻作戦計画は同方向の攻勢軸に大兵力を集中投入する伝統的な突破戦略であり、攻撃方向は北満の牡丹江・チチハル方面へと向けられていた。しかし満州北東部に配置された関東軍の強固な要塞地帯の妨害が予想され、突破後の関東軍主力の殲滅を考慮した場合、北満からの単調な攻勢は日本軍主力を取り逃がす危険性があった。そこで極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥のもとで、3個の正面軍(ザバイカル・第1極東・第2極東)が編成され、新たな対日作戦計画が立案された。ソ連軍首脳部は、独ソ戦の経験に基づいた迂回機動による包囲と縦深侵攻を組み合わせた戦略を新たに採用し、3方向からの新たな攻勢戦略を立案。3方面から満州内部に向けて進撃し、第1極東正面軍とザバイカル正面軍が東西両端から新京・吉林付近で合流し、関東軍を南北に分断、第2極東正面軍と共に北に残された関東軍部隊を巨大な包囲網の中で殲滅する。ソ連極東軍が擁する唯一の機械化軍である第6親衛戦車軍は大興安嶺と砂漠地帯が立ちはだかる北西・西部正面のザバイカル正面軍に配置された。北東・東部正面は関東軍主力と要塞群が密集しており、関東軍の意表をついた縦深侵攻を実現させるためにも、あえて戦車・機械化部隊の進撃が困難と予測される西正面に投入されることとなった。最高総司令部の構想では、これらの機械化兵力は日本軍の孤立した抵抗拠点の全てを迂回し、迅速に砂漠地帯を横断して、日本側が脅威を認識する前に大興安嶺の峠道を制圧することになっていた。満州での作戦に備え赤軍の軍事機構は極端に特殊化されていた。どの狙撃師団(歩兵師団)も独立戦車旅団一個、自走砲連隊一個、砲兵連隊2個を持ち、縦深の突破と追撃用の先遣隊を編成することが可能となっていた。西部からの戦略的突破を担当する第6親衛戦車軍も再編され、2個戦車軍団のうち1個が機械化軍団に置き換えられ、2個自走砲旅団、2個軽野砲旅団に支援部隊が加わり、戦車・自走砲1019両を擁した。この編成は独ソ戦時の戦車軍よりも、1946年に編成された機械化軍や1941年の機械化軍団に近かった。最高総司令部は戦後の理想的な軍隊を編成する場として満州を選び、のちの標準となる様々な新しい組織と概念を試験しようとしていた。満州での作戦は、その後何十年にもわたってソ連陸軍で研究されるほどの機動戦の傑作となった。

南樺太および千島列島への進攻に関してはソ連海軍、特に太平洋艦隊は艦艇不足であった。このため事前にレンドリースの一環としてアラスカにおいてアメリカとソ連の合同で艦艇の貸与と乗組員の訓練を行うフラ計画が実行された。

戦闘序列

1945年の満州方面における日ソ両軍の配置

極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥

モンゴル人民革命軍総司令官ホルローギーン・チョイバルサン元帥

兵員1,577,725人、火砲26,137門(迫撃砲含む)、戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機を装備(海軍の装備を考慮しない数)。

日本軍

関東軍

関東軍は満州防衛の為、ソ連との国境に14の永久要塞を建設していた。

  1. 東寧要塞…アジア最大の地下要塞。東寧重砲兵連隊が配置された。
  2. 綏芬河要塞
  3. 半截河要塞
  4. 虎頭要塞…シベリア鉄道を視認する戦略上の要衝にあり、東西約10km・南北約4kmの規模を誇る。試製四十一糎榴弾砲、九〇式二十四糎列車加農を筆頭に大口径長射程重砲が配備された。
  5. 霍爾莫津要塞
  6. 璦琿要塞
  7. 黒河要塞
  8. 海拉爾要塞…ハイラル市を取り囲むように、周囲の山に陣地が築かれ、最大3万人が収容できる大陸屈指の要塞であった。西部防衛の要
  9. 五家子要塞
  10. 鹿鳴台要塞
  11. 観月台要塞
  12. 廟嶺要塞
  13. 法別拉要塞
  14. 鳳翔要塞

関東軍の作戦構想とは、要塞群の密集する東部・北部に主力部隊を配置してソ連軍を阻止し、西方面では逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もる。

また満州各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。日本軍は満州の地形を最大限に利用し防衛計画を立てた。

満州の農業と工業の大半は平野部に集中し、三方から囲む山岳と森林が天然の要害となっていた。特に西部の大興安嶺は標高900メートルに達し、わずかな峠道も湿地帯で覆われ、機械化兵力の通行に適していなかった。

全部隊兵力の比率は日満軍1に対して、赤軍は1.15であり単純な兵員数に大きな差はなかった。ただ戦車と砲の数はソ連が圧倒的であり、日本軍を満州の天然の要害を活かして、兵器面での劣勢を相殺した。西部が通行不能な地形なため、日本軍は東部、北部、北西の鉄道沿線と国境要塞線に戦力を集中し、第1方面軍だけが縦深的防御態勢をとっていた。

西部の海拉爾要塞が純粋な防衛拠点なのにたいし、東部の虎頭・綏芬河・東寧要塞は反撃用の攻勢拠点としての機能も有していた。東部の三要塞には砲兵部隊が重点的に配置され、虎頭・綏芬河・東寧のラインが主力決戦用の攻勢拠点として整備された。鹿鳴台・五家子・観月台要塞は間隙部の防衛とソ連軍の攻勢を阻止し日本軍の反撃を支援する攻防両面の機能を兼ね備えていた。

西部正面の海拉爾要塞は東部での反撃が完了するまで西部のソ連軍攻勢を抑止することが求められた。北部・西部は東部での決戦が完了するまで守勢に徹し、東部での作戦が完了次第、撤退を開始、ソ連軍主力を山岳部に誘導し東部の日本軍主力と合流した上で撃破作戦に移行する。日本軍の要塞陣地は単純な防御施設にとどまらず、敵を効果的に分断、撃破する機動戦用の戦略拠点として機能した。

戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退は非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。

また関東軍は、戦力の差を縮めるためにゲリラ戦を重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった。東部正面においては、元来工事の準備が遅れており、陣地防御もままならない状況であった。通信網でさえ第一線の部隊と司令部間であっても通じておらず、第一方面軍司令部と第五軍司令部の通信は、8月14日になってからであった。

第五方面軍

第88師団(樺太)においては、対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。

目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。

第91師団(北千島)においては、他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換された。しかし陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。

戦闘序列

関東軍総司令官 山田乙三 大将(14期)

兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)、火砲約1,000門(歩兵砲山砲などすべてを含む)、戦車約200両、航空機約350機(うち戦闘機は65機。練習機なども含む)

第五方面軍 樋口季一郎 中将

居留民への措置

関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐(せいひつ)保持」を理由に却下している。

状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかった。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。 ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足が大きな要因であると考えられる。

8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第1列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。

これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。

当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は

この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。

当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。

経過

ソ連軍の侵攻ルート

初動

宣戦布告1945年8月8日(モスクワ時間午後5時、日本時間午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連特命全権大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとした。ヴャチェスラフ・モロトフは暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかし、モスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった。

詳細は「ソ連対日宣戦布告」を参照

8月9日午前1時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。同じ頃、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は、宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

西正面の状況

ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満州西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満州の中央渓谷に突入した。 一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。

東正面の状況

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出典:wikipedia
2020/01/18 03:34

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