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ナポレオン戦争とは?

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この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)

【ナポレオン戦争】




戦争:ナポレオン戦争
年月日:1803年1815年
場所:ヨーロッパ大西洋ラプラタ川フランス領ギアナインド洋北アメリカ
結果:対仏大同盟側の勝利
【交戦勢力】

イギリス

オーストリア帝国
オスマン帝国
ロシア帝国
プロイセン王国
スペイン王国
ポルトガル王国
両シチリア王国
教皇領
サルデーニャ王国
スウェーデン
ネーデルラント連合王国
ブラウンシュヴァイク公国
ブルボン家
ハノーファー選帝侯国
ナッサウ公国 (en)

 | 
【指導者・指揮官】

フランツ1世

カール・フォン・エスターライヒ=テシェン
シュヴァルツェンベルク
レイベリヒ
ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ
初代ウェリントン公爵
初代ネルソン子爵
マフムト2世

アレクサンドル1世
ミハイル・クトゥーゾフ
ミハイル・バルクライ・ド・トーリ
Count Bennigsen
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル
カール・ヴィルヘルム・フェルディナント
フリードリヒ・ルートヴィヒ
フェルナンド7世
Francisco Castaños
Miguel de Alava
マリア1世
Bernardim Freire de Andrade
Miguel Pereira Forjaz
ウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク・ファン・オラニエ=ナッサウ
フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ
フェルディナンド4世
ピウス7世
グスタフ4世アドルフ
カール・ヨハン
ルイ18世
ジャン=ジャック・デサリーヌ

 |  ナポレオン・ボナパルト

ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
ジョアシャン・ミュラ
ルイ=ニコラ・ダヴー
ジャン・ランヌ
アンドレ・マッセナ
ミシェル・ネイ
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
ジャン=バティスト・ベシェール
ピエール・ヴィルヌーヴ(捕虜)
ホセ1世
ルイ・ボナパルト
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
ジョアシャン・ミュラ
ユゼフ・ポニャトフスキ
マクシミリアン1世
フリードリヒ・アウグスト1世
ジェローム・ボナパルト
フリードリヒ1世
フレデリク6世



1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国

ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、フランス語: Guerres napoléoniennes英語: Napoleonic Warsドイツ語: Napoleonische Kriege)は、1803年にアミアンの和約が破れてから、1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に敗北するまでの期間を通して行われた戦争である。

ナポレオンⅠ世率いるフランス帝国とその同盟諸国から動員された大陸軍(グランダルメ)が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強諸国を中心にして結成された対仏大同盟の諸軍隊と交戦した。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 参戦国
  • 2 軍事的側面
    • 2.1 動員・編成
    • 2.2 軍事技術
    • 2.3 ナポレオンの戦術
  • 3 経過
    • 3.1 第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
    • 3.2 エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)
    • 3.3 帝政の成立(第二次対仏大同盟)
    • 3.4 陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)
    • 3.5 ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)
    • 3.6 泥沼の戦い(スペイン独立戦争)
    • 3.7 帝政の絶頂(第五次対仏大同盟)
    • 3.8 ロシア遠征(1812年ロシア戦役)
    • 3.9 諸国民の戦い(第六次対仏大同盟)
    • 3.10 百日天下(第七次対仏大同盟)
  • 4 海外での戦闘
    • 4.1 アジア・アフリカ
    • 4.2 アメリカ
    • 4.3 日本
  • 5 影響
    • 5.1 ヨーロッパ
    • 5.2 フランス
    • 5.3 イギリス
    • 5.4 ドイツ
    • 5.5 ロシア
  • 6 主要な戦役・戦闘
  • 7 主要な条約・協定
  • 8 脚注
  • 9 参考文献
  • 10 関連書籍
  • 11 ナポレオン戦争を題材とした作品
  • 12 関連項目

概要

ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争ロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。

1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争(だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争とも呼ぶ。大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争とみる見方もある。

フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについては、1803年5月のアミアンの和約の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役について述べる。

ナポレオン戦争ではヨーロッパ大陸に加えて世界各地の植民地も戦場となった。このため七年戦争に続く2度目の「世界大戦」であると言われる場合もある。

参戦国

全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。

  • ほぼ一貫してフランス側で参戦した国家
フランス帝国デンマーク王国ワルシャワ公国
  • 時期によって立場を変えた国家
スペイン王国ライン同盟諸邦(バイエルン王国ザクセン王国など)、ナポリ王国、オランダ(バタヴィア共和国ホラント王国)、スイス(ヘルヴェティア共和国)
  • ほぼ一貫して対仏大同盟側で参戦した国家
イギリス帝国オーストリア(ハプスブルク君主国)、ロシア帝国プロイセン王国スウェーデン王国ポルトガル王国オスマン帝国サルデーニャ王国教皇領

軍事的側面

動員・編成

ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義諸国は、傭兵を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。

国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノーであった。さらに、産業革命の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。

国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。

軍事技術

18世紀後期の大砲

歩兵の主力兵器はフリントロック式前装銃であった。ライフルも使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。

兵站は、いまだ鉄道が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦いにおいて初めて実用化された。

ナポレオンの戦術

ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦いでは分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦いでは敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦いフリートラントの戦いはこの成功例の最たるものと言える。

経過

第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)

1796年のヨーロッパの情勢
外交関係は第一次対仏大同盟、戦役はイタリア戦役 (1796-1797年)を参照

1792年のフランス革命戦争の勃発により、1793年にイギリスオーストリアプロイセンスペインなどによって第一次対仏大同盟が結成された。この戦いにおいてフランスの総裁政府は、ライン方面から2個軍、北イタリア方面から1個軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図していた。

1796年3月、イタリア方面軍の司令官に任命されたナポレオン・ボナパルトは攻勢に出る。まず、これまで最前線でフランス軍と対峙してきたサルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、オーストリア軍の拠点マントヴァを包囲した。オーストリア軍はマントヴァ解放を目指して反撃に出るが、ナポレオンの前にカスティリオーネの戦い(8月5日)、アルコレの戦い(11月15日-17日)、リヴォリの戦い(1797年1月14日)で敗北する。2月2日にマントヴァは開城。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。

10月17日、フランスとオーストリアはカンポ・フォルミオの和約を締結。フランスは南ネーデルラントライン川左岸を併合し、北イタリアにはチザルピーナ共和国などのフランスの衛星国が成立した。オーストリアの脱落で第一次対仏大同盟は崩壊した。

エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)

詳細は「エジプト・シリア戦役」を参照

フランス軍は、強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスとインドとの連携を絶つため、オスマン帝国エジプトへの遠征を総裁政府に進言した。1798年5月19日、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍はトゥーロン港を出発。途中マルタ島を占領し、7月2日にエジプトのアブキール湾に上陸した。7月21日にはピラミッドの戦いで現地軍に勝利。次いでカイロに入城した。しかし8月1日のナイルの海戦において、ネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊は大敗し、ナポレオンはエジプトに孤立してしまう。

他方、イギリスがマルタ島を占領したことで、海上の通商権を侵害されたデンマークスウェーデンと、イギリスの地中海進出に難色を示したロシアがプロイセンと結び、1800年に第二次武装中立同盟を結成する。これに対してイギリスは、1801年、デンマークの首都コペンハーゲンを攻撃した(コペンハーゲンの海戦, 4月2日)。この結果、武装中立同盟は解体し、ロシア、スウェーデンはイギリスと和解、デンマークはフランスに接近していった。

帝政の成立(第二次対仏大同盟)

『軍隊と対面するナポレオン』(ダヴィッド)
外交関係は第二次対仏大同盟、戦役はイタリア戦役 (1799-1800年) を参照

1798年1月より、スウェーデンの調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指したラシュタット会議が開かれるも、オーストリアは会議を引き延ばし、対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成され、1799年にはオーストリアが北イタリアを奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。

この状況の中、ナポレオンは少数の部下と共にエジプトを脱出してフランスに戻り、11月9日、ブリュメール18日のクーデターを起こして独裁権を握った。1800年、ナポレオンは反撃のためアルプス山脈を越えて北イタリアに進出。6月14日のマレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。モローが率いるライン方面軍も、ホーエンリンデンの戦い(12月3日)でオーストリア軍を撃破した。

1801年2月9日、オーストリアはリュネヴィルの和約に応じ、カンポ・フォルミオの和約の内容を再確認した。 オーストリアは1798年に第二次対仏大同盟を結成し、北イタリアやライン方面に侵攻していたが、その講和によって第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみがフランスとの戦争を続けた。 7月にフランスはローマ教皇ピウス7世との間にコンコルダートを結び、フランス革命以来の対立関係を解消した。 イギリスのみは戦争を続けていたが、1802年3月25日にはフランスとアミアンの和約を結び講和した。

この後国際平和が1年余り続いた。しかし、フランスによるヨーロッパ市場からのイギリス製品の駆逐や和約違反行為などにより、再び英仏間の対立が強まり、1803年5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄し宣戦布告した。戦争の目的は、フランスの旧状回復から、ナポレオンの打倒へと変わっていく。また3月21日にナポレオンに対するクーデター計画に参画したとして、フランス王族のアンギャン公が処刑された事も欧州諸国の非難を浴び、再戦に拍車をかけた。1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。

陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)

1805年のヨーロッパの情勢
外交関係は第三次対仏大同盟、戦役はオーストリア戦役 (1805年) を参照

1805年、ナポレオンはイギリス上陸を計画し、ドーバー海峡に面したブローニュに18万の兵力を集結させる。これに対してイギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成した。戦いはレイベリヒ率いるオーストリア軍7万のバイエルンへの侵攻によって開始された。フランス軍は8月下旬にブローニュを進発。9月25日から10月20日に及ぶウルム戦役においてオーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンはウィーンに入城するが、ロシア皇帝アレクサンドル1世クトゥーゾフの率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、アウステルリッツの戦いにおいて、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振り完勝した。

トラファルガーの海戦

その一方で海戦はフランスの敗北に終わっていた。ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は、ネルソン率いるイギリス艦隊に捕捉され、10月21日、トラファルガーの海戦で壊滅した。だがこの海戦は、直ちには大陸におけるナポレオンの覇権に影響を与えなかった。12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服する。

翌1806年、ナポレオンは兄ジョゼフナポリ王、弟ルイをオランダ王に即け、7月には、西南ドイツ諸邦の連合体で親ナポレオンのライン同盟を成立させた。これに先んじてオーストリア皇帝フランツ1世を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位した。

ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)

1806年のヨーロッパの情勢
外交関係は第四次対仏大同盟、戦役はドイツ・ポーランド戦役 (1806-1807年) を参照

プロイセンは中立的立場

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出典:wikipedia
2018/05/22 19:58

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