このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)とは?

【】

【続柄】
エドワード・スペンサー第3女子
【称号】
ウェールズ公妃
ロスシー公爵夫人(※離婚前)
【全名】
ダイアナ・フランセス・スペンサー
Diana Frances Spencer
【身位】
Princess(王子妃、※離婚前)
【敬称】
Her Royal Highness(殿下、※離婚前)
【出生】
1961年7月1日
イギリス
イングランドノーフォークサンドリンガム、パークハウス
【死去】
(1997-08-31) 1997年8月31日(36歳没)
フランスパリサルペトリエール病院
【埋葬】
1997年9月6日
イギリス
イングランドノーサンプトンシャー州オルソープ
【配偶者】
ウェールズ公チャールズ王太子
(1981年 - 1996年)
【子女】
ウィリアム
ヘンリー
【父親】
エドワード・スペンサー
(第8代スペンサー伯爵)
【母親】
フランセス・スペンサー
(旧姓:バーク・ロッシュ)
【サイン】

ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。

イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年にチャールズ皇太子と結婚、彼との間にケンブリッジ公ウィリアム王子(第2位王位継承権者)およびサセックス公ヘンリー王子(第6位王位継承権者)の2児をもうけた。しかし後にチャールズ皇太子と別居状態になり、1996年に離婚。1997年パリ交通事故による不慮の死を遂げた。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 生誕と出自
    • 2.2 少女時代
    • 2.3 チャールズ皇太子との出会い
    • 2.4 ロンドンで独り暮らし
    • 2.5 皇太子との交際
    • 2.6 マスコミの追跡の始まり
    • 2.7 皇太子との婚約
    • 2.8 結婚式
    • 2.9 女王との同居生活
    • 2.10 ケンジントン宮殿での生活
    • 2.11 ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生
    • 2.12 皇太子との関係の冷却化
    • 2.13 別居生活
    • 2.14 BBCのインタビュー
    • 2.15 離婚と慈善活動
    • 2.16 ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際
    • 2.17 パリで交通事故死
    • 2.18 哀悼・葬儀
  • 3 人物
    • 3.1 息子たちの自由のために
    • 3.2 他者への愛
    • 3.3 過食症
    • 3.4 「シャイ・ダイ」
    • 3.5 無言電話疑惑
    • 3.6 スピリチュアル、セラピー
    • 3.7 ファッション
  • 4 ダイアナ人気
  • 5 ダイアナの来日
  • 6 事故死をめぐる陰謀論
  • 7 ダイアナに関する出版物
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

概要

1961年スペンサー伯爵家の嫡男であるオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーとその夫人フランセスの間の三女としてサンドリンガムの屋敷パークハウスで生まれる。スペンサー家17世紀以来続く貴族の家系である(生誕と出自)。

両親は1967年から別居し、1969年に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学、ついで1973年ケント州にある寄宿学校ウェスト・ヒース学校に入学した。1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLady(姫、令嬢)の儀礼称号を得た(少女時代)。

1977年に姉セーラと交際していたウェールズ公(皇太子)チャールズと初めて出会った(チャールズ皇太子との出会い)。同年末にスイスにある花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入学するも、すぐに帰国し、ロンドンで一人暮らしを始める(ロンドンで独り暮らし)。1979年に王室のサンドリンガム邸のパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった(皇太子との交際)。

1981年2月に皇太子と婚約し、7月29日セント・ポール大聖堂で結婚式を取り行った(皇太子との婚約結婚式)。1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム王子とヘンリー王子の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。ダイアナは過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、ハイグローヴ邸で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる(ケンジントン宮殿での生活ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生皇太子との関係の冷却化)。

1992年12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。1993年に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、1994年には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。ダイアナは1995年11月にBBCのインタビューに答えて皇太子との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校ジェームズ・ヒューイットと5年にわたって不倫していたことを認めた。そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した(別居生活)。

1996年8月に離婚が成立。2人の王子の親権を皇太子と平等に持ち、また莫大な慰謝料を獲得した。離婚後、エイズ問題や地雷除去問題など慈善活動への取り組みを本格化させる(離婚と慈善活動)。またこの頃からパキスタン心臓外科ハスナット・カーンと交際するようになる。さらに1997年7月からはエジプト映画プロデューサードディ・アルファイドとの交際も開始する(ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際)。

1997年8月31日深夜、フランスパリでドディとともに乗車していたが交通事故を起こして死去する(パリで交通事故死)。死後、チャールズ皇太子の意向によりイギリス王室が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、女王エリザベス2世が特別声明を出し、また葬儀中にはバッキンガム宮殿半旗が掲げられるという異例の処置が取られた(哀悼・葬儀)。

生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた(ファッション)。また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた(離婚と慈善活動他者への愛)。死後も彼女の人気は極めて高い(ダイアナ人気)。訪日は三度行っており、1986年(昭和61年)の最初の訪日では日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした(ダイアナの来日)。

生涯

生誕と出自

スペンサー伯爵家の本邸オルソープ邸。ダイアナ生誕時・幼少期には祖父アルバートが暮らす邸宅であったが、幼少期のダイアナもしばしば遊びに行った。1975年に父エドワードが相続する。

1961年7月1日午後にイングランドノーフォークサンドリンガム・パークハウスに生まれる。父はオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサー(後の第8代スペンサー伯爵)。母はその夫人であるフランセス(第4代ファーモイ男爵モーリス・バーク・ロッシュの娘)。父方の先祖と母の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。ダイアナは三女であり、姉にセーラジェーンがいる。またダイアナ誕生から3年後に弟チャールズが生まれている。

スペンサー家は羊商として財をなし、1603年ロバート・スペンサーがスペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵に叙されて以来続く貴族の家系である。スペンサー家の本家はチャーチル家からマールバラ公爵位を継承し、スペンサー=チャーチル家と改称した。一方ダイアナのスペンサー伯爵家は1765年第3代マールバラ公爵の甥ジョン・スペンサーがスペンサー伯爵位を与えられたことに始まる家柄である。スペンサー伯爵家の者は19世紀には政界の中枢で活躍する者が多かったが、貴族院議員が政界中枢になることが忌避されるようになった20世紀以降は政界での活躍はほとんど見られなくなり、廷臣や軍人としての活動が目立つようになった。ダイアナ生誕時の当主は祖父である第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーだった。その嫡男である父エドワードはオールトラップ子爵の儀礼称号を使用していた。

母方のロッシュ家はアイルランドに屋敷を構え、ファーモイ男爵の爵位を継承する家柄である。家格や財産の面ではスペンサー伯爵家の方が上だが、母フランセスの父である第4代ファーモイ男爵モーリス・ロッシュは王室と親しい関係にあり、パークハウスを王室から貸し与えられ、また彼の妻(ダイアナの祖母)ルース1956年以降エリザベス皇太后に女官として仕えていた。

スペンサー伯爵家の嫡孫である弟チャールズは女王エリザベス2世代父母としてウェストミンスター寺院洗礼を受けた。長姉セーラもエリザベス皇太后、次姉ジェーンもケント公エドワードを代父母にしていた。しかし三女であるダイアナは低く扱われ、ノーフォーク知事夫人メアリー・コールマンやクリスティーズ会長ジョン・フロイドなど資産家ながら平民が代父母であり、洗礼を受けた場所も地元サンドリンガムの聖メアリー・マグダレン教会だった。

ダイアナの生家パークハウスは王室御用邸サンドリンガム邸に近い場所にある。サンドリンガム邸に招く客を収容するために国王エドワード7世が建てさせた屋敷であり、国王ジョージ5世の代に母方の祖父ファーモイ卿に貸し出され、ファーモイ卿の死後、ダイアナの父母が同屋敷の借家権を相続していた。駐車場、屋外プールテニスコートクリケット場などを備え、6人の住み込み使用人が働いていたが、貴族の邸宅としては小規模な方だった。しかし周囲の環境は牧歌的であり、子供の教育場としては最適であった。ダイアナはここで育つことになる。

少女時代

ケント州セブンノークスにある寄宿学校ウェスト・ヒース学校。ダイアナは1973年から1977年までここに入学していた。

姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上であり、ダイアナが彼女らの仲間入り出来る年齢になる前の1967年9月にはケント州セブンノークスウェスト・ヒース学校に入学したため、幼いダイアナは弟チャールズとともに育った。

父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、母はオーストラリア帰りの裕福な実業家ピーター・シャンド・キッドと不倫するようになった。1967年夏に父と母は「試験的」に別居し、ダイアナと弟チャールズは母とともにロンドンへ移った。オールトラップ卿はフランセスがいずれ同居に戻るものと思っていたが、彼女に離婚の意志があることを知るとパークハウスを訪れたダイアナとチャールズをロンドンに帰さず、パークハウスの生活に戻させ、近隣のキングズ・リンのシルフィールド学校(Silfield School)に入学させた。これに反発した母は親権を求めて訴訟を起こした。イギリスの離婚訴訟は一般に母親有利だが、不倫の事実や貴族の地位が父に有利に働き、1968年からはじまった離婚申請審問の結果、親権は父が得た。

1970年9月にノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学した。ダイアナは優等生ではなかったが、スポーツ万能でバレエダンステニスネットボール水泳などで活躍した。友達も多かったという。

1973年には姉二人と同様にケント州のウェスト・ヒース学校に入学した。この頃のダイアナはバーバラ・カートランドの恋愛小説に熱中し、勉強を怠っていたため、成績が悪かったという。しかしこの学校においても引き続きスポーツ分野では活躍した。この頃のダイアナはバレリーナになりたがっていたが、身長が180センチ近くまで伸びたため、断念せざるをえなかった。姉セーラと比べると劣るもののピアノも得意だった。この学校は学生のボランティア活動に力を入れており、ダイアナも毎週のように老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをした。この経験を通じてダイアナは自らの社会奉仕への適性を発見したという。

1975年6月9日に祖父第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーが死去し、父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承する。弟チャールズはオールトラップ子爵の儀礼称号を継承し、ダイアナら三姉妹はLady(姫、令嬢)の称号を得た。これに伴い一家はスペンサー伯爵家の本邸であるオルソープ邸に引っ越した。この邸宅にはダイアナのダンス室が設けられ、ダイアナはホールでダンスの練習に励んだという。

父はオルソープ邸を相続して間もなく、以前から付き合っていたレイン(バーバラ・カートランドの娘でダートマス伯爵夫人)と再婚した。しかしダイアナ含むスペンサー家の子供たちはこの継母のことを嫌っていた。

チャールズ皇太子との出会い

若い頃のウェールズ公チャールズ(1972年)

1977年6月のロイヤルアスコット開催(王室主催競馬)でダイアナの姉セーラがウェールズ公(皇太子)チャールズと恋仲になった。皇太子はセーラの誘いを受けて11月にもスペンサー伯爵家の地所オルソープを訪問した。当時16歳のダイアナもウェスト・ヒース校の週末の休みでオルソープに滞在しており、狩猟場でチャールズ皇太子に紹介された。これが皇太子とダイアナの初めての出会いだった。しかしこの段階では特にロマンスが芽生えたわけではなかったようである。チャールズ皇太子の友人によればこの時に皇太子が抱いたダイアナへの感想は「陽気で明るいティーンエイジャー」という程度のものだったという。

ダイアナは1977年12月にOレベル試験に二度目の挑戦をするも失敗し、進学を断念した。父母の話し合いの結果、ダイアナはスイスクシュタート近くにある良家子女のための花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入れることになった。ダイアナは入学から6週間後にはイギリスに帰国している。

一方チャールズ皇太子と姉セーラは、1978年2月にクシュタート近くのクロスターズスキー旅行にやってきたが、この時セーラはマスコミの取材に対して「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。もし彼が求婚してきても断るでしょう。」と答えた。この発言の真意は定かでないが、繊細な皇太子はこれに傷ついて以降セーラと距離を置くようになった。

ロンドンで独り暮らし

スイスからオルソープ邸に戻ったダイアナは、これから何をするか全く決まっていなかったが、とりあえず継母レインが仕切っているオルソープ邸でくすぶっていたくなかった。子供の面倒を見る仕事をしたいという漠然とした夢を持ってロンドンでの独り暮らしを希望したが、両親からは18歳までは独り暮らしは認めないと申し渡された。代わりにスペンサー伯爵家の友人であるジェレミー・ウィテカー少佐夫妻のハンプシャーの邸宅に住み込んで、そこで子供の面倒や家事の手伝いをするようになった。その後、母がロンドン・カドガン・スクウェアにある母のフラットで暮らすことを許可してくれたため、事実上ロンドンでの独り暮らし生活を始めることができた(母はスコットランドで日常生活を送っていたのでロンドンを訪れるのはまれだった)。ロンドンでのダイアナはパーティのウェイトレスをしたり、家政婦をするなどして生計を立てた。

ダイアナは1978年11月にウィンブルドンにある貴族の娘のための料理学校に入学し、そこで3か月ほど料理の勉強をした。ダンサーになる夢は高身長のために断念したが、代わりにダンス講師を夢見るようになり、ブロンプトン・ロードにあるダンス学校に通った。しかしこの学校で才能がないと言われたことに傷つき、また1979年3月に友人と行ったフランス・アルプスへのスキー旅行で転倒して足を怪我したため、ダンス学校に通うのを止めた。

母のフラットが売却されたため、1979年7月にはコールハーン・コート(Coleherne Court)60番地のフラットを5万ポンドで購入してそこへ引っ越した。念願の自分のフラットを持ったダイアナは、維持費を稼ぐため、女友達にもこの部屋を貸して同居した(最終的には4人の共同生活になった)。彼女たちとの同居を通じてボーイフレンドもたくさんできるようになったが、チャールズ皇太子が現れるまで男性とは誰とも深い付き合いにはならなかったという。

皇太子との交際

ダイアナとチャールズ皇太子が初めてキスをした場所、王室船「ブリタニア号」。

一方その頃、チャールズ皇太子も様々な女性と関係を持っていた。その一人がチャールズ皇太子の後妻となるカミラだった。皇太子とカミラは1972年に出会っており、以来友達のような間柄だった。その後カミラはアンドリュー・パーカー・ボウルズと結婚するも皇太子との関係は断続的に続いた。だが当時のマスコミはカミラのことはほとんど掴んでいなかった。

当時マスコミが皇太子妃最有力候補として注目していたのは、皇太子の大叔父にあたるマウントバッテン卿の孫娘アマンダ・ナッチブル嬢だった。特に1979年8月にマウントバッテン卿がアイルランド民族主義団体「IRA」に暗殺された後に皇太子とアマンダ嬢の絆が強まっているように見えた。

そんな中の1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれた。チャールズ皇太子はスペンサー伯爵家の上の娘二人(セーラとジェーン)のことはよく知っていたが、まだ子供のダイアナにはこれまでほとんど関心を持たなかった。しかしこの時の再会で皇太子はダイアナが美しく育っていることを知った。皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しんだ。この段階では恋愛関係には至らなかったものの、以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていった。

チャールズ皇太子の証言によれば、1980年7月にサセックスペットワース近くのカントリー・ハウスバーベキューをしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたという。

同年8月にワイト島の港街カウズヨットレース「カウズ・ウィーク」が開催された際、ダイアナは王室船「ブリタニア号」に招待された。この船上で皇太子とダイアナは初めてキスをした。

皇太子が80万ポンドで購入したばかりのグロスタシャーにあるハイグローヴ邸にも頻繁に招かれるようになり、さらにパーカー・ボウルズ家にも連れて行かれ、カミラに紹介された。この際に皇太子はダイアナと結婚することについてカミラの意見を聞いたが、カミラは推奨した。以降、皇太子はダイアナとの結婚を本気で考えるようになったという。

マスコミの追跡の始まり

1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの関係を突きとめた。この時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなった。当時ダイアナが勤務していた幼稚園にまでマスコミがやって来るようになった。彼女の赤いローバー・メトロは何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになった。ダイアナ報道は過熱の一途をたどり、やがてタブロイド紙『サンデー・ミラー』紙が「ダイアナが夜中の二時に停車中のお召し列車に乗り込み、皇太子と一夜を共にした」という捏造を報じるに至った。ダイアナはこの記事にひどく傷つき、皇太子も不快に感じた。

娘を不憫に思った母フランセスは12月に『タイムズ』紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送った。これがきっかけとなり英国議会も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議した。だがマスコミはスクープを物にしようとダイアナ追跡を続けた。ダイアナはルームメイトの協力も得て、様々な手段でマスコミを煙に巻いては、コールハーン・コートの自宅を脱出して皇太子に会いに行った。

皇太子との婚約

婚約から結婚の間の5ヶ月間を暮らしていたバッキンガム宮殿

すでに30過ぎの皇太子は結婚を急がねばならず、そういう中で家柄もよく、マスコミのネタにされそうな過去(恋愛経験)もなく、また当時は控えめな女性に見えたダイアナは無難な選択肢に思えた。皇太子の親族や取り巻きの多くもこの結婚に賛成か、少なくとも反対はしなかった。

1981年2月6日にチャールズ皇太子がウィンザー城でダイアナに求婚した。皇太子は「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。皇太子は真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた。

婚約発表の前日の2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げた後、スコットランドヤードのポール・オフィサー警部の警備のもと、コールハーン・コートを出た。この際に警部は「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」と述べたといい、ダイアナは「剣で心臓を貫かれたようでした」と回顧している。

ダイアナはエリザベス皇太后クラレンス邸での一時滞在を経てバッキンガム宮殿へ移り、結婚までそこで過ごしたが、宮殿の慇懃なよそよそしさに監獄に入ったかのような息苦しさを感じるようになった。また皇太子とカミラの関係に敏感になっていった。そのストレスでこの頃から後の過食症の初期症状を見せるようになった。飢餓状態となり、婚約発表時72.5センチあったウェストは結婚式までに57.5センチまで落ちた。

それでも公的な社交場に出るときのダイアナはリラックスして楽しんでいるかのようだった。未来の義弟アンドリュー王子(皇太子の弟)の21歳誕生日パーティでは、アンドリュー王子がイギリスで一番の資産家のウェストミンスター公爵夫人がどこにいるのか尋ねたのに対して、ダイアナは「まあアンドリュー。有名な方のお名前をさも親しいように言うのはおやめなさい」とジョークを飛ばして場を和ませた。

結婚式

皇太子とダイアナの結婚式が挙行されたセント・ポール大聖堂

王室儀式の準備は宮内長官の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官マクレーン卿に様々な指示を出した。皇太子の決定により結婚式は1981年7月29日セント・ポール大聖堂で挙行されることになった。ここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、ウェストミンスター寺院よりも広いので多くの人間を収容できた。式で流す音楽も皇太子が選定し、キリ・テ・カナワに祝賀の歌が依頼されることになった。聖歌も皇太子が選定した。ダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』は曲目に入れてもらえた。招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった)。

祝典は実質的に結婚式前夜の7月23日夜から始まっていた。ハイド・パークでは1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊とモリストン・オルペウス合唱団が聖歌の合同演奏を行った。英国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは1953年のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという。

結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。翌日朝6時におきたダイアナは、浴槽につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師やメイクアップアーティストに整髪や化粧をしてもらい、ウェディ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/23 09:30

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ダイアナ_(プリンセス・オブ…」の意味を投稿しよう
「ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)」のスレッドを作成する
ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail