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ニール・アームストロングとは?

ニール・アームストロング
Neil Armstrong




USAF / NASA所属宇宙飛行士
【国籍】
アメリカ合衆国
【現況】
死去
【生誕】
(1930-08-05) 1930年8月5日
アメリカ合衆国オハイオ州ワパコネタ
【死没】
(2012-08-25) 2012年8月25日(82歳没)
【過去の職業】
海軍飛行士テストパイロット
【宇宙滞在期間】
8日14時間12分31秒
【選抜試験】
1957年MISS計画
1960年ダイナソア計画
1962年NASA第二次飛行士選抜試験
【ミッション】
ジェミニ8号アポロ11号
【記章】
月面着陸

ニール・オールデン・アームストロング(Neil Alden Armstrong, 1930年8月5日 - 2012年8月25日)は、アメリカ合衆国海軍飛行士テスト・パイロット宇宙飛行士大学教授。人類で初めて月面に降り立った人物である。大統領自由勲章(1969年)、議会宇宙名誉勲章(1978年)、議会名誉黄金勲章(2009年)受章。

目次

  • 1 人物概要
  • 2 幼少期
  • 3 海軍での勤務
  • 4 テストパイロット時代
  • 5 宇宙飛行士への選抜と初期訓練
    • 5.1 ジェミニ計画
      • 5.1.1 ジェミニ8号
      • 5.1.2 ジェミニ11号
    • 5.2 アポロ計画
      • 5.2.1 アポロ11号
      • 5.2.2 月への航海
      • 5.2.3 月面への第一歩
      • 5.2.4 地球への帰還
  • 6 アポロ計画後の人生
    • 6.1 教育
    • 6.2 NASA事故調査委員
    • 6.3 実業家としての活動
  • 7 個人的側面
  • 8 病気と死
  • 9 顕彰
  • 10 ニール・アームストロングを扱った作品
  • 11 注釈
  • 12 出典
  • 13 参考文献
  • 14 外部リンク

人物概要

最初の宇宙飛行は1966年ジェミニ8号で、ニールは機長を務め、デヴィッド・スコット操縦士とともにアメリカ初の有人宇宙船でのドッキングを行なった。2回目の宇宙飛行は1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号で、この時も機長を務め、バズ・オルドリン飛行士とともに2時間30分にわたって月面を探索した。

宇宙飛行士になる前は海軍に所属し、朝鮮戦争では実戦に参加した。その後は国立航空諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics, NACA)の超高速飛行本部(のちの ドライデン飛行研究センター)に所属し、様々な実験機で900回以上ものテスト飛行をした。F-100スーパー・セイバーAおよびC、F-101ヴゥードゥー、ロッキードF-104Aスター・ファイターの開発には、テスト・パイロットとして関わった。またベルX-1BベルX-5ノース・アメリカンX-15F-105サンダーチーフ、F-106デルタ・ダート、B-47爆撃機、KC-135空中給油機、ペアセヴ(Paraglider Research Vehicle、実験用パラグライダー)などの操縦も経験した。パデュー大学南カリフォルニア大学の卒業生。

幼少期

ニール・アームストロングはオハイオ州ワパコネタ(Wapakoneta)で、父スティーヴン・ケイニグ・アームストロングと母ヴィオーラ・ルイーズ・エンゲルの長男として生まれた。他に弟のディーンと妹のジューンがいる。スコットランドアイルランド人およびドイツ人を先祖に持つ父スティーヴンはオハイオ州の役所に勤務し、転勤を15回もくり返し20もの町に移り住んだ。

父親の最後の勤務地はワパコネタで、この年(1944年)ニールはボーイスカウトの最高位であるイーグルスカウトの位を取得した。成人後には特別イーグルスカウトおよびシルバーバッファローにも選ばれ、さらにアメリカの若者にとって最も名誉ある顕彰の一つであるボーイスカウト・オブ・アメリカにも選ばれている。ワパコネタでは、ブルーム高校に通っていた。

1947年、ニールはパデュー大学に通い、航空工学を学び始めた。同大学では、ファイ・デルタ・シータ(Phi Delta Theta, ΦΔΘ)とカッパ・カッパ・プサイ(Kappa Kappa Psi, ΚΚΨ)という親睦団体に所属していた。家族の中で大学まで行ったのはニールともう一人だけで、彼はマサチューセッツ工科大学(MIT)にも入学が認められていたが、MITに通っていた知り合いのエンジニアにケンブリッジでなくとも良い教育は受けられる、と説得されたためパデュー大学に通うことにした。

同校ではホロウェイ・プラン (Holloway Plan) という奨学金制度を受けていた。これは志願者を2年間大学に通わせた後、3年間海軍に勤務させ、また2年間復学させるという制度である。ニールの大学での成績は平均的なものだったが、無事に航空工学の学士号を取得することができた。後のことだが、1970年には南カリフォルニア大学から宇宙工学修士号を習得したほか、多くの大学から名誉博士号を与えられている。

海軍での勤務

1949年1月26日、ニールは海軍に入り、フロリダ州ペンサコーラ海軍航空基地で飛行訓練を受けるよう任命された。以後およそ18か月間、同基地と空母カボットライトでの訓練で飛行機操縦と航空母艦への離着艦の技術を教育され、1950年8月16日、海軍飛行士の正式な認定を受けた。

最初の勤務地はカリフォルニア州サン・ディエゴ海軍航空基地(のちのノース・アイランド海軍航空基地)の第7艦隊航空部隊で、2か月後に全機がジェット機で編成される第51戦闘飛行隊に配属された。1951年1月5日F9F-2Bパンサーで初めてジェット機の操縦を経験し、6か月後には空母への着艦も行なった。この週に、ニールは士官候補生(Midshipman)から少尉(Ensign)に昇進した。月末には、彼ら第51戦闘飛行隊を乗せた空母エセックスは、朝鮮戦争における対地攻撃を行なうために、朝鮮半島へと向けて出航した。

朝鮮戦争での初の実戦経験は1951年8月29日のことで、任務は金策市を写真撮影する偵察機の護衛だった。だがその5日後に、彼の搭乗機は地上からの砲撃を受けた。その日の偵察飛行の主要目的地は、貨物場と、元山市西部のマジョンニ村(Majon-ni)の南にある狭い谷にかかる橋だった。ニールはF9Fを操り、低高度を時速およそ560kmで飛行しながら対地掃射をしていたが、その時地上からの対空砲が命中した。機体は機首を前のめらせ、電線に右の主翼を接触させた。これにより主翼の先端約2メートルほどがもぎ取られた。

カリフォルニア州エドワーズ空軍基地NACAのテスト・パイロットをしていた頃の写真(1956年11月20日)

ニールは機体を立て直し、味方の領空に引き返すこともできたが、補助翼が失われたため安全に着陸することは不可能だった。残された手段は射出座席で脱出することだけである。ニールは海上で脱出し海軍のヘリコプターによる救助を待つことを選んだ。浦項市の沖合で射出座席のレバーを引いたが、パラシュートは強風にあおられ陸地に舞い戻されてしまった。ニールは当初の思惑に反してヘリコプターではなくジープで救出される結果となった。またこの時彼を救い上げたのは航空学校時代からの同級生だった。その後No.125122 F9F-2の残骸に何が起こったのかは不明である。

朝鮮戦争では都合78回、計121時間にわたって飛行したが、その経歴のほとんどは1952年1月に集中している。最初の20回の出撃でエア・メダル勲章を受章し、次の20回でゴールド・スターを受け、他にコリアン・サービス・メダルやエンゲージメント・スターも受賞した。1952年8月23日に海軍を除隊し、海軍予備役部隊で中尉に昇進した。予備役部隊には1960年10月20日まで在籍した。

海軍を除隊した後、ニールはパデュー大学に復学した。戦争から戻ったあとの2年間の学業生活は目覚ましいものだった。ファイ・デルタ・シータに再入会し、全学生が参加するレビュー(風刺喜劇)の脚本助監督を担当したこともあった。彼の最終GPAは6.0中4.8だった。1955年にニールは航空工学の学位を得て同大学を卒業した。

在学中ニールは家庭経済学を専攻するジャネット・エリザベス・シェアロンと知り合った。二、三の友人によると、この間どういういきさつがあったのかは不明だが、ニールがNACAのルイス飛行推進研究所で働いていたあたりから雰囲気が変わったように見えたという。1956年1月28日に2人はイリノイ州ウィルメッテの教会で式を挙げた。その後ニールがエドワーズ空軍基地に転勤したときは、彼は独身寮に住みジャネットはロサンゼルスウェストウッドに一人で住んでいたこともあった。それでも半年後にはアントロープ・ヴァレイに一軒家を購入して新居を構えたが、ジャネットは後に結婚で大学を中退したことを後悔した。

子供は3人授かった が、第二子のカレンは脳幹悪性腫瘍があると診断された。X線療法で病状の進行は抑えられたが、次第に体力が衰え、立つことも話すこともできなくなり、1962年1月28日肺炎のため死亡した。

テストパイロット時代

パデュー大学卒業後、ニールは新型機の試験飛行を行なうテスト・パイロットになることを決意した。カリフォルニア州エドワーズ空軍基地の国立航空諮問委員会(NACA)の高速飛行本部に志願書を提出したが、あいにくそこには空席がなかったため、志願書はオハイオ州クリーブランドに本部を持つ同空軍基地内のルイス飛行推進研究所に回され、1955年2月からそこで勤務することになった。

エドワーズ空軍基地での最初の任務は、爆弾倉に実験機を搭載した爆撃機を操縦することだったが、その中であわや惨事につながりかねない事故があった。1956年3月22日、ニールは実験機ダグラス・スカイロケットD-558-2を搭載したP2Bの副操縦士席に座っていた。彼の任務は実験機を空中放出することで、操縦はスタンレー・ブッチャート飛行士が担当していた。

高度9,000mに到達したとき、突然4番エンジンが停止した。プロペラの停止スイッチを入れると、いったんは回転は止まりかけたのだが、やがて再び動きだし、風圧で他の正常なプロペラよりも激しく回転し始めた。このままでは、プロペラは遠心力で破壊され飛び散ってしまう。しかもP2Bは実験機を搭載したままでは着陸できないし、さりとて実験機を切り離すには時速338km以上を維持しなければならない。ニールとブッチャートは機体を急降下させ、その勢いでスカイロケットを切り離すことを決意した。だが放出した瞬間、4番エンジンのプロペラが吹き飛び、3番エンジンと2番エンジンを直撃した。3番エンジンは使用不能になり、外側にある1番エンジンも、他のエンジンが停止したことによりヨーイングが強くなりすぎたため、停止せざるを得なくなった。それでも彼らは残された2番エンジンだけを使い、高度9,000mから慎重に機体を降下させ、安全に着陸することに成功した。

ロケット機による初飛行は1957年8月15日で、ベルX-1Bを操縦し高度18.3kmに到達した。着陸の際前輪を壊してしまったがこれは同機の構造的な問題によるもので、それ以前の何十回もの飛行でも発生していた現象である。1960年11月30日にはノース・アメリカンX-15でも飛行し、高度14.9km、マッハ1.75(時速1,810km)を達成している。

1960年11月には、ニールは軍用宇宙機X-20ダイナソアの開発パイロットに選ばれた。1962年3月15日には、同機が実用化されたときに操縦を担当する6人のパイロットの中の一人に指名された。

試験飛行後にX-15の傍らに立つアームストロング

ニールはエドワーズ空軍基地で、今でも飛行士たちに語り継がれる伝説をいくつか残している。たとえば1962年4月20日、X-15の姿勢制御装置を試験するために飛行していたときのこと、高度63km(これは後に彼がジェミニ8号で飛行するまでは、自身が到達した最高高度だった)まで上昇したとき、機首を下げるタイミングがわずかに遅れてしまった。機体はコントロールを失ったまま高度43kmまで急降下したが、この高度ではまだ大気は薄すぎて翼は役に立たない。その後X-15は予定された着陸地点の上空30.5kmをマッハ3(時速3,200km)で通り過ぎ、エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで飛び去ってしまった(この時、機体はローズ・ボウルの上空まで行ったと言われている)。その後なんとか安全な高度まで降下させ、無事に着陸することに成功したが、これは飛行時間や到達距離において、X-15の最長不倒記録だとみなされている。

また彼は一度だけ、チャック・イェーガーの機に同乗したことがあった。上記のX-15の事故から4日後、イェーガーとニールはX-15の緊急着陸場としてスミス牧場塩湖を使用できるかどうかを調査するため、T-33シューティング・スターで飛行していた。イェーガーの自伝によると、この湖は雨が降った後は着陸には適さないことは知っていたのだが、ニールが実験を強行することを主張したのだという。彼らがタッチアンドゴーを試みると、案の定車輪はぬかるみにはまって身動きできなくなり、結局救助を待つことになってしまった。一方ニールの話によると事実は全く異なっており、1回目は湖の東岸の地面に車輪を接触することに成功したが、次にイェーガーはこう言ったという。

「なかなか良かったぞ、坊や。だがお前さんには、今よりもうちょっと遅い速度でやる度胸はあるまい」

ニールが2回目に、言われたように先ほどよりもわずかに遅い速度でタッチ・アンド・ゴーを実行すると、機体は沼地の中で身動きできなくなってしまった。ニールによれば、この時イェーガーは大笑いしたという。

エドワーズ空軍基地の多くのテスト・パイロットたちは、ニールの操縦技術を高く評価していた。ミルト・トンプソン飛行士によれば、彼は「X-15のパイロットの中で最も技術の高かった男」であり、ブルース・ピーターソン飛行士によれば「どんな緊急事態に遭遇しても決して慌てることのない、くそ度胸の据わった男」だったという。もっともチャック・イェーガーやピート・ナイトのような学位など持たない、叩き上げの空軍パイロットたちは違う意見を持っていたようで、ナイトによれば「学のある」パイロットは頭で操縦したがる傾向があり、操縦技術が体にしみ込んだ自然のものになっていないことが彼らが事故を起こす原因になっているという。

1962年5月21日、ニールはエドワーズで「ネリスの恐怖」と呼ばれている魔物に魅入られてしまった。この時彼はF-104に搭乗し、デラマ塩湖でまたもや緊急着陸の実験を行なおうとしていた。ところが高度を間違え、なお悪いことに車輪が完全に降りていないことに気がつかなかった。機体が地面に接触した瞬間、脚が機内に引き込まれた。反射的にエンジンを全開にして何とかこの危機を脱したが、翼と脚が地面に激突し、通信機が壊れ油圧も失われてしまった。

ニールは近くにあるネリス空軍基地に緊急着陸することにした。通信手段が失われていることを伝えるために翼を振りながら管制塔をかすめ飛び、アレスティング・フック滑走路アレスティング・ワイヤー(緊急時に備え設置されている軍用滑走路が多い)をとらえることには成功したが、機体は大きく傾いてしまった。滑走路上から機体をどかしアレスティング・ワイヤーを再セットするために13分がかかった。その間にニールはエドワーズ空軍基地に電話して、誰かを迎えに来させるよう頼んだ。ミルト・トンプソン飛行士がF-104Bでやって来たが、強風のためハード・ランディングしてしまい左側の主輪をパンクさせた。この機体を取り除くために、またもや滑走路は一時閉鎖された。次にビル・ダーナ飛行士がT-33でやって来たが、彼もまた着陸に失敗した。ネリス空軍基地の司令部は、後々の厄介ごとを避けるためにも、このNASAの3人の飛行士は、飛行機以外の交通手段で送り返すのがベストだと判断した。

ニールはX-15で都合7回飛行し、X-15-3では高度63.2kmに到達し、X-15-1ではマッハ5.74(時速6,615km)を達成した。ドライデン飛行調査センターでは50種類以上の航空機を操縦し、総飛行時間は2,450時間に及んだ。

宇宙飛行士への選抜と初期訓練

ジェミニ計画初期の宇宙服を着るアームストロング

1961年、マーキュリー・セブン(マーキュリー計画で選抜された、アメリカ初の7人の宇宙飛行士)に続き、第2次の宇宙飛行士選抜が行なわれるとの発表があった。ニールはアポロ計画とまだ見ぬ宇宙空間への探査を想像し胸を躍らせた。宇宙飛行士への道を選ぶことにはもはや何のためらいもなかった。ちなみにずっと後になって明らかになったことだが、彼の志願書が有人宇宙センター(Manned Spacecraft Center, MSC)に届いた日は提出期限の1962年6月1日を1週間過ぎていた。エドワーズ空軍基地でずっと一緒に勤務し後にMSCに在籍するディック・デイは、期日の過ぎたニールの志願書を、人に気づかれる前に他の志願書の山の中にそっと潜り込ませたという。

1月の終わり、若き志願者たちはブルックス・シティ基地で、何のためにこんなことをやらなければならないのか全くもって意味不明な、苦痛に満ちた医学試験を受けることになった。

1962年9月13日、マーキュリー7のメンバーの一人だったディーク・スレイトンはニールを呼び出し、マスコミによって「ニュー9」と名付けられた宇宙飛行士のメンバーに加わる意志があるかとたずねた。断る理由などあるはずもなかった。なおこの選抜結果は3日間秘密にされていたが、この年の夏には新聞紙上で様々な憶測が飛びかい、ニールについては初の「民間人」宇宙飛行士として選抜されるだろうなどと報道されたこともあった。しかし実のところ世界初の民間人宇宙飛行はロシアのワレンチナ・テレシコワによる1963年6月16日の飛行であり、アメリカにおいても1963年ジョセフ・ウォーカーがX-15で宇宙空間に到達している。

ジェミニ計画

ジェミニ8号

西太平洋上に帰還したジェミニ8号

1965年9月20日、ニールはジェミニ8号の船長に任命された。副操縦士はデヴィッド・スコットだった。スコットは宇宙飛行士の第3次選抜メンバーの一人で、そのグループの中で宇宙に行くのは彼が初めてだった。彼らの任務は無人衛星・アジェナ標的機との軌道上ランデブーとドッキングを行なうことで、飛行時間75時間で地球を55周する間にスコットはアメリカ人として2番目となる船外活動(extra-vehicular activity, EVA。ニール自身は「宇宙遊泳」と言われるのを嫌っている)を行なう予定だった。1966年3月16日、米東部時間午前10時にまずアジェナが打ち上げられ、午前11時41分02秒、2人を乗せたタイタンII GLV 型ロケットが後を追うようにして打ち上げられ、アジェナを追跡する軌道に乗った。

ランデブーとドッキングは打ち上げから6時間半後に予定どおり行なわれた。しかしその当時は宇宙船の軌道のすべてを網羅するような無線中継基地はまだ作られていなかったために、途中で通信が途絶えてしまった。その中絶している時間中に宇宙船はとつぜん予期せぬ回転運動をし始めた。ニールは軌道姿勢制御システム(Orbital Attitude and Maneuvering System, OAMS)を使って何とか機体回転を停止させようと試み、地上の管制官のアドバイスに従ってアジェナを切り離した。しかし不規則な運動はますます激しくなるばかりで、ついに1秒間に1回転するまでになってしまった。原因はジェミニ自体の姿勢制御システムにあることは明らかだった。飛行後の分析では回路がショートしてエンジンの一つに誤って点火の指令が出されてしまったのだろうと考えられた。ニールは残された最後の手段として大気圏再突入システム(Reentry Control System, RCS)を作動させ、OAMSのスイッチを切った。ちなみに飛行規則では、いったんこの装置を作動させたら宇宙船は次の可能な機会に必ず再突入をしなければならないことになっていた。

この時オフィスに待機していた数人の飛行士の中で最も著名な人物だったウォルター・カニンガムは、「ニールとスコットは、このような事態が発生した場合に対応する手順を怠っていた。ニールが二つあるRCSのスイッチのうちの一つをオンにしていれば回転はすぐに収まり、計画を犠牲にすることはなかったのだ」と明白に述べている。しかしこの批判は的を射たものではない。なぜならそのような手順はチェックリストには書かれていなかったし、彼に唯一できるのは、二つのRCSのスイッチのどちらか一つではなく、両方をオンにすることだけだった。NASAの主任管制官だったジーン・クランツは「乗組員は訓練されたとおりのことをやった。もし彼らが間違ったことをしたというのなら、それは訓練が間違っていたのだ」と述べている。また計画の立案者や管制官たちは、一つだけ大きな事実を見落としていた。2機の宇宙船がドッキングしたら、それは1機の宇宙船になるということである。

ニール自身はといえば、予定されていた計画のほとんどを中止しスコットが船外活動をする機会を奪ってしまったことに、意気消沈し悩んでいた。彼は他の飛行士たちの批判には耳を貸さなかったが、フライト終了後に「アジェナとドッキングしている間はジェミニの姿勢制御装置は全く不要のものであり、アジェナの姿勢制御装置を使っていれば容易に制御を回復できていたはずだ」と述べている。

ジェミニ11号

ジェミニ計画における最後の任務はジェミニ11号のバックアップ・クルーの船長で、8号が帰還した2日後に任命された。すでに2回の飛行訓練の経験があるニールはシステムについては十分な知識を持っており、バックアップ・クルーの新人パイロット、ウィリアム・アンダースの指導も担当した。ピート・コンラッド飛行士とリチャード・ゴードン飛行士を乗せた11号は1966年9月12日に打ち上げられ、ニールは地上の連絡担当官(CAPCOM)を務め計画は成功裏に終わった。

計画終了後、リンドン・ジョンソン大統領はニール夫妻に南アフリカへの足かけ24日間にわたる親善旅行への参加を打診した。参加者にはディック・ゴードン、ジョージ・ロウなどの他の飛行士とその妻たち、そして多数の関係者が含まれていた。一行は11の国の14の主要な都市を巡り、ニールは現地語で政府の高官に挨拶するなどして当地の人々を喜ばせた。後にブラジルに行ったときには、ライト兄弟と並び称されるブラジル出身の飛行機王、アルベルト・サントス・デュモンの業績を称えたこともあった。

アポロ計画

1967年1月27日、ニールはディック・ゴードン、ジム・ラベルスコット・カーペンターらとともに、ワシントンD.C.で開催された国際連合宇宙条約交渉に出席していた。彼らはそこで、各国の高官たちと午後6時45分まで歓談した。その後カーペンター一人が空港に向かい、残りの者たちがホテルに帰ると、「ただちに有人宇宙センターに電話せよ」とのメッセージが届いていた。そこで初めて、ガス・グリソムエドワード・ホワイトロジャー・チャフィーの3名が、アポロ1号の火災事故で死亡したことを知らされたのである。彼らはその夜、スコッチウィスキーを飲みながら、この事態について遅くまで討論し合った。

1967年4月5日、1号の火災事故に関する調査結果の報告会が開かれ、ニールはデューク・スレイトンら17人の飛行士とともに出席した。冒頭でスレイトンは「最初に月面に降り立つ男は、この部屋の中にいる者たちの中の誰かである」と述べた。ユージン・サーナン飛行士によれば、ニールはこれを聞いても特に何の反応も示さなかったという。彼にとってみれば、今ここに集まっているのはジェミニ計画のベテランパイロットばかりであり、月に行く能力を持っているのは自分たちを置いて他にはいないと確信していたことは想像に難くない。スレイトンは今後のアポロ計画の予定についても説明し、ニールを9号のバックアップ・クルーに任命した。なおこの時点では、9号はアポロ司令・機械船および月着陸船による、高軌道の試験飛行を行なう予定だった。その後着陸船の開発の遅れにより8号と9号の搭乗員が交替したが、11号では予定どおりニールが船長を務めることになった。

ベル・エアクラフト社は飛行士たちに着陸船の操縦技術を習得させるために、月着陸研究機(後に月着陸練習機に変更される)を開発した。「寝台」というあだ名がつけられたこの機体は、ターボファンエンジンを使用し、地球の6分の1の月の重力を再現するものだった。1968年5月6日の訓練で、ニールが地上30mから降下を試みたとき、とつぜん機体が傾きはじめた。ただちに射出座席で脱出したためことなきを得たが、後の分析ではもし脱出するタイミングがあと0.5秒遅れていたらパラシュートが開くのが間に合わなかったかもしれなかったと言われている。この時彼が負った傷は舌をかんだことだけだった。危うく命を落とすところだったにもかかわらず、ニールは「研究機や練習機は操縦者に着陸船の様々な特性を経験させるために有効であり、これがなければ月面着陸は成功しなかっただろう」と述べている。

アポロ11号

アポロ11号3人の飛行士。左からアームストロング、コリンズ、オルドリン

1968年12月23日アポロ8号の月周回飛行成功後、スレイトンはニールをアポロ11号の船長に任命した。2005年に出版されたニールの自伝で明かされたところによると、この時の会合でスレイトンは、船長をニール、着陸船の操縦士にバズ・オルドリン、司令船操縦士にマイケル・コリンズを考えているが、オルドリンの代わりにジム・ラベルを起用するのはどうかと聞いていた。ニールは数日間考えた後、ラベルは一緒に仕事をする上で何の問題もないが、着陸船の操縦士はオルドリンがよいだろうと答えた。もしラベルを起用すると、彼は3人の飛行士の中で(非公式なものだが)3番目に序列されてしまう。ジェミニ12号で船長を務めたような人物をそのような順位に置くことは適切ではないと考えたという。

はじめオルドリンは、最初に月面に降り立つのは自分だと考えていた。ジェミニ計画では、全体の責任者であり船外活動の訓練はあまり積んでいない船長が、船内にとどまり副操縦士の船外活動を補佐していたからである。しかし地上の訓練で飛行士に宇宙服を完全装備させ着陸船の模型で手順を試してみると、彼を先に出すと船長の体が邪魔になり機体内部を傷つけてしまう可能性があることが判明した。

1969年3月、スレイトン、ジョージ・ロウ、ボブ・ギルルース、クリス・クラフトらの会合で、最初に月面に降り立つ人間はニールにすることが決定された。NASAの上層部は彼が最も自己顕示欲の少ない人物だと見ていたのである。1969年4月14日に開かれた記者会見では、着陸船の内部構造と、なぜ船長を先に出さなければならないのかという理由が説明された。船外活動用のハッチは内側に右開きになるように設計されており、右側に立っている着陸船操縦士が先に出るには船長の体を乗り越えなければならず、非常に困難だった。この会見でスレイトンはさらに、

「付け加えるならば、私の個人的な見解としては、最初に物事を行なうのは船長であるということが当然だと思ったからだ。この決定にはギルルースらも賛成してくれた」

と述べた。もっとも3月の会合では、彼らはハッチの問題は全く知らなかったのだと、ジーン・クランツは2001年に出版した自伝で述べている。

1969年7月16日、月に向かう当日に、ニールは打ち上げ責任者のグエンター・ウェンドから、「月への鍵だ」と言ってポリスチレン製の三日月のおもちゃを受け取った。月から帰還した後、ニールは返礼として「二つの星間のタクシー券」を渡した。

月への航海

アポロ11号の打ち上げの瞬間、ニールの心拍数は109に達した。サターンV 型ロケット第1段のS-IC の騒音はジェミニ8号のタイタンII GLVとは全く比較にならないほど想像以上のもので、アポロ宇宙船の船内もまた、ジェミニとは比較にならないほど広々としていた。この広さは宇宙酔いの原因となるのではないかと予想されたが、11号の乗組員は誰もそのような症状を訴えることはなかった。特にニールは子供の頃から乗り物酔いになる傾向があり、長時間の曲芸飛行をした後などには吐き気を覚えることがあったため、何も不調を感じなかったことで安心した。

11号の目的は単に月面に降りるだけではなく、予定された地点に正確に着陸することだった。月着陸船イーグルがエンジンを噴射しながら降下している時、ニールはシミュレーターで見慣れていたクレーターを通過する時間が2分ほど早すぎたことに気づいた。これはつまり、予定着陸地点を数マイルほど行きすぎてしまうことを意味していた。イーグルのレーダーは正確に月面をとらえてはいたが、その時コンピューターが警報を発した。最初はコード1202という警報で、訓練を積んだニールやオルドリンでさえもこの意味が分からなかったが、ヒューストンの管制官は迅速に、この警報には大した意味はなく着陸を続行するよう指示した。次に1201という警報が出されたが、これも無視するよう伝えた。1202と1201は着陸船のコンピューターがオーバーフローを起こしたことを示すものだった。オルドリンの「月の影」という著書によれば、このオーバーフローは彼自身が作成したチェックリストに従って、降下中にドッキング用のレーダーをオンのままにしておいたことが原因で起こったのだという。彼がそうしたのは、もし着陸を中止して緊急脱出する事態になった際司令船との再ドッキング手順を容易にするためだったのだが、その瞬間には正確な理由が分かる人間など誰もいなかった。

船外活動を行った後にオルドリンが撮影したアームストロング

ニールは操縦を手動に切り替え着陸を続行した。だがその時イーグルの行く先にはフットボール場ほどもある大きなクレーターが口を開けていた。内部には乗用車ほどの大きさの岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかだった。他によい着陸地点はないかと目を凝らしていると、ようやく民家の庭ほどの広さの平坦な場所があるのを発見した。操縦桿を倒して機体を水平移動させる。燃料はどんどん残り少なくなっていく。管制官が「残り30秒」と伝えた次の瞬間、センサーが月面に接触したことを感知してエンジンが停止し、着陸船は月面に降り立った。時間は1969年7月20日、20:17:39(UTC)だった。

アポロ11号に関する多くの記事では、この時着陸船の燃料の残量は極めて危険なレベルにまでなっていたとされている。計器は残り17秒と表示していた。だがニールは月着陸練習機で残り15秒以下になるような事態も経験していたし、着陸船は15mの高さから垂直落下しても耐えられる

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出典:wikipedia
2019/12/16 11:44

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