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タイの歴史とは?

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タイの歴史


先史時代
古代~中世 (BC3-1238)
スコータイ王朝 (1238-1448)
アユタヤ王朝 (1351-1767)
トンブリー王朝 (1768-1782)
チャクリー王朝 (1782- )
【地方の歴史】

ハリプンチャイ王国
ラーンナー王朝

タイの地勢図

タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国歴史を時代ごとに述べる。

目次

  • 1 先史時代
    • 1.1 東北部
  • 2 民族
  • 3 古代国家
    • 3.1 ドヴァーラヴァティー王国
      • 3.1.1 ラヴォ王国
      • 3.1.2 ハリプンチャイ王国
    • 3.2 真臘(クメール)
    • 3.3 シュリーヴィジャヤ王国
    • 3.4 ラーンナー王国
  • 4 スコータイ王朝
  • 5 アユタヤ王朝
    • 5.1 前期
    • 5.2 後期
  • 6 トンブリー王朝
  • 7 チャクリー王朝
    • 7.1 近代化
  • 8 立憲君主制時代
    • 8.1 立憲革命
    • 8.2 第二次世界大戦
    • 8.3 戦後
    • 8.4 軍事政権
  • 9 民主化
    • 9.1 調整型政治
    • 9.2 暗黒の5月事件
    • 9.3 政治危機
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

先史時代

詳細は「有史以前のタイ」および「タイの初期の歴史」を参照

東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る。タイ北部ラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである。タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた。中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた。1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアンの中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる。

東北部

イーサーンの歴史」も参照

新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ、同時に社会的な組織構成が進んだ。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。

紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた。また、ウドーンターニー県プープラバート (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる。このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の岩絵(花山の岩絵など)との類似性が指摘される。岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部南部にも認められる。

民族

詳細は「タイの民族移動」および「タイ族#タイ族の南下」を参照

東南アジアのネグリトであるマニ族 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派ケンシウ語(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている。次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた。

古代国家

1000-1100年頃の領域図
クメール
ハリプンチャイ
シュリーヴィジャヤ

ドヴァーラヴァティー王国

詳細は「ドヴァーラヴァティー王国」を参照

6-7世紀から11世紀頃まで、モン族のナコーンパトムを中心とした広範囲な連合国家ドヴァーラヴァティーが東南アジアで繁栄した。

紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語(サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による。また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる。

ラヴォ王国

詳細は「ラヴォ王国」および「ロッブリーの歴史」を参照

モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より、ラヴォロッブリーにあったが、9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世(在位1002-1050年)により領有された。スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが、クメールの支配は13世紀まで続いた。

13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年までに使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀アユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた。

ハリプンチャイ王国

詳細は「ハリプンチャイ王国」を参照

伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女チャマデヴィ(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことによって成立した。ただし11世紀以前の史料はなく、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる。12世紀にはクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が進出している。1292年、タイ族のラーンナーの侵入により壊滅した。

真臘(クメール)

詳細は「真臘」および「クメール王朝」を参照

クメール族の真臘は、同じくクメール族の扶南国の属国であったが、5世紀中頃にはシーテープなどを支配下に置き、7世紀初頭、王マヘンドラヴァルマン(チトラセナ)もしくは次のイシャーナヴァルマン1世の時代には扶南を占領した。706年頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の記録にある。陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し、沿海部はラージェンドラヴァルマン1世が支配したともいわれる。8世紀中頃から水真臘はジャワのシャイレーンドラ朝に侵攻されていたが、9世紀初頭、クメール王朝として独立した。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)より中部へと支配を拡大していった。

8世紀頃のシュリーヴィジャヤの領域図

シュリーヴィジャヤ王国

詳細は「シュリーヴィジャヤ王国」を参照

タイ南部はシュリーヴィジャヤ王国の影響下にあった。シュリーヴィジャヤは7世紀より、交易の要衝であるマラッカ海峡周辺の多くの港市国家を支配していた。タイ南部のチャイヤーは、その海上交易を支配するシュリーヴィジャヤの都の1つであったとされる。また、ナコーンシータンマラート(リゴール)の775年の碑文により、8世紀後半にはジャワに興ったシャイレーンドラ朝に属するようになったことが知られる。

ラーンナー王国

詳細は「グンヤーン」および「ラーンナー」を参照

メコン支流のコック川流域のタイ北部には、タイ・ユアン族 (Tai Yuan、タイ語: ไทยวน) を中心に、ヨーノック (Yonok) と呼ばれるグンヤーン(チエンセーン)を中心とした国家的形態の1つが認められ、その成立は11世紀から12世紀頃であったとも考えられる。

グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 (Tai Lue) の君主マンラーイ1259年に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、1262年に首都をグンヤーンからチエンラーイに、1269年にはファーンに移した。1281年には、7年間進入を企てていたマンラーイは、モン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた。1296年、新しく建設したチエンマイに遷都し、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した。

15世紀のラーンナーの王ティローカラート時代の領域図

1338年、ラーンナーの王カムフー(在位1334-1336年〈1338-1345年〉)は、タイ族のパヤオ王国を併合。1443年には、王ティローカラート(在位1441〈1442〉-1487年〉)がプレーに侵攻し、プレー王国を併合した。また、1448年頃にナーン(カーオ王国)を併合している。アユタヤ・ラーンナー戦争では、1450年から1462年に王ティローカラートが数度にわたって南進し、アユタヤ王朝と衝突した。

1523年、ラーンナー王国の王ケーオ(在位1495-1525年)はチェントゥンに出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。さらに1524年には水害もあり、その人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因となった。1546年には、ラーンサーン王朝からセーターティラートを招いてラーンナーの国王に据えた。しかし2年後、セーターティラートは王位を継ぐためにラーンサーンに戻ると、その後さらに混乱は増した。1551年、ナーンのメクティ(メーク、在位1951-1964年)が招かれ王位につくが、1558年ビルマの侵攻によりタウングー王朝の属国となった。

スコータイ王朝

詳細は「スコータイ王朝」を参照
1300年頃の領域図
クメール

クメールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218/1220年)が死去した後、1240年頃に、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる。

スコータイ王朝の3代目の王ラームカムヘーン(在位1279-1298年頃)の時代に、統治する領域は大きく広がっていった。また、スコータイ王国はラーンナー王国と同盟を結んでいた。

ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進した。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった。その後、リタイ(在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、1378年、王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった。

アユタヤ王朝

詳細は「アユタヤ王朝」を参照
1400年頃の領域図
スコータイ
クメール
ラーンナー
ペグー
1540年頃の領域図
アユタヤ
クメール
ラーンナー
ラーンサーン

前期

スコータイ王朝の衰退の後、1351年、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーやロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年)として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた。

1438年、スコータイ王朝の王マハータンマラーチャー4世が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した。

1540年、ビルマのタウングー王朝の王タビンシュエーティー(在位1531-1551年)がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた。第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝のバインナウンがアユタヤに侵攻し、1549年にアユタヤ王朝の王チャクラパット(在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる。この戦いでは、アユタヤの王チャクラパットも防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる。

1551年、タウングー王朝の王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となっている東部のシャン族を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した。第二次緬泰戦争(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した後、1568年、再びアユタヤに侵攻し、翌年、ビルマに占領された。

後期

1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1584年ナレースワン(在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する。1590年に王位を継いだナレースワンは、1594年にタウングー王朝へ侵攻した(緬泰戦争〈1594-1605年〉)。1595年ペグーの戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した。1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した。

1605年にナレースワンが死去し、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた。イギリス(イギリス東インド会社)は1605年パタニ1612年にはアユタヤでの商業活動を許可された。

ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた。1612年頃アユタヤに渡来した山田長政が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン、Krom Asa Yipun)に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後プラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと、1630年頃、王の命令で山田長政は暗殺され、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた。

1661年に王ナーラーイ(在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、1662年にはビルマのペグーまで侵攻した。

1663年11月から翌年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)が武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した。このことより王ナーラーイは、1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した。1685年12月にはチャオプラヤー・コーサーパーンフランスにアユタヤ大使として派遣され、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している。1688年シャム革命が勃発。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が即位し、フランス勢力を一掃した。

アユタヤ王朝は、16世紀1516年にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが、中国との関係が最も重要であった。1709年に王位に就いたプーミンタラーチャー(ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心にタイ米の輸出が開始され、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした。

アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)で、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った。1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)で、ついにコンバウン王朝の侵入により、1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した。

トンブリー王朝

詳細は「トンブリー王朝」を参照

1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンは、華僑の支援のもとに要衝トンブリー(現在のバンコクトンブリー区)を拠点として再統合することに成功し、1768年末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し、1771年からカンボジアに2度侵攻した。

チャクリー王朝

詳細は「チャクリー王朝」および「ラッタナーコーシン王国」を参照
1809年のラッタナーコーシン王国の領域図

その後、精神的偏重性を示したとされる王タークシンは、1782年初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された。チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった。

ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になって、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国によりケダ・スルタン国を征服し、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる。ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約)を締結し、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした。

この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした泰越戦争(1831-1834年)において、1832年にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、1834年にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした泰越戦争(1841-1845年)の結果、1845年にタイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された。この結果、1847年アン・ドゥオンがカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、シンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった。

近代化

19世紀末-20世紀初頭のタイ領域の割譲
1867年フランス
1888年フランス
1893年フランスに
1893年イギリス
1904年フランスに
1907年フランスに
1909年イギリスに

タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のラーマ4世(モンクット、在位1851-1868年)と息子のラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。1840年からのアヘン戦争における大国のの敗北はタイにとっても大きな衝撃であり、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革(チャクリー改革)と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立った。1852年第二次英緬戦争の結果、イギリスは下ビルマを獲得していた。ラーマ4世は、1855年にイギリスと通商貿易に関する条約(バウリング条約)を締結した。

一方、1779年よりタイの属国となっていたルアンパバーン王国では、太平天国の乱の末裔の中国人匪賊として各地に侵攻したホーにより1872年以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、1885年、再度襲撃が活発になると、タイは討伐の軍を送り、フランスもまたシップソーンチュタイに軍を派遣した。これによりホーの襲撃はおさまりを見せたが、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった。その後、1887年にルアンパ

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出典:wikipedia
2018/05/09 09:47

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