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ニューヨーク・ヤンキースとは?

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ニューヨーク・ヤンキース
New York Yankees

1901創設


所属リーグ

チーム名
  • ニューヨーク・ヤンキース (1913年 - )
    • ボルチモア・オリオールズ (1901年 - 1902年)
    • ニューヨーク・ハイランダーズ (1903年 - 1912年)
    • ニューヨーク・ヤンキース (1913年 - )

本拠地
1903-現在
1901-1902

永久欠番

獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(27回)

リーグ優勝 (40回)

地区優勝 (18回)
  • 1976
  • 1977
  • 1978
  • 1980
  • 1981
  • 1996
  • 1998
  • 1999
  • 2000
  • 2001
  • 2002
  • 2003
  • 2004
  • 2005
  • 2006
  • 2009
  • 2011
  • 2012

ワイルドカード (6回)
  • 1995
  • 1997
  • 2007
  • 2010
  • 2015
  • 2017

球団組織
オーナー | Yankee Global Enterprises
(ハル & ハンク・スタインブレナー)
GM | ブライアン・キャッシュマン
監督 | アーロン・ブーン

ニューヨーク・ヤンキース(英語: New York Yankees、略称:NYY)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はニューヨーク州ニューヨークブロンクスにあるヤンキー・スタジアム

目次

  • 1 概要
  • 2 球団の歴史
    • 2.1 球団発足(オリオールズ)
    • 2.2 黎明期(ハイランダーズ~ヤンキース)
    • 2.3 第1期黄金時代(ミラー・ハギンス監督)
    • 2.4 第2期黄金時代(ジョー・マッカーシー監督)
    • 2.5 第3期黄金時代(ケーシー・ステンゲル監督)
    • 2.6 第4期黄金時代(ラルフ・ハルク監督)
    • 2.7 冬の時代
    • 2.8 第5期黄金時代(ビリー・マーチン監督)
    • 2.9 再び低迷
    • 2.10 第6期黄金時代(ジョー・トーリ監督)
    • 2.11 21世紀へ
    • 2.12 新球場移転、再び王者へ
  • 3 エピソード
  • 4 選手名鑑
    • 4.1 現役選手・監督・コーチ
    • 4.2 殿堂入り選手
    • 4.3 永久欠番
    • 4.4 歴代監督
    • 4.5 キャプテン
  • 5 オーナー
  • 6 傘下マイナーチーム
  • 7 チーム名の由来
  • 8 ロゴ・マークの由来
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

メジャーリーグでも屈指の名門球団で、アメリカン・リーグ優勝40回、1969年以降の地区優勝18回、ワールドシリーズ出場40回で優勝27回のMLBの強豪チームである。このワールドシリーズ優勝27回は2位セントルイス・カージナルスが11回であり、出場40回もサンフランシスコ・ジャイアンツの20回と比較して、他を大きく引き離している。

1901年のアメリカン・リーグ創設時にボルチモア・オリオールズとしてスタートし、監督はジョン・マグローであった。しかしアメリカン・リーグのジョンソン会長とマグロー監督の対立から、マグローはナショナル・リーグのニューヨーク・ジャイアンツに移り、ナショナル・リーグとの摩擦を生んだが、やがてニューヨークへの移転を画し、1903年にニューヨーク・ハイランダースとして移った。やがて1913年に本拠地球場の移転からニューヨーク・ヤンキースと改称し、1920年にベーブ・ルースをレッドソックスから獲得してから、強豪球団として球界の盟主として君臨し、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジョー・ディマジオ、ミッキー・マントルなどのスター・プレーヤーを輩出して、その後も1970年代のレジー・ジャクソン、1990年代のデレク・ジーター、2000年代のアレックス・ロドリゲスなど常に注目を浴びるチームである。

球団の歴史

球団発足(オリオールズ)

1900年1月に、それまでマイナーリーグであったウエスタンリーグを改組してアメリカンリーグと改称され、8球団でスタートした。これは、それまで12球団であったナショナル・リーグがこの年に8球団に再編成されたのに伴い、アメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンを中心として同リーグを新たに球団を増やして8球団制にしたものであった。この時にまだマイナー・リーグとしてナショナル・リーグの傘下に入ることであったので、フランチャイズにシカゴにも進出することもナショナル・リーグの承諾を得た。1900年のシーズン終了後にニューヨークで開かれたナショナル・リーグの会議で、ジョンソン会長は新たにワシントンとボルチモアにもフランチャイズを設けることの許可を求めた。バン・ジョンソンは始めから、アメリカン・リーグをナショナル・リーグに対抗するメジャーリーグにする意図であった。そのためには東部の大都市にもフランチャイズを置くことがどうしても必要であった。ナショナル・リーグは当然のごとく拒否したため、1901年の年が明けてからアメリカン・リーグをメジャーリーグとする旨の宣言がなされた。この時にアメリカン・リーグには、前年の8チームの内、カンザス・シティ、ミネアポリス、インディアナポリス、バファローを除名して、新たに東部のワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア、ボストンを加えてこの年に8チームでスタートした。この時にジョンソン会長はニューヨークにもフランチャイズを置くことを企図したが、ナショナル・リーグの猛反発と、ナショナルリーグニューヨーク・ジャイアンツのオーナーがタマニー・ホール(注:民主党の派閥組織)を動かしながら、政治的妨害に出る行動をとったため、代替案として新加入する地区の一つは前年にナショナル・リーグのチームを失っていたメリーランド州ボルチモアとした。この時に創設されたボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係)が後のニューヨーク・ヤンキースの起源となった。

1901年にボルチモア・オリオールズとして活動を始めたチームの最初の監督はジョン・マグローであった。ジョン・マグローはもともとバン・ジョンソンから新チームのオーナー兼監督兼三塁手として説得されてセントルイス・カージナルスから参加した人物であった。しかしこの2人は最初からうまくいかなかった。

ジョン・マグローは勝負に厳しくまた相手選手の走塁妨害などラフプレーを厭わない監督で、対してアメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンはナショナル・リーグのような規則の無いところでの荒っぽいプレーや喧嘩や騒動の絶えない野球ではなく、厳格なルールの適用と審判の権威の強化を目指していた。やがて決定的な対立が生じた。それはボルチモアからニューヨークへの本拠地移転であった。ジョンソン会長はニューヨークへの進出を諦めなかった。これに反抗したマグローは1902年のシーズン半ばにナショナル・リーグに鞍替えし、ニューヨーク・ジャイアンツの監督となった。その1週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜きを行ったが、この強引な行動に対しアメリカン・リーグ側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、ニューヨークへのチーム移転を行った。

ア・リーグとナ・リーグ間の闘争に巻き込まれた形となったオリオールズの本拠地移転であったが、1903年に両リーグで「平和会議」を開催し、両リーグ間であった選手との契約を巡る紛争を調停し将来の協調を約束すると同時に、ナショナル・リーグは、リーグの中心的な球団にならないとの条件付きで、アメリカン・リーグがニューヨークにフランチャイズを置くことにも同意した。これにより、ジョンソン会長とアメリカン・リーグは念願のニューヨーク進出を果たす。この時に、相次ぐ主力選手の引き抜きで崩壊寸前であったオリオールズを当時1万8千ドルでフランク・J・ファレルウィリアム・スティーブン・デブリーが共同出資で買い取り、球団をニューヨークへ移した。新しいオーナーの最初の仕事は、ジャイアンツの妨害のない地域に球場設置場所を置く事であった。この両人は市政やギャンブル業界に強いコネを持っており、ファレルは競馬やカジノや複数の賭博場で財を成した人物であり、一方、デブリーはニューヨーク市警本部長であったが、1902年初頭に汚職が発覚して追放されたばかりで数々の違法ビジネスに手を染めていた。

黎明期(ハイランダーズ~ヤンキース)

ニューヨークにおける最初の本拠地は、マンハッタン島の最高地点に程近い165番通りと ブロードウェイの角に置かれた。これにちなんで、チームはニューヨーク・ハイランダーズに改称し、球場名もヒルトップ・パーク(現在この球場の跡地にはコロンビア・プレスビタリアン病院が建っており、ヤンキースの選手が怪我をした際に訪れるケースが多い。2006年松井秀喜選手がヤンキー・スタジアムでの試合中に左手首を骨折した際もこの病院に運ばれた)と呼称された。

ハイランダーズは、クラーク・グリフィス(後のワシントン・セネタースのオーナー)が投手兼監督で、打線に安打製造機と言われたウイリー・キーラー、投手にパイレーツから引き抜いたジャック・チェスブロがいて、移転当初の1903年はリーグ4位に、そして1904年にはリーグ2位にとなり、チェスプロはこの年に年間41勝をあげた。この年最後までボストン・アメリカンズとデッドヒートを繰り広げ、最終戦まで持ち込まれたが接戦の末、最後にチェスプロ投手の痛恨のワイルドピッチでボストンがリーグ優勝を果たした。ハイランダーズにとっての最大のチャンスであったが、この年の終盤にジャイアンツのオーナーは、もしハイランダーズみたいな “マイナー級” のチームがワールドシリーズに進出してきたら、試合を拒否する、と明言していた。結果はボストン・アメリカンズが相手になったが、しかし、それでもジャイアンツは試合を拒否し、その年のワールドシリーズ開催は中止された(ワールドシリーズが行われなかったのはこの年とストライキによる影響の1994年の2回のみ)。しかし、この時のメディアによる辛辣な批判を浴びたジャイアンツのオーナーはワールドシリーズ制度の枠組み作りに精力的に動く事になる。なお、この試合以後100年間に渡ってボストン・レッドソックスがリーグ優勝を決める試合でヤンキースに勝つ事はなかった。

その後は1906年1910年に2位に2回なったものの、1903年から1919年までの17年間で勝率が5割以上は5回だけで、最下位が2回であった。球団運営上の問題として、2人のオーナーの資質に問題があり、ハル・チェース一塁手らによる八百長の噂などがチーム状態を悪くしていった。チェスプロやキーラーらの退団後、めぼしい選手が集まらず、また1903年から1914年までの12年間に監督が9人も入れ替わる定見の無さで、チームは弱体化していた。

1911年にジャイアンツのホーム球場ポロ・グラウンズが火事で再建している際、ハイランダーズがヒルトップ・パークを貸し出した事により両者の間で和解ムードが生まれ始める。また、ハイランダーズはその縁もありホーム球場を1913年に同じポロ・グラウンズに移転した。

また1900年代初頭から次第にボストンの “アメリカンズ” に対して “ヤンキース” という愛称が広まりつつあった。新聞王ハーストのニューヨーク・イブニング・ジャーナルでも1904年4月14日の見出しに “ヤンキースがボストンを破る” とするなど、使用頻度も高まっており次第に定着していった。結局1913年にチームがホーム球場をポロ・グラウンズに移転し、“ハイランダーズ (Highlanders)” としての正当性がなくなった事から、“ニューヨーク・ヤンキース”と正式に名称変更を行った。

1910年代半ばに、オーナーであるファレルとデブリーは、不仲となっており、加えてフェデラル・リーグの創設で選手の年俸が高騰し、資金不足になったため、1915年1月に、ファレルとデブリーはジェイコブ・ルパートティリンガースト・ローメデュー・ヒューストンにヤンキースを売却した。ルパートはルパート醸造所の財産の相続人で、タマリーホールともかねてから関係があり、8年間連邦議員を務めて、豊富な資金力があった。ルパートは後に「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」と述懐している。しかし、カネと意欲を持つオーナーと巡り合った事で、ここからヤンキースは孤児からスーパーヒーローが生まれ、自前の球場を持ち、ルパートが予想だにしていなかった快進撃を始める事になる。

第1期黄金時代(ミラー・ハギンス監督)

ヤンキースに移籍したばかりのベーブ・ルース(1920年)
1926年当時のヤンキース

買収後の数年間に渡って、新オーナーは選手の報酬総額を高くしていった。そして皮肉な事に、後にチームの成功に貢献することとなる新規獲得選手はボストン・レッドソックス出身であった。当時レッドソックスのオーナーは劇場興行主のハリー・フレイジーであったが、彼はチームをローンで購入したため支払いに窮しており、更にはブロードウェイのショーの制作まで行っていたため手っ取り早い収入を得る事が重要だった。1919年から1922年まで、ヤンキースはレッドソックスから、投手ではウェイト・ホイト、下手投げのカール・メイズハーブ・ペノック、捕手のウォリー・シャン、遊撃手のエヴァレット・スコット、三塁手のジョー・ドュガンを獲得した。

そして最大の獲得選手は1920年1月に入団し、投手から野手に転じたベーブ・ルースである。野球界で最高額の年俸を貰っていたのにも関わらず更なる増額を要求していた彼に払えるだけのお金をレッドソックス側は用意しておらず、ルースが前年に当時の年間最多本塁打記録(29本)を更新していたのにもかかわらずヤンキースへと放出した。彼の獲得費用は、12万5千ドルの金銭とレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークが抵当に付された借金の30万ドルであった。この時レッドソックス側はヤンキースに有名選手を放出する事により、良きライバルとして互いの興行収入を上げようとの狙いもあった。しかし、ルースを放出して以後84年間に及びレッドソックスがワールドシリーズで勝つ事は無かった(バンビーノの呪い参照)。

この時期におけるもう一つの重要な新加入者は、ミラー・ハギンス監督と、GMエド・バローである。ハギンス監督は、1919年に、ヒューストンがヨーロッパに出征中にルパートによって雇われた(これをきっかけに、両オーナーの間の溝が深まり、結局1923年にルパートはヒューストンの持分を買い取り、オーナー職から追い出す事となる)。バローは、1920年のシーズン終了後GMに就任した。彼は1918年からレッドソックスの監督をしていた人物である。バローは、GM兼球団代表をその後25年間務め、その期間のチームの成功に貢献した。とりわけ特筆されるのは、ジョージ・ワイスとともにヤンキースのファーム制度の整備に大きく寄与したことである。

ルースによって放たれたホームランにより野球人気が大衆の間にも浸透し、おまけにヤンキースは地主のジャイアンツのファンをも引き付け始めた。1921年に、ヤンキースは1922年のシーズン終了後までには当時間借りしていたポロ・グラウンズからの移転を半ば強制的に勧められた。ジャイアンツのマグロー監督は「彼らはどっか遠い所に行ってしまった方がいい、クイーンズ区とか」と述べたが、皮肉にもヤンキースの新球場はポロ・グラウンズからハーレム川を挟んで反対側の土地に建設された。1923年に、ブロンクス161番とリバー通りの角にヤンキー・スタジアムが完成。地下鉄の駅がライト後方にあったのが直接の決め手だったと言われている。当時としては最先端のセメント工法で建てられた史上初の3階建て球場で、収容人員は驚異の5万8千人であった。まさに、「ルースが建てた家」と呼ばれるのにふさわしい威容である。スタジアムでのこけら落としとなる第1戦でルースは見事に本塁打を打ち、貫禄を見せ付けた。なお、このシーズンにルースが記録した打率.393は今でもヤンキースのチーム記録である。同じニューヨークの球団ということで、ジャイアンツとヤンキースのライバル関係は熾烈だった。興味深いことのひとつが対照的なプレースタイルである。当時のジャイアンツの監督は「リトルナポレオン」の綽名を持ったジョン・マグローであり、ヒットエンドラン、盗塁を多用し、走塁の徹底、守備位置の精微な研究といった、緻密な作戦や足を重視したいわゆるスモールボールがジャイアンツの特徴だった。対してヤンキースは、ベーブ・ルースが質量ともに誰にも真似できないホームランを連発し、ビッグボールが一つのセールスポイントとなった。1920年のポロ・グラウンドの年間観客動員を見ると、ジャイアンツは約95万人、ヤンキースは約135万人と当時のファンはビッグボールに興味を示し始めたともいえる。

1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズでは3回優勝した。1921年から1923年を通じて、ワールドシリーズでジャイアンツと相まみえ、1度目、2度目は敗れたが、1923年には雪辱を果たした。この時に相手側にいたケーシー・ステンゲル監督は後にヤンキース監督に就任し、数々の優勝をもたらす事になる。

ルー・ゲーリッグ。1934年に三冠王に輝き、通算2130試合連続出場を果たす。

1927年のチームは、余りにも豪華メンバーで、「殺人打線」(Murderer's Row)として知られ、しばしば野球史上最強のチームに挙げられる(このヤンキースの歴代最強チームについては他に1939年1961年1998年についても打線が強力なため、同様に史上最強と呼ばれることもある)。当時のア・リーグ記録である110勝44敗という好成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでも4連勝で危なげなく優勝。1927年のルースのシーズン本塁打60本は、アメリカンリーグの他の全球団の合計本数を上回り、その後34年間に渡って最高記録であった。また、ルー・ゲーリッグ一塁手も大ブレークを遂げ、打率.373に47本塁打を打った。主にルースが3番、ゲーリッグが4番を打っていたが、その後に控える打者も中々の強打者であった。ボブ・ミューゼル外野手は打率.337に103打点トニー・ラゼリも打率.309、18本塁打(リーグ3位)102打点を記録。この打線の特徴は単なる重量打線だっただけでなく、スピードも大きな武器で、ミューゼルは24盗塁、ラゼリも22盗塁を挙げる。一番打者のアール・コームスは打率.356を記録し、231安打1986年ドン・マッティングリーが破るまでチーム記録であった。1927年のヤンキースチーム打率は.307だった。

1928年には再びア・リーグ優勝チームとして返り咲き、セントルイス・カージナルス相手のワールドシリーズで4連勝し、制覇。ルースの16打席10安打の打率.625はワールドシリーズ記録であり、そのうちの3本は本塁打であった。ゲーリッグも負けじと11打数6安打に4本塁打を記録。その後もフィラデルフィア・アスレチックスと優勝争いを繰り広げ、1932年にワールドシリーズに出場。この時の相手のシカゴ・カブスも4連勝で退け、ワールドシリーズでの連勝記録を12に伸ばした。これは2000年ワールドシリーズでヤンキースが再び記録更新するまでのMLB記録であった。この1932年のワールドシリーズで、ルースがリグレー・フィールドで有名な予告ホームランを打っている。

第2期黄金時代(ジョー・マッカーシー監督)

ジョー・ディマジオ(1939年)。1941年には56試合連続安打を達成し、この記録は今も破られない不滅の記録とされている。

1929年のシーズン途中にハギンス監督が急死した後にボブ・ショーキーを監督に就任させたが、1930年に3位に終わってわずか1年で解任し、ルパートとバローは29年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させたジョー・マッカーシーを監督に招聘し、1932年にはペナントを奪回し、ワールドシリーズも制覇した。そして2年続けて優勝を逃した後に1935年には衰えが目立ってきたベーブ・ルースをルパートとバローは解雇しボストン・ブレーブスにトレードして、ゲーリッグを中心に打線の世代交代を進め、マッカーシー監督の下にヤンキースは新たな進化を遂げた。サンフランシスコ・ベイエリア出身の若い中堅手ジョー・ディマジオの登場はチームにとってのポスト・ルースとも言える存在であった。ディマジオはルーキー年の1936年に打率.323、29本塁打125打点を記録し、強烈なインパクトを残した形でのデビューだった。

そしてゲーリッグ、レッド・ロルフらに代表されるような強打者と並びにレッド・ラフィングレフティ・ゴメスといった強力な投手陣とそれを支える女房役ビル・ディッキーらがいて、新進のジョー・ディマジオの活躍でヤンキースは1936年から1939年にかけてワールドシリーズ4連覇を達成した。最後の1939年の優勝はシーズン途中で筋萎縮性側索硬化症と診断され引退を余儀なくされたたゲーリッグをほぼ欠いた状態で得たものだった。

この時のヤンキースの最大のライバルはデトロイト・タイガースであった。タイガースはヤンキースの4連覇前の2年間優勝してヤンキースのワールドシリーズ出場を阻止しており、また、5連覇を阻んだのも彼らであった。しかし、ヤンキースはワールドシリーズに出てさえしまえば強かった。1936年のワールドシリーズでのジャイアンツとの試合では18-4で下し、同一チームによる最多得点記録(2005年まで)を成し遂げた。そのシリーズでは4勝2敗で勝ち取り、翌年も4勝1敗。さらに、1938年シカゴ・カブス1939年シンシナティ・レッズとの対戦ではいずれも4連勝でワールドシリーズを勝ち抜けた。メジャーでの選手経験がないマッカーシー監督は1946年途中までの16年間ヤンキースの監督を務め、リーグ優勝8回、ワールドシリーズ優勝7回の成績を残した。

第3期黄金時代(ケーシー・ステンゲル監督)

ミッキー・マントル(1953年)。 1956年には三冠王に輝いた。

ヤンキ

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出典:wikipedia
2018/05/22 00:06

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