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ハインリヒ・ヒムラーとは?

ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler
1942年のヒムラー

【生年月日】
1900年10月7日
【出生地】
ドイツ帝国
バイエルン王国ミュンヘン
【没年月日】
(1945-05-23) 1945年5月23日(44歳没)
【死没地】
ドイツ国
プロイセン自由州
ハノーファー県リューネブルク
【出身校】
ミュンヘン工科大学
【所属政党】
(バイエルン人民党→)
国家社会主義ドイツ労働者党
【称号】
血の勲章(1923年11月9日記念メダル)
黄金ナチ党員バッジ
ダイヤモンド付パイロット兼観測員章金章(de)
ドイツ鷲勲章(de)
【配偶者】
マルガレーテ・ヒムラー(旧姓ボーデン)
【サイン】

親衛隊全国指導者

【在任期間】
1929年1月6日 - 1945年4月28日
ドイツ国国会議員

【選挙区】
オーバーバイエルン
テューリンゲン
【当選回数】
4回
【在任期間】
1930年9月14日 - 1945年4月28日
全ドイツ警察長官

【在任期間】
1936年6月17日 - 1945年4月28日
内務大臣

【内閣】
ヒトラー内閣
【在任期間】
1943年8月24日 - 1945年4月28日
国内予備軍司令官

【在任期間】
1944年7月20日 - 1945年4月28日
その他の職歴

ドイツ民族性強化国家委員
(1939年10月7日 - 1945年4月28日)
国家保安本部長官
(1942年6月4日 - 1943年1月31日)

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(ドイツ語: Heinrich Luitpold Himmler, 発音1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ドイツ軍人政治家ナチス・ドイツにおいて治安諜報などで強大な権力を握った親衛隊のトップであり、国内統制と反ナチ勢力・ユダヤ人などに対する迫害を実行した。

概要

1929年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセン邦の秘密国家警察ゲシュタポ副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を掌握した(ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした。

社会ダーウィン主義アーリアン学説の影響を受けたナチスの人種イデオロギーは、アーリア人種、特にその一派とされた北方人種と定義された人々を主たる人種とし、ユダヤ人ロマスラヴ人は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、北方人種の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は水晶の夜事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。「北方人種」「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった強制収容所(KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった。

第二次世界大戦期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。ポーランド侵攻に際しては親衛隊特別行動部隊がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。占領地域での生存圏政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の総督府領に追放させる任務に当たった。その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「生きるに値しない命」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが絶滅収容所建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。

大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、アドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、エルベ川を渡った後の1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。

経歴

生い立ち

ハインリヒ王子とヒムラー一家。
父ゲプハルト(後列右)、母アンナ(後列左)、ハインリヒ(前列左)、代父ハインリヒ王子と弟エルンスト(中央)、兄ゲプハルト(前列右)

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国の首都ミュンヘンのヒルデガルト通り (Hildegardstraße) 二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた。

父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー (Joseph Gebhard Himmler) は、税関職員の非嫡出子として生まれ、貧しくも生活に励み、名門のルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンを卒業しギムナジウムの教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室のハインリヒ王子の家庭教師を務めていた。母アンナ・マリア・ヒムラー (Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー (Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲプハルトと結婚していた。

ヒムラーが生まれる2年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒを儲けている。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマンが生まれている。

ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの代父となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものであった。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった。こうした王室との関わりとカトリックへの厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは反ユダヤ主義者ではなかった。ヒムラー家は金持ちとまではいえないが、かなり安定した中産階級の家庭であった。戦後、多くの歴史学者が幼少期・青年期のヒムラーに「異常性」や「犯罪性」を見つけ出そうと試みたが、それらしいものは見つけられなかった。ロジャー・マンベルが当時のバイエルンという地域環境にヒムラーの精神性を求めているぐらいである。

7歳の頃

父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れを取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムのヴィルヘルム・ギムナジウムに入学した。同ギムナジウムの担任教師から「たいそうな才能に恵まれた生徒で、たゆまぬ勤勉さと燃えるような向上心と極めて熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と称賛された。このギムナジウムでの同級生に後にアメリカ合衆国に移住してアメリカ国民となり、歴史学者となったジョージ・ハルガーテンがいた。ハルガーテンはナチ党政権誕生とともにアメリカへ逃れた。ヒムラーは後に同級生のハルガーテンのことを「ユダヤの虱」と呼んで馬鹿にした。ハルガーテンはこの頃のヒムラーについて「考えられる限りで最も優しい子羊だった。虫一匹殺せないような少年だった」と証言している。1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東のランツフートハンス・カロッサ・ギムナウジムの共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した。ヒムラーも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。彼は歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという。第一次世界大戦をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された。

第一次世界大戦中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr) の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍 (Landsturm) に入隊し、1918年4月に西部戦線へ送られた。

ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーははじめ海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず(近眼の者は海軍士官になれなかった)、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した。レーゲンスブルクで6箇月の歩兵訓練を受けた後、1918年6月15日から9月15日までフライジングで士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日までバイロイトのバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた。

しかしヒムラーが前線へ配属される前の1918年11月初め、ドイツ革命が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった。しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している。

なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して一級鉄十字章二級鉄十字章を受章している。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1,000マルク戦時国債がヒムラーに遺贈された。

第一次世界大戦後

第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には反革命義勇軍(フライコール)の一部隊であるラウターバッハ義勇軍 (Freikorps Lauterbach) に加わって社会主義者が立ち上げたミュンヘン・レーテ共和国打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている。

その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方インゴルシュタットの農場で働いていたが、まもなくチフスに罹病して寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ヒムラーはミュンヘン工科大学に入学して農学を学ぶこととなった。1919年11月9日、彼は大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためであった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが、ヒムラーは胃弱でビールを飲むことができなかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった。焦ったヒムラーは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた。しかし誰も弱々しい彼を決闘相手として認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった。

しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える。彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘からアメリカ軍兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと、断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、スケートリンクの切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している。

また、ヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年にソ連大使館にウクライナに移住できないかを問い合わせている。

1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった。卒業後すぐにオーバーシュライスハイムで農薬や肥料を扱う会社の研究員となる。しかし1923年8月末にはヒムラーはオーバーシュライスハイムでの仕事を退職してミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる。

政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、バイエルン人民党に入党している(1923年に離党)。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った。第21ライフル連隊はエルンスト・レームが兵器担当将校を務めていた。大学卒業に際して、ヒムラーはレームの組織した准軍事組織「帝国戦闘旗団」に入団した。1923年、反スラヴ主義的・農本主義的な民族主義団体「アルタマーネン」に入団している。ここでリヒャルト・ヴァルター・ダレの人種論と農業論を結合した独特な「血と大地」思想に影響された。ヒムラーは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている。ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていた。農地の豊かな東方にドイツ農民を植民させることによって農家の二男・三男が都市へ出る必要がなくなり、またドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると確信していた。1924年の彼のメモは「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は農民の敵」とし、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラヴ劣等民族(スラヴ民族)と戦うよう運命づけられてきた」としており、ヒムラーの「国際ユダヤ民族」と「スラヴ劣等民族」への憎しみは農本主義的な民族主義とリンクしていたと見ることもできる。

ナチ党黎明期の活動

1927年のナチ党党大会。ヒトラーとヒムラー(眼鏡の人物)

1923年8月、党員番号14303で国家社会主義ドイツ労働者党に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。ミュンヘン一揆の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている。

ヒムラーがいつヒトラーと初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである。

当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった。

党の活動が禁止された間、ヒムラーはエーリヒ・ルーデンドルフアルブレヒト・フォン・グレーフェグレゴール・シュトラッサーが指導するナチ党偽装政党国家社会主義自由運動(NSFB)に入党した。ヒムラーはナチス左派で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120ライヒスマルクの給料で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月12月の国会議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーはニーダーバイエルンの宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている。

1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年、シュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者になるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという。

1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃

1925年8月8日に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号168)。1927年には第2代親衛隊全国指導者エアハルト・ハイデンの代理に任じられた。ハイデンは突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンと対立を深めて1929年1月6日に辞職することとなった。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第3代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった。

1928年7月3日にはブロンベルクの地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女グドルーンが生まれたが、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した。

親衛隊全国指導者

ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1,000人、1930年12月には2,700人、1932年4月には2万5000人、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。

これは1929年10月24日ニューヨークウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした。こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)。

1931年、国家人民党鉄兜団と「ハルツブルク戦線」を組織した際のナチ党。エルンスト・レームの後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。

ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校ラインハルト・ハイドリヒに彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課をSDに改組した。長官にハイドリヒを任命した。

1931年4月初めのヴァルター・シュテンネスの再反乱ではベルリン大管区親衛隊指導者クルト・ダリューゲが鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた。

「血と大地」イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど北方人種により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった。人種の基準を立てることで親衛隊をエリート集団とし、数で勝る突撃隊を抑え込むことを目指した。1931年12月31日の命令で「SSは特別に選抜されたドイツ的北方人種の集団である」と定義し、ダレを長官とする親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を新設させ、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とヒムラーはことあるごとにスピーチするようになった。ヒムラーは後に植物と絡めて次のように語った。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」。

1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である褐色の家の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた。

1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の第1近衛軽騎兵連隊である。

ナチ党の権力掌握後

政治警察を掌握

1934年、プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングからゲシュタポ監査官及び長官代理に任命された。

ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという。

プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングは2月22日に1万5000人のSS隊員をプロイセン州補助警察として動員した。しかしこの補助警察の指揮権はクルト・ダリューゲが握っていた。3月9日、ヒムラーは、ハインリヒ・ヘルト首相のバイエルン州政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割はフランツ・フォン・エップが果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが、結局彼にはミュンヘン警察長官 (Polizeipräsident von München) のポストが与えられるに留まった。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「保護拘禁」させた。

「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外のダッハウダッハウ強制収容所を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日にはバイエルン州政治警察司令官 (Politischer Polizeikommandeur in Bayern) に任命された。

ヒトラー内閣内相ヴィルヘルム・フリックによる強制的同一化政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までにプロイセン州シャウムブルク=リッペ自由州を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった。

一方プロイセン州は首都ベルリンを含む国土の半分以上を占める巨大な州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察ゲシュタポやその局長ルドルフ・ディールスの無法行為を讒言するなどして、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。

ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」 (Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) の座に留任したがすでに形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されてい た。

長いナイフの夜

1934年、突撃隊幕僚長エルンスト・レーム(右)とベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ(左)と。
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出典:wikipedia
2020/10/22 11:49

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