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テッサロニキとは?

テッサロニキ
Θεσσαλονίκη

テッサロニキ港とテッサロニキ市街

市旗

【位置】

テッサロニキ
テッサロニキ (ギリシャ)

座標 : 北緯40度39分 東経22度58分 / 北緯40.650度 東経22.967度 / 40.650; 22.967
【歴史】

【設立】
紀元前375年
【行政】


ギリシャ
地方 中央マケドニア
テッサロニキ県
【市】
テッサロニキ
【市長】
Yiánnis Boutáris
(PASCO)
【地理】

面積 | 
【市域】
20.85 km
【市街地】
111.703 km
【都市圏】
1,455.62 km
【人口】

人口
(2011年現在)
【市域】
322,240人
人口密度 15,455.16人/km
【市街地】
790,824人
【市街地人口密度】
7,338.8人/km
【都市圏】
1,006,730人
【都市圏人口密度】
665.2人/km
【備考】

【その他】

等時帯
東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間
東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
【郵便番号】
53xxx, 54xxx, 55xxx, 56xxx
【市外局番】
231-xxx-xxxx
【ナンバープレート】
NAx-xxxx - NXx-xxxx
公式ウェブサイト : www.thessaloniki.gr
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会

テッサロニキ(ギリシア語: Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki [θesaloˈnici] ( 音声ファイル))またはテサロニカ (Thessalonica)([ˌθɛsəlˈnkə] or [ˌθɛsəˈlɒnɪkə])は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区 (en) (Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。

2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域テッサロニキ都市圏 (en) の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブールアテネブカレストソフィアベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏 (en) は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラ (en) の会議が開催される。 2014年の欧州青年首都 (en) に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。

目次

  • 1 呼称
  • 2 歴史
    • 2.1 古代からローマ時代まで
    • 2.2 中世・ビザンティン時代
    • 2.3 オスマン帝国時代
    • 2.4 オスマンの終焉から第一次世界大戦まで
    • 2.5 第一次世界大戦時から第二次世界大戦まで
    • 2.6 現代まで
  • 3 地理
    • 3.1 地勢
    • 3.2 気候
  • 4 行政
    • 4.1 テッサロニキ都市圏の自治体
    • 4.2 その他
  • 5 都市景観
    • 5.1 建築物
    • 5.2 中心部
    • 5.3 アノ・ポリ
    • 5.4 テッサロニキ南東部
    • 5.5 テッサロニキ北西部
    • 5.6 初期キリスト教とビザンティン様式の建造物
    • 5.7 テッサロニキ2012プログラム
  • 6 経済
  • 7 統計
    • 7.1 過去の民族構成
    • 7.2 人口増加
    • 7.3 テッサロニキのユダヤ人
  • 8 文化
    • 8.1 公園
    • 8.2 博物館・美術館
    • 8.3 遺跡
    • 8.4 演劇
    • 8.5 イベント
    • 8.6 スポーツ
    • 8.7 メディア
    • 8.8 食文化
  • 9 教育
  • 10 交通
    • 10.1 バス交通
    • 10.2 テッサロニキメトロ
    • 10.3 近郊鉄道
    • 10.4 航空
    • 10.5 長距離鉄道
    • 10.6 航路
    • 10.7 道路
  • 11 出身者・ゆかりの人物
  • 12 国際関係
    • 12.1 姉妹都市
    • 12.2 協力都市
  • 13 関連項目
  • 14 脚注
  • 15 脚注関連文献
  • 16 外部リンク
    • 16.1 行政
    • 16.2 観光
    • 16.3 文化
    • 16.4 行事

呼称

テッサロニカ王妃へと読み取れる碑文 テッサロニキ考古学博物館所蔵

テッサロニキの都市の名称の語源や現在の呼び名のすべてのバリエーションはすべてギリシア語のΘεσσαλός( Thessalos,テッサロ)とΝίκη, (Nike,ニーケー) を合わせたものから来ておりテッサリアの勝利という意味で、マケドニア王国の王妃テッサロニカの名前はマケドニア王国がクロコスの戦いで勝利した日に生まれたことに由来する。

サロニカ(Salonika,Salonica)はサロニキ (Σαλονίκη,Saloníki)から変化したものでギリシャでは一般的に使われ、様々な言語でもテッサロニキの呼称として一般化し、いくつかの西ヨーロッパの言語では共通の呼称になっている。他の言語ではテッサロニキの歴史の中で古代教会スラヴ語ではソルン(Солоунь,Soloun)、ラディーノ語ではサロニカ(Salonika)、トルコ語ではサロニキやセラニキ(Selanik,Selânik)、オスマン語ではセラーニク(سلانیك )、南スラヴ語群ロシア語ではサロニキ(Салоники,Saloníki)、アルーマニア語ではサルーナ(Sãrunã)などがある。テッサロニキの地元の発音の仕方では典型的なギリシア語のマケドニア方言の特徴でLの響きが重く深い感じになる。都市名はよく省略されテス(Θεσ/νίκη)と書かれることもある。

歴史

en:History of Thessaloniki」も参照

古代からローマ時代まで

テッサロニキはカッサンドロスにより紀元前315年頃に創建された。カッサンドロスは妻のテッサロニカの名に因み、テッサロニケーと名付けたが、テッサロニカはアレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘である。マケドニア王国支配下のテッサロニキは徐々に都市としての重要性が高まっていった。

マケドニア王国が紀元前168年に倒れると、テッサロニキは共和政ローマの自由都市 (en) となり、ディラキウムビュザンティオンを結ぶ エグナティア街道に面した交易の要衝となり、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。テッサロニキはまたバルカン半島を南北に大モラヴァ川アクシオス川に沿って走る街道の南端でギリシャとバルカンの諸都市を結んでいた。テッサロニキは後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり 、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。ローマ帝国にあったテッサロニキはキリスト教の拡大の中心として重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。

ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場 (en) 、ガレリウスの凱旋門ロトンダなどの建設を命じた。

379年、ローマのイリュリア県 (en) は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュリア県の首府となった。 390年ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。) 476年に西ローマ帝国が倒れると (en) とテッサロニキは東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。

中世・ビザンティン時代

ホワイトタワー
テッサロニキ王国」も参照

東ローマ帝国(ビザンティン)の初期、テッサロニキはコンスタンティノープルに次いで2番目に大きな都市であったと考えられ、その地位は1423年にヴェネツィア共和国の支配に代わるまで保っていた。14世紀のテッサロニキの人口は100,000人程度で、当時のロンドンを凌いでいた。

6世紀から7世紀にかけテッサロニキ周辺ではアヴァールスラヴ人が侵入し、テッサロニキを幾度も包囲したがいずれも失敗している。 これまでの歴史的な 文献では多くのスラヴ人がテッサロニキの後背地に居住したとされるが、この移住は実際にはこれまで考えられてきたものより小規模なものである。

9世紀になるとテッサロニキ出身のキュリロスメトディオスによりスラヴ人にとっては最初の文字であるグラゴル文字が考案された。古代教会スラヴ語は当時、このテッサロニキなどマケドニア地方で話されていたスラヴ人の言葉を基にしているとされている。

904年にアラブの侵入によって短い間、テッサロニキは攻略された(en:Sack of Thessalonica (904))。テッサロニキは12世紀のコムネノス王朝期にも経済成長は継続し、ビザンティンは北へと支配を広げた。1204年に第4回十字軍によりコンスタンティノープルが包囲 (en) された時、テッサロニキはビザンティンの支配を離れ ラテン帝国の最大の隷属国となった。1224年、テッサロニキ王国はビザンティンの亡命政権であるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスエピロス専制侯国により侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝と称し その首都となった。この時代のエピロス専制国はテッサロニカ帝国としても知られていた。1230年にクロコトニッツァの戦いで打ち負かされると、エピロス専制侯国は1246年に再び力が回復するまで第二次ブルガリア帝国属国で、この時ニカイア帝国であった。1342年になると 船員や貧民による反貴族主義のテッサロニキ・ゼアロット (en) が隆盛し、今日では社会革命と言われている。町は事実上、帝国からは独立している状態にあり ゼアロットの運動は1350年に打倒され、町は帝国に再統合された。1423年、アンドロニクス専制公によりテッサロニキは統治されていたがオスマン帝国からの防御を期待しヴェネツィア共和国に割譲されている。1422年から1430年にかけオスマンにより封鎖されたが、1430年3月29日にムラト2世に攻略されるまではヴェネツィア側が押させていた。テッサロニキのランドマークでもあるホワイトタワーはこの頃に築かれたものである。

オスマン帝国時代

テッサロニキは攻略されると一時的に市民に対する酷い扱いや 略奪などから多くの人口が流出し その中には知識人も含まれていた。しかしながら、 ビザンティンからオスマンへ君主が変わってもテッサロニキの帝国の大都市や交易の中心としての地位や評判は変わることはなかった。 テッサロニキやスミルナ(現在のイズミル付近)はコンスタンティノープルよりは小さいがオスマン帝国にとっては交易の中枢として重視されていた。テッサロニキは海運だけでなく手工業でも重視されそのほとんどはギリシャ人が取り仕切っていた。

オスマン支配期にはムスリムユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ人7,986人、ムスリム8,775人、ユダヤ人3,770人であったとされる。1519年にはセファルディムが15,715人で都市人口の54%を占めていた。一部の歴史家からはオスマン統治の時代に民族的にギリシャ人(東方正教徒)を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れたと言う説もある。

オスマン支配下のテッサロニキの絵葉書

テッサロニキは1826年までルメリ州 (en) 内のセラーニクサンジャクの首府で、その後は1864年までサロニカ州 (en) の首府であった。テッサロニキはまたイェニチェリの本拠地で新参のイェニチェリが訓練を受けていた。1826年6月にオスマン帝国の常備兵がイェニチェリの基地の攻撃と破壊を行い10,000人以上のイェニチェリが殺され、オスマンの歴史の中ではアウスピキオス事件 (en) として知られている。

オスマンの終焉から第一次世界大戦まで

20世紀初期、テッサロニキは反オスマンの様々な急進的なグループの活動の拠点で、1903年にマケドニア委員会がマケドニア人の内部マケドニア革命組織(IMRO)は1893年に設立された。1903年にアナキズムのグループで知られたテッサロニキの船乗り (en) はIMROの支援によりテッサロニキ市内の建物の爆破を計画しその中にはオスマン銀行 (en) も含まれていた。オスマンのセラーニク(テッサロニキ)におけるギリシャの執政政府(現在のマケドニア闘争博物館)はギリシャゲリラの活動の中心に使われた。1908年に青年トルコ人運動がテッサロニキでは隆盛し、青年トルコ人革命へと発展している。

第一次バルカン戦争時(1912年)の弱体化したトルコのフェトヒ・ビュレント級装甲艦

第一次バルカン戦争時、ギリシャはオスマン帝国からの独立を宣言し国境を拡大させた。当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは軍にテッサロニキかモナスティル(現在のマケドニア共和国のビトラ)どちらに進軍するべきか尋ねられた時、「すべてをテッサロニキへ!」と応じておりテッサロニキへ進軍している。 ギリシャとブルガリア王国は両国ともテッサロニキを要求しており、両者は市内に入りオスマンの駐屯隊と交渉を行っていた。1912年11月8日(10月26日旧暦)の守護聖人の聖デメトリウスの祭日にギリシャ軍はオスマン軍の降伏を認めた。ブルガリアの軍隊がその後、降伏したテッサロニキに1日後に到着し、統治者であったタシンパシャはブルガリアの当局者に「私には一つのテッサロニキだけであり、もう降伏している。」と述べている。1913年3月18日、第二次バルカン戦争後、テッサロニキやマケドニアギリシャ部分の残りの部分が正式に1913年のブカレスト条約 (en) によって統合された。ギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。

第一次世界大戦時から第二次世界大戦まで

第一次世界大戦時の1915年、連合国の遠征部隊はテッサロニキに親ドイツのブルガリアに対して作戦を行うため基地を設立した。 マケドニア前線またはサロニカ前線が設けられ最高潮に達している。1916年に親ヴェネニゼリズムの軍の将校や市民は共に連合国を支持し、国防運動を始め (en) 親連合国の臨時政府「テッサロニキ国」を発足しせ、バルカン戦争後に獲得したマケドニアを含むギリシャ北部のほとんどと、北エーゲクレタ島の新しい領域を支配し、公式の政府であるギリシャ王国はもともとある王国の領域を支配していた。両者は対立していた。 テッサロニキ国はその後廃止され、ヴェニゼロスの下新政府が発足するが、ヴェニゼロス自身は自ら率いる政党の敗北から退き1917年にコンスタンティノス1世が王位に就き王制が復活する。

1917年のテッサロニキ大火で燃える中心部の建物

1917年8月18日に人気の無い厨房から出た火によって偶然起こった大火によってテッサロニキ旧市街の建物のほとんどは焼失した。この大火は市中心部に燃え広がり、72,000人が住居を失い 、Pallisの報告書によればその多くは50,000人はユダヤ人たちであった。多くの仕事が失われ、70%は失業している。 また、多くの宗教施設も失われている。当時、およそ271,157人居たテッサロニキの人口のうち4分の1の市民は家を失っていることになる。 大火の跡、当局はテッサロニキの街をヨーロッパ風の都市計画に刷新するため直ぐの再建は禁止しトーマス・モーソンを含む建築家グループやフランスの建築家エルネスト・エブラールによる新しい近代都市が築かれた。

枢軸国に占領された当時のエルフセリアス広場

希土戦争によってギリシャがトルコに敗北し、オスマン帝国が終焉を迎えるとトルコとギリシャの間で大規模な住民の交換が行われた。160,000人を超えるギリシャ人が以前、オスマン帝国領であった土地を追われテッサロニキに再定住することになり 、民族構成の割合が変わることになった。ムスリムたちは20,000人の範囲でトルコに追放されている。

第二次世界大戦時、テッサロニキはファシスト下のイタリア王国から激しい爆撃を受け、1940年9月には232人の死者と871人の負傷者、800以上の建物で被害を受け、ギリシャ・イタリア戦争でイタリアが苦戦を強いられた後に1941年4月8日にナチス・ドイツの占領下に入り 1944年10月30日にギリシャ人民解放軍に解放されるまでその支配下にあった。 ナチスドイツによりテッサロニキに居たユダヤ人は強制収容所に43,000人が連行されホロコーストの犠牲となった。この間、ナチスの傀儡政権であるギリシャ国の支配下にあった。

現代まで

第二次世界大戦後、テッサロニキでは大規模な再建と再開発事業によって新しいインフラの整備や産業の創出が1950年代から1970年代を通じて行われた。テッサロニキの長い歴史で蓄積された貴重な建築物などの文化財は都市に観光地としての価値を加え、テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群ユネスコ世界遺産に1988年登録されている。1997年、テッサロニキは欧州文化首都に選ばれ 様々なイベントがテッサロニキ市内やその周辺で行われた。当時、設立された国際的な文化活動は2010年現在でも残されている。2004年に開催されたアテネオリンピックではテッサロニキではいくつかのサッカー関連のイベントを主催している。

地理

オリンポス山を背景に望むテッサロニキの街

地勢

テッサロニキの衛星写真 (1996)

テッサロニキはテルマイコス湾の北東岸に位置し、南東部はホルティアティス山 (en) の範囲に位置する。印象的な山脈や丘陵、断層線はとくに南東方向に向かって走っており、歴史的にテッサロニキの都市に対して地質的な変化をもたらす傾向がある。中世以来、テッサロニキでは大きな地震が発生しておりとくに1759年1902年1978年1995年の地震は特筆される。1978年6月19日、20日に発生した1978年テッサロニキ地震 (en) ではマグニチュード5.5、6.5 を記録している。いくつかの建物や古代の遺跡は損害を受けている が、町は大きな災害からは持ちこたえ大きな問題は無かった。2度目の地震でテッサロニキ中心部のアパートメントが倒壊し、多くの死者が出、最終的には51名に達した。

気候

海に面したテッサロニキの気候は直接的にその影響を受けている。 テッサロニキの気候はケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)とステップ気候(BSkまたはBSh)の境界に位置し、年平均降水量は440ミリメートル (17 in) でプロクレティイェ山脈 (en) の雨蔭から西風で乾燥している。霧は良く発生し年間平均193日は発生している。 テッサロニキは大陸性気候地中海性気候の気候帯が変化する地点に位置し、気候表にはその特徴が表れている。冬季は比較的乾燥し、朝方に良く霧が発生している。降雪は毎冬見られるが数日間も続くことはない。その間は冬の最も寒い期間にあたり気温は-10 °C (14 °F)以下になる。テッサロニキでの今までの最低気温の記録は -14 °C (7 °F)で年平均32日は0 °C (32 °F)以下を記録する日がある。最寒月は1月で24時間の平均気温は6 °C (43 °F)である。風もまた通常は冬に見られ、1月には平均風速26 km/h (16 mph)の風が吹く。 テッサロニキの夏は暑く夜はやや湿度が高い。 最高気温は通常30°C (86F)程度 まで上がるが希に40 °C (104 °F)まで上がり何日間は平均して32 °C (90 °F)を超える。テッサロニキの最高気温の記録は42 °C (108 °F)である。夏の期間は普通の雨は滅多に降らず主に激しい雷雨があり、強い熱波もテッサロニキでは起こる。 最暖月は7月で24時間の平均気温は 26 °C (79 °F)である。6月や7月の平均風速は 20キロメートル毎時 (12 mph)である。

【テッサロニキの気候】

【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
【12月】
【年】

【平均最高気温 °C (°F)】
9.3
(48.7) | 10.9
(51.6) | 14.2
(57.6) | 19.0
(66.2) | 24.5
(76.1) | 29.2
(84.6) | 31.5
(88.7) | 31.1
(88) | 27.2
(81) | 21.2
(70.2) | 15.4
(59.7) | 11.0
(51.8) | 20.38
(68.68)
【日平均気温 °C (°F)】
5.3
(41.5) | 6.6
(43.9) | 9.4
(48.9) | 13.3
(55.9) | 18.3
(64.9) | 22.8
(73) | 25.1
(77.2) | 24.7
(76.5) | 21.1
(70) | 16.0
(60.8) | 11.1
(52) | 7.0
(44.6) | 15.06
(59.11)
【平均最低気温 °C (°F)】
1.3
(34.3) | 2.2
(36) | 4.5
(40.1) | 7.5
(45.5) | 12.1
(53.8) | 16.3
(61.3) | 18.6
(65.5) | 18.3
(64.9) | 14.9
(58.8) | 10.8
(51.4) | 6.8
(44.2) | 3.0
(37.4) | 9.69
(49.44)
降水量 mm (inch) 36.8
(1.449) | 38.0
(1.496) | 40.6
(1.598) | 37.5
(1.476) | 44.4
(1.748) | 29.6
(1.165) | 23.9
(0.941) | 20.4
(0.803) | 27.4
(1.079) | 40.8
(1.606) | 54.4
(2.142) | 54.9
(2.161) | 448.7
(17.664)
【平均降水日数】
11 | 8 | 9 | 9 | 10 | 7 | 4 | 3 | 5 | 8 | 11 | 11 | 96
平均月間日照時間 124 | 140 | 155 | 240 | 279 | 300 | 372 | 341 | 240 | 186 | 120 | 120 | 2,617
出典: World Meteorological Organization (UN), BBC weather for data of sunshine hours

行政

テッサロニキ都市圏とテッサロニキ大都市圏の範囲 2011年現在

テッサロニキ都市圏の自治体

2011年1月1日に行われた「カリクラティス改革」と呼ばれる大規模な地方制度改革によってギリシャの行政区画は大きく再編された。テッサロニキでもテッサロニキの都市的地域を構成していたテッサロニキ都市圏の13の独立した基礎自治体は6の独立した基礎自治体(Δήμοι)と他の自治体に吸収された1地区(Δημοτική ενότητα)に再編され、これにより「テッサロニキの街」は構成されている。テッサロニキの都市的地域に含まれる自治体は最大の人口で中心部のテッサロニキと、カラマリアネアポリ=シキエスパヴロス・メラスコルデリオ=エヴォスモスアンベロキピ=メネメニの6つの基礎自治体と以前は独立した自治体で現在はピレア=ホリティアティスに含まれるピレアである。カリクラティス改革以前は多くのかなり小規模な自治体により構成され官僚的な問題が生じていた。

その他

テッサロニキにはギリシャでは首都アテネに次いで2番目に大きな都市である。ギリシャ北部では有力な都市であり、中央マケドニアテッサロニキ県の首府となっている。ギリシャ政府の行政機関マケドニア・トラキア総局 (en) がテッサロニキを本拠地としおり、事実上のマケドニア地方の主都である。 毎年恒例の演説でギリシャの首相は政権を運営して行く上で多くの課題があり、例えば経済的なことであるとテッサロニキ国際トレードフェアの開催初日の夜に表明している。2010年に起こったギリシャ経済危機の最初の月にギリシャの全閣僚がテッサロニキに集まり将来について話し合っている。

都市景観

建築物

エルネスト・エブラールによって計画されたテッサロニキ中心部

テッサロニキの建築物はバルカン半島で都市がすべての歴史の中で中心として開発された結果である。商業的な重要性と並びテッサロニキは軍事的にも行政的にも多くの世紀でこの地域の中枢で、他のヨーロッパやレバント(シリアレバノンヨルダンイスラエルパレスチナ)などと結ばれ商人や難民などがヨーロッパ各地からテッサロニキやって来て住み着いた。繁栄の新時代には商業や公共の建物を必要とし、大規模な建築物が町の中心部に築かれていった。この間の建築物には銀行、大規模な宿泊施設、劇場、倉庫、工場である。

街並は1870年以後大きく変わり、海辺の要塞が大規模な桟橋に取って代わり町のホワイトタワー周辺の古い城壁の多くは壊された。ホワイトタワーは今日ではテッサロニキの主要なランドマークとなっている。初期ビザンティンの城壁の取り壊しによってテルマイコス湾沿岸に沿って市街地が東西に広がることになった。

エルフセリアス広場が海側に向かって広げられ新しい町の商業の中心が完成し、当時テッサロニキではもっとも活気がある広場と見なされていた。都市は成長し労働者は工場や産業立地が近い西側に移動し、その間中産階級や上流階級は徐々に都市の中心から東郊に移動しており主にビジネスから離れた人々である。1917年、破壊的な大火が町を襲い何も出来ないまま32時間燃え続けていた。この大火によって町の歴史的な中心や大部分の考古学的な遺産は損害を受けたが、テッサロニキは多くの近代的な建物で満たされるようになり、よりヨーロッパ的な町の中心となり対角線型の通りの整備や記念碑的な広場も含まれた。

アリストテレス広場

中心部

1917年のテッサロニキ大火後、トーマス・モーソン

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出典:wikipedia
2018/06/22 02:48

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