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チェルノブイリ原発事故とは?

(チェルノブイリ原発事故から転送)
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年4月)
【チェルノブイリ原子力発電所事故】

チェルノブイリ原子力発電所発電施設(2007年)

【場所】
ソビエト連邦
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
キエフ州 プリピャチ
(現:ウクライナ キエフ州 プリピャチ)
【座標】
北緯51度23分22秒 東経30度5分56秒 / 北緯51.38944度 東経30.09889度 / 51.38944; 30.09889座標: 北緯51度23分22秒 東経30度5分56秒 / 北緯51.38944度 東経30.09889度 / 51.38944; 30.09889

【日付】
1986年4月26日
午前1時23分 (UTC+3)
【概要】
チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故
【原因】

【死亡者】
4,000人 (IAEA公式見解、異論有)
【負傷者】
不明
【他の被害者】
強制移住等:数十万人以上
【損害】
爆発:チェルノブイリ原子力発電所4号炉
放棄:チェルノブイリプリピャチ
他多数
【対処】
チェルノブイリ原子力発電所4号炉の石棺による封印
チェルノブイリ原子力発電所の位置。左上囲み内の赤い印、キエフの北西。赤い部分はウクライナ、その北はベラルーシ
チェルノブイリ原子力発電所(中央付近)周辺の衛星画像。中央の黒い部分は冷却水用の池。その左上に発電所がある。1997年撮影
チェルノブイリ原子力発電所(中央奥)の遠景

チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ)は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、世界で最悪の原子力発電所事故の一つである。チェルノブイリ事故とも。原子炉運用ルールの不徹底に始まり、行政当局による事故の隠蔽や、高レベル放射線により遠隔操作の機械が尽く故障し、原子炉の暴走を食い止めるために数多くの人員が投入された事などが原因となり、人的被害は人類史上最悪となった。現在に至るまで、原子力事故の典型例として各種メディアで頻繁に引用されている事故である。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 死者数
    • 1.2 原因
    • 1.3 事故の経緯
      • 1.3.1 論争
    • 1.4 事故発生直後の対応
    • 1.5 直後の結果
    • 1.6 関係者の賞罰
  • 2 影響
    • 2.1 直後の影響
      • 2.1.1 食品汚染
      • 2.1.2 日本での反応
    • 2.2 放射性物質の長期的動向
    • 2.3 労働者と解体作業者
    • 2.4 避難
    • 2.5 健康被害
      • 2.5.1 癌の症例
      • 2.5.2 白血病
    • 2.6 自然界への影響
  • 3 事故後のチェルノブイリ
    • 3.1 運転
    • 3.2 石棺
    • 3.3 将来の補修の必要性
    • 3.4 シェルター構築計画
    • 3.5 訪問
  • 4 大衆の認識の中のチェルノブイリ
    • 4.1 政治的余波
    • 4.2 チェルノブイリと聖書
    • 4.3 チェルノブイリの首飾り
    • 4.4 チェルノブイリ・ウイルス
  • 5 関連資料
    • 5.1 書籍
      • 5.1.1 インタビュー集
      • 5.1.2 回想録
      • 5.1.3 写真集
      • 5.1.4 作文集
      • 5.1.5 小説
      • 5.1.6 漫画
    • 5.2 映像作品(ドキュメンタリー)
    • 5.3 ドラマ映画
    • 5.4 音楽作品
  • 6 注釈
  • 7 出典
  • 8 関連項目
    • 8.1 関連人物
  • 9 外部リンク

概要

当時、チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉 (RBMK) のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(俗にいう「メルトダウン」)ののち爆発し、放射性降下物ウクライナ白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した、史上最悪の原子力事故とされた。

1991年のソ連崩壊以後は原子力発電所が領土内に立地しているウクライナに処理義務がある。2018年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質大気中に量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された。これに関しては、広島市に投下された原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の約400倍とする国際原子力機関 (IAEA) による記録が残されている(#影響も参照)。

当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した。しかし、翌4月27日スウェーデンフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚。当初、フォルスマルク原発の技術者は、自原発所内からの漏洩も疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかと考えた時期もあったという。

日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。

爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカ軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。

  1. 火災の鎮火と、放射線の遮断のためにホウ素を混入させた砂5000tを直上からヘリコプターで4号炉に投下。
  2. 水蒸気爆発(2次爆発)を防ぐ ため下部水槽(圧力抑制プール)の排水(後日、一部の溶融燃料の水槽到達を確認したが水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった)。
  3. 減速材として炉心内への大量投入。(炉心にはほとんど到達しなかった。)
  4. 液体窒素を注入して周囲から冷却、炉心温度を低下させる。(注入したときにはすでに炉心から燃料が流出していた。)

この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。

砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接手で投下した。作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが不明。

下部水槽(サプレッション・プール)の排水は、放射性物質を多く含んだ水中へとソ連陸軍特殊部隊員数名が潜水し、手動でバルブを開栓し排水に成功した。

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せきかん / せっかん)と呼ばれている。

事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。

放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシロシアにも拡大した。

死者数

詳細は「en:Deaths due to the Chernobyl disaster」を参照

ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人ともいわれるが、事故の放射線被曝白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。

1986年8月のウィーンでプレスとオブザーバーなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者のヴァレリー・レガソフが当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして会議では4,000人と結論され、この数字がIAEAの公式見解となった。ミハイル・ゴルバチョフはレガソフにIAEAに全てを報告するように命じていたが、彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4,000人という数字が踏襲され公式発表された。報告書はベラルーシやウクライナの専門家、ベラルーシ政府などからの抗議を受け、表現を変えた修正版を出すことになった。

事故から20年後の2006年を迎え、癌死亡者数の見積もりは調査機関によっても変動し、世界保健機関 (WHO) はリクビダートルと呼ばれる事故処理の従事者と最汚染地域および避難住民を対象にした4,000件に、その他の汚染地域住民を対象にした5,000件を加えた9,000件との推計を発表した。これはウクライナ、ロシア、ベラルーシの3カ国のみによる値で、WHOのM. Repacholiによれば、前回4000件としたのは低汚染地域を含めてまで推定するのは科学的ではないと判断したためとしており、事実上の閾値を設けていたことが分かった。WHOの国際がん研究機関 (IARC) は、ヨーロッパ諸国全体(40か国)の住民も含めて、1万6,000件との推計を示し、米国科学アカデミー傘下の米国学術研究会議 (National Research Council) による「電離放射線の生物学的影響」第7次報告書 (BEIR-VII) に基づき全体の致死リスク係数を10%/Svから5.1%/Svに引き下げられたが、対象範囲を広げたために死亡予測数の増加となった。WHOは、1959年にIAEAと世界保健総会決議 (World Health Assembly:WHA) においてWHA_12-40という協定に署名しており、IAEAの合意なしには核の健康被害についての研究結果等を発表できないとする批判もあり、核戦争防止国際医師会議のドイツ支部がまとめた報告書には、WHOの独立性と信頼性に対する疑問が呈示されている。

欧州緑の党による要請を受けて報告されたTORCH reportによると、事故による全世界の集団線量は約60万[人・Sv]、過剰癌死亡数を約3万から6万件と推定している。環境団体グリーンピースは9万3,000件を推計し、さらに将来的には追加で14万件が加算されると予測している。ロシア医科学アカデミーでは、21万2,000件という値を推計している。2007年にはロシアのAlexey V. Yablokovらが英語に限らずロシア語などのスラブ系の諸言語の文献をまとめた総説の中で1986年から2004年の間で98万5000件を推計、2009年にはロシア語から英訳されてChernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environmentというタイトルで出版された。ウクライナのチェルノブイリ連合 (NGO) は、現在までの事故による死亡者数を約73万4,000件と見積もっている。京都大学原子炉実験所今中哲二助教授の話によれば、チェルノブイリ事故の被曝の影響による全世界の癌死者数の見積りとして2万件から6万件が妥当なところとの見解を示しているが、たとえ直接の被曝を受けなくとも避難などに伴う心理面・物理面での間接的な健康被害への影響に対する責任が免責されるわけではないと指摘している。

ウクライナ国立科学アカデミー (National Academy of Sciences of Ukraine) のIvan Godlevskyらの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるLugyny地区の平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで低下しており、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった。これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる。1991年に独立した当時のウクライナの人口は約5200万人だったが、2010年には約4500万人にまで減少している。

原因

炉の詳しい特性については「黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉」を参照

事故発生時、4号炉では動作試験が行われていた。試験の内容はいわゆるストレステストで、外部電源が遮断された場合の非常用ディーゼル発電機起動完了に要する約40秒間、原子炉の蒸気タービンの惰性回転のみで各システムへの電力を充足できるか否かを確認するものであった。しかし、責任者の誤った判断や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。

動作試験は原子炉熱出力を定格熱出力の20 - 30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドおよびオペミスによって熱出力が定格の1%にまで下がってしまった。運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を次々に行った。これにより熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない不安定な運転状態となった。これにより実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置 (ECCS) を含む重要な安全装置を全て解除したうえで、実験を開始した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇し始めたため、運転員は直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力が上がる設計(ポジティブ・スクラム)だったため原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタン(AZ-5ボタン、起動するのに約5 - 8秒、スクラム完了にはさらに20秒程度かかる)を押した7秒後に爆発した。

この爆発事故においては、

など多くの複合的な要素が原因として挙げられる。学者らによる後の事故検証では、これらのいずれかが1つでも守られていれば、爆発事故、あるいは事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が高かったともいわれている。

ソ連政府は当初、事故は運転員の操作ミスによるものと発表したが、事後の調査結果はこれを覆すものが多かった。重要な安全装置の操作が運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかったものと推定される。これに原子炉の設計上の欠陥が後押しする格好となった。

事故から20年後の一部報道の中には、暴走中に「直下型地震」が発生したことが爆発につながったとするものもあるが、京都大学今中哲二は、他の1 - 3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。

4号炉は1983年12月21日に完成したが、その翌日の12月22日の原子力産業の記念日に合わせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更して施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因のひとつに挙げられる。

2004年にイギリスBBCカナダヒストリー・テレビジョンにより製作された再現ドラマゼロ・アワー (2004年のTVシリーズ)シーズン1第1話「チェルノブイリの災害(Disaster at Chernobyl)」によると、実験当時の現場の技術責任者にはRBMK-1000型原子炉の特性について熟知している者が誰もいなかったとされている。所長のヴィクトル・ブリュハーノフ火力発電所蒸気タービンの建設でこそ実績があったが、原子力発電所については経験が無く、4号炉建設当時には前述の材質変更を強行して記念日前の完工を達成し出世した人物であった。技師長のニコライ・フォーミンは原子力については通信教育で学んだのみで、実際の現場の指揮はフォーミンの部下で副技師長であったアナトリー・ディアトロフに一任していた。そして事故当時の現場の最高責任者であったディアトロフも、原子力を独学で習得して技術畑を歩んできた苦学者ではあったものの、RBMK-1000の特性自体は理解しておらず、晩年のインタビュー映像では「(RBMK-1000型の)原子炉の特性を事前に知らされていれば、あのような実験は決して行わなかった。」と述懐する有様であった。

事故の経緯

4号炉は1986年4月25日に定期保守のためにシャットダウンすることが予定されていて、この時を利用して外部電源喪失時に4号炉のタービン発電機の慣性運転によって原子炉の主ポンプおよびECCS安全システム関連のポンプに十分な給電を行うことができるかどうかについての試験を行うことが決められた。

具体的には4号炉の出力を利用して蒸気タービンを回した後にこの蒸気系統を切り離し、前記主要ポンプ系のみの電力負荷に制限した場合にタービン自体の慣性力による有効な発電がどれほどの時間継続するかという試験であった。この試験に際しては、原子炉の出力は標準熱出力の3.2GWから、より安全な低い出力である700MWまで減らす計画になっていた。

「チェルノブイリの災害」によると、このような実験がチェルノブイリ原子力発電所にて計画された背景には、1981年にイスラエル航空宇宙軍によりイラクにて建設中であったオシラク原子炉への空爆(オペラ作戦)が行われ、同炉が破壊された事件が遠因であったとされている。フランス の技術協力により建設中であった原子炉が戦闘により破壊されたという事実は当時のソ連核技術者にも衝撃を与え、RBMK-1000型をはじめとするソ連型原子炉でも実際に他国の軍事攻撃を受けた場合を想定した訓練を行う事で、攻撃により発電所の機能の一部が喪失した場合でも一定の安全性を担保する為のノウハウを蓄積しておく必要に迫られたのである。チェルノブイリで計画された実験には副技師長ディアトロフが特に強い執念を抱いて臨んでいたという。

実験を行うために、実験予定日の前日から運転員は炉の出力を予定通りの700MWに落として実験開始に備えていた。しかし中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期され、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始できなかった。

その間、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。運転員は低下した出力を無理に補うため、挿入されていた制御棒を引き抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がってはまた別の制御棒を抜き、を繰り返すことによって、延びに延びた実験開始の時点では制御棒のほとんどが抜かれていたといわれている。

制御棒をほとんど引き抜いていた状態から、実験に適したさらに低い出力にするために、今度はいくつかの制御棒が挿入された。しかし炉の出力は、局所制御系から平均制御系への運転モード切り替え操作時に目標値計算を忘れるというオペミス(日本の国会答弁によれば、出力10%以下でしか切り替えを行わない規則があったという)により予定外の30MW(3万キロワット)まで低下した。

この30MWという出力レベルは安全規則が許す限界に近かったにもかかわらず、原子炉を停止せずに実験を強行すること、しかも下がりすぎた出力を補うために本来の実験手順・要項の一部を省略した上に、予定出力の半分以下である200MWで実験を行うことを現場指揮者のディアトロフが独断で決めた。「チェルノブイリの災害」によると、操作員で事故当時のシフト班長であったアレクサンドル・アキーモフは、同僚でもう一人の操作員であったレオニード・トゥプトノフと共に、ディアトロフにキセノンオーバーライド状態で異常な挙動を示している原子炉を一度完全に停止するよう進言したが、功を焦るディアトロフにより却下された。ディアトロフはRBMK-1000に潜む構造上の危険性に気付く事もなく、なぜ実験が「700MWで行う事」とされているのかの真意についても理解せず、党中央から指示された出力値を遙かに下回る低出力で実験を成功させれば、より自分の出世にとって利益となるであろうこと、出力が低い分には危険性は無いであろうという予断により、自説を押し通して実験を強行したともされている。結果として過剰となったキセノン135の中性子吸収を克服するため、多くの制御棒が炉から引き抜かれ、安全規則が定める挿入済み制御棒本数下限の26本を下回ることになった。

実験の予備段階として、4月26日1時05分にタービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたが、14分後の1時19分にはこれによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水は中性子を吸収する減速材ゆえに増えすぎると(ボイド=泡が減ると)炉の出力を下げる働きをするので、出力を確保するためにさらに炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった(爆発直前の制御棒本数は計6本にまで減らされていた)。この際に再試験優先のため、万一のタービン停止時の炉心運転自動停止装置の回路をバイパスして無効化した。

このような不安定な炉心状態で、1時23分04秒に実験が始まった。

前述の措置により、原子炉各設備の不安定な状態は制御盤にはまったく表示されず、また知識不足も重なり、操作員たちは誰も危険に気付いていなかった。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性回転のみで運転されると、炉心へ送られる冷却水の流量は減少した。タービンは炉心配管で蒸気量を増やしつつある(減速材である水を減らしつつある)原子炉から切り離された。

冷却材が温められるにつれて、冷却材配管中にボイドが増えて大きくなり始めた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉は設計上、大きな正のボイド係数を持っているが、それは減速材による中性子捕獲効果が万一減ると同時に原子炉出力は急速に増加し(減速材が減りすぎても逆に中性子は方々へ飛散してしまい核反応しにくくなる)、運転がより不安定で危険になることを意味する。さらにこの原子炉においては、制御棒の先に黒鉛ディスプレーサーという核反応促進装置(減速材の一種)が取り付けられており、これが挿入される間は反応が加速され、これが抜かれて水が浸入すると反応が抑制されるという、急激な変化をもたらす構造となっており、その上下寸法はコスト削減のために核燃料棒のリーチよりやや短くされていた。

1時23分40秒に操作員のアキーモフは「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)として行われたのかは不明であるが、その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと一般には考えられている。「チェルノブイリの災害」では今中の説に近い展開が描かれており、原子炉の直上で作業を行っていた炉心セクション部長のヴァレリー・ペレヴォチェンコが、鋼鉄製で1個350kgある燃料チャンネルの蓋が異常高圧で次々に跳ね上がるという、前代未聞の光景を目の当たりにして運転室に駆け込み、アキモフ達操作員に原子炉が爆発しかかっている事実を伝えた事により、「スクラム」の操作を行ったとしている。他方、ディアトロフ副技師長は、自身の著書 [2] で次のように述べている:

01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。

制御棒挿入機構のスピードの遅さ(完了までに18 - 20秒)、黒鉛ディスプレーサーが通過することでの一時的な反応促進作用(ポジティブ・スクラムと呼ばれた)、減速材である冷却水が減少し配管内部がボイドおよび蒸気で満たされる、などによってこのスクラム操作はむしろ核反応を劇的に増やす結果になり、炉心内圧上昇は制御棒装置周辺設備の大規模な変形をもたらし操作不能となり、原子炉の反応を止める術を失った。なお黒鉛ディスプレーサーの事故発生寄与度については国際会議でも諸説分かれている。

1時23分47秒までに、原子炉出力は定格熱出力の10倍であるおよそ30GW(東京電力管内のピーク時総発電量の半分に相当)まで跳ね上がった。燃料棒は融けて飛び散り、構造上から核燃料が冷却水管の中にあるため瞬時に2000℃近い溶融燃料が冷却水と接触し、あたかも油をひいて熱したフライパンに水を投入した時のように、水は全て一瞬で蒸気化し容積が急膨張し水蒸気爆発を起こした。一説では爆発は2度あり、ソ連の事故報告書によればこの2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発である。これに対し京都大学の今中哲二は、冷却水を喪失した事によって反応度が増大し、即発臨界で大量のエネルギーが放出されたことによる爆発であると解釈した(即発臨界を「一種の核爆発」と表現しているが、これは核爆弾の爆発とは意味が異なる。核爆発をどう定義するかの言葉上の問題)。この爆発による爆風が原子炉容器の500トンの天蓋を吹っ飛ばして斜めにしたため隙間が開いて炉心は大気開放状態となり(この時はまだ爆発とわからず必死で制御棒を操作していたという)、建屋の屋根にも穴が開いた。近隣の者による証言では発電所から赤く光る物体が次々と宙に舞い上がり、花火を見ているようだったという。吹き出す様は火山噴火のようで、一瞬の揺れは地震かと思った、との原子炉タービン建屋の作業員の証言もある。「チェルノブイリの災害」では、タービン建屋作業員の数少ない生き残りであるアレクサンドル・ユフチェンコの証言として、「激しい揺れとドアを吹き飛ばす程の衝撃波、その後に灰白色のもや(死の灰を含んだ粉塵)が周囲にたちこめた。建屋内の停電と助けを求める全身火傷の同僚作業員、そして本来そこにあったはずの施設が丸ごと吹き飛ばされ、建屋に開いた大穴からそこに見えるはずのない星空が広がっている光景を目の当たりにして、ただ事ではない事態が起こった事を認識した。」という主旨の再現映像が収録されている。

炉心大型化と、経費削減と、納期最優先の突貫工事 のために、4号炉は部分的な封じ込めだけで建設されていた(RBMK-1000チェルノブイリ原子力発電所も参照)。核兵器用のプルトニウム抽出原子炉の設計を転用した原子炉であることも一因であった。これも一因となり、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させ天蓋を吹っ飛ばした後、急速に流れ込んだ酸素と高温の核燃料が合わさって黒鉛減速材が火災を起こしたため、これが上空6000mもの気流に乗って世界各地へ飛散し、広範囲の汚染、および原発周辺地域の高汚染の要因になった。

論争

目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こった事態の正確なつながりについては、解釈が分かれている。

最も広く合意されている説明は上で記述した通りである が、この理論によれば、最初の爆発は操作員のアキーモフが「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きたことになる。しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張される(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。

この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら 事故原因は制御棒の設計にあると見なされるのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのならば、責任は指揮者にあったことになるからである。

これについては、ソ連の原発の建設および運用体制に問題の一因があったといわれている。原発の設計と建設は中規模機械製作省が担当し、原発の運用は電力電化省が担い、それぞれが縦割りによって意思疎通がおろそかであったことと、前述の通り軍事用原子炉の設計を転用した民生用原子炉であるため前者は軍事機密秘匿を最重要視しており他省にあまり情報を教えたがらなかったため、たとえば制御棒を全部抜かないようになどとする運用安全規則は用意するものの「なぜそうするのか」といった技術的レクチャーは一切しなかったため、実際の運転業務を担う後者側はあまりに技術的知識がなかったというものである。実際、事故直後は両省の間で責任の押し付け合いがあったといい、結局は原子炉の欠陥設計を認めることでの経済的損失を鑑みて電力電化省側が折れたという。

1時23分39秒に揺れ(マグニチュード-2.5の地震に相当する規模)がチェルノブイリ周辺で記録されていた。この振動は4号炉の爆発(2回発生)によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない。原子炉の致命的な破壊はこの地震によって引き起こされたとされる説も存在する。その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムボタンを押した人物(アキーモフとトゥプトノフ)は放射線障害により事故の2週間後に死亡しているため、真相は不明である。ただこうした地震原因説については4号炉以外は無事である点などの疑問点が存在する。

事故発生直後の対応

行政当局の対応の不備と適切な設備の欠如によって事故の規模は拡大した。

「チェルノブイリの災害」では、事故時に就寝中で事故の1時間後に現場に到着したブリュハーノフ所長は、現地の線量計が測定限界値3.6レントゲンを振り切っている状況を目の当たりにし、事の重大さについては掌握していたものの、共産党中央委員会の原子力発電部部長に電話にて事故の第一報を入れた際に、自らの保身から「事故が発生したが原子炉は無事である」と思わず虚偽の報告を行ってしまったとされている。

2011年の回想によれば、共産党中央委員会政治局会議(当時のソ連の最高意志決定機関)で原発担当大臣が書記長などに対し「大丈夫です」と述べたため対策が遅れた。真相は現地の関係者からの知らせによって分かったという。

4号原子炉建屋に設置された線量計のうち、2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、1つは爆発のために接近できず、もう1つは作動させた時に故障していてどちらも使用できず、それ以外の線量計は1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。そのため、原子炉の操作員は原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時(約1.1ミリレントゲン毎秒)より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量レベルは、最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった。このような不完全な情報に基づき、アキモフ班長は原子炉が損なわれていないと判断した。このとき、建物周辺には黒鉛と核燃料の小片が横たわっていたが、原子炉破損の判断にはつながらなかった。また、現地時間4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。原子炉に水を送り込もうと作業を続けたアキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。

事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は5時までには消火したが、その間に多くの消防士が高い放射線量にさらされた。事故直後に原子炉建屋の上で消火作業を行い、急性放射線障害で死亡した消防士の一人であるウラジミール・プラビクの場合は、余りにも強い放射線の為に本来茶色であった瞳の色が死亡時には青色に変わってしまったという。事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相のボリス・シチェルビナが4月26日の夜にチェルノブイリに到着したが、その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。4月26日の夜(その爆発の24時間以上後)に、高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、プリピャチ(ウクライナ)の近くの都市からの退避を命令した。

大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込んだ。当初はロボットを用いて行われる予定だった清掃作業は、高レベル放射線により電子回路が破壊され頓挫した。代替案として、「バイオロボット」となる志願者を募り、(陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者 (リクビダートル) 」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。というより、このような稼働中の原子炉が爆発し破壊される事態など想定されていなかったし、そもそもこれほどの高線量に対応した「地球の地表で活動するための」放射線防護具など、(現在に至るまで世界のどこにも)存在していなかった。特に危険と思われる場所を担当する軍部隊のみ、軍内部で急造した鉛入りの両かけエプロンを着用させたが、効果のほどは不明であった。放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。当時の作業員たちは、「強い放射線で目に刺激が走り、口の中には鉛の味が広がった」との証言を行っており、証言からは放射線に対する防御措置が不十分であったことが伺われる。原子炉それ自身は事故の翌週にヘリコプターから投下された砂嚢(およそ5,000t)で覆われた。コンクリート製の石棺が、原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。

しかし、行政当局による事故の公表が遅く、既に手遅れの段階に突入していた。

直後の結果

詳細は「en:Individual involvement in the Chernobyl disaster」を参照

4月25日から26日の夜、発電所内の2つの原子炉建屋には運転員や技術者など160名が勤務しており、建設現場では労働者300名余りがいたが、事故直後の爆発で原子炉建屋で勤務していた主循環ポンプオペレーターのヴァレリー・コデムチュクと、自動システム調整員のウラジミール・シャセノクの2名が死亡した。コデムチュクは建屋の崩壊に巻き込まれて行方知れずとなり、現在に至るまで遺体は回収できておらず、現地に建立された記念碑のモデルともなっている。シャセノクは脊椎損傷、肋骨の開放骨折、全身の放射線熱傷により意識を回復することなく死亡した。26日の午前3時頃から運転員や消防士達の間に急性放射線障害により激しく嘔吐して動けなくなる者が続出した。

5月に入ると運転員のアキモフらを始め、消防士や技師達が次々に放射線障害で斃れていった。作業員の中で最初に急性放射線障害を発症し、5月21日に死亡したタービン技師のヴォロディームィル・サヴェンコフは遺体の放射能汚染が余りにも酷すぎた為、鉛製の棺で埋葬をしなければならない程であった。即入院した203人のうち死亡したのは31人で

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出典:wikipedia
2018/11/11 03:28

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