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チリとは?

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チリ共和国
República de Chile



(国旗) | (国章)
国の標語:Por la razón o la fuerza
(スペイン語:理性によって、または力によって)
国歌:チリの国歌
公用語
スペイン語
首都
サンティアゴ・デ・チレ
【最大の都市】
サンティアゴ・デ・チレ
政府
大統領
セバスティアン・ピニェラ
【首相】
なし
面積
【総計】
756,950km(37位)
【水面積率】
1.1%
人口
【総計(2011年)】
17,248,450人(59位)
人口密度
21,81人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
137兆8,869億チリ・ペソ
GDP (MER)
【合計(2013年)】
2,770億ドル(38位)
GDP (PPP)
【合計(2013年)】
3,956億ドル(42位)
【1人あたり】
22,534ドル

【独立】
スペインより
1818年2月12日
通貨
チリ・ペソ (CLP)
時間帯
UTC -3、-4、-6(DST:-3、-5)
ISO 3166-1
CL / CHL
ccTLD
.cl
国際電話番号
56
  1. ^ 立法府(国会)はバルパライソに置かれている。

チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ・デ・チレ

1818年スペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島サン・アンブロシオ島及びポリネシアサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先コロンブス期
    • 2.2 スペイン人による征服とアラウコ戦争
    • 2.3 独立と保守支配
    • 2.4 太平洋戦争と民主化の進展
    • 2.5 議会共和制から百日社会主義共和国まで
    • 2.6 人民戦線と人民連合
    • 2.7 アジェンデ政権
    • 2.8 チリ・クーデターとピノチェト時代
    • 2.9 民政移管以降
  • 3 政治
  • 4 国際関係
  • 5 軍事
    • 5.1 陸軍
    • 5.2 海軍
    • 5.3 空軍
    • 5.4 カラビネーロス
  • 6 地方行政区分
    • 6.1 主要都市
  • 7 地理
    • 7.1 気候
    • 7.2 時間帯
  • 8 治安
  • 9 経済
    • 9.1 工業国
    • 9.2 一次産業
    • 9.3 観光
    • 9.4 鉱業
    • 9.5 農業と畜産
    • 9.6 水産
  • 10 インフラストラクチャ
    • 10.1 動力
    • 10.2 電気通信
  • 11 交通
    • 11.1 航空
    • 11.2 鉄道
    • 11.3 自動車
  • 12 社会
    • 12.1 人口
    • 12.2 言語
    • 12.3 宗教
    • 12.4 保健
    • 12.5 教育
  • 13 文化
    • 13.1 食文化
    • 13.2 文学
    • 13.3 音楽
    • 13.4 映画
    • 13.5 世界遺産
    • 13.6 祝祭日
    • 13.7 スポーツ
  • 14 科学技術
  • 15 国の象徴
  • 16 著名な出身者
  • 17 脚註
  • 18 参考文献
    • 18.1 歴史
    • 18.2 政治
    • 18.3 地理
    • 18.4 経済
    • 18.5 社会
    • 18.6 紀行
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

国名

1600年頃のラ・プラタ地方の地図。「Chili」、「Chicas」と表記されている

正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チレ)。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ)。

日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。

国名の語源は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレスによると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀インカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族の族長ティリ(Tili)から転じたものとされている。この他、先住民の言葉で「地の果て」、「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプーチェ語で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来する、などである。

歴史

詳細は「チリの歴史」を参照

先コロンブス期

ヨーロッパ人がこの地を訪れる以前の先コロンブス期に於いて、チリの中央部や南部にはマプーチェ人やその系統のピクンチェ人などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡ってチリに上陸していた可能性も指摘されている。

15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア人インカ帝国(タワンティン・スウユ ケチュア語族: Tawantin Suyu)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキワイナ・カパックらの征服により北部はインカ帝国に組み込まれたが、マウレ川付近でインカ帝国はマプーチェ人の激しい抵抗に遭遇した。トゥパク・ユパンキの率いるインカ帝国軍はマウレの戦いでマプーチェ軍に敗れ、インカ帝国の南部への拡大は停止し、南部はマプーチェ人が支配し続けることになった。

一方本土から遥か西のパスクア島(西: Isla de Pascua: イースター島ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)にはポリネシア系ラパ・ヌイ人によってラパ・ヌイ文化が築かれ、モアイ像が多数建設された。

スペイン人による征服とアラウコ戦争

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
チリの征服者ペドロ・デ・バルディビア。南部の征服中にラウタロによって戦死した。
スペイン人に立ち向かったマプーチェ人の英雄ラウタロ

1492年にクリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達すると、チリにもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人探検家、フェルナン・デ・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)だった。彼は1520年、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡に到達した。

1532年にインカ帝国の皇帝アタワルパスペイン人征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。アルマグロの遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。バルディビアはかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる苦労もなしに成功し、1541年に中央部に辿りつき、首邑となるサンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部の植民地化には苦戦した。スペイン人の戦術を採用したマプーチェ人のトキ(首長)ラウタロは激しく抵抗し、征服者は敗れ、バルディビア自身も1552年に戦死した。

その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカンコロコロといったマプーチェ人の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に亘ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプーチェ人の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領ペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンアウディエンシアが設立された。

このように植民地時代のチリでは海賊の襲撃や、マプーチェ人との断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリ総督領の主産業はペルー向けの小麦の生産などとなった。これはチリの入植者に農業を厭わない堅実な気質を育み、チリは徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。

1776年にボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土が現在の「刀の鞘」のように細長くなった。

独立と保守支配

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
ディエゴ・ポルターレス 保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国家とし、後のチリの強国化の礎を築いた。

16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトスペイン王ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスキトサンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命 の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された(パトリア・ビエハ)。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。フアン・マルティネス・デ・ロサスがサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。

ホセ・ミゲル・カレーラの指導する自治政府は、ペルー副王アバスカルが派遣した王党軍とのランカウアの戦い(1814年)で敗北したことによって崩壊し、再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスラ・プラタ連合州(現アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共にアンデス山脈越えを行い、1817年のチャカブコの戦いに勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦いスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。

1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが(チリ内戦)、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利して国政の実権を握った。保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレスは1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。

1836年にボリビアアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争、ペルー・ボリビア戦争とも)。

1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、電信鉄道などが整備され、折からのの生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。

そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。

経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅・銀・小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出して準備率は落ち込んでいった。

太平洋戦争と民主化の進展

イキケの海戦(1879年)。
ホセ・マヌエル・バルマセーダ大統領。国有化政策などによりイギリスからの経済的独立を図ったが、親英資本家の反撃により内戦に発展、自殺に追い込まれた。

1878年の大不況はチリという国の形を一変させた。まず金本位制を離脱した。関税は産業保護へ傾きだした。

ボリビアによる、アントファガスタチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県を、ペルーからはタラパカアタカマを獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。

太平洋戦争以降ペルー・ボリビア両国との関係は険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争プナ・デ・アタカマ紛争である。

終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたのでカルテルは分解した。 1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダは、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起きて、イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化してゆくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果したのである。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるにともない撤退していった。1891年に専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。

議会共和制から百日社会主義共和国まで

サンティアゴ・デ・チレの旧国民議会

議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリが1920年の大統領選挙で勝利した。第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強化し、ここに議会共和政期は終焉した。なお、同年にチリ中央銀行が創立された。

1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、同年中に自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。

1929年6月、イギリスドイツ・ノルウェーとカルテル結成。合成窒素の価格統一、生産・輸出割当を規定して世界生産量のほぼ八割を支配した。1930年8月に更新され、イギリス・ドイツ・ノルウェー・ベルギー・フランスがDEN グループとしてカルテルの中心となった。チリの他、チェコスロバキア、オランダ、イタリア、ポーランドはDEN グループと別個に協定した。カルテルはDEN グループのブロック経済に使われた。非加盟国市場について輸出割当が行われたが、アメリカ合衆国に対する輸出は無制限であった。各国の生産能力は増大するばかりであったので、生産量を能力の七割以下に抑えた加盟者に補償金を出していた。補償金は主にチリが負担したから、見返りにチリは生産量を制限されなかった。1932年にも更新。チリがベルギーなどと割当量と価格について協定。

1936年、日本も合成窒素カルテルに参加した。

人民戦線と人民連合

1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレ・セルダが大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。 第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。 1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。

1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリが大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性の無いものに止まった。

1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。

アジェンデ政権

サルバドール・アジェンデ博士。チリ人民連合を率いて1970年の選挙に勝利し、世界で初めての民主的に選ばれた社会主義政権の首班となった。1973年9月11日に死亡。

1970年の大統領選挙により、人民連合アジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国CIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると(en)、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。

チリ・クーデターとピノチェト時代

アウグスト・ピノチェト将軍。1973年9月11日のチリ・クーデターを率いてアジェンデ死亡後のチリ大統領となり、世界初の新自由主義経済政策を採用。1990年まで大統領を務めた。
詳細は「チリ・クーデター」を参照

こうした社会的混乱の中で1973年9月11日アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。

このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊秘密警察DINA」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平

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出典:wikipedia
2018/04/08 18:28

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