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トーキー映画とは?

(トーキー映画から転送)
ゴーモンの発声映画を宣伝するポスター(1902年)

トーキー (talkie) は、映像と音声が同期した映画のこと。talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture を movie と呼んだのにならったものである。サイレント映画(無声映画)の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもあるが冗語である。無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれる。音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない。発声映画が最初に上映されたのは1900年パリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音再生の音質も不十分だった。サウンドカメラ発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。

発声映画の商業化への第1歩はアメリカ合衆国1920年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった。翌1928年に、サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家』がすでに公開されている。

1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画では1931年(昭和6年)の『マダムと女房』(松竹キネマ製作、五所平之助監督、田中絹代主演)が初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった。インドの映画はトーキーの到来によって急速に成長し、1960年代以降はアメリカを抜き、世界一の映画製作数を誇るようになった。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 トーキー以前
    • 1.2 重要な技術革新
    • 1.3 「トーキー」の成功
    • 1.4 ヨーロッパにおける移行
    • 1.5 アジアにおける移行
  • 2 トーキーの影響
    • 2.1 テクノロジー
    • 2.2 職業/雇用
    • 2.3 映画産業
    • 2.4 芸術としての映画
    • 2.5 映画的技法
  • 3 活弁トーキー
  • 4 脚注・出典
  • 5 参考文献
  • 6 関連項目
  • 7 外部リンク
    • 7.1 歴史的文献
    • 7.2 歴史的映画

歴史

トーキー以前

ウィリアム・K・L・ディクソンが製作した"Dickson Experimental Sound Film"(1894年または1895年)の一場面。トーマス・エジソンのキネトフォン(キネトスコープ蓄音機を組み合わせたもの)の初期のバージョンの試験用に製作された。

映像と同時に音を録音するというアイデアは、映画そのものと同じくらい古くからある。1888年2月27日、先駆的写真家エドワード・マイブリッジトーマス・エジソンの研究所にほど近い場所で講演を行い、この2人の発明家は個人的に会った。マイブリッジは商業映画が誕生する6年前のこのときに、彼の発明したズープラクシスコープの動画とエジソンの蓄音機の技術を組合せ、発声映画を作ることを提案したと後に主張している。合意に達することはなかったが、その1年以内にエジソンは覗き込む方式のキネトスコープを開発し、これに円筒型蓄音機の音楽を組み合わせた興行を行った。この2つを組み合わせたキネトフォン (Kinetophone) が1895年に作られたが、フィルム映写方式が成功したことで覗き見方式はすぐに廃れることになった。1899年スイス生まれの発明家フランソワ・デュソーの発明に基づく映写式発声映画システム「キネマクロノグラフ (Cinemacrophonograph)」または「フォノラマ (Phonorama)」がパリで公開された。これはキネトフォンと同様、観客がイヤホンをつける必要があった。フランスの Clément-Maurice Gratioulet と Henri Lioret は発声映画システム Phono-Cinéma-Théâtre を開発し、1900年パリ万国博覧会演劇オペラバレエなどを扱った短編映画を上映した。フィルムを映写し、音をスピーカーで鳴らすという形の世界初の上映とされている。パリ万博では他に前述のフォノラマや Théâtroscope というシステムも公開された。

映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった。

サラ・ベルナールが描かれたポスター。GratiouletとLioretのシステムを使い1900年のパリ万博で18人の有名アーティストの動画を上映することを告知したもの

様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機レコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elgéphone を開発した。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。

1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回して The Photo-Drama of Creation を上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。

そのころ、技術革新は重要な局面を迎えていた。1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。

それは二重のシステムであり、音と映像は別々のフィルム上にあった。(中略)基本的に音をマイクロフォンでとらえて電球を使って光の波に変換し、狭いスリットのある薄く敏感な金属リボンに照射する。このリボンのスリットを通過した光をフィルムに焼き付けると、幅が0.1インチ前後の震えるように変化する光の帯となる。

サウンド・オン・フィルム方式は発声映画の標準となったが、ロースト自身は自分の発明をうまく活用できなかった。1914年、フィンランドの発明家 Eric Tigerstedt は独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許をドイツで取得し(#309,536)、同年ベルリンの科学者らの前で試験上映を行った。ハンガリーの技術者 Denes Mihaly も1918年に独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許を出願している。こちらの特許が成立したのは4年後である。しかし、これらのシステムは音をどこにどう記録するかという部分では様々だが、いずれも商業的に成功するには至っていない。ハリウッドの大手スタジオも発声映画ではほとんど利益を上げられなかった。

重要な技術革新

多数の技術革新により、1920年代後半における発声映画の商業化が可能となった。サウンド・オン・フィルム方式とサウンド・オン・ディスク方式の両方で技術革新がなされた。

サウンド・オン・フィルム方式では、1919年、アメリカの発明家リー・ド・フォレストがサウンド・オン・フィルム方式の商業化を可能にするいくつかの特許を取得した。ド・フォレストのシステムでは、サウンドトラックは映画のフィルムの端に焼き付けられている。録音時に映像と音声がしっかり同期していれば、確実に再生時にも同期できる。ド・フォレストはその後4年間、他の発明家セオドア・ケースから関連する特許のライセンスを受け、システムの改良に取り組んだ。

イリノイ大学ではポーランド出身の工学者 Joseph Tykociński-Tykociner も同様の研究を独自に行っていた。1922年6月9日、彼はアメリカ電気学会(AIEE)の会員に対してサウンド・オン・フィルム方式のデモンストレーションを公開した。ローストやTigerstedtと同様、Tykocinerのシステムも商業的に成功することはなかった。ただし、ド・フォレストは間もなく成功を収めることになった。

ド・フォレストのフォノフィルムの短編映画の新聞広告(1925年)。蓄音機を使っていない点を強調している。

1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった。同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている。翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love's Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した。しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil BakerBen Bernieエディ・カンターOscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている。ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した。

ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された。ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。これをゴーモンがライセンス取得し、Cinéphone の名前で商業化した。

フォノフィルムが衰退したのはアメリカ国内の競争の激化が原因だった。1925年9月にはド・フォレストとケースの事業はうまく行かなくなってきた。翌年7月、ケースは当時ハリウッドで3番目の大手スタジオだったフォックス・フィルムに加わり、フォックス・ケース社を創設した。ケースは助手の Earl Sponable と共に新たなトーキーシステム「ムービートーン」を開発し、これがハリウッドの大手スタジオが支配する初のトーキーシステムとなった。翌年フォックスは北米でのトリ=エルゴンの権利も買い取ったが、ムービートーンの方が優れていることが判明し、両者を統合することで新たな利点を得ようと考えたものの、統合は事実上不可能だった。1927年にはド・フォレストとの訴訟に敗れた Freeman Owens を雇った。彼はトーキーのカメラ組み立てに特に熟達していたためである。

サウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式と並行して改良が進んだ。蓄音機のターンテーブルを特殊仕様の映写機と相互接続して同期するようになっていた。1921年、Orlando Kellum が開発したフォトキネマシステムは、D・W・グリフィスの失敗に終わった無声映画『夢の街 (en)』に音を同期させるのに使われた。出演者の Ralph Graves がラブソングを歌うシーンが追加で撮影され、同時に録音が行われた。台詞も録音したが、出来が悪かったため、その部分は公開されなかった。1921年5月1日、ラブソング部分を追加した『夢の街』がニューヨークで公開され、撮影と同時に録音した部分を含む世界初の長編映画となった。同様の映画が製作されるのは6年後のことである。

ワーナー・ブラザース『ドン・ファン』(1926年)のポスター。全編に同期サウンドトラックを採用した初期の映画の1つ。ハリウッド初の録音技師 George Groves が関わった映画であり、彼は44年後に『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』の音響を監修している。

1925年、当時はまだ小さなスタジオだったワーナー・ブラザースは、ニューヨークのヴィタグラフ・スタジオを買い取り、そこでサウンド・オン・ディスク方式の実験を開始した。ワーナーはこれをヴァイタフォンと名付け、3時間近い長編映画『ドン・ファン』に採用し、1926年8月6日に公開した。同期音声を付けた長編映画としては世界初であり、サウンドトラックには音楽効果音が含まれているが台詞は録音されていない。つまり、本来は無声映画として撮影されたものだった。ただし『ドン・ファン』と同時に8本の短編映画(クラシック演奏など)とMPAA会長 Will H. Hays による4分の紹介映画が上映されており、これらは全て撮影と同時に録音されている。これらがハリウッドによる初の発声映画と言える。ワーナーは同年10月にも『ドン・ファン』と同様の手法で The Better 'Ole という映画を製作し公開している。

サウンド・オン・フィルム方式はサウンド・オン・ディスク方式に対して次のような根本的利点があるため、優勢となっていった。

それにも関わらず、初期のサウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式に対して次の2点で優っていた。

サウンド・オン・フィルム方式が改良されるにつれて、これらの欠点は克服されていった。

ウェスタン・エレクトリックの技術者 E. B. Craft(左)がヴァイタフォンシステムを実演しているところ。ヴァイタフォンのレコード盤は約11分の音声を録音でき、35mmフィルム1,000フィートの撮影時間には十分だった。

3番目の重要な技術革新は、録音と再生の両方を大きく改善した。それは録音と増幅に関する電子工学の進歩である。1922年、AT&Tの製造部門ウェスタン・エレクトリックの研究部門がサウンド・オン・ディスク方式とサウンド・オン・フィルム方式の両方について重点的な研究を開始した。1925年、同社は高感度のコンデンサ・マイクと録音装置を含む大幅に改善された電子音響システムを発表した。同年5月、同社はこれを映画用システムに利用するライセンスを起業家 Walter J. Rich に与えた。彼はヴィタグラフ・スタジオに資金提供しており、その1カ月後にワーナー・ブラザースがその半分の権利を買い取った。1926年4月、ワーナーはAT&Tと映画音響技術に関する独占契約を結び、それが『ドン・ファン』と付随する短編映画製作につながった。この間、ヴァイタフォンだけがAT&Tの特許を独占的に使用でき、ワーナーの発声映画の音質は他社の追随を許さないほど高かった。一方ベル研究所として独立したAT&Tの研究部門は増幅技術を急激に進化させていき、劇場全体にスピーカーで音を響かせることができるシステムを完成させた。その新たな振動コイル型(ダイナミック型)スピーカーシステムがニューヨークのワーナーの劇場に同年7月に設置され、そのシステムに関する特許は『ドン・ファン』公開のわずか2日前の8月4日に出願された。

AT&Tとウェスタン・エレクトリックは同年、映画関連の音響技術の権利を専門に扱う Electrical Research Products Inc. (ERPI) を創設した。ヴァイタフォンはまだ独占的権利を持っていたが、ロイヤリティ支払いが遅れたため、ERPIが実質的な権利を持つことになった。1926年12月31日、ワーナーはフォックス・ケースにウェスタン・エレクトリックのシステムを使用できるサブライセンスを提供し、その代わりにワーナーとERPIがフォックスの関連する収益の一部を受け取る契約を結んだ。3社は関連する特許についてクロスライセンス契約を結んだ。優れた録音/増幅技術はこれによってハリウッドの2つのスタジオで利用可能となった。しかも両スタジオはトーキーの方式が全く異なっていた。この翌年、発声映画が商業的に大きく飛躍することになった。

「トーキー」の成功

1927年2月、ハリウッドの当時の大手映画会社5社(パラマウントMGMユニバーサルFirst Nationalセシル・B・デミルの Producers Distributing Corporation (PDC))がある合意に達した。この大手5スタジオは発声映画の互換性を保つために5社がひとつのプロバイダを選ぶことで合意したのである。そして、先駆者がどういう結果になっているかをじっくり検討した。同年5月、ワーナー・ブラザースは独占権を(フォックス・ケースのサブライセンスといっしょに)ERPIに買い戻してもらい、フォックスと同等の技術使用契約を新たに結んだ。フォックスとワーナーは発声映画について技術的にも商業的にも異なる方向へと向かっていた。フォックスはニュース映画や音楽劇に向かい、ワーナーは長編映画に向かっていた。ERPIは大手5スタジオと契約することで市場を独占しようと考えた。

ワシントン州タコマの最新設備をそろえた映画館の新聞広告。ヴァイタフォンの『ジャズ・シンガー』とムービートーンのニュース映画を1枚の入場券で見ることができるとされている。

この年、発声映画はあらゆる既知の有名人を利用して大々的に宣伝された。1927年5月20日、ニューヨークのロキシー劇場で同日早朝に大西洋横断飛行に旅立ったチャールズ・リンドバーグの離陸のニュース映画をフォックスのムービートーンで上映した。また6月にはリンドバーグが帰還し、ニューヨークやワシントンD.C.で歓迎される様子を同じくフォックスの発声ニュース映画で伝えた。これらは今日までに最も賞賛された発声映画とされている。フォックスは同年5月に台詞を同期させたハリウッド初の短編劇映画 They're Coming to Get Me(主演はコメディアンの Chic Sale)を公開している。フォックスは『第七天国』などの無声映画のヒット作を公開した後の9月23日、ムービートーン初のオリジナル長編『サンライズ』(監督F・W・ムルナウ)を公開した。『ドン・ファン』と同様、フィルムのサウンドトラックには音楽と効果音が入っており、群衆シーンでは特に誰のものともわからない声も入っていた。

そして1927年10月6日、ワーナー・ブラザースの『ジャズ・シンガー』が公開された。国内と海外を合わせた興行収入は262万5千ドルであり(ワーナーの前作より100万ドルも多い)、中堅クラスのスタジオとしては破格の大成功だった。ヴァイタフォンで製作された映画は、『サンライズ』や『ドン・ファン』と同様に音楽と効果音が基本で、撮影時の録音は使っていない。ただしアル・ジョルソンが映画の中で歌うシーンがあるが、その歌と台詞はセットで録音されたもので、他に母親とのやりとりもその場で録音されたものだった。そのため、セット内の自然な音が聞こえる。『ジャズ・シンガー』のヒットは当時既に大スターだったジョルソンの人気によるところが大きく、初の部分的同期音声を使った映画だという点が大きく寄与したとは言えないが、その収益は映画産業にとってそのテクノロジーに投資する価値があることを十分に示していた。

商業発声映画については、『ジャズ・シンガー』のヒットの前後で状況は特に変化しなかった。(落伍したPDCを除く)4大スタジオとユナイテッド・アーティスツといった大手が映画製作現場と劇場のための機器を更新すべくERPIと契約するのは1928年5月以降のことである。当初、ERPIは全ての契約劇場をヴァイタフォン対応にし、その多くでムービートーンの上映もできるようにした。両方のテクノロジーにアクセス可能になっても、多くのハリウッドの映画会社はまだ発声映画を製作しなかった。ワーナー・ブラザースを除くスタジオは部分トーキーですらなかなかリリースしようとしなかったが、低予算指向の Film Booking Offices of America (FBO) が『ジャズ・シンガー』から8カ月後の1928年6月17日にやっと『夢想の犯罪 (The Perfect Crime) 』を公開した。FBOはウェスタン・エレクトリックと競合するゼネラル・エレクトリックRCA部門が実質的に支配しており、同社は新たなサウンド・オン・フィルム方式フォトフォンを売り込もうとしていた。可変密度方式だったフォックス・ケースのムービートーンやド・フォレストのフォノフィルムとは異なり、フォトフォンは可変領域方式であり、音声信号を最終的にフィルムに焼き付ける段階を改良したものである。サウンド・オン・フィルム方式では、音声信号を電灯の光の強さに変換し、その光を使ってフィルムに信号を焼き付ける。可変密度方式はフィルム上の帯の明暗の変化で音声信号の変化を表し、可変領域方式ではその帯の幅を変化させる。同年10月までに、FBO-RCA同盟はハリウッドで最新のスタジオRKO創設にこぎつけた。

映画『煩悩 (en) 』の ドロシー・マッケイルミルトン・シルズファースト・ナショナル初のトーキーで、1928年12月に公開された。その2カ月前にワーナー・ブラザースがこのスタジオの経営権を得ている。

その間、ワーナー・ブラザースは『ジャズ・シンガー』ほどではないが高収益な3本のトーキーを公開した。同年3月には『テンダーロイン (en) 』が公開されている。この映画をワーナーは全ての台詞の音声が入っていると宣伝したが、台詞があるのは88分のうち15分だけだった。4月には 『祖国の叫び (Glorious Betsy)』、5月には The Lion and the Mouse(こちらは台詞部分が31分ある)を公開した。1928年7月6日には初の完全トーキー長編映画 『紐育の灯』 が公開された。ワーナーがこの映画にかけた制作費はわずか2万3千ドルだったが、興行収入は125万2千ドルで50倍以上の利益を得た。9月には再びアル・ジョンソンを主演に起用した部分トーキー『シンギング・フール (en) 』を公開し、『ジャズ・シンガー』の倍の収益を得た。このジョルソンの2本目の映画は、ミュージカル映画が歌を全国的にヒットさせる力があることを示した。9カ月以内にジョルソンの楽曲 "Sonny Boy" はレコードが200万枚、楽譜が125万枚売れた。同じく1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開した。これを見たウォルト・ディズニーはすぐさま発声映画の製作にとりかかり、ミッキーマウス短編映画蒸気船ウィリー』を公開した。しかし、これらの短編アニメーション作品が公開される2年前の1926年マックス・フライシャーがセリフと映像を完全にシンクロさせた短編トーキーアニメーション映画『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』をすでに公開していた。

ワーナー・ブラザースがトーキー人気で莫大な利益を稼ぎ始めたのを見て、他のスタジオも新テクノロジーへの転換を急ぎ始めた。最大手のパラマウントは9月後半に初のトーキー『人生の乞食 (en) 』を公開したが、台詞はほんの少ししかなかった。それでも新技術の力を認識するには十分だった。パラマウント初の完全トーキー『都会の幻想 (en) 』は11月に公開となった。"goat glanding" と呼ばれる工程が広く採用された。これは、無声映画として撮影した映画(公開済みの場合もある)に後から台詞や歌を追加するものである。ほんの数分間の歌を加えただけでその映画はミュージカルに生まれ変わる。グリフィスの『夢の街』も基本的には "goat gland" だった。時代の流れは急速に変化し、1927年には単なる「流行」だったトーキーは1929年には標準的手法となった。『ジャズ・シンガー』公開から16カ月後の1929年2月、大手スタジオで最後までトーキーを製作していなかったコロンビア映画が初の部分トーキー長編 Lone Wolf's Daughter を公開した。同年5月末、ワーナーの世界初の完全カラー/完全トーキー長編『エロ大行進曲 (en) 』が公開された。アメリカでは都市部を除いた大多数の映画館に音を出すための設備がまだ設置されておらず、スタジオ側もトーキーが全ての人々に受け入れられると確信していたわけではなかったため、1930年代中ごろまでのハリウッド映画はトーキー版とサイレント版の2バージョンで製作されることが多かった。当時誰も予想していなかったが、無声映画はその後すぐに過去のものとなっていった。ハリウッド製の最後の無声映画としては、Hoot Gibson西部劇 Points West がある。これはユニバーサルが1929年8月に公開した。

ヨーロッパにおける移行

『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日にロンドンピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった。映画史家 Rachael Low によれば「多くの業界人がトーキーへの転換は避けられないと悟った」という。1929年1月16日、ヨーロッパ初の長編トーキーが公開になった。ドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、Richard Tauber が歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ-オランダ系企業 Tobis が開発したサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。Tobisはヨーロッパにトーキー市場が出現することを見越して参入し、ドイツの有力電機企業2社の合弁会社 Klangfilm と同盟を結んだ。1929年初めには Tobis と Klangfilm は録音・再生技術の売り込みを開始した。ERPIがヨーロッパ各地の劇場でトーキー設備の設置を開始すると、Tobis-Klangfilm はウェスタン・エレクトリックがトリ=エルゴンの特許を侵害していると主張し、アメリカの技術が各地に設置されるのを阻止した。ちょうどRCAが録音システムを売り込めるように映画産業に参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオを設立した。

1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のためハリウッドと手を組んだ。このころのヨーロッパのトーキーは外国で製作されることが多かった。これは、自国のスタジオをトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国語以外の外国語で映画を製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つの長編トーキーのうちの1つ The Crimson Circle は、複雑な経緯で国際的な製作となった。元々は監督 Friedrich Zelnik により Efzet-Film が製作した無声映画 Der Rote Kreis としてドイツで1928年に公開された。イギリスの British Sound Film Productions (BSFP) がこれに後から英語の台詞を追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月にイギリスで公開された。同時期に公開された The Clue of the New Pin はイギリスで全編製作された部分トーキーで British Photophone と呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式を使用している。Black Waters はイギリスの映画会社がハリウッドで全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックのサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。これらはいずれも大きな影響を与えることはなかった。

ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。British International Pictures (BIP) による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックは Tobis-Klangfilm の市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家 Hugh Castle は「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。

1929年8月23日、オーストリア初のトーキー G’schichten aus der Steiermark が公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキー Das Land ohne Frauen が公開になった。Tobis Filmkunst の製作で、全体の4分の1ほどに台詞があり、音楽や効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的には失敗した。スウェーデン初のトーキー Konstgjorda Svensson は同年10月14日に公開された。その8日後、パリ近郊のスタジオで撮影された Le Collier de la reine が公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽と会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランスの長編映画初の会話シーンとなった。10月31日に公開となった Les Trois masques は、パテ-ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影はロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社はRCAフォトフォンと契約を結んでいた。同じスタジオで数週間後に La Route est belle も撮影されている。パリの映画スタジオの多くはトーキー対応の改修が1930年まで伸び、それまでフランスのトーキーの多くはドイツで撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編 Atlantik は10月28日にベルリンで公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、Les Trois masquesLa Route est belle がフランス的と言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPはイギリス人脚本家とドイツ人監督で英語版の Atlantic を製作した。完全なドイツ製トーキー Dich hab ich geliebt はその3.5週間後に公開され、アメリカ合衆国で Because I Loved You として公開され、アメリカで公開された初のドイツ製トーキーとなった。

ソビエト連邦初のトーキー Putevka v zhizn(1931年)のポスター。浮浪児問題を扱った映画で、マルセル・カルネは「この優しく純粋なストーリーの忘れがたいイメージにおいて、我々は国家全体の努力を認識できる」と評した。

1930年、サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキー Moralność pani Dulskiej が3月に、完全トーキー Niebezpieczny romans が10月に公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだったが1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキー La Canzone dell'amore は1930年10月に公開され、イタリア映画界は約2年で復活を遂げることになった。最初のチェコ語のトーキー Tonka Šibenice も1930年に公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギー(フランス語)、デンマーク、ギリシャ、ルーマニアといった国々でもトーキーを制作している。ソビエト連邦では1930年12月に公開されたジガ・ヴェルトフのノンフィクション Entuziazm が最初だが、これは台詞がなく実験的なものだった。Abram Room のドキュメンタリー映画 Plan velikikh rabot には音楽とナレーションが入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式を使っていた。当時、世界中に200ものトーキーの方式が乱立していた。1931年6月に公開された Nikolai Ekk の劇映画 Putevka v zhizn がソビエト連邦初の完全トーキーとなった。

ヨーロッパでは劇場のトーキー設備設置が映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なしで上映した。イギリスでは1930年末までに60%の劇場がトーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度のペースである。一方フランスでは1932年後半になっても半数以上の劇場がトーキー未対応だった。Colin G. Crisp によれば、フランスの映画業界は1935年ごろまで無声映画が芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰が起きるのではないかという懸念を表明していたという。このような見方はソビエト連邦でも根強かった。1933年5月の時点でソビエト連邦内の映写機にトーキー設備が設置されたのは2%ほどだった。

アジアにおける移行

五所平之助監督の『マダムと女房』(松竹キネマ)は日本初の本格的トーキーである。

1920年代から1930年代の日本は世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋より

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出典:wikipedia
2018/11/11 14:04

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