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ハイセイコーとは?

【品種】
サラブレッド
【性別】

毛色
鹿毛
【白斑】
流星、右後一白
【生誕】
1970年3月6日
【死没】
2000年5月4日(30歳没・旧31歳)
【父】
チャイナロック
【母】
ハイユウ
母の父
カリム
【生国】
日本(北海道新冠町)
【生産】
武田牧場
馬主
(株)王優
→ホースマンクラブ
調教師
伊藤正美(大井)
鈴木勝太郎(東京)
調教助手
鈴木康弘(東京)
厩務員
山本武夫(大井)
→大場博(東京)
【競走成績】

【生涯成績】
22戦13勝
(地方競馬6戦6勝)
(中央競馬16戦7勝)
【獲得賞金】
2億1956万6600円
勝ち鞍
八大競走 | 皐月賞 | 1973年


ハイセイコー(Haiseiko)は、日本競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年顕彰馬に選出。

※馬齢は旧表記に統一する。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 誕生・デビュー前
    • 2.2 競走馬時代
      • 2.2.1 3歳時(1972年)
      • 2.2.2 4歳時(1973年)
        • 2.2.2.1 中央競馬へ移籍
        • 2.2.2.2 弥生賞・スプリングステークス
        • 2.2.2.3 皐月賞
        • 2.2.2.4 NHK杯
        • 2.2.2.5 東京優駿
        • 2.2.2.6 京都新聞杯・菊花賞
        • 2.2.2.7 有馬記念
      • 2.2.3 5歳時(1974年)
      • 2.2.4 引退式
    • 2.3 種牡馬時代
      • 2.3.1 顕彰馬に選出
    • 2.4 晩年
  • 3 成績
    • 3.1 競走成績
    • 3.2 種牡馬成績
      • 3.2.1 年度別成績
      • 3.2.2 主な産駒
      • 3.2.3 母の父としての主な産駒
  • 4 特徴・評価
    • 4.1 身体面に関する特徴・評価
    • 4.2 知能・精神面に関する特徴・評価
    • 4.3 走行・レースぶりに関する特徴・評価
    • 4.4 投票における評価
  • 5 人気(ハイセイコーブーム)
    • 5.1 ブーム形成の要因・背景
    • 5.2 現象
  • 6 タケホープとのライバル関係
  • 7 血統
    • 7.1 血統表
    • 7.2 血統背景
    • 7.3 兄弟
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 外部リンク

概要

1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊オグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された。

競走馬引退後に種牡馬入りした後も人気は衰えず、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた。産駒には自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に心臓麻痺のため同牧場で死亡した。

生涯

誕生・デビュー前

1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きくひときわ目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った。夏になると武田は、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった。

ハイセイコーは母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され、ハイユウを管理していた大井競馬場調教師伊藤正美によって管理されることになった。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている。1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った。

競走馬時代

3歳時(1972年)

1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになった。翌7月12日大井競馬場で行われた未出走戦でデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコード59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけ優勝した。従来のレコードはヒカルタカイが記録した1分0秒3で、この記録を騎乗していた辻野豊に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している。

その後11月末にかけ、ハイセイコーは常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成した。4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。 5戦目の白菊特別を勝った頃から、調教師の伊藤は「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった。

4歳時(1973年)

中央競馬へ移籍

1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった。競馬評論家大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった。

1月16日、ハイセイコーは東京競馬場鈴木勝太郎厩舎に入厩した。この時ハイセイコーは、初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せた。この用心深い性格が、後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった。

弥生賞・スプリングステークス

陣営は移籍初戦として東京4歳ステークス(2月11日に東京競馬場で施行)に出走させようとしたが叶わず、3月4日増沢末夫を鞍上に据えての弥生賞が移籍初戦となった。

「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集め、弥生賞当日、中山競馬場にはおよそ12万3000人の観客が入った。発走前、ハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、あまりの人の多さに金網近くにいた観客が苦しくなって観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも起こっている。この現象について、弥生賞でハイセイコーに騎乗し、その後も中央競馬移籍後のすべてレースで騎乗することになる増沢は、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っており、弥生賞でハイセイコーの人気を目の当たりにした増沢は、「この人気にこたえなくては、いけないんだ」と騎手になって初めてプレッシャーを感じたという。

陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めてであったため若干の不安も抱いていた。レースが始まると、調教の時とは異なり走りそうな手応えがなく、序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは単勝1番人気に応える形で勝利を収めたものの、終始増沢に前進を促され、増沢に手応えを感じさせないままに終わったレースぶりは陣営に不安を与え、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された。

弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週3月25日スプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも好位を進み直線で抜け出すというレース運びで勝ちはしたものの、陣営が期待していたほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手安田伊佐夫が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された。陣営が弥生賞とスプリングステークスにおいて感じた共通の課題は、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)ことであった。

スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した。赤木駿介は、弥生賞とスプリングステークスのレースぶりはともにぎこちなく、「怪物という異名にふさわしいものを感じさせなかった」と評している。一方、当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」としつつ、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」、「五冠王シンザンのイメージがオーバーラップしつつある」と述べた。これに対しシンザンの管理調教師であった武田文吾は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した。

前述のように、陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識していたが、調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと考えた。対策として陣営は、ハミ吊り(ハミの上に舌が乗らないよう、ハミを上顎に引き上げる馬具)を装着することにした。

皐月賞

4月15日中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞に出走。当日は雨で馬場状態は重となった。ハイセイコーが初めて経験する芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれたが、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した。

皐月賞優勝によってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。同時にマスコミはハイセイコーの強さを煽り立て、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになった。

NHK杯

皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営はローテーションを巡って、具体的には東京優駿の前にトライアルNHK杯に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した。大川慶次郎は、2月に東京4歳ステークスに出走できなかったことの影響の大きさを指摘している。

NHK杯当日の5月6日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に、東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し、先頭に立てないままゴールまで残り200メートルとなると、レースを実況していたフジテレビのアナウンサー盛山毅は「ハイセイコー負けるか、あと200だ、あと200しかないよ!」と口走った。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた。このレースでのハイセイコーの単勝支持率(全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合)は83.5%で、配当金は単勝、複勝とも100円の元返しとなった。

鈴木勝太郎の子で調教助手を務めていた鈴木康弘は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている。

このレースで増沢は、ハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」という印象を抱いた。2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したが、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し、獣医師は疲労の蓄積を指摘した。

NHK杯を勝ったことで、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した。阿部珠樹は、ファンの間に「ハイセイコーは何があっても負けない」という宗教的信念が生まれたと当時を振り返っている。

東京優駿

東京優駿当日の5月27日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時)の66.6%に達した。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしたが、第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ、さらにインコースに入りすぎてしまった。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した。第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた。

赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにし、東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれた。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し、増沢はレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げている。

鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけたときに「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中でもっとも実力があるのはハイセイコーだと述べた。

レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたが、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった。

東京優駿の敗戦は不敗神話の崩壊、「怪物性」が馬脚を現した、偶像が虚像と化したと評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べている。

京都新聞杯・菊花賞

夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができたという。

秋になると陣営はクラシック最後の一冠である菊花賞を目標に据え、前哨戦である京都新聞杯に出走させることを決定し、9月18日にハイセイコーを東京競馬場から栗東トレーニングセンターへ輸送した。10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したハイセイコーであったが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、ホウシュウエイトがインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る京都競馬場のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした。

11月11日、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5馬身から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、ハナ差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功は「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていたが、調教師の稲葉幸夫によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた。11月14日、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った。

有馬記念

12月16日、ハイセイコーは有馬記念に出走した(タケホープは出走を回避)。有馬記念ではファン投票により出走馬を選出するが、この年のファン投票でハイセイコーは有馬記念史上最高となる投票者の90.8%に支持され、1位で選出されていた。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走るタニノチカラベルワイドをマークした結果、逃げたニットウチドリや同馬を第3コーナーでいち早く追いかけたストロングエイトを交わすことができず、3着に敗れた。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした。タニノチカラに騎乗した田島日出雄は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し、スポーツニッポン記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した。

1974年の優駿賞年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった。

5歳時(1974年)

陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日アメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた。鈴木康弘によるとハイセイコーはレース後に微量ではあったものの鼻血が出始めていて、後にこれが肺から出ていたことが判明したため、当初は敗因を冬の稽古で絞れなかったことと考えていたが、「とにかく出るレース全部全力投球なんで、目に見えない疲労が少しづつ、体の内部に広がっていったんでしょう」と分析している。

3月10日に出走した中山記念でも1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちした。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという。

中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画は、この敗戦により中止された。また、この頃からハイセイコーは従来の呼称であった「怪物」ではなく、「怪物くん」という愛嬌のある呼称で呼ばれるようにもなっていた。

6月2日宝塚記念に出走。このレースでハイセイコーは、デビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた。増沢は後に、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている。

さらに同月23日、高松宮杯に出走。鈴木康弘によると、当初は宝塚記念出走後すぐに東京競馬場へ戻る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せを行うべく出走に踏み切ったという。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入り、厩務員の大場が弥生賞とも比べものにならないほどだったと語る歓迎を受けた。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した。

6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け、秋になって10月13日京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形で4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400万円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた。

京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、このレースでハイセイコーは2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた。

12月15日、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った。

2頭の競り合いに観客は優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた。

ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『さらばハイセイコー』を流し、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた。

『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巖が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した。1975年(昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を、オリコンのヒットチャートで最高4位を獲得し、50万枚を売り上げた。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた。

引退式

1975年1月6日、『さらばハイセイコー』が流れる中、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のことで、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった。引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった。この場で増沢は、『さらばハイセイコー』を披露している。

1月7日、ハイセイコーは北海道新冠町の明和牧場で種牡馬生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した。

種牡馬時代

ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として競馬ファンと馬産地とを結びつけたことを挙げ、それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意し、ファンの訪問に備えた。1976年(昭和51年)公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた。

1977年(昭和52年)10月にはデビューした大井競馬場において、「ハイセイコー 大井に帰る」と題されたイベントが3日にわたって催された。高橋三郎によるとこの時、京浜急行電鉄立会川駅から大井競馬場にかけて、東京ダービー東京大賞典の当日ですら見られないほどの人だかりができたという。

ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の繁殖牝馬と交配した。小柄な馬が多く生まれたことや産駒の出来不出来の差が激しいといった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していったが、初年度の産駒からカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)など複数の活躍馬が現れたことで人気が高まり、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した。カツラノハイセイコの活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられ、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられた。同馬を管理した庄野穂積のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到し、1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた。

1980年代に入り世界的な広がりを見せていたノーザンダンサーの血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める。それでも散発的ではあったが活躍馬を輩出し続け、依然生産者の間で中央・地方を問わず産駒が走るハイセイコーの人気は高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、種牡馬ハイセイコーは終わったという見方が広まっていった。しかし1989年にサンドピアリスエリザベス女王杯に優勝すると、1990年にはハクタイセイ皐月賞親子制覇を達成、牝駒のケリーバッグ桜花賞で2着と健闘した。また地方競馬でもアウトランセイコーが大井の黒潮盃を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばを回復した。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーを獲得した。

年度別の種付け頭数および誕生産駒数
【年度】
【1975】
【'76】
【'77】
【'78】
【'79】
【'80】
【'81】
【'82】
【'83】
【'84】
【'85】
【'86】
【'87】
【'88】
【'89】
【'90】
【'91】
【'92】
【'93】
【'94】
【'95】
'96
種付け頭数 | 72 | 44 | 38 | 29 | 65 | 64 | 71 | 70 | 50 | 75 | 63 | 61 | 57 | 57 | 37 | 45 | 40 | 43 | 17 | 3 | 1 | -
誕生産駒数 | - | 57 | 32 | 26 | 19 | 40 | 48 | 58 | 45 | 34 | 54 | 51 | 41 | 46 | 36 | 24 | 34 | 29 | 19 | 9 | 1 | 0

顕彰馬に選出

1984年には競馬の殿堂顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったとしている。

晩年

ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)

ハイセイコーは1997年の交配を最後に種牡馬を引退し、明和牧場で余生を過ごした。2000年5月4日午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された。死因は心臓麻痺。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横た

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出典:wikipedia
2020/02/27 17:59

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