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チェ・ゲバラとは?

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 | この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はゲバラ第二姓(母方の姓)はデ・ラ・セルナです。
エルネスト・ゲバラ
Ernesto Guevara

1960年3月5日(31歳)「英雄的ゲリラ」より

【通称:】
チェ・ゲバラ
【生年:】
1928年6月14日
【生地:】
アルゼンチン ロサリオ
【没年:】
(1967-10-09) 1967年10月9日(39歳没)
【没地:】
ボリビア バジェグランデ地方イゲラ
【思想:】
マルクス主義アメリカ主義(ホセ・マルティによるもの)
【活動:】
キューバ革命
【所属:】
7月26日運動
【廟:】
チェ・ゲバラ霊廟
チェ・ゲバラのサイン

エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの政治家革命家で、キューバゲリラ指導者。

チェ・ゲバラ(Che Guevara)」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」「おい」「お前(親しみを込めた)」「ダチ」といった砕けた呼び掛けの言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ (El Che)」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼のことを指す。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 幼年期
    • 1.2 青年期
    • 1.3 革命家ゲバラ
    • 1.4 革命成就
    • 1.5 日本来訪
    • 1.6 政治家ゲバラ
    • 1.7 再び革命の戦いへ、そして死
    • 1.8 死後の影響と「帰国」
  • 2 年譜
  • 3 人物
  • 4 逸話
  • 5 語録
  • 6 日本語訳著作
  • 7 参考文献・関連資料
  • 8 ゲバラを題材にした作品
    • 8.1 ドキュメンタリー
    • 8.2 映画
    • 8.3 テレビドラマ
    • 8.4 ミュージカル
    • 8.5 音楽
    • 8.6 ゲーム
    • 8.7 漫画
    • 8.8 絵画
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

生涯

幼年期

5歳。伝統的なガウチョの服装でロバに乗る(1933年)
17歳の時(1945年)

1928年にアルゼンチン第二の都市ロサリオバスク系アルゼンチン人アイルランド系アルゼンチン人の両親のもとに誕生する。父はアルゼンチン人のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。

1824年シモン・ボリーバルアントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親はカトリック国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない比較的リベラルな思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者でもあった)。

未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。医学生時代には友人と「タックル」というラグビー雑誌を発行し、自ら編集もつとめた。

青年期

ブエノスアイレス大学医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイ南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。このオートバイを、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』で主人公が乗る馬の名前にちなんでロシナンテと命名した。

1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・フェレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロン独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドルパナマコスタリカニカラグアホンジュラスエルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家イルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。

1950年10月の選挙によって成立したグアテマラのアルベンス政権は、スペイン植民地時代から続く構造化された収奪や、長きに渡る腐敗した独裁政権による社会の荒廃の改革を進めていた。アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ社)による搾取からの経済的独立や、グアテマラにおける農業資本主義経済確立のため、マヤインディオの復権のために、それまで半農奴的な扱いを受けていた土地無し農民への農地分与など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていた。しかし、アルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社の社有地に手をつけると、アメリカ合衆国内で猛烈なグアテマラへの非難が巻き起こった。アルベンス政権が軍部の裏切りによりCIAに後押しされた反抗勢力のカスティージョ・アルマスに倒されると(PBSUCCESS作戦)、民主的な選挙によって選出され、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事が直接のきっかけとなり、ゲバラは武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになった。

その後、アルマス新政権によってゲバラの暗殺指令が出されたため、妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。1955年7月、この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。7月26日運動を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐による本格的な軍事訓練を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。

革命家ゲバラ

ラバに乗って 1958年11月、ラスビラスにて

妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名はプレジャーボートグランマ号」に乗り込んだ。しかしこの「グランマ号」は7人乗りで、その10倍以上も詰め込んだ収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロカミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった(生き残った人数が20人、17人という説、30人程生存したが逃亡や戦傷により脱落し、その後再集結した人数という説がある)。オルトドクソ急進行動の指導者で部隊の副官格のマヌエル・マルケスやバヤモ兵営襲撃の生き残りニコ・ロペス(ゲバラとカストロの仲立ちをした)ら多くの人間が拷問のすえ虐殺された。

上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局(ラジオ・レベルデ)を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍(名前の上でだけは第4軍)のコマンダンテ(司令官。司令官の下に分隊がある。分隊指揮者は「隊長」)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。

革命成就

1959年1月2日、革命成就直後に

1958年12月29日にはこの第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。そこで、政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を支援する多数の市民の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。

1959年1月1日午前2時10分に、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任するに至った。

日本来訪

1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの通商使節団を引き連れて日本を訪れた。当時の日本での知名度は低く、『朝日新聞』が「カストロ・ヒゲ」と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7月23日には午前中に愛知県トヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために東京都内の帝国ホテル池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。

7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くないことを知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談している。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に、2017年8月には息子のカミーロ・ゲバラ(アレイダの弟)も平和公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花している。

なお、このゲバラの広島行に関しては、「市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かった」という説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。日本語の全く分からない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高いと考えられている。

このとき、『中国新聞』の記者であった林立雄が単独取材した。その際ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。

日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシアパキスタンスーダンユーゴスラビアガーナモロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。

政治家ゲバラ

キューバを訪問したジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワール夫妻(左側の男女)と(1960年)

革命の1ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、「グアテマラ革命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。

1960年8月6日、カストロがアメリカの資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー大統領はキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年4月にはケネディ大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発し、アメリカに支援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5月1日にカストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言した。

ゲバラは各国に外遊を行い、8月にウルグアイプンタ・デル・エステで開催された米州機構の総会では、ブラジルジャニオ・クアドロス大統領から南十字星勲章を授与された。帰国後同年10月に、工業相に就任した。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。

1964年12月11日、国連総会にキューバ主席として出席。演説の中でこう述べた。

我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。

この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”

— 1964年12月11日、国連総会にて

1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程によりキューバの盟友だったアルジェリアアルジェで行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ大統領と共に起草した演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける。これを受けてカストロにキューバの政治の一線から退くことを伝え、カストロ、父母、子供たちの三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。このことはしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日キューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られることとなった。

再び革命の戦いへ、そして死

コンゴ

ゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士たちの士気の低さに失望する。

コンゴでは喘息を再発、発作に苦しめられるようになり、1966年3月から7月までチェコスロバキアプラハ近郊の町ラードビーにて、情報当局に匿われながら潜伏していた。偽名を使ったほか、髭を剃り落とし、髪を短く切るなどして別人になりすまし、ドイツ人らと滞在した。そこでチェコスロバキアの現状を目の当たりにし「これは社会主義ではなく、その失敗作だ」と述べたと伝えられている。7月19日にウルグアイのパスポートでチェコスロバキアを出国し、モスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国した。

カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントス軍事政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選んだ。ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイブラジルペルーチリに連絡組織が作られ、チリ社会党の指導者サルバドール・アジェンデはこれを支援した。1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。

ボリビアでの最後の戦いにて
ゲバラが収容されたイゲラの小学校

独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。さらに、西ドイツから逃亡して来ていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAアメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)の軍事顧問団から武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。農民とは異なり、6月24日にカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きを見せるも、先手を打った政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺を行って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支援は事実上失われた。

1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビアとともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信。午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹にM1で撃たれた後、午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた。

銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」が最期の言葉であった。

ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛本隊後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。

死後の影響と「帰国」

英雄的ゲリラ」も参照
ジム・フィッツパトリックによる『英雄的ゲリラ
コロンビア国立大学のチェ広場(サンタンデル広場)

ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権独裁政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツポスターに印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。

思想的にはラテンアメリカ解放の英雄シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンホセ・アルティーガスホセ・マルティアウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバドール・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。また、ボリビアの山中で活動していた際にはトロツキーの全集を読んでいた。

冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者が南アメリカ諸国の多くから去った今日でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた小学校は現在記念館として開放されている。2006年にボリビアの大統領に就任したエボ・モラレスは、就任後初めてゲバラを公式に再評価した大統領となった。

日本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られている他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある。日本では浦和レッズのサポーターなどである。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している。

1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。ボリビアはゲバラが英雄視されているために位置を伏せて置きたがったが、関係者の告白によってこの事実は陽の目を見た。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル・カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体はキューバ中部の都市サンタクララに設けられた霊廟に葬られた。

革命の英雄として高い評価を受けるある一方、混乱や戦闘を引き起こした当事者として忌避する動きもある。故郷のアルゼンチンの都市ロサリオの公園にはゲバラの銅像が建立されているが、2017年にはゲバラに批判的な人々により銅像撤去に向けた署名活動も行われた(2018年時点で撤去は行われていない)。

年譜

2010Happy Mail