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ハンガリー王国_(1920年-1946年)とは?

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座標: 北緯47度29分 東経19度02分 / 北緯47.483度 東経19.033度 / 47.483; 19.033

ハンガリー王国
Magyar Királyság



 | 1920年–1946年 | 


 | 
国旗 | 国章

標語
Regnum Mariae Patrona Hungariae
"マリアの王国、ハンガリーの保護者"
国歌
賛称
Hymn

1942年時点のハンガリー王国領

首都 | ブダペスト
言語 | ハンガリー語 (公用語) · ドイツ語 · ルーマニア語 · ルシン語 · スロバキア語 · クロアチア語 · セルビア語 · スロベニア語 · カルパティア・ルテニア語 · イデッシュ語
宗教 | ローマ・カトリック · カルバン派 · ルター派 · 東方正教会 · 東方典礼カトリック教会 · ユニテリアン派 · ユダヤ教
政府 | 権威主義 摂政
(1920–1944)
農本思想 ファシズム 一党独裁制
(1944–1945)
国王 | 
・ | 1920年1946年 | 空位
国家元首 | 
・ | 1920年–1944年 | ホルティ・ミクローシュ
・ | 1944年–1945年 | サーラシ・フェレンツ
・ | 1945年–1946年 | 高等国民評議会
首相 | 
・ | 1920年 (初代) | フサール・カーロイ
・ | 1945年–1946年 (最後) | ティルディ・ゾルターン
議会 | 国会
・ | 上院 | 貴族院
・ | 下院 | 国民議会
歴史・時代 | 戦間期 · 第二次世界大戦
・ | 王政復古の決議 | 1920年2月29日
・ | トリアノン条約 | 1920年6月4日
・ | 第一次ウィーン裁定 | 1938年11月2日
・ | 第二次ウィーン裁定 | 1940年8月30日
・ | 国民統一政府の成立 | 1944年10月16日
・ | 王政廃止、ハンガリー第二共和国の建国 | 1946年2月1日
面積
・ | 1920 | 92,833 km2 (35,843 sq mi)
・ | 1930 | 93,073 km2 (35,936 sq mi)
・ | 1941 | 172,149 km2 (66,467 sq mi)
人口
・ | 1920年推定 | 7,980,143人
密度 | 86人/km2 (222.6人/sq mi)
・ | 1930年推定 | 8,688,319人
密度 | 93.3人/km2 (241.8人/sq mi)
・ | 1941年推定 | 14,669,100人
密度 | 85.2人/km2 (220.7人/sq mi)
通貨 | コロナ (1920–1927)
ペンゲー (1927–1946)
アドー・ペンゲー (1946)
現在 | ハンガリー
a. | 1920年から1922年にかけてはオーストリア・ハンガリー二重帝国の最後の皇帝であったカール1世(カーロイ4世)が、1922年以降はオットー・フォン・ハプスブルクが、王位請求者としてハンガリー王を称している。1921年まではカール1世の復帰運動も行われた。
b. | ホルティ・ミクローシュのポストは摂政
c. | サーラシ・フェレンツのポストは国民指導者
d. | 「国家元首の機能を果たす合議体」
e. | 1945年に廃止

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、ハンガリー語: Magyar Királyság)は、中央ヨーロッパハンガリーを中心とする地域に、第一次世界大戦直後から第二次世界大戦直後まで存在した「王国」。ただし、国王は終始空位であり、1919年のハンガリー革命で成立したハンガリー・ソビエト共和国を打倒したホルティ・ミクローシュが1944年まで摂政として統治した。枢軸国として第二次世界大戦に参戦したが、大戦末期に矢十字党クーデターが発生し、ナチス・ドイツの傀儡政権となった(国民統一政府)。矢十字党の政府はソ連軍によって崩壊したが、王国は1946年のハンガリー第二共和国の成立まで形式上存在した。首都はブダペスト

目次

  • 1 政体
  • 2 歴史
    • 2.1 ハンガリー革命戦争
    • 2.2 王国成立
    • 2.3 ホルティの統治
      • 2.3.1 カール1世の復帰運動
      • 2.3.2 ゲンベシュ政権
      • 2.3.3 反ユダヤ風潮の高まり
      • 2.3.4 チェコスロバキア問題
    • 2.4 第二次世界大戦
    • 2.5 ホルティの退位
    • 2.6 矢十字党政府
    • 2.7 臨時政府と王国の消滅
  • 3 経済
  • 4 戦争犯罪
    • 4.1 ホロコースト
  • 5 脚注
  • 6 関連項目

政体

1918年以前のハンガリー王国オーストリア・ハンガリー二重帝国構成国の一つであり、ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主がオーストリア皇帝と同時にハンガリー王に即位し、ハンガリー政府を統治する構造であった。

長い伝統を持つハンガリー王国は、聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれる地域の統治権を理念上保有していた。第一次世界大戦後の混乱によりスロバキアトランシルヴァニアなどを占領されたハンガリーは、失った領土の統治権を主張するためにも「ハンガリー王国」の名を掲げる必要があった。

しかしハプスブルク家の人物をハンガリー王として戴くことは、国内にも反発が強かった上に、ハプスブルク帝国の復活を怖れる協商国や周辺国の反発を招いた。このため、国王が不在のまま「王国」という形態を取り、議会によって指名された摂政が統治するという政体となった。

歴史

ハンガリー革命戦争

詳細は「アスター革命」および「ハンガリー革命」を参照

オーストリア・ハンガリー二重帝国は第一次世界大戦で敗れ、ハプスブルク家の権威は失墜した。アスター革命後、1918年11月16日にハンガリー初の共和制国家であるハンガリー民主共和国は二重帝国からの独立を宣言した。しかし、その直後から北部ハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)をチェコスロバキア軍が、トランシルヴァニアルーマニア王国が占拠していた。社会民主党系の大統領カーロイ・ミハーイは不安定な国内でハンガリー共産党の伸長を押さえきれず、一時は連立を組んだものの、1919年3月にはクン・ベーラらがハンガリー革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国を成立させた。

クンのソビエト政府は国内で赤色テロ (en) を起こし、さらにスロバキアの回復を目指してチェコスロバキアに攻撃をしかけた(チェコスロバキア・ハンガリー戦争)。このため保守的なハンガリー人、フランスやルーマニアといった周辺国の支持も失った。4月にはルーマニアがハンガリーに侵入し、ハンガリー・ルーマニア戦争が発生した。

6月、二重帝国海軍総司令官であったホルティ・ミクローシュハンガリー国民軍を率いて全土で蜂起した。8月にはルーマニア軍がブダペストを占拠してハンガリー・ソビエト政府が崩壊し、ハンガリー共和国臨時政府が樹立された。

王国成立

騎乗するホルティ・ミクローシュ(1919年10月16日)

ブダペストに入城した国民軍は臨時政府に代わる正式政府の準備を行った。しかし国民軍が「我らが王」(Homo Regius)として擁立したオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストはハプスブルク家の一員であったため、協商国やルーマニアの了解を得られなかった。

10月23日、ヨーゼフ・アウグスト大公は暫定的な王位から退位した。退位後、極めて短期間、「共和国議会」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、次いでフサール・カーロイが「共和国大統領」として選出され、ハンガリーを統治した。しかし、第一次大戦の敗戦や帝国の解体及び領土の喪失が我慢ならない国内の反動主義者、愛国者たちは聖イシュトヴァーンの王冠の地の栄光を取り戻す社会運動を開始。中世、中欧に栄えたハンガリー王国に倣い、王国の復興を標榜した、所謂「ハンガリーの誇り」を保守的な新聞を通じてハンガリー国民に盛んに宣伝した。この愛国運動が全国民的な社会変革運動へ発展し、国内世論の大多数が共和制から国王を擁した立憲君主主義体制を求める様になった。そして、ヨーゼフ・アウグスト大公が暫定的な王位を退位して僅か数ヵ月後、1920年1月に行われた議会選挙と2月の国民投票を経て、共和制から立憲王制への移行が決定された。

ハンガリー王国摂政に就任するホルティ・ミクローシュ(1920年3月1日)

1920年3月1日、「共和国議会」から改称した「ハンガリー国民議会」は、第一次世界大戦の敗戦により事実上瓦解していた(チェック人スロバキア人を始めとする各民族の「民族自決」による独立)オーストリア=ハンガリー二重帝国を再統合し、帝国を再建すべく、その第一歩として、「ハンガリー王国」の成立を宣言した(元々ハンガリー人は帝国の中核をなす民族としての自負が高く、事実ハンガリー人貴族の方がドイツ人貴族より多かった)。

しかし、ハプスブルク家出身者の国王推戴は戦勝国側である協商国に断固否定され、ハンガリーは国王不在を余儀なくされた。この状況を打開すべく、国民議会は事実上の国家元首として、ホルティ・ミクローシュを「ハンガリー王国摂政」に選出(国民議会定数138票中、賛成131票獲得、5票欠席、2票途中退席)。この選出は表向きには協商国に対する安全保障、つまりオーストリアを追われたハプスブルク=ロートリンゲン家の皇帝カール1世(カーロイ4世)国王に復位させない事を条件とした選出であったが、実際にはカール1世を戴いてオーストリア=ハンガリー帝国の再興を目指す皇帝派と、ハンガリー王国として喪失した領土の回復を目論む民族主義者との妥協の産物と言えるものであった。

ホルティは当初、「私は一介の軍人に過ぎない。大公殿下とハンガリー国民に忠誠は誓うが、政治は門外漢だ」と固辞していたが、ヨーゼフ・アウグスト大公が直々にホルティの元を訪れ、摂政への就任を要請。ホルティは摂政就任を受諾せざるを得ない状況へ追い込まれた。ホルティは国王不在のまま、摂政として、長い大戦とそれに続く混乱・内戦で疲弊した国内経済の立て直しに着手。国民議会は政党の区別なく全面的にホルティの政策を支持し、議会制に基づく緩やかな独裁体制が確立した。

トリアノン条約で分割されたハンガリーと、各地方の人口民族構成。濃い緑がハンガリーの失地

1920年6月20日トリアノン条約が成立、ハンガリーの領土は著しく削減された。北部ハンガリー、トランシルヴァニア、ヴォイヴォディナなど、伝統的な国土の大半を正式に失った。このため、ハンガリー国内には不満が鬱積し、右派・愛国者を中心に失地回復運動が隆盛する事となる。

ホルティの統治

 | 
この節の加筆が望まれています。

カール1世の復帰運動

詳細は「カール1世の復帰運動」を参照

1921年3月26日、オーストリア・ハンガリー二重帝国の最後の皇帝であったカール1世フランスの密かな支援の下、ホルティの休暇という間隙を縫ってハンガリーに帰国し、二重帝国復活のためホルティに対してオーストリアへの侵攻とハンガリー国王カーロイ4世としての即位を要求した。ホルティは当初これを受け入れようとしたが、帝国の復活を目論みオーストリアへの侵攻を画策するカール1世を、協商国との係争化を懸念した国民議会が拒絶。3月27日、ホルティ自身はハプスブルク家への忠誠を誓っていたが、オーストリアへの侵攻は国力的にも国際的にも無理である事を承知しており、オーストリアを諦めるならカール1世を国王として国民議会へ推挙する用意がある事をカール1世へ伝え、この返答に約一ヶ月の猶予を与えた。ホルティはこの猶予期間中に「カールがウィーンに進撃するか、スイスに戻るか」と判断していたが、カールは「オーストリア進撃に関係なく、ホルティが自分の復位に動く」と予想していた。

3月28日、ハプスブルク家の復活を嫌った周辺諸国が反発。小協商を組むチェコスロバキアユーゴスラビア王国が「カールの即位は開戦理由となる」と警告。国民議会も「ホルティ摂政による国内統治の継続」と「カール1世の逮捕」を求める決議を満場一致で可決。ホルティはハプスブルク家(カール1世)と国民議会(ハンガリー国民)との板挟みとなったが、カール1世のオーストリア侵攻計画の件もあり、ホルティが最終的に国民議会の意向に従ったため、すべての取引は公的に拒否され、カールは4月6日にスイスに戻らざるを得なかった(3月危機)。

カールは復位を諦めず、列強やハンガリー国民が復位を支持すると考えていた。しかし、ハンガリー国民の大半は冷淡であり、この間に支持する動きを見せなかった。この騒動で疲れ切ったテレキ・パール(hu:Teleki Pál)首相は4月14日に辞職し、ベトレン・イシュトヴァーン(hu:Bethlen István)が首相に就任した。ベトレンはその後10年にわたって首相を務めることになる。

6月、ハプスブルク家に忠誠を誓う「正統主義者」が王党派(皇帝派)と共に、ホルティに対しカール1世の即位を要求しホルティの政権を言論で攻撃。親王党派のホルティは国民議会にカール1世の即位を働き掛けるが、国民議会はこれを拒絶。正統主義者、王党派とホルティの間で幾つかの会合が持たれたが、最終的に決裂した。

10月21日、カール1世とその妻ツィタが正統主義者、王党派(皇帝派)に擁されてハンガリーへ入国。カール1世を支持する一部のハンガリー王国軍が合流し、内戦の危機に陥る。ハンガリー国民軍が発展的に改編されたハンガリー王国軍は概ねホルティに忠誠を誓っており、ホルティ自身はカール1世へ権力の移譲と摂政の退任を希望していたが、近隣国との摩擦、特にオーストリアを巻き込んだ即位は時期尚早との見解だった。この間、チェコスロバキアやユーゴスラビアは実力をもってカール1世の即位を阻止すべく、国境地帯へ軍を集結させるなどの圧力をかけたため、ホルティ摂政は10月24日、事態を収拾すべく、カール1世夫妻の逮捕を命じた。カール1世も内戦は意図しておらず、ホルティの決断に従った。

10月29日、カール1世が逮捕されたにも関わらず、チェコスロバキアやユーゴスラビアは国境付近から撤兵せず、チェコスロバキア外相エドヴァルド・ベネシュは「将来に渡りハプスブルク家の完全なる廃位が確約されなければハンガリーへ侵攻する」と最後通牒を行った。ホルティはこれに激怒し、ハンガリー王国軍の動員を計画したが、イギリス大使ホーラーによって制止された。

11月、国民議会が1713年に公布された国事詔書の効力を無効とする法案を可決。カール1世の王位継承権を明白に否定した事で、ホルティ自身、皮肉にもハプスブルク家による立憲王政への回帰を諦めざるを得ない状況となった。このため、カールは復位を断念してポルトガルマデイラ島に亡命し、この危機を乗り越えたホルティの政権は安定した。

ゲンベシュ政権

地理学者であり、王国の首相にも就任したテレキ・パールが1910年に作成した民族分布図。赤がマジャール人の居住地であり、ハンガリー王国の境界外にも多く存在している

ハンガリーの民族主義者にとって、トリアノン条約で奪われた領土の奪還は悲願であり、目標であった。このためハンガリーではゲンベシュ・ジュラを代表とする人種防衛党のようなファシストが台頭し、政権を動かすようになった。ハンガリーは未回収のイタリア問題を唱えるイタリア王国と対ユーゴスラビア関係では利害が一致していた。また、1933年にドイツで成立したナチス政権も第一次世界大戦以前の領土を回復することを狙っており、特に対チェコスロバキアで利害が一致していた。

1927年4月5日、ハンガリーはイタリアと友好条約を結び、連携を深めた。1932年に首相に就任したゲンベシュは、ドイツ・イタリア・ハンガリー3国同盟を目指し、当時オーストリア問題を巡って衝突していたドイツとイタリアの関係を改善させた。これは後のベルリン・ローマ枢軸を生み出す元となった。

反ユダヤ風潮の高まり

人種防衛党といった右派政党は早くからユダヤ人の排斥を唱えていた。しかし人種防衛党から首相となったゲンベシュも特に反ユダヤ政策を取ることはなかった。しかしゲンベシュの死後に首相となったダラーニ・カールマーンの権力基盤は弱く、台頭する国民の意思党等の右派政党に配慮せざるを得ず、いくつかの職種におけるユダヤ人の比率を20%までに押さえる法律を制定した。しかしユダヤ人排斥を唱える国民の意思党の攻撃はやまず、ダラーニは1937年に国民の意思党を解散させた。

その後、1938年5月14日にイムレーディ・ベーラが首相となった。イムレーディもゲンベシュの政策を引き継ぎ、独伊への接近政策を強めた。右派の台頭は強まり、1939年2月、イムレーディの先祖がユダヤ人であることが暴露され、辞職に追い込まれた。跡を継いだテレキ・パール首相の元で6月に行われた総選挙では、国民の意思党が再結党した矢十字党が第二党へと躍進している。

チェコスロバキア問題

ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」も参照

1938年、ドイツ人が多く住むチェコスロバキア西部のズデーテン地方をめぐる問題が発生した。ズデーテン・ドイツ人党が主張した自治要求は、やがてドイツによる併合要求へと変化していった。この危機に介入したイギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、チェコスロバキア側からズデーテンを割譲させることで問題を解決しようとした。しかしかねてからスロバキアとカルパティア・ルテニアの奪回を狙っていたハンガリーはこの機に便乗し、チェコスロバキア政府にスロバキアとカルパティア・ルテニアの割譲を求めた。

これらの問題は9月30日にミュンヘン会談で討議され、ドイツはズデーテンを獲得し、ハンガリーの要求地域は住民投票によって解決することが定められた。しかしハンガリーはこれに不服であり、10月13日に軍を動員してチェコスロバキア政府に圧力を掛けた。このためドイツが仲介に入り、11月2日、ウィーンにおいてカルパティア・ルテニアとスロバキア南部をハンガリーに割譲する合意が出来た(第一次ウィーン裁定)。しかし両地域では民族運動が活発化し、チェコスロバキアからの割譲は行われなかった。

1939年3月14日、ドイツの援護を受けたヨゼフ・ティソスロバキア共和国の独立を宣言した。同日、カルパティア・ルテニアでもカルパト・ウクライナ共和国が独立した。これを見たただちにハンガリーはカルパト・ウクライナに侵攻した。ハンガリー軍の脅威に対抗できないチェコスロバキア政府は、ドイツに救援を要請したが逆に恫喝され、ドイツへの併合を受け入れざるを得なかった(ベーメン・メーレン保護領)。

ハンガリー軍は3日でカルパト・ウクライナ全土を占領し、併合した。次の目標はスロバキア全土であり、3月23日にスロバキアに侵攻した(スロバキア・ハンガリー戦争)。しかしスロバキアを保護国化していたドイツの仲介によって停戦となり、ハンガリーは第一次ウィーン裁定で定められた南部スロバキアのみを獲得した。

第二次世界大戦

ユーゴスラビア侵攻」も参照
黄色が1920年当時の領土。黄緑が1941年までに獲得した領土

第二次世界大戦勃発後の1940年11月20日、ハンガリーは日独伊三国同盟に加入した。また12月にはテレキ・パール首相の働きかけでユーゴスラビア王国と友好条約を結び、枢軸国と接近させた。その甲斐もあり、ユーゴスラビアは1941年3月25日には三国同盟に加入した。しかし2日後ユーゴスラビアでクーデターが起こり、親独派の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチの政府が倒れた。これに激怒したヒトラーは独ソ戦の背後を固めるためにユーゴスラビアに侵攻する計画を立てた。ドイツはハンガリーに軍の通行権を要求し、代償としていくつかの領土を割譲することを約束した。ユーゴスラビアとドイツの板ばさみになったテレキ首相は侵攻に反対したが止められず、4月3日に自殺した。後継首相には右派のバールドッシ・ラースローが就任し、積極的な親独路線を推し進めた。ドイツ軍がユーゴスラビアを解体すると、ハンガリーは東部ヴォイヴォディナバラニャバチュカメジムリェプレクムリェを獲得し、占領下に置いた。

独ソ戦」も参照

1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソビエト連邦に侵攻した。ハンガリーはすぐに参戦することはなかったが、ドイツの圧力を受け続けていた。6月27日、ハンガリーは前日にスロバキアのコシツェがソ連軍によって空爆されたとして、ソ連に宣戦布告した。ただしこの空爆は、ドイツとハンガリーによる偽りの出来事であったという推測も唱えられている。

独ソ戦においてハンガリー軍は有力な同盟軍としてドイツ軍をサポートした。また、しかし戦局が悪化するとハンガリー軍の損耗も増し、特にスターリングラード攻防戦では、ハンガリー第2軍が壊滅するなどの大打撃を受けた。ホルティはドイツに失望し、ドイツと距離を取り始めた。まず1942年2月24日には矢十字党を禁止した。そして3月9日にはバールドッシを解任して保守派のカーロイ・ミクローシュを首相に据えた。カーロイは極秘に枢軸国からの離脱を検討し、イギリス・アメリカと交渉を行い始めた。

しかし、カーロイの接触を感知したドイツは1944年3月22日に『マルガレーテI作戦』を発動し、ハンガリー全土を占領下に置いた。カーロイは解任され、親独派のストーヤイ・デメが首相となった。ホルティは王宮に軟禁された状態となり、外部との接触を制限された。

ホルティの退位

ブダ宮殿を占拠した武装親衛隊
詳細は「パンツァーファウスト作戦」を参照

しかし、ソ連軍がハンガリー国境地帯に迫ると、ホルティは再び連合国との講和交渉に動き出した。8月29日、ホルティはストーヤイを解任し、親英米派のラカトシュ・ゲーザを首相に据えた。9月9日、ソ連軍は要衝ズクラ峠を突破した。翌日の閣議でホルティは「戦争の継続は不可能になった」「休戦条件を打診する段階に到達した」と発言し、閣僚全員が同意した。9月15日、ホルティはイタリア駐屯のイギリス軍に使節を送り、和平交渉を申し入れたが、イギリスはソ連軍と交渉するべきだと伝達して拒否した。しかし、これらの行動はドイツ側に筒抜けであった。ヒトラーはホルティの排除と矢十字党によるハンガリー政府の掌握を決意し、クーデターの発動を準備した。10月8日、モスクワでハンガリー使節団はソ連外相モロトフと面会し、ドイツへの即時宣戦布告を条件とする休戦に合意した。

10月15日、ホルティの息子ホルティ・ミクローシュ(hu)がオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊に拉致され、マウトハウゼン強制収容所に連行された。午後1時、ホルティの休戦宣言がラジオ局で放送されたが、ドイツ側からの最後通告を受けた参謀総長ヴェレシュ・ヤーノシュ大将により、直後に取り消しの放送と、矢十字党による政権掌握の放送がなされた。ブダペスト市内はバッハ=ツェレウスキー親衛隊大将率いるドイツ軍と矢十字党員によって制圧され、ブダ宮殿も独軍部隊によって包囲された。ホルティは退位宣言への署名と矢十字党指導者サーラシ・フェレンツの首相および国民指導者への指名を強要された。

この際、ホルティはサーラシに対して「国を売り渡す者よ、私を(王宮前広場に)吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態を吐いたという。かねてより政敵ながらホルティを崇敬していたサーラシは激しく動揺し、ホルティの身の安全が保証されなければ、国民統一政府国民指導者に就き、国民の支持を得る事は困難であると駐ハンガリードイツ大使エトムント・フェーゼンマイヤーに伝えた。フェーゼンマイヤーと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/11/17 11:24

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