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タイ王国とは?

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タイ王国
ราชอาณาจักรไทย



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:เพลงชาติไทย(タイ語)
タイ国歌
王室歌:สรรเสริญพระบารมี(タイ語)
国王賛歌
公用語 タイ語
首都 バンコク都
最大の都市 バンコク
政府
国王 ラーマ10世
首相 プラユット・チャンオチャ
面積
総計 513,120km(50位)
水面積率 0.4%
人口
総計(2016年) 68,863,514人(20位)
人口密度 132.1人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2017年)】
15兆4501億バーツ
GDP(MER)
【合計(2017年)】
4557億ドル(25位)
GDP(PPP)
合計(2017年) 1兆2363億ドル(20位)
【1人あたり】
20,474ドル

【建国
- 日付】
スコータイ王朝成立
1238年(伝承)
通貨 バーツ(THB)
時間帯 UTC (+7)(DST:なし)
ISO 3166-1 TH / THA
ccTLD .th
国際電話番号 66

タイ王国(タイおうこく、タイ語: ราชอาณาจักรไทย Ratcha Anachak Thai [râːt.tɕʰā ʔāːnāːtɕàk tʰāj])、通称タイ(タイ語: ประเทศไทย Prathet Thai [pràtʰêːt tʰaj] ( 音声ファイル))は、東南アジアに位置する立憲君主制国家首都バンコク都東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,891万人(2017年、タイ国勢調査による)である。

国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接する。東南側はタイランド湾に面する。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアインドアンダマン・ニコバル諸島に向かい合う。

2014年にプラユット将軍率いる国軍軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止して実権を掌握して以降、軍事独裁政権が継続している。

2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された。

国名

正式名称は、ราชอาณาจักรไทย(タイ語: ラート・チャ・アーナーチャック・タイ)で、ราชは「」、อาณาจักรは「領土」、ไทยは「タイ」を意味する。現地での通称は、เมืองไทย(タイ語: ムアンタイ)。

公式の英語表記は、The Kingdom of Thailand、略して Thailand(英語発音: [ˈtaɪlənd] イランドゥ)。国民、形容詞とも Thai。日本語表記は、タイ王国、通称はタイタイランドと称されるもこと多い。漢字(タイ)と表記されることもある。

1939年までの正式国名は Siam([sàˈjǎːm] サヤーム、英語発音: [saiˈæm] サイム)。この Siam という語は古くポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンビルマ語碑文(1120年)、アンコールワットの刻文(12世紀頃)などに見える Syām という語に原型を見ることができる。歴史学者・言語学者のチット・プーミサックはその著書『タイ族の歴史』で、この語がビルマのシャン族のシャン、インドのアッサムアーホーム族のアーホームの語源になったとしている。西洋においては Siam とはポルトガル語Sião, Syão からきた語とされる。また、1592年ジェームス・ランカスターが最初に Siam という語を用いたとされる。この Siam が正式な国号となるのは1855年英タイ間でボーリング条約が締結されたときであった。

日本においては、かつて暹羅と記した。『明史』巻三百二十四に見える、暹(せん)という国と羅斛(らこく)という国が合併したからとされる。なお、暹という国はスコータイ、羅斛はラウォー(ロッブリー)とするのがポール・ペリオによる研究以来からの定説であったが、『大徳南海誌』の「諸蕃国」に見える一文「暹国管上水速孤底」という記述があることを理由に山本達郎は暹とはアユタヤではないかとする見解を発表し、これが2002年に石井米雄によりタイの学会に紹介され新たな定説となった。なお「暹羅」の読みについて、1712年刊行の『和漢三才図会』ではこの語にしゃむろンロウという読みを与えている。しかし、明治期以降シャムの読みが定着した。また、同時代の外交においては暹羅国と表記された。

このほか、タイを示す「シャム」「暹羅」以外の系統の語として、ビルマ語のヨウダヤー (ယိုးဒယား)があげられる。この語はもともと、シャムを語源とするタイ北方のタイ族を呼ぶ言葉「シャン」とは別に、チャオプラヤー川流域のタイ族、およびタイ南部のタイ族を指し示す言葉で、語源はタイに過去に存在した王朝の名前アヨータヤー(アユッタヤー)であると考えられている。ただし、この言葉はタイに対する蔑称とされる。

一方、20世紀前半までにシャム/ Siam が国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更した。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる。その後、セーニー内閣時の1945年9月17日にいったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる。

歴史

詳細は「タイの歴史」を参照

国家成立

タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族クメール人が先住していた。

スコータイ王朝

13世紀初頭にクメール帝国と異教の王国が衰退した後、様々な州がその場所で繁栄した。タイ人の領域は、現在のインドの北東部から現在のラオスの北部およびマレー半島に存在していた。13世紀の間、タイ人の人々は既に中核となる土地に定住していた。ドヴァーラヴァティー王国とラヴォ王国から南のナコンシータマラートへ。しかし、タイの到着を詳述した記録はない。

1240年頃、地元のタイの統治者であるフォークンバンクランハオは、クメールに抗議するために人々を結集した。その後、1238年にスコータイ王国の最初の王となった。タイの主流歴史家は、スコータイをタイの最初の王国と見なしている。スコータイはラームカムヘーンの治世中(1279年頃-1299年頃)、さらに拡大した。しかし、それは主にスコータイへの忠誠を誓った地元の領主のネットワークであり、スコータイに直接支配されていなかった。スコータイはマハタマラチャ1世(1347〜1368年)の統治下で上座部仏教を採用した。

アユタヤ王国

アユタヤのワットチャイワッタナーラーム寺院の遺跡。17世紀に建てられ、1767年にビルマ軍によって焼失し、略奪された。
ナレースワン大王とミンギ・スワ。泰緬戦争(1584-1593年)における象の戦い
アユタヤ(サイアム)の地図、1686年

アユタヤ王朝の起源は、最も広く受け入れられている説によると、最初の王としてウトン(ラーマーティボーディー1世)を持ち、以前の近くのラヴォ王国スワンナプームから勃興した。アユタヤは、マンダラ体制下のアユタヤ王への忠誠による自治公国と支流州のパッチワークであった。最初の領土拡大は征服と政略結婚によるものであった。15世紀の終わりまでにアユタヤはクメール王朝を3回侵略し、首都アンコールを襲撃した。その後、アユタヤはクメールの代わりに地域の大国となった。スコータイ王朝は、絶え間ない干渉により事実上アユタヤの属国となり、ついに王国に組み込まれた。ボーロマトライローカナート、20世紀まで続いた官僚制改革をもたらし、サクディナと呼ばれる社会階層のシステムを構築した。アユタヤはマレー半島に興味を持っていたが、中国の王朝によって支持されたマラッカ王国スルタンを征服することに失敗した。

ヨーロッパの接触と貿易は16世紀初頭に始まり、1511年にポルトガル公爵であるアフォンソ・デ・アルブケルケの特使が来訪して同盟国となり、一部の兵士をラーマーティボーディー2世王に譲渡した。17世紀には、ポルトガルにフランスオランダイギリスが続いた。チェンマイモン族の覇権をめぐる競合関係は、アユタヤとビルマ王国(タウングー朝)の泰緬戦争を招いた。この戦争はタウングー王朝のタビンシュエーティー王と副王バインナウン治世下の1540年代に始まり、最終的には1570年のアユタヤ占領で終わった。泰緬戦争(1563-64年)でのアユタヤ包囲の間に、タウングー王朝のバインナウンはピサヌロークとアユタヤをとり、アユタヤをビルマの属国にした。彼は、マハータンマラーチャーティラート王の忠実さを保証するために、その息子ナレースワン人質としてバゴーに送ることを要求した。アユタヤ王国は短期ながらビルマの支配下となり、その後、ナレースワン大王が1584年に独立回復を宣言した。

1685年、ロッブリーで月食を観測した王ナーラーイとフランスのイエズス会

アユタヤはその後、歴代の統治のためにヨーロッパの大国との関係を改善しようとした。王国は、ナーラーイの治世中(1656〜1688年)、中国やインドと並んでアユタヤがアジアの大国と見なされたときに繁栄した。しかし、彼の統治の後半にフランスの影響力が高まったことは、民族主義者の反発を招き、最終的に1688年のシャム革命につながった。

血統の激しい闘争の後、アユタヤは、黄金時代と呼ばれる時代に入った。芸術、文学、学習が栄えた18世紀の第2四半期は、比較的平和だった。1715年頃からカンボジアを統治するためのグエン領主との紛争は別として、対外戦争はめったになかった。王国は最後の50年間、血統の危機に直面した。1765年、ビルマ軍の合計4万人の強力な部隊が北部と西部から侵攻した。ビルマは新しいアラウンパヤー王朝の下にあり、1759年までに新しい地域大国になった。14か月の包囲の後、首都の壁が破られ、1767年4月に都市は焼失した。

ラタナコーシン王国

ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(ラタナコーシン時代の建築)

ラッタナコーシン時代は、バンコクに首都を設けたチャクリー王朝ラーマ1世の治世中に1782年に始まる。ラーマ1世は、前任者のタークシンによって設立されたトンブリーの首都(トンブリー王朝)を移転し、新しい首都バンコクを建設した。首都建設前の最初の数年間、彼は宮殿と王室礼拝堂の建設を監督した。エメラルドが奉献されたロイヤルチャペルまたはワットプラケオは、彼の王宮の敷地内にある。新しい首都の完成に伴い、ラーマ1世は新しい首都を命名する式典を開催した。

1864年にフォンテーヌブローの宮殿でシャム大使の訪問を受けるナポレオン3世

19世紀後半、東南アジアは西洋諸国による植民地化時代を迎えた。西洋の脅威を認めたラーマ4世(1851-1868年)の宮廷はイギリス政府と連絡を取り、緊張緩和を図った。香港総督ジョン・ボウリングが率いるイギリス使節団と、西洋諸国との多くの不平等条約の最初であるボーリング条約を結んだ。これは不平等条約ではあったが、バンコクに商業的および経済的発展をもたらした。ラーマ4世はマラリアで急死し、チュラーロンコーン王子が即位した(ラーマ5世)。

チャクリー改革によりタイの近代化に努めたラーマ5世(チュラーロンコーン大王)の像

ラーマ5世あるいはチュラーロンコーン大王(在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった。

19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、ロシア帝国との外交関係を確立してロシアの支援を得ることを目指した。

立憲君主制、第二次世界大戦

ラーマ6世(ワチラーウット、1910年即位~1925年11月没)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた、1912年3月初め、立憲制共和制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、100名以上が逮捕された。青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国(英仏)に侵略されていくと憂いた。最初の立憲革命計画で、1932年の人民党による立憲革命の成功へとつながった。すなわちラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)即位後の1932年、プリーディー・パノムヨンプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。

この時期に第一次世界大戦が発生しており、連合国として参戦している。

第二次世界大戦フランスがナチス・ドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線(マレー作戦ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。

経済成長

第二次世界大戦後のアジアでは、社会主義国家ベトナム民主共和国(1945年~)、中華人民共和国(1949年~)が相次ぎ成立。インドシナ半島では東西の冷戦にとどまらず、第一次インドシナ戦争ベトナム戦争とそれに連動するラオス内戦カンボジア内戦と戦乱が続き、タイも共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた。

また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。

なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命(พฤษภาทมิฬ)が発生したものの、ラーマ9世(プミポン国王)の仲裁により収まった。

現在

タクシンシナワットウラジミールプーチン、APEC 2003

1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後は急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増えた。現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。しかし、2006年頃からタクシン・チナワット派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。

2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、ただちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。

2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。

これ以降、2009年から2010年頃には、タクシン元首相派(通称「赤シャツ隊」)を中心とする市民による総選挙を求める大規模なデモが起きたが、アピシット政権はデモを徹底的に弾圧し、数百人の犠牲者が出た(暗黒の土曜日)。

出典:wikipedia
2020/09/21 01:21

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