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ドワイト・D・アイゼンハワーとは?

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年5月)
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower



任期 1953年1月20日1961年1月20日
副大統領 リチャード・ニクソン

出生 1890年10月14日
アメリカ合衆国
テキサス州デニソン
死去 (1969-03-28) 1969年3月28日(78歳没)
アメリカ合衆国ワシントンD.C.
政党 共和党
出身校 陸軍士官学校
配偶者 マミー・アイゼンハワー
子女 ダウド・アイゼンハワー
ジョン・アイゼンハワー
署名
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower
【所属組織】
アメリカ陸軍
【軍歴】
1915年 - 1953年
1961年 - 1969年
【最終階級】
元帥
世界ゴルフ殿堂
殿堂表彰者

【選出年】
2009年
【選出部門】
特別功労

ドワイト・デビッド・“アイク”・アイゼンハワー(Dwight David "Ike" Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国軍人政治家連合国遠征軍最高司令官(英語:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)、陸軍参謀総長NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」。

生い立ちと家族

アイゼンハワーはデイヴィッド・ジェイコブ(David Jacob Eisenhower)とイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワー(Ida Elizabeth Stover)の7人の息子の3番目として、テキサス州デニソンで生まれた。

ドイツ西南部、フランスとの国境に近いザールブリュッケン郡カールスブルン(Karlsbrunn)より宗教的迫害を逃れて17世紀にスイスに移住し、さらに1730年アメリカのヨーク地区、のちにランカスターに移住したペンシルベニア・ドイツ人に近い家系の出身である。

スウェーデン系説、ユダヤ系説も存在し、父はウェストポイントの1915年に発刊された卒業年次別名簿に、スウェーデン系ユダヤ人と書かれている。

また、母イーダはメノー派スイス系ドイツ人リヴァー兄弟団(River Brethren)、のちにエホバの証人ものみの塔協会のメンバーで1898年に洗礼を受ける。

アイゼンハワー家は、ドイツ系であったが、18世紀以来ずっとアメリカで暮らしていた。その後一家は1892年カンザス州アビリーンへ転居した。

バター工場からウエストポイントへ

アイゼンハワーはアビリーン高校に入学し、1909年に卒業した。在学中膝の怪我による感染症が脚の付け根まで拡がり、命の危険があると診断された。医師は足の切断を勧めたが、彼は拒否し、後に奇跡的に回復している。しかし1年留年するはめとなった。

高校卒業後、ドワイトと兄エドガーは大学進学を希望していたが、経済的に困難な状況であった。そこで彼らは、一方が大学に通い、もう一方がその年の授業料を稼ぐという取り決めをした。始めの年はエドガーが大学に通い、ドワイトはベルスプリングのバター工場で夜勤シフトの従業員として働き始めた。1年後、エドガーは連続で通学したいと申し出た。ドワイトは承諾して、引き続きバター工場で働くこととなった。

その時期、ハズレットという友人が海軍兵学校へ出願する際、授業料は必要ないからとドワイトにも受験するよう勧めてきた。彼は軍人になる決意を固め、カンザス州上院議員ジョゼフ・L・ブリストウの推薦を得ることに成功した(今日ブリストウ議員はアイゼンハワーの推薦人となったことで最もよく知られている)。アイゼンハワーは陸軍海軍の入学試験に首尾よく合格したが、海軍は年齢制限のため入れず、1911年にウエストポイントにある陸軍士官学校への入学を決めた。これ以後1969年に死去するまで、大統領であった8年間を除き、軍人としてのキャリアが続くこととなる。約束は果たされなかったが、兄エドガーは無事ミシガン大学ロースクールを卒業し、やり手の弁護士としてワシントン州で開業している。

結婚

アイゼンハワーはコロラド州デンバーマミー・ジュネーブ・ダウド(1896年 - 1979年)と1916年7月1日に結婚した。彼らはダウド・ドワイト・アイゼンハワー(1917年 - 1921年)およびジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(1922年ー2013年)をもうけた。ジョン・アイゼンハワーは陸軍で勤務し、次に作家になり、ベルギー大使を務めた。ジョン・アイゼンハワーの息子デーヴィッド・アイゼンハワーは、リチャード・ニクソンの娘ジュリーと1968年に結婚した。

軍歴

FT-17軽戦車と少佐時代のアイゼンハワー

アイゼンハワーは士官学校を1915年に卒業し、テキサスジョージアの様々なキャンプで1918年まで歩兵と共に、また1918年から1922年まではメリーランド州キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。第一次世界大戦への従軍を願い出たが、許可されなかった。

1917年に大尉、1920年に少佐に昇進し、次いで1922年から1924年の間にパナマ運河地帯でフォックス・コナー将軍の副官の地位にあり、軍事面で彼から大きな影響を受け、優れた管理能力を身に付けた。1925年1926年にはカンザス州フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に勤務し、1927年までジョージア州フォートベニングで大隊指揮官を務めた。

1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。階級も16年間少佐のままであった。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に就任、その後ジョン・パーシング将軍によってワシントンD.C.の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年 - 1933年)の副官を務めた。

その後、アイゼンハワーは1935年まで陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官を務め、1935年に陸軍参謀総長を退任して少将に戻ったマッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、マッカーサーの希望で副官となった。マッカーサーは着任後、アメリカ軍の威容を示すためにマニラ市内でパレードをすることを思いつき、アイゼンハワーに計画を立てさせ、各方面に折衝を行わせた。ところが、このパレード計画はフィリピン・コモンウェルス政府に無断で行われていたため、マニュエル・ケソン大統領が抗議を行った。マッカーサーは副官であるアイゼンハワーのミスであると弁解し、アイゼンハワーをしかりつけた。以後、マッカーサーはアイゼンハワーの細かい失敗を指摘しつづけ、嫌になったアイゼンハワーが転任希望を出してもそれを握りつぶし続けた。その後、1936年に、ようやく中佐に昇進した。

その後、1940年1月にアメリカへ戻り、ワシントン州フォート・ルイスの第15歩兵連隊勤務となった。これ以降は順調な出世を重ね、11月には第3師団の参謀長、1941年3月に大佐に昇進して第9軍団参謀長、6月にはテキサス州フォート・サム・ヒューストン第3軍の司令官ウォルター・クルーガー中将の参謀長に任命された。アイゼンハワーは1941年9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。

1941年12月7日日本軍による真珠湾攻撃の後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に任命された。アイゼンハワーは陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に任命され、数日後には少将に昇進した。アイゼンハワーはここで対独作戦計画を立案した。アイゼンハワーの計画は、イギリスを基地として、戦略爆撃・海軍艦艇の大量起用・大規模な上陸作戦を行うことで西北ヨーロッパを制圧するというものであった。マーシャルはこの計画を承認し、その際の指揮官としてアイゼンハワーを登用することを決めた。まもなく中将に昇進したアイゼンハワーは、来るべきヨーロッパでの反攻作戦のためにイギリスに向かうことになった。

ヨーロッパにおける連合国軍指揮官

ポツダム会談時
右からオマール・ブラッドレー、アイゼンハワー、ジョージ・パットン

1942年6月、アイゼンハワーはロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官(Commander in Chief, Allied Force、略称:CINCAF)に着任し、イギリス軍や旧ヴィシー政権軍の将軍たちとの調整を行った。

アイゼンハワーはアメリカ軍による新聞検閲制度を廃止し、兵士たちのトラブルをあえて開示することで綱紀を粛正しようとした。また兵士たちに対して、アメリカの戦争目的が民主主義のためであるという教育を徹底させ、さらに兵士たちにイギリス人に対する配慮を求めることで、両国間の関係を改善させた。アイゼンハワー自身に対する人気も高まり、日に9回もパーティーに出席せねばならないほどであった。

最初の大仕事はモロッコアルジェリアへの連合軍上陸作戦、すなわち1942年11月8日に開始された「トーチ作戦」であった。アイゼンハワーがトーチ作戦の最高司令官の座を要求したアンリ・ジロー大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることで収めたことは、彼の高い調整能力を示すものであった。

マーシャルやフランクリン・ルーズベルト大統領は「国威発揚をもたらし、高い調整能力をもつ」として、1944年3月にアイゼンハワーを大将に任命した。中佐になってからわずか4年であり、この時点では空前のスピード昇進であった。

以降ハスキー作戦に始まるイタリア戦線の最高指揮官となり、ジョージ・パットンバーナード・モントゴメリーといった癖の強い部下たちの調整に当たった。9月8日にはイタリア王国との休戦条約を締結している(イタリアの降伏)。

連合国遠征軍最高司令官

イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、ヨーロッパ反攻作戦における連合国遠征軍最高司令官にアイゼンハワーではなく陸軍参謀総長のマーシャル大将を希望し、ルーズベルト大統領もそれに傾いていたが、統合参謀本部のメンバーである大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ大将、アメリカ合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将、陸軍航空軍総司令官ヘンリー・アーノルド大将は、統合参謀本部にマーシャルは不可欠であるとして反対し、ルーズベルト大統領はカイロ会談テヘラン会談を終えて帰国する直前に、アイゼンハワーを連合国遠征軍最高司令官とすることに決定した。

連合国遠征軍最高司令部はヨーロッパ反攻作戦として「オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)」の計画を行い、アイゼンハワーはその計画の実行を1944年6月6日(D-デイ)とする決断を行った。上陸作戦は成功し、その後も順調に戦線を拡大した。

12月20日、陸軍元帥に昇進した。アイゼンハワーは1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)。これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1945年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。

アイゼンハワーはこれらの地位で、リーダーシップと外交の偉大な才能を示した。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍やパットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、チャーチル首相、モントゴメリー元帥およびシャルル・ド・ゴール将軍のような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上チャーチルやモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。またアイゼンハワーは、ゲオルギー・ジューコフのようなソ連の司令官や、しばしばヨシフ・スターリンと直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであり、ソ連からもアイゼンハワーは高く評価されて勝利勲章を贈られた。彼はサインに「アイク」と署名することを好み、一般の兵士たちにも気を配って不正を根絶しようとした。このため一般将兵からも高い人気を得、彼らは後の大統領選挙においてもアイゼンハワーを支持することになる。

1945年5月8日のドイツの降伏後、アイゼンハワーはフランクフルトを本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、ほどなくパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。

冷戦中の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身、現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、大統領選挙に当たって1952年7月に陸軍を退役している。そして大統領を2期8年務めた後、次のケネディ大統領はただちにアイゼンハワーを「1944年12月20日に溯って現役の陸軍元帥に再任」している(「現役復帰」ではない)。

大統領選でのアイゼンハワー

アイゼンハワーは1948年7月にコロンビア大学の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり、当人は政治にほとんど関心がなく選挙で投票したこともなかったので、支持政党が共和党民主党かも知られていなかった。

トルーマンは否定しているが、歴史家の何人かは1948年アメリカ合衆国大統領選挙でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。1952年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。その理由としてアイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った。オハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。

大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補であるイリノイ州知事で民主党のアドレー・スティーブンソンについて言及しなかった。その代わりに他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーはカリフォルニアから選出された若手の上院議員で、反共姿勢で知られたリチャード・ニクソンを副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442人の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。対するスティーブンソンの得票は89だった。

大統領としてのアイゼンハワー

ホワイトハウスで、1956年2月29日

1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には、1952年に続いてテキサスとテネシーのような伝統的に共和党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回選挙以上の大差をもって破り、1期目の副大統領のニクソンとともに再選された。

外交問題

ワシントンD.C.を訪れた南ベトナムゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるアイゼンハワー
サウジアラビアサウード・ビン・アブドゥルアズィーズ国王およびニクソン副大統領とともに
フルシチョフ夫妻とともに
スペインフランシスコ・フランコとアイゼンハワー
2期目の就任式に臨むアイゼンハワーとニクソン

大統領時代はソビエト連邦を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする西側諸国との冷戦の最盛期ともいえる時代であった。アイゼンハワー政権を支えたニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮、拡大した。また、当時のジョセフ・マッカーシーを代表とする共和党右派の過激な反共主義者の煽動も存在した。だが、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め政策を受け、平和共存と穏健な保守路線を追求した。

アジア

就任後には行き詰まった朝鮮戦争を停止すると約束し、朝鮮戦争休戦協定1953年7月に署名された。さらにアジアでの共産主義国による脅威をとどめるために、大韓民国米韓相互防衛条約を、中華民国米華相互防衛条約に署名したほか、東南アジア条約機構を形成した。また、ニクソン副大統領を日本や韓国、中華民国、オーストラリアニュージーランドなどの友好国に送り、自由主義陣営と同盟国を重視する外交を推進した。

スペイン

トルーマンは第二次世界大戦の際に枢軸国寄りの中立姿勢をとったスペインフランシスコ・フランコ政権に敵対的で国連のスペイン追放決議に賛成し、アメリカ大使を召還してスペインに対するマーシャル・プランの財政援助も拒否していたが、冷戦の開始に伴って関係修復の機運が高まり、アイゼンハワーはスペインと米西防衛協定を締結して軍事援助・経済援助を行った。1959年12月には、スペインを訪問してフランコと歴史的な会見を行った。

インドシナ

トルーマンが拡大を続けたインドシナ戦争を戦うフランス軍へのアメリカからの援助は、1952年度までに年額約3億ドルに及び、アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7,000万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)はフランス軍の兵力不足を補うべく活動した。

1953年11月に行われたディエンビエンフーの戦いにおいて、フランス軍降伏の報せを聞いたニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をアイゼンハワーに進言したが却下された。またアメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。

1954年にジュネーブ協定が締結しインドシナ戦争が終結したことでフランスが去り、ベトナム共和国(南ベトナム)が成立した後の1955年11月には、「インドシナ米軍事援助顧問団」が「南ベトナム米軍事援助顧問団」へと改組された。その後フランスに代わりインドシナ半島の反共勢力を支援することとなったアメリカと、ゴ・ディン・ディエム率いる南ベトナムとの関係は強化され、軍事支援の規模も拡大されたが、アイゼンハワー政権下においては正規軍の派遣は行われなかった。しかしケネディ政権では事実上の正規軍の派遣までその規模が拡大され、その後ベトナム戦争となる。

日本

1957年6月、岸信介が初めて訪米した際、アイゼンハワーは岸を真っ先にゴルフに連れ出した。プレー後には「大統領になると嫌なやつともテーブルを囲まねばならないが、ゴルフは好きなやつとしかできない」と語るなど、両者の信頼関係の礎となった。

1960年1月に、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」を日本との間で締結したのを受け、6月に岸の招待で日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ(当時の日本における表記は「ハガチー」)大統領報道官東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生した。さらに6月15日には、警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生の樺美智子が圧死するという事件が発生した上、銃撃などによりアイゼンハワーの身に危害が加えられる可能性も出てきたという情報すら入ってきたため、最終的に日本側よりアメリカに訪日を止めるよう要請し、訪問を取りやめた。なお、その後の条約の自動承認を受けて、岸は辞職した。

中東

1956年スエズ運河の管理に関する論争で、イギリスフランスエジプトへの軍事介入を強く非難した(スエズ危機)。この際にアイゼンハワーは冷戦で対立していたソ連ニコライ・ブルガーニン首相と協力し、国際連合拒否権行使する英仏を押し退けて米ソ協調で可決された国際連合安全保障理事会決議第119号によって平和のための結集決議での国連緊急総会が招集され、同年11月2日には英・仏・イスラエルに対し即時停戦を求める決議を求める総会決議997の採択に成功する。アメリカ・国際連合・ソ連により圧力を受け、同年11月6日に英仏は停戦受諾、同年11月8日にはイスラエルも受諾、スエズ危機は解決した。

大統領職2期目中の1957年レバノンへ軍隊を送り、またシャー・マホメット・レザ・パーレヴィが権力を回復するためのイランでのクーデターを支援して、中東問題にますます没頭するようになった。

ソ連

アイゼンハワーの下でアメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は核兵器を含む第三次世界大戦を恐れていた。1953年のスターリンの死後、後継者のニキータ・フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。同年末に国連総会で行った「平和のための原子力」演説は有名である。

ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、1960年にソ連上空でU-2偵察機が撃墜されたこと(U-2撃墜事件)で失敗した。フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で「アイゼンハワ

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出典:wikipedia
2020/06/02 01:19

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