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トリエステとは?

トリエステ
Trieste

 | 
旗 | 紋章

【行政】

【国】
イタリア

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア

トリエステ
CAP(郵便番号) 34100
【市外局番】
040
ISTATコード 032006
識別コード
L424
分離集落
#行政区画参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
【公式サイト】
リンク
【人口】

【人口】
201,814 人 (2012-01-01)
【人口密度】
2,388.6 人/km
【文化】

住民の呼称
triestini
守護聖人
トリエステの聖ジュスト
(san Giusto)
祝祭日
11月3日
【地理】

【座標】
北緯45度38分10秒 東経13度48分15秒 / 北緯45.63611度 東経13.80417度 / 45.63611; 13.80417座標: 北緯45度38分10秒 東経13度48分15秒 / 北緯45.63611度 東経13.80417度 / 45.63611; 13.80417
【標高】
2 (0 - 672) m
【面積】
84.49 km
トリエステの位置


トリエステ県におけるコムーネの領域

ポータル イタリア

トリエステ(: Trieste ( 音声ファイル))は、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都であり、トリエステ自治県の県都でもある。アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している。

第一次世界大戦までは長らくオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあり、その重要都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア王国領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビアとの間で帰属をめぐる紛争が生じ、一時期は国際連合管理下の「トリエステ自由地域」が置かれていた。

目次

  • 1 名称
  • 2 地理
    • 2.1 位置・広がり
      • 2.1.1 隣接コムーネ
    • 2.2 地勢
    • 2.3 気候
  • 3 歴史
    • 3.1 古代・中世
    • 3.2 オーストリアによる統治
      • 3.2.1 1382年からナポレオン戦争まで
      • 3.2.2 19世紀から第一次世界大戦まで
    • 3.3 イタリア王国による併合
    • 3.4 第二次世界大戦とユーゴスラビアによる占領
    • 3.5 トリエステ自由地域
    • 3.6 イタリア返還
  • 4 行政
    • 4.1 行政区画
      • 4.1.1 行政区
      • 4.1.2 リオーネと分離集落
  • 5 社会
    • 5.1 人口推移
    • 5.2 住民
  • 6 交通
    • 6.1 海運
    • 6.2 鉄道
    • 6.3 空港
    • 6.4 市内の公共交通
  • 7 みどころ
    • 7.1 城
      • 7.1.1 ミラマーレ城
      • 7.1.2 サン・ジュスト城
    • 7.2 教会
    • 7.3 古代遺跡
    • 7.4 洞窟
    • 7.5 その他
  • 8 スポーツ
    • 8.1 サッカー
  • 9 人物
    • 9.1 著名な出身者
  • 10 姉妹都市
  • 11 脚注
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

名称

標準イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。

地理

位置・広がり

アドリア海の最奥部・トリエステ湾に面した港湾都市で、スロベニアとの国境の都市である。スロベニア領の都市コペル(イタリア名:カポディストリア)の北北東約12km、ウーディネの南東約63km、スロベニアの首都リュブリャナの南西約72km、ヴェネツィアの東北東約116kmに位置する。

自治体としてのトリエステ市は広い市域を持ち、その面積はトリエステ県の5分の2を占める。

隣接コムーネ

隣接するコムーネ、およびそれに相当する行政区画は以下の通り。SLOはスロベニア領。

地勢

カルスト台地がアドリア海に迫っており、およそ海抜458mの高さの台地を切り落としたような急な崖が形成されている。トリエステの中心市街地は、その麓に築かれている。

気候

ケッペンの気候区分上では温暖湿潤気候に属し、イタリアの大部分を占める地中海性気候の地域と違い、夏季にもまとまった降水をみる。トリエステは年間約1000ミリメートルの降雨がある。また年間を通して強風のボーラが吹くことで有名である。

Trieste Barcolaの気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
最高気温記録 °C (°F) 16.6
(61.9) | 21.2
(70.2) | 23.9
(75) | 29.3
(84.7) | 32.2
(90) | 36.2
(97.2) | 37.2
(99) | 37.0
(98.6) | 34.4
(93.9) | 30.8
(87.4) | 24.4
(75.9) | 18.0
(64.4) | 37.2
(99)
平均最高気温 °C (°F) 7.6
(45.7) | 9.0
(48.2) | 12.2
(54) | 16.5
(61.7) | 21.6
(70.9) | 25.0
(77) | 27.9
(82.2) | 27.7
(81.9) | 23.3
(73.9) | 17.8
(64) | 12.3
(54.1) | 8.8
(47.8) | 17.48
(63.45)
平均最低気温 °C (°F) 3.8
(38.8) | 4.3
(39.7) | 6.6
(43.9) | 10.0
(50) | 14.5
(58.1) | 17.8
(64) | 20.3
(68.5) | 20.4
(68.7) | 16.8
(62.2) | 12.7
(54.9) | 8.1
(46.6) | 4.0
(39.2) | 11.61
(52.88)
最低気温記録 °C (°F) -9.3
(15.3) | -14.6
(5.7) | -6.4
(20.5) | 1.2
(34.2) | 3.8
(38.8) | 8.1
(46.6) | 10.3
(50.5) | 11.0
(51.8) | 7.0
(44.6) | 3.6
(38.5) | -1.5
(29.3) | -7.9
(17.8) | -14.6
(5.7)
降水量 mm (inch) 58.0
(2.283) | 56.9
(2.24) | 63.4
(2.496) | 82.8
(3.26) | 84.2
(3.315) | 100.4
(3.953) | 62.1
(2.445) | 84.5
(3.327) | 103.4
(4.071) | 111.4
(4.386) | 107.4
(4.228) | 88.5
(3.484) | 1,003
(39.488)
平均降水日数 (≥ 1.0 mm) 7.8 | 6.2 | 7.8 | 8.5 | 8.7 | 9.3 | 6.5 | 7.3 | 7.1 | 7.9 | 9.1 | 8.4 | 94.6
% 湿度 67 | 64 | 62 | 64 | 64 | 65 | 62 | 62 | 66 | 68 | 67 | 68 | 64.9
平均月間日照時間 96.1 | 118.7 | 142.6 | 177 | 226.3 | 243 | 288.3 | 260.4 | 210 | 167.4 | 99 | 83.7 | 2,112.5
出典: Servizio Meteorologico dell'Aeronautica Militare, data 1951-2011

歴史

詳細は「トリエステの歴史」および「Timeline of Trieste」を参照

古代・中世

現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人(en)が定住した。その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人(en)がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。

紀元前177年、トリエステは共和政ローマの支配下に入った。ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。

788年、伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。

1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。

しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。

オーストリアによる統治

1382年からナポレオン戦争まで

ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。

トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジアの時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。

トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度にわたってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失った(1813年にオーストリアへ返還された)。そして自由港の地位も中断された。

19世紀から第一次世界大戦まで

トリエステ(1885年)

ナポレオン戦争に伴い、トリエステは「帝国自由都市」(Reichsunmittelbare Stadt Triest)の繁栄を続けた。そしてキュステンラント(Küstenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。

主要なオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割は、後の1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Österreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線の開設したことで強調された。ロイトはグランデ広場の角に本社を置いた。1913年からロイトは合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。帝国初の主要幹線鉄道、ウィーン=トリエステ間のオーストリア南部鉄道が1857年に完成し、貿易のための価値ある資産そして石炭の供給に利用された。

20世紀初頭、トリエステはジェームズ・ジョイスイタロ・ズヴェーヴォイヴァン・カンカルドラゴティン・ケッテウンベルト・サーバといった芸術家たちがしばしば集まる、活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部で、中央ヨーロッパに属していた。テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、しだいにトリエステ方言(ヴェネツィア方言のひとつ)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。

イタリア王国による併合

トリエステはトレントと共に、歴史的にイタリア人が暮らしてきたとする全ての土地をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地であった。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し、トリエステは1920年にヴェネツィア・ジュリア全体と一緒にイタリアへ併合された。

しかし、この併合によってトリエステの重要性が失われた。また、トリエステは国境の町となったが、新たな国境は後背地をトリエステから分断することになった。

当時人口の25%を占めていたスロヴェニア人は、ファシスト政権の台頭によって迫害を受けた。これが市内部の緊張時代を招き、1920年4月13日、その頂点に達した。イタリア愛国主義者集団が、トリエステ在住スロヴェニア人の文化センターとなっていたナロドニ・ドムへ放火・炎上させたのである。

第二次世界大戦とユーゴスラビアによる占領

1943年9月8日にイタリアが連合軍と単独講和すると、ドイツ軍は北イタリアを占領し、トリエステ周辺には9月10日アドリア海沿岸軍事地区(Operationszone Adriatisches Küstenland、略称OZAK)を設置した。OZAKにはイタリアの旧県、ゴリツィア・グラディスカ県、リュブリャナ県、フリウリが含まれ、フリードリヒ・ライナーが率いていた。ただし名目上は、9月23日に建国されたイタリア社会共和国領となった。

ナチス支配下で、イタリア領内唯一の強制収容所がトリエステ郊外リジエラ・ディ・サン・サッバ(Risiera di San Sabba、またはリジャルナRižarna)に1944年4月4日、建設された。市は、イタリア・パルチザン活動も盛んであり、連合国側の爆撃も受けた。

1945年4月30日、ドン・マルツァリとサヴィオ・フォンダ率いるイタリア反ファシスト解放委員会(大戦中のパルチザンによる)が、およそ3500人の志願兵らと組織され、反ナチス暴動を扇動した。

5月1日、ヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア・パルチザン軍が到着し、ナチスから市の大半を解放した。ただし、サン・ジュスト城と庭園にあった兵舎には、ニュージーランド軍以外に降伏することを拒んだ者たちが集まっていた。ニュージーランド第2師団は、アドリア海北岸周辺の国道14号沿いにトリエステに向かって進軍を続け、5月2日にトリエステへ入った。ニュージーランド軍到着に伴って5月2日夕方にドイツ軍は無条件降伏した。

チトーのユーゴ軍は、6月12日まで市を完全に管理下に置いていた。ユーゴスラヴィア軍に占領されたこの期間は「トリエステの40日」として知られる。この時期、多くのファシスト、国粋主義者、その他大勢の共産体制に好ましからざる人々が殺された。多くはカルソにある甌穴へ、生きながら投げられた。1930年代にイタリア・ファシストによって始められた蛮行に対する同等行為による報復行為の一つである。その後、ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去させた。

トリエステ自由地域

トリエステ自由地域」も参照
トリエステ自由地域

第二次世界大戦後、イタリアとユーゴスラビアの間で、トリエステとその周辺地域(ヴェネツィア・ジュリア)がどちらに帰属するかの紛争が発生した。重要な港湾都市であるトリエステは、戦後の東西対立の前線となった。1946年3月に、前イギリス首相チャーチルがアメリカ合衆国で行った「鉄のカーテン」演説(フルトン演説)は、のちに冷戦と呼ばれる緊張状態のはじまりを表現したものとして知られているが、この都市の名が次のように言及されている。

「 | バルト海シュテッティンからアドリア海トリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。 | 」

1947年2月、トリエステとその周辺地域の領土問題は棚上げされ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置くこととされた。自由地域内は「モーガン・ライン(モーガン線)」で分割され、北部のZone Aは連合国側が、南部のZone Bはユーゴスラビアが分割占領することが決められた。トリエステ市はZone Aに含まれた。

1947年から1954年にかけて、Zone Aは連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治した。Zone Bは、おおよそムッジャからカポディストリア(現在のコペル)までの海岸線からなるユーゴ領イストリアに含まれていた。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の指導者チトーは、数度にわたって Zone A に侵攻し、トリエステ市の管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの今や忘れ去られた小衝突は、冷戦時代のごく初期の戦いであった。

イタリア返還

1954年に取り交わされたロンドン覚書 (it:Memorandum di Londra) によって、トリエステ自由地域は解消され、イタリアとユーゴスラビアによって分割された。Zone Aに含まれていたトリエステ市は、イタリアの領土となり、南部のZone Bは、かつてZone Aに含まれた周辺の村落の一部とともにユーゴスラビアのものとなった。イタリアへの併合は、1954年10月26日に正式に宣言され、Zone Aはトリエステ県となった。

ユーゴスラビアとの国境問題と、少数民族の地位問題は、1975年のオージモ条約において明確に解決された。

1991年にユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離独立した際、南部はさらに二分割された。クロアチアとスロベニアとの間では新たな領有権問題が浮上した(ピラン湾を参照)。一方で、2007年シェンゲン圏ユーロ圏に加わったスロベニアは、イタリアとの往来が無検査となり通貨も共通になったため、国境、国家を超えたトリエステ経済圏の確立が予想されている。

行政

行政区画

行政区

トリエステ市の行政区

トリエステ市は、以下の7つの行政区(Circoscrizione)に分けられている。

  1. Altipiano Ovest (it:I Circoscrizione (Trieste))
  2. Altipiano Est (it:II Circoscrizione (Trieste))
  3. Roiano-Gretta-Barcola-Cologna-Scorcola (it:III Circoscrizione (Trieste))
  4. Città Nuova - Barriera Nuova - San Vito - Città Vecchia (it:IV Circoscrizione (Trieste))
  5. Barriera Vecchia - San Giacomo (it:V Circoscrizione (Trieste))
  6. San Giovanni - Chiadino - Rozzol
  7. Servola - Chiarbola - Valmaura - Borgo San Sergio

リオーネと分離集落

市街地における伝統的なリオーネ(Rione、区)や、郊外のフラツィオーネ(分離集落)を、行政区ごとに示せば以下の通り。

  1. Borgo San Nazario, Contovello (Kontovel), Prosecco (Prosek), Santa Croce (Križ),
  2. Banne (Bani), Basovizza (Bazovica), Gropada, Opicina (Opčine), Padriciano (Padriče), Trebiciano (Trebče),
  3. Barcola (Barkovlje), Cologna, Conconello (Ferlugi), Gretta (Greta), Grignano (Grljan), Guardiella (Vrdela), Miramare (Miramar), Roiano (Rojan), Scorcola
  4. Barriera Nuova, Borgo Giuseppino, Borgo Teresiano, Città Nuova, Città Vecchia, San Vito, San Giusto, Campi Elisi, Sant'Andrea, Cavana
  5. Barriera Vecchia (Stara mitnica), San Giacomo (Sv. Jakob), Santa Maria Maddalena Inferiore
  6. Cattinara (Katinara), Chiadino, San Luigi, Guardiella (Vrdela), Longera (Lonjer), San Giovanni (Sv. Ivan), Rozzol, Melara
  7. Chiarbola, Coloncovez (Kolonkovec), Santa Maria Maddalena Inferiore - Raute (Rovte), Santa Maria Maddalena Superiore, Servola (Škedenj), Poggi Paese, Poggi Sant'Anna (Sv. Ana), Valmaura, Altura

社会

人口推移

【人口推移】

【年】
【人口】
。トリエステの出生率は、1000人に対して7.63%で、イタリア東部最低の比率に数えられる(イタリア全体では9.45%)

2006年の調査では、人口93.81%はイタリア人が占めた。最大の少数民族はスロヴェニア人とクロアチア人だが、最大の移民集団はセルビア、アルバニア、ルーマニアからの人々で、人口の4.95%を占めている。アジアは0.52%、サハラ以南アフリカは0.2%である。トリエステでの信仰は、カトリック教会が優勢だが、東ヨーロッパからの移民人口が多いこととバルカン半島情勢の影響から正教会信徒も多い。

トリエステでの主要言語はイタリア語である。また、スロヴェニア語ヴェネツィア方言フリウリ語話者も多い。ドイツ語話者とハンガリー語話者の集団もある。

交通

ポルト・ヴェッキオ。トリエステ中央駅が見える
トリエステ中央駅
ウニター・ディターリア広場に停車するバス
トラム

海運

トリエステの海運は、かつてのオーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国がトリエステ港を、陸に囲まれた中欧の貿易港としたことで、長期間にわたって繁栄した。19世紀には、ポルト・ヌオーヴォで知られる新しい港湾地区全体が市中心部の北東部に建設された。

良港を多く抱えるイタリアに併合された後、トリエステ港の重要性は下降し、近郊のスロヴェニアにあるコペルとの競争にさらされた。しかし、コンテナ・ターミナルへ運ばれる貿易海運は目覚ましく、市中心部から南には製鉄と原油基地がある。数年間の不振後、安定した成長の過程において変化が港へもたらされ、2007年調査では海上交通において40%増を記録している。

鉄道

港の存在と、長距離の乗客・貨物輸送の必要性から、トリエステへ鉄道は早くに敷かれた。初の鉄道は1857年に敷かれた。この路線は、1400km離れたリヴィウから、リュブリャナ、ショプロン、ウィーン、クラクフグラーツ近郊のゼメリング峠アルプス山脈を横切って拡張した。この路線はトリエステのオピチナ地区を通ってトリエステへ接近する(市から数キロだが標高は300m以上高い)。このため、路線はトリエステ中央駅で終点となる前に北へ32km迂回する。

2本目のアルプス縦断鉄道は、ウィーンからイェセニツェノヴァ・ゴリツァを経由するトランサルピナ鉄道の開通と共に、1906年に始まった。この路線は、オピチナを経由してトリエステへ近づくが、トリエステの別の鉄道ターミナル駅であるカンポ・マルツィオ駅へ向かって緩やかに南進する方がむしろ距離が短い。この路線はもはや運行されておらず、カンポ・マルツィオ駅は現在鉄道博物館となっている。

トリエステへの旅客輸送は現在ヴェネツィアへ向かう鉄道からなる。この路線はローマ、ミラノ、メストレへつながっている。これらの電車は、トリエステ湾北部の湾曲部とつながる中央駅へ達する。イタリア=スロヴェニア間の国際交通は、トリエステを迂回しオピチナを通過して通っている。

空港

トリエステから北西へ約30km、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア空港(別名トリエステ空港)が最寄りの空港である。この空港は、トリエステ湾の北・モンファルコーネ近郊のロンキ・デイ・レジョナーリにある。

市内の公共交通

地元での公共交通は、トリエステ・トラスポルティが運行している。トラスポルティは2015年現在、56のバス路線と1つのトラム路線を運行している。唯一のトラム路線である第2系統(トリエステ=オピチナ・トラム)は、市中心部とオピチナ地区の間を結ぶ路線で、そのうち一部の急勾配区間を車両交換なしにケーブルカー・モードで直通する路線である。

みどころ

サン・ジュスト大聖堂
ミラマーレ城
チャンネル

ミラマーレ城

詳細は「ミラマール城」を参照

「ミラマール城」とも。オーストリア大公で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟マクシミリアンの元で働いていたカール・ユンケルが、1856年から1860年の間に建てた。付属の庭園は、マクシミリアンの命令で集められ植えられた多種多様な樹木を持つ。2つの池を含む庭園内には、ハクチョウ、ハスの花、マクシミリアンのブロンズ像近くのカステレット、小さな礼拝堂(マクシミリアンがメキシコへ向かって出航した艦船ノヴァーラ号の遺物である十字架を保存)がある。トリエステ自由地域に属していた頃、城はアメリカ軍の駐トリエステ・アメリカ軍本部が置かれていた。

サン・ジュスト城

かつて城があった遺構の上に設計され、ほぼ2世紀かけて(1368年から1630年)要塞として建てられた。現在は内部に軍事博物館がある。

教会

2010Happy Mail