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ナチス・ドイツのフランス侵攻とは?

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【フランスの戦い】

第二次世界大戦西部戦線

(時計回りに)フランスの町を通過するドイツ軍のIV号戦車パリ凱旋門を行進するドイツ軍、アルデンヌを進むフランス軍のR35戦車、投降するフランス軍とイギリス軍の兵士、マジノ線に配置された兵士
【時】
1940年5月10日6月25日
【場所】
フランス及びベネルクス
【結果】

枢軸軍勝利


【領土の
変化】
  • アルザス=ロレーヌをドイツに、マントンをイタリアに割譲
  • ドイツ進駐領域イタリア南仏進駐領域成立
  • 自由地域ヴィシーフランス政権が樹立


  • 【衝突した勢力】

    ナチス・ドイツ
    イタリア王国(6月10日-) |  フランス
    イギリス
    カナダ
    ベルギー
    オランダ
    ルクセンブルク
    チェコスロバキア亡命政府
    ポーランド亡命政府
    【指揮官】

    ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
    ゲルト・フォン・ルントシュテット
    フェードア・フォン・ボック
    ヴィルヘルム・フォン・レープ
    アルベルト・ケッセルリンク
    フーゴ・シュペルレ
    エルヴィン・ロンメル
    ハインツ・グデーリアン
    ピエモンテ公ウンベルト
    ピエトロ・ピントール
    アルフレード・グッツォーニ |  モーリス・ガムラン
    マキシム・ウェイガン
    アルフォンス・ジョルジュ
    ゴート子爵ジョン・ヴェレカー
    レオポルド3世 (捕虜)
    ヘンリー・ヴィンケルマン (捕虜)
    ヴワディスワフ・シコルスキ
    【部隊】

    枢軸軍
    • B軍集団
    • 独第18軍
    • 独第6軍
    • A軍集団
    • 独第4軍
    • 独第12軍
    • 独第16軍
    • C軍集団
    • 独第1軍
    • 独第7軍
    • 西方軍集団
    • 伊第1軍
    • 伊第4軍
     | 
    連合軍
    • 第1軍集団
    • 仏第7軍
    • 仏第1軍
    • 仏第9軍
    • 仏第2軍
    • イギリス大陸派遣軍
    • 第2軍集団
    • 仏第3軍
    • 仏第4軍
    • 仏第5軍
    • 第3軍集団
    • 仏第8軍
    • アルプス方面軍
    • 仏第6軍
    • ベルギー軍
    • オランダ軍

    【戦力】

     | 
    【被害者数】

    ドイツ
    戦死2万7074人
    戦傷11万人
    行方不明者1万8384人
    戦車・装甲車753両
    航空機1,236機
    イタリア
    戦死631人
    戦傷2631人
    行方不明者616人 | フランス及びイギリス
    戦死・戦傷36万人
    捕虜190万人
    戦車・装甲車5,100両
    航空機2,000機
    フランスを侵攻するI号戦車II号戦車
    フランス軍のルノーB1重戦車機甲師団を持つドイツに各地で撃破された
    マンシュタインの侵攻計画

    ナチス・ドイツのフランス侵攻(ナチス・ドイツのフランスしんこう)は、第二次世界大戦中の1940年5月に発生したドイツ軍をはじめとする枢軸国軍と連合国軍とのベネルクス三国フランス北部での戦闘である。ドイツ軍の電撃戦が最も成功を収めた例と考えられている。フランスの戦い(フランス語: Bataille de France)、西方戦役(ドイツ語: Westfeldzuge)とも呼ばれる。ドイツ側の作戦名は第1フェイズ(ベネルクス三国、フランス北部侵攻)が黄色作戦(Fall Gelb、ファル・ゲルプ)、第2フェイズ(フランス本国侵攻)が赤色作戦(Fall Rot、ファル・ロート)である。

    概要

    1939年9月1日にドイツ軍ポーランドに侵攻したことを受けて9月3日、フランスイギリスとともにドイツ宣戦布告したが、フランス・ドイツ国境地帯(アルザス=ロレーヌ)において戦闘はほとんど起こらず、フランス人が言うところの「奇妙な戦争」の様子を見せていた。

    開戦から半年以上が過ぎた1940年5月10日、ドイツ軍はオランダベルギールクセンブルクベネルクス三国に侵攻を開始。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前からの計画(ディール計画)に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力をベルギー方面に進出させ、フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を挟んでドイツ軍と対峙していたが、ドイツ軍はベネルクス三国とマジノ要塞の中間に位置し、フランス軍の防御が手薄となっていたアルデンヌの森から戦車部隊を投入させていた。このことによってフランス軍の防衛線は崩壊、ベルギー方面に進出したフランス・イギリス連合軍もドイツ軍に包囲され、5月末、これらの部隊の多くがイギリス本土への撤退にかろうじて成功した(ダイナモ作戦)ものの、もはやフランス軍にドイツ軍を止める戦力は残っていなかった。

    6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城し、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職、後継のフィリップ・ペタン元帥はドイツへの休戦を申し入れた。6月22日、コンピエーニュの森において休戦条約が調印された(独仏休戦協定)。フランス軍の大半は武装解除され、アルザス=ロレーヌ、サヴォワニースはそれぞれドイツ、イタリアに割譲されたものの、フランスは主権国家として存続することとなった。しかしパリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下におかれ、ペタンを首班とするヴィシー政権の影響力は南部に限定された上に内政外政ともにドイツの影響下に置かれることとなった。一方、前国防次官シャルル・ド・ゴール准将は亡命先のイギリスで「自由フランス」を結成し、フランス国民に対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼びかけることとなる。

    戦いの背景

    ドイツの指導者のヒトラーは、ポーランド侵攻の直後に西部戦線での戦闘を予定していたが、欧州の冬の悪天候では空軍の支援がおぼつかなく、翌年に延期された。一向に戦闘が始まらないこの戦争を、イギリス人、アメリカ人は「奇妙な戦争」、ドイツ人は「座り込み戦争」と称した。

    当初の作戦計画はシュリーフェン・プランに沿ったものであった。しかし1940年1月10日、ドイツ空軍第2航空艦隊参謀将校が第一次黄色作戦での第二航空艦隊運用計画書を所持したまま飛行機事故に遭遇、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、焼却に失敗した書類の一部が押収されるという事件が発生した(メヘレン事件)。そのため作戦内容が連合軍側へ漏洩してしまったと考えねばならず、1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意した。第一次世界大戦に従軍し、西部戦線で悲惨な塹壕戦を経験しており、シュリーフェン・プランに不満を抱いていたヒトラーの後押しで、エーリッヒ・フォン・マンシュタインの作戦(マンシュタイン計画)計画が採用された。

    マンシュタイン計画に基づいて、ドイツ国防軍はマジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにするC軍集団、ベルギーとオランダに侵攻する歩兵主力のB軍集団と、森林地帯を抜ける装甲師団主力のA軍集団の三つに分かれ、1940年5月10日一斉に越境した。これに対し、フランス軍とベルギー軍、イギリス海外派遣軍(BEF)から成る連合軍は、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが侵攻すると予想しており、ベルギーのディール川沿いに防衛線を敷いた。戦力的には連合軍が勝っていたが、装甲師団がほとんど無く、戦車は歩兵の中に散らばって配置されているなど防戦思考で、戦術面でドイツに大きく劣っていた。

    戦いの経過

    空挺作戦による要塞制圧

    詳細は「ベルギーの戦い」および「オランダにおける戦い (1940年)」を参照

    B軍集団の侵攻ルートにはベルギー・オランダの要塞が各所に点在しており、装甲師団の多く(10個師団中、7個師団)は A軍集団に配置されたため、空挺部隊による制圧が行われた。5月10日、ベルギーのエバン・エマール要塞にグライダーで工兵が降下し、各トーチカに爆薬を貼り付け、破壊活動を行った(翌日歩兵部隊が到着し制圧)。その後もドイツ軍はオランダの各要塞に落下傘降下を行い、ロッテルダム戦略爆撃を行うなどし、オランダは戦闘能力を失って14日に降伏した。

    A軍集団の進撃

    森林地帯を抜けたA軍集団がムーズ川の対岸で遭遇したのは、予想通り弱体なフランス歩兵部隊だった。5月13日、3個装甲師団がスダンで渡河作戦を開始、激しい支援爆撃の下に橋頭堡を確保し、翌日には渡河に成功した。以後、ムーズ川各所で残りの装甲師団も渡河に成功し、遮る敵部隊のいないフランス北部をイギリス海峡に向けて突進した。

    連合軍の総退却

    5月16日、A軍集団が背後へなだれ込んだことを知らされた連合軍は総退却を開始。しかし、機動力に勝るA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと追い詰められていく。

    アラスの戦い

    詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照

    5月19日、ついにドイツA軍集団の先頭を行く第二装甲師団がドーバー海峡に達し、連合軍はフランス本土から切り離されてしまった。しかし、一方でハインツ・グデーリアンの装甲軍団は突出しすぎて後続の歩兵各師団とは離れてしまっており、連合軍の背後を完全に遮断するには至っていなかったため、連合軍のフランス本土への退却はまだ可能なように思われた。英国陸軍参謀総長エドムンド・アイアンサイドは、フランス軍司令部がA軍集団への反撃および連合軍-フランス本土間の連絡線の確保のための行動を起こさないことに業を煮やし、自ら作戦に介入することを決意した。ただし実際には、連合軍はドイツB軍集団による北東方向からの激しい圧迫を受けており、反対方向の南方面に転進させる兵力の余裕はなかった。

    アイアンサイドはBEF司令官ゴート子爵ジョン・ヴェリカーと協議し、フランス第一軍集団司令官ピエール・ビョット(fr:Pierre Billotte)を説得して、英仏共同による南方面への反撃を行うことで同意に至った。21日、予備兵力として温存されていたイギリス海外派遣軍二個師団によるアラス方面への反撃が開始された。しかし、事前の連絡不徹底と英仏両軍間の不和により、同時に行われるはずであったフランス二個師団によるカンブレー方面への攻撃は翌22日に延期されてしまった。また、これも事前確認の不徹底により、二個師団によって全力で行われるはずであった英軍によるアラス方面への反撃も、実際には戦車二個大隊と歩兵二個大隊にフランス軍の戦車が若干加わっただけの兵力で行われた。

    だが、この反撃はタイミングがよかったため予想以上の効果をもたらした。無線設備をほとんど持たず、ドイツ軍に制空権を掌握され偵察もできなかった英軍にとってはまさに五里霧中の作戦行動であったが、ちょうどアラスを迂回して突進中であったエルヴィン・ロンメルの第七装甲師団の横っ腹に突っ込む形となったのであった。当時、第七装甲師団の戦車連隊は二つとも遠く前進してしまっており、アラスの南側を進撃中であった狙撃兵連隊(名称は「狙撃兵」だが、実態は自動車化歩兵)と砲兵隊が、英軍の戦車二個大隊による襲撃を受けることになった。

    本来、第七装甲師団の北側を防御するはずだった第五装甲師団は進撃が遅れており、第七装甲師団の南側を併走していたSS師団「トーテンコップ」は戦闘経験がなく、英軍の戦車を目にするや戦わずして逃亡してしまった。第七装甲師団は直ちに対戦車陣地を構築して迎え撃ったが、師団長のロンメルは不在であり、英軍のマチルダII歩兵戦車の分厚い装甲に37mm対戦車砲が歯が立たず、英軍に突破されてしまうかに思われた。しかし、前進していたロンメルが戻ってくるとドイツ側は陣地の再構築を行い、特に88mm高射砲による水平射撃がマチルダII歩兵戦車に有効だったこともあり、英軍戦車の突進を食い止め、撃退することに成功した。さらに退却する英軍戦車大隊を、救援要請を受けたドイツ空軍の急降下爆撃機部隊が追撃し、英軍によるアラス方面への反撃はわずか半日で失敗、終結することになった。

    一方、翌22日にフランス軍によるカンブレーへの攻撃が行われたが、前日のアラスでの戦いで警戒を強めていたドイツ空軍にすぐ発見されてしまい、激しい空爆を受けてやむなく撤退した。こうして、連合軍による南方面への反撃はたいした戦果を挙げることもなく失敗に終わったのである。

    しかしこの戦いは二つの波紋を呼んだ。ひとつは、BEF司令官ゴートに英国本土への撤退を決意させたことと、もうひとつは連合軍が反撃してきたことにショックを覚えたヒトラーが、快進撃を続ける装甲各軍団に停止命令を下したことであった。このふたつの波紋がダンケルクの奇跡を起こすのである。

    ダンケルク包囲戦

    詳細は「ダンケルクの戦い」および「ダイナモ作戦」を参照

    5月28日、ベルギーが降伏した。A軍集団はイギリス海峡のブーローニュカレーなどの港湾都市を制圧した。連合軍は西からはA軍集団装甲部隊・南からは歩兵隊・東からは追撃してきた B軍集団によって、港湾都市ダンケルク周辺で完全に包囲された。しかし、装甲師団に損害が出るのを恐れたヒトラーは、ゲーリングが「空軍のみで連合軍を撃破できる」と主張したこともあり、5月23日に進軍停止を命じた。数日後に装甲師団が進撃を再開した時、ダンケルクはすでに要塞化されており、ドイツ軍がこれを制圧したのは6月5日、その間に連合軍将兵34万人はイギリスへの脱出に成功していた。

    休戦協定の調印

    フランス代表との休戦協定調印式に出席したヒトラー。ゲーリングの姿も見える
    パリでのドイツ軍のパレード
    パレードの様子
    エトワール凱旋門で行進を行うドイツ軍
    フランス軍のトゥーロン撤退を見送る市民の様子
    1943年、占領下でのドイツ兵

    イギリス軍将兵と一部のフランス軍将兵はイギリスへ脱出したものの、これは戦車・火砲など重機材を放棄しての脱出だった。その後のフランスは、残存部隊やマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の部隊で防衛するしかなかった。イギリス軍は歩兵2個師団を再び派遣しているが、のちにエアリアル作戦で撤退した。

    ダンケルク包囲戦が終わりドイツ軍が進撃を再開すると、フランス政府は6月10日にパリ無防備都市と宣言して放棄、政府をボルドーに移した。同日、イタリアが英仏に対し宣戦を布告。

    6月14日にはドイツ軍がパリに無血入城した。

    6月15日、降伏派のフィリップ・ペタンが首相となり、レイノーらは亡命を目指した。ペタンの率いるフランス政府はドイツに休戦を申し込んだ。6月22日、第一次世界大戦におけるドイツの休戦協定の締結を再現し、コンピエーニュの森に引き出された食堂車の中でドイツ代表とフランス代表は休戦協定に調印した(独仏休戦協定)。

    フランスの敗因

     | 
    この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2019年8月)

    防衛の不備

    かねてから、イギリスのウィンストン・チャーチルはフランス軍が弱小であると指摘し、要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やす方針を批判してきた。しかし、フランスは軍備拡張がドイツを刺激するのを恐れ、チャーチルの苦言に耳を貸さず、陣地防衛中心の戦略を立てていた。

    また、後にドイツ軍戦車の侵攻ルートとなるアルデンヌの森やムーズ川は戦車が通過できないと判定しており、軍部は防備の強化を求める意見を拒否した。スダン周辺に配置されていた第九軍は弱体な部隊であり、さらにアルデンヌからスダンへ通じる道に設置されていた戦車障害物を撤去させたともいう。

    侵攻開始直前、ドイツ軍の戦力がアルデンヌに集中していると判明してからもフランス軍は対応策をとらず、ドイツ軍の侵攻を許す結果となった。

    戦争指導の欠陥

    宣戦布告後においてもなおドイツの報復を恐れ、積極的な攻撃計画を実行しなかった。当時発生していた冬戦争におけるフィンランドへの支援や宣戦布告していないソビエト連邦への攻撃をイギリス側に提案するなど、ドイツ軍への備えはほとんど考慮されなかった。

    軍事面の最高指揮官である、陸軍総司令官兼参謀総長モーリス・ガムラン大将は、ドイツを果敢に攻めるのをためらいマジノ線の要塞に待機して防戦しようとしたため、適切な指揮を行わなかった。さらにフランス軍は無線に積極的に取り組んでいなかったこともあり、パリ郊外ヴァンセンヌ城に置かれた陸軍総司令部には無線や軍用電話、テレタイプ端末も設置されず、伝書鳩もいなかった。連絡は通常電話やオートバイによる伝令に頼ったため、前線へ指示を伝達するのに48時間を要したという。

    ドイツ軍の侵攻前日、侵攻の気配を知らせる情報が次々と司令部に届いたが、総司令部は何の対応も取らなかった。翌日、ガムランはドイツ軍が侵攻を開始したという連絡を受けたが、指示すら出さずに寝室に入っていった。

    政府の内部分裂

    さらに、フランス政府の内部分裂が拍車を掛ける。もともと小党が分立する第三共和政下のフランス政界では政変が日常茶飯事であり、しかも第二次世界大戦開始時指導者であるエドゥアール・ダラディエ首相とポール・レノー蔵相との仲は険悪であった。レノーは1940年3月にダラディエ内閣を総辞職に追い込み、自ら首相に就任するが、国防相としてダラディエを政権内に残さざるを得なかった。その後も対立は続き、政治面での戦争指導を甚だしく阻害した。ドイツ侵攻前にレノーはガムランの解任を考えていたが、ガムランの友人であったダラディエの反対で失敗している。

    5月20日、戦局の悪化を受けてレノーは内閣改造とガムランの更迭を行った。副首相にフィリップ・ペタン、総司令官にマキシム・ウェイガンを据えたが、戦局はどうにもならず、ペタンとウェイガンは和平を強く主張するようになる。レノーはなおアフリカで抗戦することを主張したが、閣内の大勢は和平に傾いており、レノー内閣は倒れた。レノーに代わって組閣したペタンのもとで、フランスはドイツと休戦協定を結ぶこととなる。

    人口問題

    また、ナポレオン時代以降フランスの人口は減少傾向にあり、兵員を増やしたくても増やせなかった事情もある。ナポレオンの強さの要因のひとつは、欧州(ロシア除く)で最大の人口を持つ国民に徴兵制を施行し、圧倒的な兵力を集中できたことである。ナポレオン戦争、さらに第一次世界大戦による青少年(兵役適齢者)の減少と、離婚・中絶の増加で、1940年当時のフランスの人口はドイツ・イギリスより少なくなっていた。

    戦車運用と歩兵自動車化の失敗

    第一次世界大戦当時、傑作戦車として名高いルノー FT-17 軽戦車を投入し、また歩兵の輸送にタクシーを使用したことで知られるフランス軍であったが、戦後の軍体系は守旧化した。すなわち、再びが歩兵輸送の手段に変わった。また、戦車運用についても、従来通りの歩兵の支援が目的と位置づけ、戦車を各歩兵師団に分散配置してしまったのである。ド・ゴールら一部の将校がドイツのような戦車を集中配備した装甲師団の創設を唱えたが、これが認められたのは第二次世界大戦勃発直前であり、数も4個師団のみにとどまり戦局を左右することはできなかった。

    ドイツ軍の超人的な進軍スピードへの認識不足

    ドイツ軍の様相は第一次世界大戦とは大きく異なっていた。フランス軍はドイツ軍が従来では信じられないスピードで迅速に移動・進軍してくる事を予測できなかった。それを裏付ける偵察情報を得て反撃の機会があったにも関わらずそのようなスピードによる移動は「不可能」というフランス軍司令部の思い込みによって無視され、結果的に絶好の反撃の機会を失った。

    このドイツ軍の進軍スピードは当時としては軍が機械化された点を考慮しても信じがたい驚異的なものであって、実際にドイツ軍兵士の三日三晩不眠不休の進軍が支えたものであった。

    この超人的な不眠不休の行軍を支えたのが、当時滋養強壮剤としてドイツ軍兵士に支給された製薬会社テムラー社が製造したペルビチンであり、その成分は現在でいう覚せい剤であった。(出典:「WW Ⅱ 最前線 カラーで蘇る第二次世界大戦 エピソード1 電撃戦」〔Netflix独自制作ドキュメンタリー番組 2019年配信〕)

    その後

    詳細は「ナチス・ドイツによるフランス占領」および「ヴィシー政権」を参照

    独仏休戦協定の結果、パリを含むフランス北部はドイツの占領下に置かれた。南部はイタリアの占領地域を除く部分のフランス政府の主権が認められた(自由地区)。フランス軍の動員は解除され、占領地区における軍備はドイツ軍に押収された上に、南部の自由地区に置かれた軍備についても監視が付き、新たな武器製造は禁止された。海軍艦艇についても植民地の維持に必要なもの以外は独伊によって押収された。

    7月1日、フランス政府は首都をボルドーからヴィシーに移した。このためこの時期の政権はヴィシー政権と呼ばれる。

    国民議会は7月10日には、「ペタンとその政府にすべての権限を与える」という ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    出典:wikipedia
    2020/05/28 04:03

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