ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、ドイツ語: Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(ドイツ語: Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。かつて「西ドイツ」と呼ばれていた時代は「西欧」に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として分類されるようになっている。
ドイツは限定的統治権を保有する16の州から成り、総面積は357,386kmで、主に温暖な季節的気候に属する。首都及び最大都市はベルリンである。ヨーロッパ大陸における経済的及び政治的な主要国であり、多くの文化、理論、技術分野における歴史上重要な指導国である。人口は8,060万人で、欧州連合では最大の人口を有する。
ドイツは名目GDPで世界第4位かつ購買力平価で世界第5位である。産業及び技術分野における世界的なリーダーとして、世界第3位の輸出国かつ世界第3位の輸入国である。世界最古のユニバーサルヘルスケア制度を含む包括的な社会保障を特色とする非常に高い生活水準で先進国である。豊かな文化及び政治の歴史で知られ、多くの影響力のある哲学者、芸術家、音楽家、映画人、起業家、科学者及び発明家の故国である。ドイツは、1993年に欧州連合になった1957年の欧州諸共同体原加盟国である。同国はシェンゲン圏の一部であり、1999年以来ユーロ圏の一員である。また、国際連合、北大西洋条約機構、G7、G20、OECD、欧州評議会加盟国である。アメリカ合衆国に次ぎ、ドイツは世界第2位の移住地である。
ドイツ語での正式名称は、 Bundesrepublik Deutschland([ˈbʊndəsʁepuˌbliːk ˈdɔʏtʃlant] ( 音声ファイル) ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)。通称は Deutschland(ドイチュラント)、略称は BRD(ベーエァデー)。Bund は「連邦」の、Republik は「共和国」の意である。
在日大使館や日本の外務省が用いる日本語表記はドイツ連邦共和国。通称はドイツ。漢字では独逸、獨乙などと表記され、独(獨)と略される。中国語では徳意志、徳国となる。英語表記は Federal Republic of Germany(フェデラル・リパブリク・オヴ・ジャーマニ)。通称は Germany(ジャーマニ)。略称は FRG 。Federalは「連邦の」、Republicは「共和国」を意味し、Germany はラテン語の Germania(ゲルマニア:「ゲルマン人の地」の意味)に由来し、地名としてのドイツを指す。フランス語やスペイン語、ポルトガル語ではそれぞれ Allemagne(アルマーニュ)、Alemania(アレマニア)、Alemanha(アレマーニャ)と呼ばれるが、これらは本来は「(ゲルマン人の一派である)アレマン人の地」を意味する。
「ドイツ」という言葉の由来は、原語若しくはオランダ語の「Duits」が起源だといわれている。
「ドイツ(Deutsch)」の語源は、北部で話されていたゲルマン語の「theod」、「thiud」、「thiod」などの名詞に由来し、いずれも「民衆」や「大衆」を意味している 。意味も使われた時代も同じだが、綴りは地域によって異なる。フランク王国時代に、ラテン系言語ではなくゲルマン系言語を用いるゲルマン人の一般大衆をこう呼んだことから、同地域を指す呼称として用いられ始めた。「th」はのちに「d」という発音と綴りになったため「diet」に変わった。さらに古高ドイツ語では形容詞化するための接尾辞「-isk」が付加されて「diutisk」と変わった。意味も「大衆の、民衆の」という形容詞になり、その後「diutisch」に変わり、現代ドイツ語では「deutsch」となった。
形容詞形の「deutsch」には上記の意味はなく、単に「ドイツの」という意味だけである。代わりに「völkisch」という形容詞が「大衆の、民衆の」という意味で使われたが、ナチスが自らの理念や政策を表現するのに好んで用いたため、戦後はナチズムを連想させるとして用いられなくなり、現在は「des Volkes」が主に使われる。
現在のドイツを含む西ヨーロッパ地域に人類が居住を始めたのは、石器などが発見された地層から約70万年前と考えられている。60万年から55万年前の地層ではハイデルベルク原人の化石が、4万年前の地層ではネアンデルタール人の化石が確認されている。新人は約35000年前から現れ、紀元前4000年頃の巨石文明を経て紀元前1800年頃までに青銅器文明に移行している。紀元前1000年頃にはケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。
紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経て、ゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んでいった。しかし紀元後9年にトイトブルク森の戦いが起こり、ゲルマン人が勝利してライン右岸を守った。この流域南部において83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン中・上流域ではリメスが前進した。これは二千年にわたるドイツ史の将来を規定する伏線となった。すなわち、ローマ帝国内にあるドイツ南部と、外にあるドイツ北部である。以後三百年をかけてローマ帝国の解体が進む。コロナートゥス化とテトラルキアを経て、375年には西ゴート族が黒海沿岸から地中海に沿って、コロナートゥス化の進んだ西部へ移動した。
476年、西ローマ帝国が滅亡した。代わって西ヨーロッパを支配したフランク王国では各地に分王国が興り、その一つアウストラシア(英語版の地図が正確)が北方でライン両岸を占めた。843年ヴェルダン条約によってフランク王国が三分割された。そのうちの1つである東フランク王国が、後のドイツの原型となった。東フランク王国の国王オットー1世(ザクセン朝)は962年アウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれる連合体を形成した。
帝国のイタリア政策は教会大分裂で競り負け頓挫した。各領邦は近隣諸国に比べて弱体であったがバイエルン公国は強かった。1487年6月26日に皇帝フリードリヒ3世の発した勅令はシュヴァーベン同盟の結成につながった。これは長命であったが、1512年の更新でヴュルテンベルク公国のウルリヒが調印を拒んだ。ウルリヒが反ハプスブルクを志向してロイトリンゲンを攻撃しようとしたとき、同盟は総力を挙げてウルリヒを破り、1534年まで亡命させた。皇帝マクシミリアン1世のとき、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation」と国名を称した。彼はヴュルテンベルクとインディアスの経済力を背景に、ドイツに対して搾取的なローマ教皇庁から自立しようとしたのである。
そうした混乱期にレオ10世による贖宥状が発売された。宗教改革ではドイツの諸侯が新旧両教に分かれて互いに争った。1528年オットー・フォン・パックが計り、ヴュルツブルク司教領が新教諸侯に脅かされた。そこでカトリック諸侯はシュヴァーベン同盟軍を強いて派遣しようとした。ルター派であったニュルンベルクは大反対した。これ以降、同盟都市は同盟参事に重要な決定を委ねないようになった。1561年、ポーランド王国がドイツ騎士団領の大部分を占領し壊滅させた。
三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊され、なかんずくニュルンベルクは惨状を極めた。1,600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したと言われる。ドイツはヴェストファーレン条約でアルザスを失った。ストラスブールはドイツ時代に貨幣鋳造権をもっていたが、ドイツ側と交易できなくなって利益をスイスに奪われた。さてバイエルンは焦土化したニュルンベルクへ向かって北へ領土を広げた。ブランデンブルク辺境伯領のマクデブルクを攻めたスウェーデンは、帝国郵便の営業圏を奪い、ハンブルクからブレーメンまでを領土に加えた。フランスは戦争でアクセスを確保した。フランシュ=コンテから南下するスペイン軍をサヴォイアから駆逐、スイスを独立させ、ボヘミア・バイエルンと通じ帝国郵便のルーツであるインスブルックに対する圧力を確保し、ヴェネツィア共和国を港にオスマン帝国と交流できるようにしたのである。この点は図表の確認を推奨する。
帝国自由都市の自治権が奪われ、ドイツは領邦主権体制となった。1667年にザミュエル・フォン・プーフェンドルフが著した書「ドイツ帝国憲法について (Über die Verfassung des deutschen Reiches) 」において初めて、ドイツ国という呼称が確定できる。彼は世俗的自然法論により諸侯に有利な国家論を基礎付けた。
シュヴァーベンにあるホーエンツォレルン城一帯から台頭したプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は、17世紀半ばからオランダと共に勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成した。一方、スペイン継承戦争でバイエルンが自由都市アウクスブルクを占領した。この戦争でフランスがヴュルテンベルクを執拗に攻撃、シュトゥットガルトの王立銀行を手中に収めた。
フランス革命の動乱は全ヨーロッパに波及し、ドイツもナポレオンの侵略を免れなかった。対仏大同盟がナポレオンを破り、ドイツは帝国代表者会議主要決議の枠内で国家統一を志向するようになった。ホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家はドイツ統一の役割を争ったが、前者は対米貿易とメリノ種量産に成功した。後者は地中海へのアクセスを維持するためフランスに接近するしかなかった。北ドイツ連邦を作り普墺戦争と普仏戦争に勝利したプロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ドイツ系オーストリアを除くドイツ帝国を創建し、ベルリンを首都とした。国内産業は驚異的発展をとげた。ジーメンス・ウント・ハルスケとAEGの独占で知られる電機工業と、合成染料や各種の化学製品を生み出した重化学工業(のちのIGファルベン)は特筆に値する。工業の拡大を支えたのは、ドイツ銀行、ダルムシュタット銀行(現バークレイズ)、ドレスデン銀行、ディスコント・ゲゼルシャフト(現ドイツ銀行)の4D銀行に代表される金融界であった。1880年にはスペイン以下であった海運力も30年かけてイギリスに追随した(ハパックなど)。
ヴィルヘルム2世の治世では同盟政策を東方問題に左右された。イギリス・フランス・ロシアと対立し、第一次世界大戦で協商国と激しい消耗戦を繰り広げた。1918年には戦力の限界とドイツ革命の勃発によってヴェルサイユ条約に調印し、帝政も終了した。
ドイツは共和国として再出発した(ヴァイマル共和政)。これは連邦制が小党を乱立させて政局を不安定にした。ヴェルサイユ条約がドイツに課した巨額の戦争賠償は経済や政治に悪影響を与えたが、1920年代中頃から米仏の外資による相対的な安定期を迎え、国際社会にも復帰しつつあった。成長は1930年代の世界恐慌に挫かれた。
経済の破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭した。アドルフ・ヒトラーの指導下で、極右的民族主義、差別ともいえる人種政策、さらに拡張的な領土政策を唱えた。1933年ヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げた(ナチス・ドイツ)。ヒトラーは1936年の党大会で石油・ゴム等の戦略物資を自給しようと四ヵ年計画を発表、IGファルベン・コンツェルンが人造品の供給を引受けた。ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、オーストリアやチェコスロバキアの領土を獲得していった(ミュンヘン会談)。次第に英仏との緊張関係が高まった。ポーランド回廊を寸断すべく、ドイツは1939年9月ポーランドへ侵攻した。これが英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦が始まった。一時はフランスを打倒してヴィシー政権を樹立し、ヨーロッパの大半を勢力下に置いた。しかし独ソ戦で形勢を崩した。連合国軍の侵攻によりドイツは無条件降伏した。そしてニュルンベルク裁判がナチスを断罪した。
1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北した。そしてオーデル・ナイセ線以東の、東プロイセンやシュレジェン地域を完全に喪失した。これにより戦前の領土の25%を失った。さらにアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の四カ国に分割占領された(連合軍軍政期)。ソ連が物納での賠償を主張して西側諸国と鋭く対立した(ドル条項問題)。1949年、ボンを暫定的な首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。
西ドイツとフランス両国の首脳が道徳再武装で交流を深めた結果、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。この同年IGファルベンが正式に解散、1952年にはバイエル、ヘキスト、BASF, アグフアなどの12社に分割されたが、やがてバイエル、ヘ