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デトロイト・タイガースとは?

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デトロイト・タイガース
Detroit Tigers

1894年創設
 | 

所属リーグ

チーム名
  • デトロイト・タイガース (1901年 - )

本拠地
1901-現在

永久欠番

獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(4回)

リーグ優勝 (11回)

地区優勝 (7回)
  • 1972
  • 1984
  • 1987
  • 2011
  • 2012
  • 2013
  • 2014

ワイルドカード (1回)
  • 2006

球団組織
オーナー | クリス・イリッチ
GM | アル・アビラ
監督 | ロン・ガーデンハイアー

デトロイト・タイガース(英語: Detroit Tigers、略称:DET)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はミシガン州デトロイトにあるコメリカ・パーク

目次

  • 1 概要
  • 2 球団の歴史
    • 2.1 球団創設以前
    • 2.2 球団創設
    • 2.3 タイ・カッブの登場
    • 2.4 1910年 - 1920年代
    • 2.5 "Gメン"と初の世界一
    • 2.6 1940年 - 1950年代
    • 2.7 1960年代
    • 2.8 1970年代
    • 2.9 スパーキー・アンダーソン
    • 2.10 低迷期 (1995年 - 2005年)
    • 2.11 2006年以降
  • 3 チーム名の由来
  • 4 ハプニング
  • 5 選手名鑑
    • 5.1 現役選手・監督・コーチ
    • 5.2 殿堂入り選手
    • 5.3 永久欠番
  • 6 傘下マイナーチーム
  • 7 脚注
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

1894年に創設。当時はマイナー・リーグであったウエスタン・リーグに所属し、1900年にリーグはアメリカン・リーグに改称して翌年メジャー・リーグ宣言をし、タイガースもそのまま存続して、メジャー・リーグの球団となった。

メジャー・リーグとしてのアメリカンリーグ創設以来の球団で、一度も本拠地を変えなかったのはこのデトロイト・タイガースと、ボストン・レッドソックス、シカゴ・ホワイトソックス、クリーブランド・インディアンスの4チームだけである。以来リーグ優勝11回。1969年以降の地区優勝7回、ワールドシリーズ優勝4回を数え、1961年の球団拡張以前のチームとしては、1894年以後本拠地も愛称も変えなかった唯一の球団である。

初期は球聖タイ・カッブを擁し、1907年からリーグ3年連続優勝を果たすもワールドシリーズ制覇はならず。1935年ミッキー・カクレーンハンク・グリーンバーグなどの活躍で悲願のワールドシリーズ初優勝を果たす。1945年の2度目の世界一を境に低迷期に入るが、1968年アル・ケーラインウィリー・ホートンが中心となり3度目のワールドチャンピオンに輝く。

その後、1979年途中から1995年までスパーキー・アンダーソン監督の長期政権下でワールドチャンピオン(1984年)とリーグ優勝(1987年)が各1回。特に1984年はジャック・モリスをエースにシーズン104勝58敗。2位に15ゲームという大差をつけ、圧倒的な強さを誇った。1990年代前半には元・阪神セシル・フィルダーが所属し、ベーブ・ルース以来となる3年連続打点王に輝いている。しかし1990年代後半からは勝率5割にも届かない低迷期が続き、2003年にはア・リーグワースト記録の119敗を喫してしまう。

2002年のデーブ・ドンブロウスキーGMの就任後はイバン・ロドリゲスマグリオ・オルドニェスケニー・ロジャースらの獲得に成功。2006年にジム・リーランド監督が就任すると、開幕から怒涛の快進撃を見せ、19年ぶりのプレーオフ進出を決めた。プレーオフでは、ニューヨーク・ヤンキース、そしてオークランド・アスレチックスを破り、リーグ優勝を果たした。

2007年のチーム打率.287、857打点と打率、打点共にヤンキースに次ぐ両リーグ2位。オルドニェス、ゲーリー・シェフィールドといった強打者を擁し、メジャー屈指の強力打線を持つ。投手陣では2006年に新人王を獲得したジャスティン・バーランダーが絶対的エースとして君臨している。2007年オフにはアトランタ・ブレーブスからエドガー・レンテリアシカゴ・カブスからジャック・ジョーンズフロリダ・マーリンズからミゲル・カブレラドントレル・ウィリスを獲得するなど次々と大型補強を行い、かつてないほど戦力が充実している。

現在の本拠地は、2000年に開場したコメリカ・パーク。入場ゲート前の巨大な虎の像をはじめ、球場の至る所にチームの象徴である虎にちなんだモニュメントが存在する。またNFLデトロイト・ライオンズの本拠地であるフォード・フィールドが隣接している。前本拠地のタイガー・スタジアムは100年近く使用していた歴史ある球場で、移転の際には賛否両論が起こった。

日本人選手では、木田優夫野茂英雄が所属していた。また1990年代前半には、上記のフィルダーに加え、ビル・ガリクソン日本からの出戻り組が活躍し、アンダーソン監督をして「日本製品はすばらしい!!」と言わしめている。

球団の歴史

球団創設以前

デトロイトには1881年から1888年にかけてナショナルリーグデトロイト・ウルバリンズという球団が存在した。ウルバリンズは1887年にリーグ優勝を遂げ、この年にはアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)との間で『ワールドシリーズ』を行っている(結果は10勝5敗でウルバリンズの勝利)。しかし優勝のための補強が大きな負担となり、翌年リーグ5位と低迷すると1888年限りでリーグを脱退。その後、マイナーリーグであるインターナショナルリーグに籍を移し、1889年と1890年の2年間にわたって活動したが、リーグの消滅と共にチームも解散した。

このチームとその後のタイガースとの関係は無い。

球団創設

1894年、デトロイトに新たなチームが創設され、アメリカンリーグの前身となるウェスタンリーグに加盟した。1896年にはベネット・パークが開場(その後ネビン・フィールド、ブリッグス・スタジアム、タイガー・スタジアムに改称)。2000年にコメリカ・パークが開場するまでの104年間に渡って、この地を本拠地球場とした。なお、球団が創設された頃は愛称が定まっていなかったが、このベネット・パークが開場した頃にはタイガースという名前が定着したといわれる。

1900年にウェスタン・リーグは、アメリカンリーグに改称し翌1901年にメジャー・リーグ宣言をして、デトロイト・タイガースもメジャーリーグの球団となった。開幕戦ではミルウォーキー・ブルワーズ(現在のボルチモア・オリオールズで現在のブルワーズとは関係はない)と対戦し、試合が行われたベネット・パークには1万人もの観客が集まった。試合は9回まで4対13と大量リードされていたが、9回表に一挙10点をあげて逆転し、14対13で劇的な初勝利を飾った。その後シーズンでは74勝61敗をあげ、リーグ3位(8チーム中)に終わっている。しかし、1902年から1904年まで3年連続で負け越し、優勝とは縁のない目立たないチームとしてその歴史をスタートさせた。

タイ・カッブの登場

1907年リーグ優勝時のメンバー

1905年、チームにタイ・カッブが入団する。タイガース首脳陣が、マイナーリーグの別のチームで目覚ましい活躍を見せていたカッブに目をつけ、タイガースの投手との間で交換トレードを行ったものだった。なお、カッブは入団の際に、恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こしており、早くからその気性の激しさをチームメイトに知られることとなる。初年度こそ41試合の出場にとどまり、打率.240と本領を発揮できなかったが、2年目の1906年には98試合の出場で打率.316と好成績を残した。

1907年にはヒューイー・ジェニングス選手兼任監督に就任。この頃チームの打線を引っ張っていたのはカッブとサム・クロフォードだった。クロフォードは1903年にシンシナティ・レッズから移籍し、カッブが入団するまでチームの中心打者を担っていた。カッブはこの年、打率.350・119打点・49盗塁を記録し、首位打者打点王盗塁王をそれぞれ獲得。クロフォードも負けずに打率.323・81打点・102得点を記録した。投手陣でもビル・ドノヴァンエド・キリアンがそれぞれ25勝をあげる活躍をみせ、チームも92勝58敗でリーグ初優勝を果たした。初出場となったワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦。第1戦では3対1とリードしていたが最終回に追いつかれ、延長12回の末に日没コールドで引き分けとなった。その後はカブス投手陣に完全に押さえ込まれ、4連敗でワールドチャンピオンを逃してしまった。

1908年、カッブが打率.324・108打点で二冠王に輝くと、クロフォードも7本塁打で本塁打王に輝いた。シーズンではクリーブランド・インディアンスシカゴ・ホワイトソックスとの激しい首位争いを演じたが、最終的に90勝63敗で2年連続のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズは再びカブスとの対戦となった。第1戦では前年と同じく6対5とリードしていながら、最終回に一挙5点を奪われ逆転負けを喫し、続く第2戦も敗れた。第3戦で初勝利を飾るものの、第4戦、第5戦でも連敗を喫した。結局1勝4敗でまたしてもワールドチャンピオンを逃し、前年のリベンジを果たすことはできなかった。

カッブの盗塁(1909年)

1909年、カッブは打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、史上唯一の四冠王に輝く。この頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)との対戦では、盗塁の際にフランク・ベーカーの腕をスパイクで刺したり、エディ・コリンズをスライディングで転ばせるなど、半ば反則紛いのプレーを行った。他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームも98勝54敗でリーグ3連覇を果たした。ワールドシリーズではホーナス・ワグナー擁するピッツバーグ・パイレーツと対戦。両リーグの首位打者同士の対戦として注目を浴びる。シリーズでは交互に勝ち負けを繰り返し、最終戦までもつれ込む大混戦となった。しかし大一番の最終戦でタイガースが完封負けを喫し、3年連続でワールドチャンピオンを逃してしまった。

1910年 - 1920年代

1910年以降、チームはリーグ優勝から遠ざかることとなるが、カッブの成績が落ち込むことはなかった。1907年から1915年までの9年連続、1917年から1919年までの3年連続で首位打者を獲得し、通算で12回の首位打者を獲得した(歴代1位)。1911年には当時のMLB最長記録となる40試合連続安打で打率.420という高打率を記録。通算打率は.366に上る(歴代1位)。1910年にはナップ・ラジョイと首位打者争いを繰り広げ、カッブに首位打者を取らせたくないが為に、他球団がわざとラジョイに安打を打たせるという事件もあった。最終的にカッブが首位打者となったが、後年になってカッブの記録に誤りが見つかり、ラジョイの打率がわずかに上回ったものの、公式の首位打者はカッブのまま変更されなかった。

1915年にはクロフォード(112打点)、ボブ・ヴィーチ(112打点)、カッブ(99打点)によるタイガースの外野陣トリオが打点ランキングを独占し、カッブは当時のMLB最多記録となる96盗塁を記録した。チームも100勝(54敗)をあげたが、ボストン・レッドソックスがそれを上回る101勝(53敗)をあげたため、リーグ優勝はならなかった。

1921年、長年に渡って監督を務めたジェニングスがチームを離れたため、代わってカッブが選手兼任監督に就任する。この年にはハリー・ハイルマンとカッブが打率1位、2位を独占し、ア・リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかし、投手陣が全くふるわず、首位ヤンキースとは27ゲーム差の6位でシーズンを終えた。この頃からベーブ・ルース擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には全く手が届かないシーズンが続いた。1926年限りでカッブもチームを離れ、タイガースの低迷は1934年まで続くこととなった。

"Gメン"と初の世界一

1929年、前年までワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)を率いていたバッキー・ハリスを監督に招く。しかし、ハリスでも結果を出すことができず、1933年のシーズン途中でハリスは解任された。

1934年、アスレチックスの捕手だったミッキー・カクレーンが選手兼任監督に就任する。アスレチックスの黄金期を支えたカクレーンは、まず選手の意識改革を行い、強烈なリーダーシップでチームを牽引した。この年にはカクレーン自身の活躍に加え、チャーリー・ゲーリンジャーハンク・グリーンバーググース・ゴスリンら、"Gメン"と呼ばれた主力選手達(3人共名前が"G"で始まる)が好成績を残し、ルー・ゲーリッグ擁するヤンキースと首位を争った。最終的にタイガースが101勝53敗をあげてヤンキースをかわし、久々のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズの相手は「ガスハウスギャング」と呼ばれたセントルイス・カージナルスで、3勝2敗と追い込んだものの、そこから2連敗を喫し、ワールドシリーズ優勝は成し得なかった。

1935年も引き続きヤンキースとの一騎討ちとなったが、93勝58敗でリーグ2連覇を果たし、ワールドシリーズではカブスとの3度目の対戦となった。第1戦は完封負けを喫したが、第2戦から第4戦で3連勝をあげた。そして3勝2敗で王手をかけた第6戦、3対3のままで迎えた9回裏に、ゴスリンがサヨナラヒットを放ち、タイガースが勝利。5度目の挑戦にして初のワールドチャンピオンに輝いた。

1937年5月25日のヤンキース戦で、カクレーンは頭部に死球を受け、それが元で現役を退き、以降は監督専任となった。翌1938年のシーズン途中には成績不振が続いたため、カクレーンは監督を解任された。1940年、アスレチックス、ヤンキースとの三つ巴の争いとなり、最終的にタイガースがそれぞれのチームに1,2ゲーム差をつけてリーグ優勝した。しかしワールドシリーズではシンシナティ・レッズに2勝3敗で敗れている。

1940年 - 1950年代

1941年に太平洋戦争が始めると、他球団と同様、タイガースからも選手の多くが従軍することとなる。そんな中、1944年にはハル・ニューハウザーが29勝(9敗)をあげ、アメリカンリーグMVPに選出される。戦争が終わった1945年には従軍していたグリーンバーグもチームに復帰し、ニューハウザーは25勝9敗・防御率.1.81・212奪三振とタイトルを独占する活躍をみせ、2年連続でMVPに選出された。チームも88勝65敗で、首位を争ったセネタースをかわし、7度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではカブスと対戦。どちらのチームにもいまだ従軍から戻っていない選手が多かったため戦力的には拮抗していたが、ニューハウザー、グリーンバーグの活躍によってタイガースが4勝3敗でカブスを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。

1946年以降チームは徐々に成績を落とし、1952年には50勝104敗で最下位となってしまう。1953年にはハービー・キーンが209安打を放ち、新人王を獲得。1955年にはアル・ケーラインが打率.340を記録し、史上最年少となる20歳での首位打者を獲得する。その後、ケーラインは22年間に渡ってタイガース一筋でプレーし、"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。1957年にはジム・バニングが20勝で最多勝を獲得し、彼は翌1958年にはノーヒット・ノーランも達成した。しかし彼らの活躍の反面、チームは依然として低迷を続けた。この頃のチームの低迷の一因として、アフリカ系アメリカ人選手の入団を拒んだことがあげられる。ジャッキー・ロビンソンをきっかけとして、多くのアフリカ系アメリカ人選手が活躍し、MLBのレベルを引き上げる中、タイガースはその流れに取り残されることとなった。タイガースにアフリカ系アメリカ人選手が初めて入団したのは1958年のことであり、MLBでは2番目の遅さだった。1959年にはハービー・キーンが首位打者を獲得するが、翌年のシーズン開始直後にクリーブランド・インディアンスで同年42本で本塁打王を獲得していたロッキー・コラビトとの交換トレードが行われた。また1961年のシーズン途中にはタイガースとインディアンスの監督同士をトレードするというMLB史上唯一の珍事もあった。

1960年代

1960年にロッキー・コラビトは本塁打35本であったが、翌1961年には自己最高の45本を打っている。この年、シカゴ・ホワイトソックスから移籍したノーム・キャッシュが打率.361を記録し、首位打者を獲得。他にも41本塁打・132打点という活躍(なお、キャッシュはこの年の成績だけが突出しており、引退後に規則違反となるコルクバットの使用を認めている)で、この年のタイガーズは、ノーム・キャッシュアル・ケーラインロッキー・コラビトの三本柱の打撃陣で、チームも101勝(61敗)をあげたが、ヤンキースが109勝53敗という圧倒的な成績だったため、リーグ優勝はならなかった。ヤンキースはロジャー・マリスが61本の本塁打でベーブ・ルースの記録を抜いて新記録を達成し、ミッキー・マントルが54本を打ち、投手陣ではホワイティー・フォードが自己最高の25勝で最多勝と最多勝率を上げて、常勝ヤンキースの最後の輝きを見せた年でもあった。翌1962年秋には来日して日米親善野球で12勝4敗2引き分けの成績を残している。

1966年には当時監督を務めていたチャック・ドレッセンボブ・スイフトが相次いで病気で亡くなるという事態も起こっている。翌1967年はタイガースを含めた4チームによる史上稀な大混戦が繰り広げられた。最終的にタイガースが最終日のダブルヘッダーで連勝すれば、首位のレッドソックスと1ゲームプレーオフが開かれるところまで持ち込まれたが、2試合目で敗れてしまった。

1968年、シーズン序盤にボルチモア・オリオールズから首位を奪うと、そのまま一度も首位を譲らず、103勝59敗という成績でリーグ優勝を果たした。原動力は31勝をあげたデニー・マクレインで、マクレーンは1934年のディジー・ディーン以来となるシーズン30勝以上を記録した。そして、ワールドシリーズではボブ・ギブソンルー・ブロック擁するセントルイス・カージナルスとの対戦となった。この頃、カージナルスは全盛期を誇っており、ギブソンはワールドシリーズに滅法強いことで有名だった。第1戦と第4戦ではマクレーンとギブソンの対決となったが、どちらもギブソンが投げ勝ち、第4戦を終えた時点で1勝3敗と追い込まれてしまった。絶対に負けられない試合となった第5戦、3対2とリードされた5回に、ブロックを二塁においた場面でヒットを打たれ、追加点をとられるピンチとなった。しかし左翼を守っていたウィリー・ホートンが好返球、ブロックを本塁でタッチアウトした。これによって流れがタイガースに傾き、チームはこの試合で逆転勝利を果たす。続く第6戦も連勝し、迎えた第7戦、マウンドに上がったのはギブソンだったが、7回にカージナルス守備陣の乱れから3点を先制し、このままタイガースが逃げ切ってワールドシリーズ優勝を決めた。

1970年代

1971年、ビリー・マーチンが監督に就任する。マーチンは前々年にミネソタ・ツインズの監督を務め、チームを地区優勝に導いている。しかし、フロントと対立し、1年限りでチームを追われていた。1年目こそ2位に終わったが、翌1972年には2位レッドソックスを0.5ゲーム差でかわし、チームを初の地区優勝に導いた。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではオークランド・アスレチックスに2勝3敗で敗れてしまった(アスレチックスはこの年からワールドシリーズ3連覇を成し遂げるなど、黄金期を迎えていた)。1973年のシーズン途中でマーチンは監督を辞任。その後1974年、1975年と連続最下位に終わり、1980年代に入るまで低迷が続いた。1976年にはマーク・フィドリッチが21歳でメジャーデビューし、いきなり19勝をあげ(戦後では新人最多記録)、新人王を獲得した。その風貌がセサミストリートの登場キャラクターであるビッグバードに似ていたため、"The Bird"(ザ・バード)と呼ばれ、ユニークな言動も相まって絶大な人気を誇った。しかし、その後は腕の故障のため、4年間で10勝しかできず、1980年限りで引退した。

スパーキー・アンダーソン

1979年のシーズン途中、スパーキー・アンダーソンを監督に迎える。アンダーソンは「ビッグレッドマシン」・シンシナティ・レッズの監督として知られ、アンダーソンが監督に就任すると、タイガースは次第に勝てるチームへと変貌する。この頃チームにはジャック・モリスランス・パリッシュアラン・トランメルルー・ウィテカーカーク・ギブソンといった有望な若手選手が多く存在し、アンダーソンの下でめきめきとその才覚を発揮していった。

1984年、チームは開幕から40試合で35勝5敗という驚異的なペースで勝ち星を重ねた。最終的に104勝58敗という圧倒的な成績をあげ、断トツ(2位トロント・ブルージェイズとは15ゲーム差)で地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに3連勝。ワールドシリーズではサンディエゴ・パドレスを4勝1敗で下し、4度目のワールドチャンピオンに輝いた。これによってアンダーソンは、両リーグで世界一を経験した史上初の監督となった。この年はモリスがノーヒットノーランを含む19勝をあげ、抑えのウィリー・ヘルナンデスが80試合の登板で防御率1.92、32セーブを記録し、MVPとサイ・ヤング賞を獲得した。また、1986年には捕手パリッシュ(22本)、一塁ダリル・エバンス(29本)、二塁ウィテカー(20本)、遊撃トランメル(21本)、三塁ダネル・コールズ(20本)、外野ギブソン(28本)と内野手全員を含む野手6人が20本塁打以上を放っている。この頃のタイガースはまさに往年のビッグレッドマシンを髣髴とさせる陣容を誇った。

1987年のシーズン途中、新人のジョン・スモルツ(スモルツはゲーリンジャーの甥でもあった)との交換トレードでアトランタ・ブレーブスからドイル・アレクサンダーを獲得。アレクサンダーは11試合に先発して、完封3を含む9勝0敗、防御率1.53という驚異的な成績を残した。彼の活躍もあり、チームは逆転で地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでツインズに敗れた。1988年は首位レッドソックスに1ゲーム差の2位に終わったが、翌1989年には59勝103敗と大きく落ち込み、最下位に転落してしまう。1990年、阪神タイガースでプレーしていたセシル・フィルダーを獲得。フィルダーは51本塁打・132打点で二冠王に輝き、同時に1977年のジョージ・フォスター以来となるシーズン50本塁打以上を記録した。その後、ロブ・ディアーミッキー・テトルトンを獲得し、1992年には30本塁打トリオ(と同時に130三振トリオでもあった)を形成するが、投手陣が散々だったため、優勝には手が届かなかった。なお、1992年には現在のオーナー一族であるマイケル・イリッチがチームを買収している。

低迷期 (1995年 - 2005年)

1994年に3地区制が導入されてからも、1997年までは東地区に所属していた。1995年限りでアンダーソンが監督を辞任し、バディ・ベルが監督に就任する。しかし、就任1年目には53勝109敗で最下位(首位ヤンキースとは39ゲーム差。4位のブルージェイズにさえ21ゲーム差をつけられた)となってしまい、更に投手陣崩壊で一時は1930年にフィラデルフィア・フィリーズが記録したMLBワーストのチーム防御率6.71を更新するかの酷さで、リーグワースト記録のチーム防御率6.38というオマケつきだった。1998年にはタンパベイ・デビルレイズ(現:タンパベイ・レイズ)の加入とミルウォーキー・ブルワーズのナ・リーグ移転に伴い、タイガースは中地区に所属することとなった。しかし、

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出典:wikipedia
2018/04/20 12:45

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