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ノースカロライナ州とは?

ノースカロライナ州
State of North Carolina



(州旗) | (州章)
州の愛称: タールのついた踵の州
Tar Heel State
州都
ローリー
【最大の都市】
シャーロット
【州知事】
ロイ・クーパー
公用語
英語
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第28位
139,390 km²
126,161 km²
13,230 km² (9.5%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第10位
9,535,483
75.58人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

12番目
1789年11月21日
時間帯
UTC -5
DST -4
緯度
北緯33°50' - 36°35'
経度
西経75°28' - 84°19'
【東西の幅】
901 km
【南北の長さ】
241 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
2,037 m
210 m
0 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-NC
【ウェブサイト】
ノースカロライナ州政府
【上院議員】
リチャード・バー
トム・ティリス

ノースカロライナ州(: State of North Carolina)は、アメリカ合衆国南東部に位置するの1つである。2010年国勢調査による人口は9,535,483人だった。合衆国50州の中で、陸地面積では第28位、人口では第10位である。州都ローリー市で、最大都市シャーロット市である。

州の北はバージニア州に、西はテネシー州に、南はジョージア州サウスカロライナ州にそれぞれ接している。州の東側は大西洋に面している。州内には100の郡がある。元はタバコ家具の生産地として知られたが、過去50年間でバイオテクノロジー金融分野など多様な経済に転換してきた。

州域の標高は大西洋岸の海面から、アメリカ合衆国東部では最高地点である標高6,684フィート (2,037 m) まで変化が激しい。海岸平原の気候は大西洋に強く影響されている。州の大半は温暖湿潤気候帯に入っている。西部の海岸から300マイル (480 km) 以上入った山岳地では亜熱帯山岳気候になる。

【家庭で話される言語(ノースカロライナ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 89.66%
スペイン語 | 
 | 6.93%
【人種構成(ノースカロライナ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 65.3%
黒人 | 
 | 21.5%
ヒスパニック | 
 | 8.4%
アジア系 | 
 | 2.2%
インディアン | 
 | 1.3%
混血 | 
 | 2.2%

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 インディアン、失われた植民地、恒久的植民地
    • 1.2 植民地時代とアメリカ独立戦争
    • 1.3 南北戦争前の時代
    • 1.4 南北戦争
  • 2 地理
    • 2.1 気候
  • 3 人口動勢
    • 3.1 人種的構成及び祖先
    • 3.2 宗教
  • 4 インディアン部族
    • 4.1 インディアンと「ラムビー法」
    • 4.2 インディアンとクー・クラックス・クラン
    • 4.3 インディアン・カジノ
  • 5 主要な都市及び町
    • 5.1 合同統計地域
  • 6 政治と法律
  • 7 経済
    • 7.1 主な会社など
    • 7.2 観光業
  • 8 交通
  • 9 教育
    • 9.1 初等中等教育
    • 9.2 単科及び総合大学
  • 10 芸術・文化
    • 10.1 音楽
    • 10.2 料理と嗜好品
    • 10.3 スポーツチーム
    • 10.4 催事
  • 11 その他
    • 11.1 同州出身の有名人
    • 11.2 州の象徴など
    • 11.3 日本の姉妹都市
  • 12 脚注
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

歴史

主要記事:ノースカロライナ州の歴史
セコタン族戦士の儀式、1585年にイギリス人開拓者ジョン・ホワイトが描いた水彩画。
ロアノーク植民地でキリスト教に改宗した最初のインディアン、マニオーを記念する銘板。
1585年から1586年にセオドア・ド・ブライが書いたバージニアとノースカロライナ海岸の地図、ロアノーク植民地のジョン・ホワイトが作成した地図に基づいている。右が北。
M・T・ポープ博士、ローリーの著名市民、1900年撮影。
ローリー市にあるノースカロライナ州歴史博物館。

イギリスから独立したアメリカ合衆国当初13州のうちの1つである。南北戦争では南部連合側に最後に参入した。南部連合に属した州の中で最も多くの兵士を失い、苦しい再建時代を送った。現代ではシャーロット都市圏や、ローリーダーラムチャペルヒルリサーチ・トライアングル地区を中心に経済的に大躍進を示し、州人口も急速に伸びている。

インディアン、失われた植民地、恒久的植民地

ロアノーク植民地」も参照

ノースカロライナ州となった地域には、数千年前から先住民族の様々な文化が続いていた。西暦200年以前に、儀式や宗教目的で使われたと見られる土盛りマウンドを築いていた。西暦1000年までに形成されたミシシッピ文化を含め、その後の先住民族はそのようなマウンドを築きあるいは追加し続けていた。ヨーロッパ人が接触してくる500年から700年前に、ミシシッピ文化では大型の複雑な都市を建設し、広範囲に及ぶ交易のネットワークを維持していた。その最大都市はカホキアであり、ミシシッピ川の近く、現在のイリノイ州にあった。

ノースカロライナ州で記録に残されているインディアン部族は、海岸地域に住みカロライナ・アルゴンキン語を話すチョワノークロアノークパムリコマシャプンガコリーケープフィアーなどであり、彼等が最初にイギリス人と遭遇した。イロコイ語を話すメヘリンチェロキータスカローラは内陸部に住み、またチェローワックスホーサポニワッカモーカトーバ各部族は南東部スー族だった。

16世紀に内陸を旅したスペイン人探検家が、現在のモーガントンに近い地域の中心であるジョアラでミシシッピ文化の人々に出遭った。エルナンド・デ・ソトの記録では、1540年に彼等と出遭ったことを裏付けている。1567年、フアン・パルドがこの地域をスペイン領であると宣言し、またメキシコの銀山を守る別のルートを確立するために遠征隊を率いて入った。パルドはジョアラを冬の基地とし、そこを「クエンカ」と改名した。この遠征隊はサンフアン砦を建設してそこに30名を残し、パルドはさらに進んで別の砦5か所を建設し、駐在の者を置いた。パルドは別のルートを通って、当時スペイン領フロリダの中心だったサウスカロライナのパリスアイランドのサンタエレナに戻った。1568年春、インディアンが内陸にあった6つの砦を攻撃して駐屯員の1人を除いて全員を殺し、砦を焼いた。その中にはサンフアン砦も含まれていた。スペイン人が内陸部に戻ってくることは無かったが、現在のアメリカ合衆国の中で最初にヨーロッパ人が植民地建設を試みたものとなった。パルドの書記官バンデラの16世紀の日誌、および1986年以降に行われた考古学調査によって、その開拓地が確認された。

ジョン・ホワイトは戻ってきて植民地が放棄されているのを見つけた。

1584、イギリス王エリザベス1世ウォルター・ローリー卿に現在のノースカロライナの土地(当時はバージニア)に対する土地特許を与えた。ローリーは現在の州都ローリーの名前の由来となった。ローリーは1580年代に海岸部で2つの植民地を設立したが、どちらも失敗した。イギリスがアメリカ大陸で植民地化を試みた2つめのものだった。ロアノーク島に造られた「失われた植民地」の消滅は、アメリカ史の中でも謎の1つとして残っている。北アメリカで生まれた最初のイギリス人赤ん坊であるヴァージニア・デアは1587年8月18日にロアノーク島で生まれた。ノースカロライナ州デア郡はその名を記念するものである。

1650年には既に、バージニア植民地から開拓者がアルベマール・サウンドの地域に移ってきていた。1663年に、国王チャールズ2世が北アメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与えており、それがノースカロライナの領域を規定している。チャールズ2世はその地を、父のチャールズ1世の栄誉を称えて「カロライナ」と命名した(チャールズのラテン語名はカロラスである)。1665年には領土問題を解決するために2つめの勅許が発行された。1710年、統治に関する論争が起きたこともあり、カロライナ植民地はノースカロライナとサウスカロライナに分かれた。サウスカロライナは1729年に王室領植民地になった。

1700年代に南部で何度か天然痘が流行し、ヨーロッパの疫病に対する免疫を持たなかったインディアンの間では高い死亡率となった。歴史家のラッセル・ソーントンは、「1738年の疫病でチェロキー族の半数が死亡し、他の部族も同様だったと言われている」と記した。

植民地時代とアメリカ独立戦争

カロライナ植民地」、「ノースカロライナ植民地」、および「アメリカ独立戦争」も参照
再建された植民地時代の総督邸宅「トライオン・パレス」、ニューバーン市。

16世紀にスペインが植民地化を試みた後、ノースカロライナにおける最初の恒久的ヨーロッパ人開拓者は、バージニア植民地が急速に成長し、利用できる農地が不足してきたために、そこから南に移ってきたイギリス人開拓者だった。そのようなバージニアからの移民ではナサニエル・バッツが最初に記録された者の1人となった。バッツは1655年にチョウォーン川の南、グレート・ディズマル湿地の東に入植した。1663年までに、アルベマール開拓地と呼ばれたカロライナ植民地の北東部は全面的なイギリス人による入植が進んだ。これと同じ頃、イングランド国王チャールズ2世が、1660年に王位に復したときにこれを助けた貴族集団、植民地領主にこの植民地を与えた。この新植民地「カロライナ」は国王チャールズ1世の栄誉を称えて名付けられた。1712年、ノースカロライナは別の植民地になった。その17年後、第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットが持っていた分を除いてノースカロライナは王室領植民地になった。

ノースカロライナ東部はローカントリー、西部はアップランドと呼ばれ、その入植の様態が異なっていたので、18世紀から20世紀まで政治、経済、社会生活に影響した。東部の海岸地帯は主にイングランドの田舎やスコットランドハイランド地方からの移民が入ってきた。西部のアップランドには主にスコットランド・アイルランド、イングランド、ドイツからプロテスタントが入り、「コヒー」と呼ばれた。18世紀の半ばから後半に到着した、現在の北アイルランド出身であるスコットランド・アイルランド系移民が、独立戦争以前では最大の非イングランド移民だった。この時期、イングランドの年季奉公者が最大の移民集団だった。アメリカ独立戦争のとき、ノースカロライナ東部にいるイングランド系やスコットランド・ハイランド系の開拓者は、イギリスとの事業や個人的な繋がりが長く続いていたためにイギリス王室に忠実である傾向があった。西部のイングランド系、ウェールズ系、スコットランド・アイルランド系、ドイツ系移民は、アメリカのイギリスからの独立を支持する傾向にあった。

年季奉公者として入ってきたイングランド系移民の大半は、その片道旅費を払うために一定期間労働者として働く契約を結んだ者達だった。初期には年季奉公者とアフリカ人奴隷あるいは労働者の間の線引きは流動的だった。奴隷制度が終身のものになる以前にその自由を許されたアフリカ人もいた。独立戦争前にノースカロライナで作られた自由有色人家族の大半は、自由白人女性と奴隷または自由アフリカ人、あるいはアフリカ系アメリカ人男性との結合あるいは結婚によるものの子孫だった。母親が自由なので、その子供達も生まれながらに自由だった。多くの者はバージニア植民地から移ってきた者か、その子孫だった。イギリスの経済状態が改善され、植民地に移ってくる年季奉公者の流れが減少してくると、多くの奴隷が輸入されるようになり、奴隷制度に対する規制が厳しくなった。経済の成長と繁栄は奴隷労働力に基づいており、まずはタバコの生産に振り向けられた。

1776年4月1日、大陸会議の代表団にイギリス王室からの独立に賛成するよう支持したことで、ノースカロライナは最初の邦となった。ただし、ノースカロライナ植民地議会ではハリファックス決議案が採択されていた。この両件の日付は州旗および州章に記録されている。独立戦争の期間を通じて、独立支持派とイギリス支持派の植民地人の間で激しいゲリラ戦が起きた。この戦争が個人の怨恨や競争関係を解決する理由になることもあった。ノースカロライナとサウスカロライナの境で起きたキングスマウンテンの戦いでアメリカ側が大勝した。1780年10月7日、ノースカロライナ西部(現在のテネシー州を含む)のマウンテンマン1,000人が、パトリック・ファーガソン少佐の指揮するイギリス軍約1,000人を圧倒した。この戦闘に参加したイギリス軍兵士の大半は、イギリス王室に忠誠を尽くしたロイヤリストと呼ばれるカロライナ人だった。キングスマウンテンでのアメリカ軍の勝利によりアメリカ独立を支持する植民地人には利点となり、イギリス軍がロイヤリストの中から新兵を徴募する際の妨げとなった。

ギルフォード郡庁舎の戦いで前線を死守するメリーランド第1連隊

ヨークタウンへの道と、アメリカのイギリスからの独立はノースカロライナを通じて実現した。イギリス軍がチャールストンカムデンでの勝利の後に北に動くと、大陸軍南部方面軍と地元民兵隊はイギリス軍と会する備えを行った。1781年1月17日、カウペンスの戦いで、ダニエル・モーガン将軍がイギリス軍騎兵指揮官バナスター・タールトンの部隊を破った後、南部方面軍指揮官ナサニエル・グリーンは、イギリス軍チャールズ・コーンウォリスの部隊をノースカロライナの中心までおびき寄せ、補給基地であるチャールストンから遠ざけた。この作戦はダン川に向かって行われたので、「ダン川への競走」あるいは「川への競走」と呼ばれている。

1781年2月1日、コーワンズフォードの戦いでは、戦術的撤退を続けるモーガン将軍の部隊に決戦を挑もうとしたコーンウォリス部隊が、カトーバ川の川岸で抵抗に遭った。ノースカロライナの北部に誘導するこの動きに、グリーン将軍が新たに徴兵した部隊の動きが組み合わされた。1781年3月15日、グリーンとコーンウォリスの部隊は遂に、現在のグリーンズボロであったギルフォード郡庁舎の戦いでまみえた。この戦闘の最後にイギリス軍はその戦場を支配したが、勢力では優勢だったアメリカ軍から被った被害は甚大だった。この犠牲が多くて引き合わない勝利の後、コーンウォリス将軍はバージニアの海岸線に移動し、イギリス海軍から補給を受け、その疲れ切った軍隊を守って貰う道を選んだ。この決断により、1781年後半のヨークタウンにおける敗北に繋がっていった。愛国者側の勝利がアメリカ独立を確かなものにした。

南北戦争前の時代

1789年11月21日、ノースカロライナはアメリカ合衆国憲法を批准して12番目の州になった。1840年、ローリー市に州会議事堂が完成し、現在に続いている。州内の奴隷所有者と大型プランテーションの大半は州の東部にあった。州内のプランテーションの体系は、バージニア州、ジョージア州、サウスカロライナ州のものに比べて小型でまとまりに欠けていたが、農園主のかなりの数が港湾都市ウィルミントンとイーデントンの周辺郡に集まっており、またピードモント台地のローリー、シャーロット、ダーラム各市の周りに郊外型農園主が集まっていた。大きな資産を所有する農園主は、奴隷社旗である南北戦争前ノースカロライナ州で政治と社会経済のかなりの権力を握っていた。州西部は概して奴隷を持たない自作農が多く、東部の農園主がその利益を優先させた。19世紀半ば、州内田園部と商業地域は「農夫の鉄道」と呼ばれた木の板敷道129マイル (208 km) の建設で繋がれた。東のファイエットビルからベサニア(ウィンストン・セイラムの北西)まで続いていた。

ノースカロライナ州の道路と鉄道の図、1854年

州内には奴隷の他にも多くの自由有色人がいた。その大半は18世紀にバージニアから隣人と共に移ってきた自由アフリカ系アメリカ人の子孫だった。その大半は年期奉公人あるいは自由白人女性と、年期奉公人、奴隷あるいは自由人のアフリカ系アメリカ人との間で、労働者階級での結合の子孫だった。アメリカ独立戦争後、クエーカー教徒とメノナイト教徒が、奴隷所有者に奴隷の解放を説いて歩いた。この動きと革命の権利という言葉に動かされ、奴隷を解放する者もいた。独立後最初の数十年間で自由有色人の数は飛躍的に増大した。

1836年10月25日、港湾都市のウィルミントンと州都ローリーを繋ぐウィルミントン・アンド・ローリー鉄道の建設が始まった。1849年、州議会の法によりこの鉄道を西のグリーンズボロ、ハイポイント、シャーロットまで延伸するノースカロライナ鉄道が創設された。南北戦争のとき、この鉄道のウィルミントン、ローリー区間は南軍の戦争遂行のために重要なものとなった。ウィルミントンで物資が積まれ、鉄道でローリーを通り、アメリカ連合国の首都バージニア州リッチモンドに運ばれた。

南北戦争前の時代、ノースカロライナ州は圧倒的に田園州であり、南部の標準と比較してもそうだった。1860年、州内では唯一港湾都市のウィルミントンが人口1万人を超えていた。州都のローリーはやっと5,000人を超えたところだった。

南部州の中では奴隷所有の集中度が低かったが、1860年国勢調査に拠れば、州人口は992,622人、このうち33万人以上、33%が奴隷のアフリカ系アメリカ人だった。彼等は主に東部海岸部のプランテーションで生活し働いた。また東部海岸平原にも集中しており、特にウィルミントンやニューバーンでは、様々な仕事があった。自由アフリカ系アメリカ人は1835年まで選挙の投票を許されたが、1831年にナット・ターナーが率いた奴隷反乱に続いてこの年に、州は彼等の投票権を取り上げた。南部の奴隷法では奴隷を故意に殺すことを大半の場合に違法としていた。例えば、1791年、ノースカロライナ州議会は、抵抗された場合、あるいは中庸な懲罰のもとに行われたものでなければ、奴隷を故意に殺すことを殺人と規定した。

南北戦争

詳細は「南北戦争」を参照
フィッシャー砦を占領する北軍、1865年

1860年、ノースカロライナ州は奴隷州であり、州人口は992,622人のうち約3分の1が奴隷のアフリカ系アメリカ人だった。これは多くの南部州の中では最少の比率だった。さらに州内には3万人以上の自由黒人がいた。ノースカロライナ州はアメリカ連合国への加盟に当初は賛成しなかったが、エイブラハム・リンカーン大統領が姉妹州であるサウスカロライナ州への侵略を呼びかけたとき、公式にアメリカ連合国に加盟した最後の州あるいは最後から2番目の州になった。テネシー州が非公式には1861年5月7日にアメリカ合衆国からの脱退を表明し、ノースカロライナ州が脱退したのは同年5月20日だったので、「最後にアメリカ連合国に加盟したのはどの州か」について異論が出てきた。しかし、テネシー州議会が正式に脱退を決めたのは同年6月8日のことだった。

州内では戦闘が少なかったが、南軍には少なくとも125,000人が出征し、他のどの州よりも遙かに多かった。約4万人は病気、戦傷および飢えで死亡した。北軍にも約15,000人が従軍した。1862年に選出されたゼブロン・ベアード・バンス州知事は、リッチモンドにいるジェファーソン・デイヴィス大統領に対して州の自治を維持しようとした。

南軍兵のサイレント・サム、ジョン・ウィルソン制作、ノースカロライナ大学チャペルヒル校

脱退後も州民の中にはアメリカ連合国支持を拒否した者がいた。山岳部や西部ピードモント台地の自由農の中には戦中も中立を維持し、あるいは北軍を支持する者もいた。州西部から約2,000人が北軍に参加し、北部のために戦った。北軍に占領された海岸部では1862年から1863年に北軍の2個連隊が立ち上げられた。

ノースカロライナ州の全部分から立ち上げられた南軍部隊は、南軍で最も有名になった軍隊である北バージニア軍の主要戦闘の事実上全てに参加した。ノースカロライナ州内で戦われた最大の戦闘は1865年春のベントンビルの戦いであり、南軍のジョセフ・ジョンストン将軍が、北軍ウィリアム・シャーマン将軍軍隊の両カロライナを通る侵攻を遅らせようとして失敗した。1865年4月、ジョンストンはモリスビルの戦いに敗れた後、ベネットプレース、現在のダーラムでシャーマンに降伏した。これは降伏した南軍の軍隊として最後の大部隊だった。ノースカロライナ州の港湾都市ウィルミントンは北軍の手に落ちた最後の港湾となった。1865年2月、川下の主要防衛拠点で起きた第二次フィッシャー砦の戦いで北軍が勝利した後にウィルミントンが陥落した。

ダーラムにある歴史的なベネットプレース

南北戦争で最初に戦死した南軍兵は、1861年6月に起きたビッグベセルの戦いでのノースカロライナ州出身の兵卒ヘンリー・ワイアットだった。1863年7月のゲティスバーグの戦いでは、ノースカロライナ第26連隊がピケットの突撃に参加し、他の連隊よりも北軍の前線深く進出した。チカマウガの戦いでは、ノースカロライナ第58連隊がスノッドグラスヒルで他の連隊よりも前に進軍し、北軍の残っていた部隊を戦場から追い出した。1865年4月、バージニアのアポマトックス・コートハウスでは、騎兵隊であるノースカロライナ第75連隊が、この戦争で北軍に対する最後の銃弾を放った。戦後、ノースカロライナ州は「最初のベセル、最深部のゲティスバーグ、チカマウガ、最後のアポマトックス」と言って誇ることになった。

地理

関連項目:Geography of the North Carolinaアメリカ東海岸ノースカロライナ州の郡一覧
ノースカロライナ州の地勢図
メイコン郡にあるカラサジャ滝

ノースカロライナ州は、南部でサウスカロライナ州、南西部でジョージア州、西部でテネシー州、北部でバージニア州、東部で大西洋と接している。アメリカ合衆国統計局は、ノースカロライナ州を南部の州に分類しているほか、さらに下位区分として大西洋岸南部の州の1つに区分している。

ノースカロライナ州は、大きく3つの地理的区域に分けられる。1つは、沿岸の平野部で州の東部を中心に45%を占めている。次に、中央部などの35%で構成されるピードモント地域があり、さらには西部などの20%を占めるアパラチア山脈とその麓丘陵部の一帯がある。最東部は大西洋と沿岸内水路を分ける砂の細長い島の連なりであるアウターバンクスになっている。沿岸内水路は北部のアルベマール・サウンドと南部のパムリコ・サウンドがある。国内でも最大級の陸に封じられたサウンドである。ここにあるハッテラス岬沖で多くの船が失われてきたので、「大西洋の墓場」とも呼ばれている。1526年に記録が取られ始めて以来、1,000隻以上の船がこの海域に沈んだ。その中でも有名なのが、1718年にボーフォート入り江で座礁したアン女王の復讐号(黒髭の旗艦)である。 アウター・バンクの内側はかなり平坦な海岸平野であり、タバコ、大豆、メロン、綿花などを育てるために理想的な肥沃な土壌である。州内でも田園部が残る地域であり、大都市は少なく、農業が重要な産業である。

海岸平野は「滝線」でピードモント台地に遷る。この滝線は、川を遡ったときに最初に出遭う滝の位置を繋いだものである。州中央部にあるピードモント台地は都市化が進み、人口が多い。なだらかにうねる田園の間に丘陵や低い山がある。この地域には、ソーラタウン山地、パイロット山、ユーフワリー山地、クラウダーズ山、キングスピナクル、ブラッシー山地、サウス山地など、小さく、孤立し、深く侵食された山地や峰がある。標高は東部で300ないし400フィート (90-120 m)、西部では1,000フィート (300 m) 以上となる。この地域の急速な人口成長を受けて、田園部のかなりの部分が郊外化し、ショッピングセンター、住宅、事務所が造られている。農業はその重要性を次第に落としてきた。ヤドキン川やカトーバ川など地域の主要河川は流れが速く、浅く、狭い傾向にある。

ブルーリッジ山脈はアメリカ合衆国南東部に位置する最も景色がいい地域の1つである。
2009年吹雪で生じたオールドフォートの積雪

この州の西側は、メキシコ湾からセントローレンス川の河口まで達している巨大なアパラチア山脈の支脈を形成するグレート・スモーキー山脈、ブルーリッジ山脈、グレート・バルサム山脈、ブラック山脈が並ぶ。ブラック山脈はミシシッピ川以東のアメリカ合衆国東部でも標高が最も高く、標高6,684フィート (2,037 m) のミッチェル山がある。農業は重要性を維持しているが、山岳地では観光業が支配的な産業となった。クリスマスツリーが主要産品である。標高が高いために、州内の他部分と比べて気候がかなり異なっている。西部の冬は積雪が多く、気温が氷点下になるのは、南部州よりも中西部の州に似ている。

東部大西洋岸で南北の幅は約100マイル(約160キロメートル)ある。東西の一番長い幅は500マイル(800キロメートル)である。陸地面積は48,711平方マイル(126,161平方キロメートル)である。

州内には17の主要河川流域がある。ブルーリッジ山脈より西の河川は、オハイオ川からミシシッピ川を介してメキシコ湾に流れるが、他の河川は東へ大西洋に流れ込むので、ノースカロライナ州の全河川は大西洋岸のパムリコ湾などの内海へ流れ込む。11の河川が州内に水源があり、州域の主な河川は北からター川(Tar River)、ニュース川、ホワイトオーク川、ケイプフィア川の4河川である。

アメリカ合衆国国立公園局の管理下にある地域は、次の通りである。:

出典:wikipedia
2018/11/16 18:57

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