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ドミニカ共和国とは?

ドミニカ共和国
República Dominicana



(国旗) | (国章)
国の標語:Dios, patria, libertad
(スペイン語: 神、祖国、自由)
国歌:勇敢なるキスケージャよ
公用語 スペイン語
首都 サントドミンゴ
最大の都市 サントドミンゴ
政府
大統領 ダニーロ・メディナ
首相 なし
面積
総計 48,730km(127位)
水面積率 0.7%
人口
総計(2016年) 10,780,000人(88位)
人口密度 197人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
2兆5,571億ドミニカ・ペソ
GDP (MER)
【合計(2013年)】
613億ドル(71位)
GDP (PPP)
合計(2013年) 1,268億ドル(72位)
【1人あたり】
12,173ドル

独立
- 日付 スペインより
1821年12月1日

ハイチより
1844年2月27日

スペインより
1865年8月16日
通貨 ドミニカ・ペソ (DOP)
時間帯 UTC -4(DST:なし)
ISO 3166-1 DO / DOM
ccTLD .do
国際電話番号 1-809、1-829、1-849

ドミニカ共和国(ドミニカきょうわこく、スペイン語: República Dominicana)は、西インド諸島大アンティル諸島イスパニョーラ島東部に位置する共和制国家。大アンティル諸島で二番目に大きな島であり、同島西部にあるハイチと国境を接する。モナ海峡を隔てて東にプエルトリコが、ウィンドワード海峡を隔てて西にキューバと、ジャマイカ海峡を隔ててジャマイカが存在する。首都はサントドミンゴ

米州で最初にヨーロッパ人が恒久的に定住した土地であり、その後のスペインの侵略拠点となった。サント・ドミンゴは米州で最も早く建設された植民都市であり、それゆえ米州で初の大学大聖堂要塞が建設された。小アンティル諸島のドミニカ島にあるドミニカ国と区別するため「共和国」をつけて呼ばれる。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先コロンブス期
    • 2.2 スペイン植民地時代
    • 2.3 ハイチの占領
    • 2.4 再独立と再植民地化
    • 2.5 独立国家として
    • 2.6 アメリカ軍政期
    • 2.7 トルヒーヨ時代
    • 2.8 ボッシュ維新政権とドミニカ内戦
    • 2.9 ドミニカ内戦以降
  • 3 政治
  • 4 軍事
  • 5 地方行政区分
    • 5.1 主要都市
  • 6 地理
    • 6.1 河川と湖
    • 6.2 気候
    • 6.3 環境問題
  • 7 経済
    • 7.1 鉱業
    • 7.2 観光
  • 8 国民
    • 8.1 人口
    • 8.2 言語
    • 8.3 宗教
    • 8.4 教育
    • 8.5 移民
      • 8.5.1 日系移民
    • 8.6 治安
  • 9 文化
    • 9.1 食文化
    • 9.2 文学
    • 9.3 音楽
    • 9.4 世界遺産
    • 9.5 祝祭日
  • 10 スポーツ
    • 10.1 野球
  • 11 自然災害
  • 12 脚注
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

国名

正式名称はスペイン語で República Dominicana。

公式な英語表記は Dominican Republic。

日本語の表記はドミニカ共和国漢字表記土弥尼加共和国

植民地時代はサント・ドミンゴと呼ばれており、スペイン人ハイチ共和国など様々な名前の変遷を経て、1844年のハイチからの独立後、1865年のスペインからの最終的な独立時に現在の名称に定まった。

歴史

詳細は「ドミニカ共和国の歴史」を参照

先コロンブス期

紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。

スペイン植民地時代

クリストーバル・コロンイスパニョーラ島上陸。
スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

この島に1492年クリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がヨーロッパ人として初めて上陸し、「スペインの島」(スペイン語: La Isla Española)と新たに名づけた。この語が後にピエトロ・マルティーレ・ダンギエーラによってラテン語化されて「イスパニョーラ」(Hispaniola)と呼ばれるようになった。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟バルトロメによってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。1502年ニコラス・デ・オバンドーが、イスパニョラ島総督に就任した。翌年の1503年には、スペインが植民地との貿易を統括する通商院をセビヤに設置した。その年の12月には、エンコミエンダ制をイスパニョラ島で公認した。先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しくそのほとんどと言っていいほど死んでしまった。サトウキビプランテーションカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷アフリカから連れてきて足りない労働力を補った。1526年からベネスエラ全土がサント・ドミンゴのアウディエンシアの管轄下に置かれていた。イスパニョーラ島の統治は数世紀に渡って疎かにされた。

英西戦争 (1654年-1660年)中にはイングランドオリヴァー・クロムウェルの派遣したウィリアム・ペン遠征軍による侵略の失敗(en:Siege of Santo Domingo (1655))などもある中、島西部が無人状態になったところに目を付けられてフランス人海賊が定住し、最終的に1697年ライスワイク平和条約により、イスパニョーラ島の西側はフランスサン=ドマング(現ハイチ)、東側の3分の2がスペイン領サント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国)となった。

1717年、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が設立されるとベネスエラの行政権はまず副王領に、そして1777年以降はベネスエラ総督領に移管され、1786年にカラカスにアウディエンシアが設立されたことにより、司法権も完全に独立した。

ハイチの占領

ハイチ革命」および「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

その後、スペイン領内では停滞が続いていたが、フランス革命の影響を受けて1791年にサン=ドマングで起きていたハイチ革命の波及や、フランス革命戦争最中の1795年バーゼルの和約が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールの攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の新指導者デサリーヌ1804年にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。

しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の1814年パリ条約で再び東側は正式にスペイン領となるが、折からシモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンホセ・アルティーガスらによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴのクリオージョにも独立の気運が高まり、1821年11月30日にスペイン人ハイチ共和国として独立した。この政権はシモン・ボリーバルの指導するコロンビア共和国への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて1822年1月には再び隣国ハイチのジャン・ピエール・ボワイエに占領された(ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領)。

再独立と再植民地化

詳細は「ドミニカ独立戦争」および「ラ・トリニタリア」を参照

しかし、ボワイエの独裁とハイチの植民地支配に反発する勢力は次第に大きくなっていき、ボワイエが失脚した後の1844年2月27日フアン・パブロ・ドゥアルテマティアス・ラモン・メラ(Matías Ramón Mella)、フランシスコ・デル・ロザリオ・サンチェス(Francisco del Rosario Sánchez)に率いられた革命軍がハイチ人を一掃し、翌1845年ハイチより独立してドミニカ共和国となり、ペドロ・サンタナ将軍が初代大統領に就任した。

しかし、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と結んだドミニカ人自由派がスペイン人に対する独立戦争を激化させ、結局1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡ってアメリカ合衆国への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(この事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期のキューバとも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。

独立国家として

黒人独裁者ウリセス・ウーロー

1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。ウーローは黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領に就任した。しかし、拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。ウーローは1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。

アメリカ軍政期

アメリカ海兵隊の上陸(1916年)。
詳細は「バナナ戦争」を参照

1906年にドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。1924年の選挙でオラシオ・バスケスが大統領に選出され、同年7月にアメリカ軍は撤退した。

トルヒーヨ時代

ラファエル・トルヒーヨ(右)。
米州相互援助条約」も参照

1930年2月にクーデターを起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いた。トルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。

ドミニカ共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で17,000人から35,000人が殺された。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後のキューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。

しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。

ボッシュ維新政権とドミニカ内戦

フアン・ボッシュ
キューバ危機」も参照

1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはドミニカ革命党フアン・ボッシュ・ガビノが大統領に就任した。ボッシュはケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン大佐によるクーデターによって追放されてしまった。こうして軍事評議会に推薦された実業家のレイド・カブラルが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。

しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カーマニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてドミニカ内戦が起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した(ドミニカ侵攻)。4月30日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、米州平和軍(ブラジル軍1,130名、ホンジュラス軍250名、パラグアイ軍184名、ニカラグア軍160名、コスタリカ憲兵21名、エルサルバドル軍3名)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦英語: Operation Power Pack)。こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結した。

ドミニカ内戦以降

ホアキン・バラゲール

1966年の形式的な選挙により、キリスト教社会改革党から「トルヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だったホアキン・バラゲールが大統領になると、バラゲールは軍部と財界の支持を背景に強権政治を行い、死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒーヨ時代に逆行してしまった。1978年から1982年まではドミニカ革命党のアントニオ・グスマンが大統領に就任したが、財政状況は悪化を続けた。1982年から1986年までは サルバドール・ホルヘ・ブランコが大統領になったが、経済状況の悪化を背景に国際通貨基金の要請によって財政緊縮政策が進んだ。

1986年の選挙では80歳のバラゲールが勝利し、観光業、ニッケル、在外ドミニカ人による送金を柱にドミニカ共和国の経済は回復に向かった。1992年にはコロンブスのアメリカ大陸到達500年記念祝賀への反対運動が起きた。1994年の大統領選挙も「不正」をめぐって紛糾したが、1996年の選挙ではドミニカ解放党レオネル・フェルナンデスが大統領に就任した。2000年5月の大統領選挙では社会民主主義を掲げたドミニカ革命党のラファエル・イポリト・メヒーア・ドミンゲスが大統領に就任したが、汚職によって支持を落とした。2004年の大統領選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが再び勝利した。

現大統領は、2012年の大統領選挙でフェルナンデスの後継として出馬し、当選したダニーロ・メディーナ(ドミニカ解放党)である。

政治

サント・ドミンゴの国民宮殿
詳細は「ドミニカ共和国の政治」を参照

ドミニカ共和国の政体は、行政立法司法が独立した一般的な民主主義体系をとっている。大統領は組閣を行い、立法府により制定された法を執行する。また、国防軍の最高指揮官でもある。大統領及び副大統領の任期は4年であり、直接選挙によって選出される。選出の際は、立候補した大統領候補と副大統領候補の組に対して投票を行う。

立法府は、両院制の議会によって構成されている。上院の定員は32名、下院は150名である。大統領選挙は4で割り切れる年に行われ、議会の選挙はそれ以外の年に行われている。

ドミニカ共和国は中華民国(台湾)を承認していたが、2018年5月1日に中華人民共和国と国交を樹立したことにより中華民国が断交を発表した。

軍事

ドミニカ共和国海軍Altair (PB 112)。
詳細は「ドミニカ共和国の軍事」を参照

ドミニカ共和国大統領は軍の最高指揮権を持つ。ドミニカ共和国軍は44,000人の現役兵から構成されているが、実際に軍務に服しているのは24,000人程度で、それ以外の要員は非軍事部門で活躍している。

国家警察はほぼ32,000人でありこのうちの15,000人が通常の警察業務にあたっている。国家警察は内務省の傘下であるため軍の機構ではないが、それでも軍と警察の任務に重なる部分は存在する。現在、国家警察の約半分が、軍事部門と酷似した部門において、伝統的な警察の任務から出た領域で勤務している。

このため、重複している人員約15,000人が軍と警察の中間的業務を担っている。

地方行政区分

詳細は「ドミニカ共和国の行政区画」を参照

ドミニカ共和国は31の(provincia)に分けられる。加えて、首都サント・ドミンゴは首都地区(Distrito Nacional)として独立している。州は郡、市町村などの地方行政区にさらに分けられる。

ドミニカ共和国の地方行政区分。
  1. アスア州
  2. バオルコ州 (シエラ・デ・ネイバ)
  3. バラオナ州
  4. ダハボン州
  5. ドゥアルテ州 (サン・フランシスコ・デ・マコリス)
  6. エリアス・ピーニャ州 (コメンダドール)
  7. エル・セイボ州 (サンタ・クルス・デル・セイボ)
  8. エスパイジャト州 (モカ)
  9. アト・マジョール州
  10. インデペンデンシア州 (ヒマニ)
  11. ラ・アルタグラシア州 (サルバレオン・デ・イグエイ)
  12. ラ・ロマーナ州
  13. ラ・ベガ州
  14. マリア・トリニダー・サンチェス州 (ナグア)
  15. モンセニョール・ノウエル州 (ボナオ)
  16. モンテ・クリスティ州
  17. モンテ・プラタ州
  18. ペデルナレス州
  19. ペラビア州 (バニ)
  20. プエルト・プラタ州
  21. エルマナス・ミラバル州 (かつてのサルセド)
  22. サマナ州
  23. サンチェス・ラミレス州 (コツイ)
  24. サン・クリストバル州
  25. サン・ホセ・デ・オコア州
  26. サン・フアン州
  27. サン・ペドロ・デ・マコリス州
  28. サンティアゴ州
  29. サンティアゴ・ロドリゲス州 (サン・イグナシオ・デ・サバネタ)
  30. サント・ドミンゴ州
  31. バルベルデ州 (マオ)
    D.N.*

主要都市

詳細は「ドミニカ共和国の都市の一覧」を参照

地理

ドミニカ共和国の地図。
エンリキーリョ湖
詳細は「イスパニョーラ島」を参照

ドミニカ共和国はハイチと共に大アンティル諸島で二番目に大きいイスパニョーラ島に位置し、およそ島の2/3の面積を占め、カリブ海ではキューバの次に大きい。ドミニカには三つの山脈と、その間に位置する四つの平野があり、それぞれがハイチから続く中央山脈、セプテントリオナル山脈、オリエンタル山脈となっており、中央山脈とセプテントリオナル山脈の間の裾野には同国で最も肥沃なシバオ平野が広がる。その他、北部には北部山脈、西部にはネイバ山脈、南西部にはバオルコ山脈、東部には東部山脈など全土に当たって大小の山脈が走っている。各山脈の谷間には、落差の大きい壮大な滝が多く、特に中央山脈内にあるアギアス・ブランカスはアンティル諸島最大の91メートルの落差があり、観光名所の一つとなっている。

最高峰はドゥアルテ峰 (3175m)であり、これはカリブ海諸国での最高峰でもある。また同国最大の湖エンリキージョ湖はカリブ海での最大の湖でもある。かつてコロンブスがこの地に上陸した時は、世界で最も美しい風景だと称えた。

河川と湖

国内最高峰のドゥアルテ峰から85km程南西には標高マイナス40mの塩湖エンリキーリョ湖が存在し、これはカリブ海でも最も低いものである。ただし、これ以外は余り大きな湖には恵まれていない。ドミニカ共和国の55ある湖の内、アラワク族の名づけたものは45個に達する。ハイチとの国境河川であるアルティボニート川は全長321キロメートルある。ジャケ・デル・ノルテ川は308メートルあり北部の穀倉地帯のなかを走る。他には各山脈から湖や海岸に向かって流れる多数の中小河川がある。いずれの河川も農業用水や生活用水として使われるが、治水が十分でないので数年に一度は洪水をもたらし甚大な被害をもたらす。

気候

気候は熱帯サバナ気候(Aw)に属すが、標高と海岸からの距離によって高山性か海洋性かに分かれる。その受ける影響によって気候の地域差がはっきりする。国内の日中の最高気温は、年間を通じてほとんどの都市で30度を超える。しかし、海岸沿いの都市では海洋性を帯びているため過ごしやすい。標高の高い高原都市では気温の割合に少しひんやりとした風が山から下りてくる。 ドミニカ共和国は、北半球にあるため、雨季は夏季(5月から11月)であり、6月から11月はハリケーンが飛来する。この時期には年間平均2〜4個の熱帯性低気圧が発生する。12月から3月は北大西洋寒気団の影響を受ける。北部と東部で最も多く雨が降り、西部で最も少なくなる。年間平均降水量は1346mmだが蒸発が激しい。例を挙げると北部のサマナでは2500mm以上、南西部のバラオナでは625mmといった具合である。

年平均気温は32℃を超えることは稀であり、季節風の影響ですごしやすい。しかし、中央山脈の高原都市コンスタンサのような都市では、冬季(12月や1月)の気温が氷点下に達することもある。しかし、日本ほどの季節差はない。

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出典:wikipedia
2019/04/14 17:19

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