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バラク・オバマとは?

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートを参照してください。(2009年7月)
バラク・オバマ
Barack Obama



任期 2009年1月20日2017年1月20日
副大統領 ジョー・バイデン

任期 2005年1月3日2008年11月16日

任期 1997年1月8日2004年11月4日

出生 (1961-08-04) 1961年8月4日(56歳)
アメリカ合衆国
ハワイ州 ホノルル
政党 民主党
受賞 ノーベル平和賞(2009年)
出身校 オクシデンタル大学
コロンビア大学(BA)
ハーバード大学(JD)
配偶者 ミシェル・オバマ
子女 マリア・オバマ
サーシャ・オバマ
署名
ノーベル賞受賞者
受賞年:2009年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際外交、及び、諸民族間における協力強化の為、並外れた努力を払い、世界中の人々に、良き将来への希望を与えた

バラク・フセイン・オバマ2世(Barack Hussein Obama II [bəˈrɑːk hˈsn ˈbɑːmə] ( 音声ファイル)1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国政治家である。民主党所属。上院議員(1期)、イリノイ州上院議員(3期)、第44代アメリカ合衆国大統領を歴任した。

アフリカ系としてアメリカ合衆国史上3人目となる民選上院議員(イリノイ州選出、2005年 - 2008年)。また、アフリカ系、20世紀後半生まれ、ハワイ州出身者としてアメリカ合衆国史上初となる大統領である。

身長6フィート1インチ(約185.4cm)。2009年10月に現職アメリカ合衆国大統領としてノーベル平和賞を受賞する。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 インドネシアへ
    • 1.3 ハワイへの帰還
    • 1.4 大学時代
    • 1.5 弁護士時代
    • 1.6 イリノイ州議会議員
    • 1.7 合衆国上院議員
  • 2 大統領候補
    • 2.1 大統領予備選
      • 2.1.1 立候補
      • 2.1.2 予備選前半
      • 2.1.3 ジェレマイア・ライト
      • 2.1.4 「スーパー・チューズデー」
      • 2.1.5 クリントン陣営の混乱と「失言」
    • 2.2 予備選勝利
    • 2.3 一般投票に向けて
    • 2.4 一般投票勝利、当選
    • 2.5 当選後
  • 3 アメリカ合衆国大統領
    • 3.1 1期目
      • 3.1.1 大統領就任式
      • 3.1.2 混乱する人事
      • 3.1.3 他国との外交
      • 3.1.4 軍事
      • 3.1.5 2009年ノーベル平和賞受賞
      • 3.1.6 2012年大統領選挙
    • 3.2 2期目
      • 3.2.1 大統領就任式
      • 3.2.2 シリアの化学兵器問題
      • 3.2.3 現職米大統領初の広島訪問
      • 3.2.4 他国との外交
  • 4 退任
  • 5 政策
    • 5.1 政権スタッフ
    • 5.2 医療保険制度改革
    • 5.3 環境政策
    • 5.4 外交・安全保障
    • 5.5 核兵器政策
    • 5.6 先住民政策
    • 5.7 オバマによる任命
    • 5.8 移民制度改革
    • 5.9 同性婚への支持
    • 5.10 有給病気休暇
    • 5.11 プロチョイス(中絶権利擁護派)
  • 6 人物
    • 6.1 名前
    • 6.2 演説
    • 6.3 懸念材料
    • 6.4 問題点と疑惑
  • 7 家族
    • 7.1 愛犬
    • 7.2 親戚
    • 7.3 ルーツ
  • 8 エピソード
    • 8.1 喫煙者として
    • 8.2 スポーツ
    • 8.3 音楽
    • 8.4 「オバマを勝手に応援する会」
    • 8.5 専用車
    • 8.6 発言
    • 8.7 アフリカでの評価
    • 8.8 学校教育
    • 8.9 服装
    • 8.10 著作
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

経歴

生い立ち

1961年8月4日ハワイ州ホノルルにある女性と子供のためのカピオラニ医療センターで生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人アン・ダナムである。 父は奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学ロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に結婚。

バラク・オバマ自身はプロテスタントキリスト教徒であり、キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)に所属している。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。

バラク・オバマは、自分自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した。

1963年に両親が別居し翌1964年に両親が離婚した。両親が別居するとオバマ・ジュニアは母のもとで暮らした。 1965年、父は、ケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。父は、ハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は、結婚歴が複数回ある。彼は、その為、後述の異父妹が一人、異母兄弟が八人いる(うち、4人死没)。 1971年、父と再会を果たした。 1982年、父が自動車事故が原因で逝去した。46歳であった。

インドネシアへ

バラク・オバマはインドネシアに行った。 バラク・オバマの母アンはオバマ・シニアとの離婚後、人類学者となった。 その後、アンはハワイ大学で親交を得たインドネシア人留学生で、後に地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro1987年没)と再婚する。

1967年、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。

ハワイへの帰還

プナホウ・スクールの旧校舎

1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンレー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スクールであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻コカインを使用したと自伝で告白している。また2014年には大麻について問われた際に、「悪い習慣だという点では若い時から大人になるまで長年吸っていたたばこと大差ない。アルコールよりも危険が大きいとは思わない」と述べている。

なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年卵巣癌で亡くなった。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。

大学時代

1979年、同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学(カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学する。2年後、ニューヨーク州コロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する。

1983年に同大学を卒業後、ニューヨーク出版社NPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者(コミュニティオーガナイザー)として務めた。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った。

1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた。

1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了しシカゴ大学の法学フェローとなる。

弁護士時代

ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(Voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998年にマリア、2001年にサーシャの二人の娘に恵まれた。

1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 出版社:ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00362-6)」を出版する。 また、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法の講義を担当した。

イリノイ州議会議員

人権派弁護士として、頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1996年イリノイ州議会上院議員の補欠選挙に当選を果たした。 1998年と2002年に再選され、2004年の11月まで、イリノイ州議会上院議員を務めた。 尚、2000年には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。

合衆国上院議員

2004年のイリノイ州の連邦上院議員選挙結果。青はオバマが勝利した

2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70%対27%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。

2004年のアメリカ大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した2004年民主党党大会(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。

なお、ケリーのスタッフがオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることからマイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であること、また当時イリノイ州議会上院議員であったオバマが、同年の大統領選と同時に行われる上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)となることが決まっており、党大会の基調演説者としてアピールすることができれば上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したこと、などの理由からと報じられた。2006年には、連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。

2006年を通して、オバマは外交関係、環境・公共事業、退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に、彼は、環境・公共事業委員会を出て、健康、教育、労働、年金、国土安全保障、および政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また、彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。

2008年11月4日に行われたアメリカ大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領として政権移行に向けた準備に専念するため、同月16日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した。後任は、州法の規定によりブラゴジェビッチ・イリノイ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリスが就任した。

大統領候補

大統領予備選

立候補

スプリングフィールドにて立候補宣言を行うオバマ

2004年以降、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月にNBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言した。翌2007年1月に、連邦選挙委員会に大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を提出、事実上の出馬表明となった。そして2007年2月10日に、地元選挙区であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。

出馬の演説でオバマは「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度等を、改革が必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。グローバル資本主義には懐疑的であり、アメリカ国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだとされ、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢とされた。

予備選前半

当初は知名度と資金力に勝る、元ファーストレディのヒラリー・クリントンの優勢が予想されたものの、大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の2007年12月に行われた世論調査では、オバマの支持率がヒラリーを上回りトップであった。2008年1月3日に行われたアイオワ州党員集会では、保守傾向にある下位の他候補の支持者や20代の若者など幅広い層からの支持を集めて、ヒラリー、ジョン・エドワーズジョセフ・バイデンを初めとするほかの候補者を10ポイント近い大差で破り、オバマが勝利した。

同年1月8日に行われたニューハンプシャー州予備選ではヒラリーに僅差で敗北。しかし本人は「私はまだまだやりますよ」と今後の選挙戦勝利に意欲をのぞかせた。同月26日に行われたサウスカロライナ州予備選で、アフリカ系や若い白人及びヒスパニック層などから圧倒的な支持を受けてヒラリーに圧勝した。CNNでは投票締め切りと同時に「オバマ勝利」と報じるほど他候補を圧倒した。なおこの頃よりエドワーズやバイデンなど他の候補が次々と予備選からの撤退を表明し、事実上ヒラリーとの一騎討ちとなっていく。

ジェレマイア・ライト

選挙の盛り上がりとともに、かつて家族とともに20年間に亘って所属したトリニティー・ユナイテッド教会に関して、長き時を私淑したことで多大な影響を受けていると言われている牧師のジェレマイア・ライトについての論争がしばしば活況を呈した。その過程でライトの反アメリカ政府的とされる様々な説教の内容が取り上げられている。

予備選最中の2008年3月には、オバマとトリニティー・ユナイテッド教会、そしてライトとの決裂が伝えられた。上記のような過激な発言がABCニュースに報道されたのが原因とされている。報道直後、オバマはシカゴのアフリカ系アメリカ人社会に対する貢献を挙げてライトを弁護しようとしたが、その後も人種差別的だとされる発言を続けたことを理由にライトと絶縁した。その一環として「もっと完璧な連邦(A More Perfect Union)」と題するオバマの演説が人種問題に言及した。

5月25日には、トリニティー・ユナイテッド教会に招かれた神父のマイケル・フレガーが説教中にヒラリーを(アフリカ系アメリカ人に対する)人種差別主義者とみなし、クリントンの泣真似をして喝采を浴びる件があった。オバマはこの件について失望の意を表し、31日に「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心が無い」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退する。

「スーパー・チューズデー」

なお、ヒラリーとの一騎討ち状態になったことで、その後選挙戦から撤退したエドワーズやバイデンがオバマ支持に回った他、ジョン・F・ケネディ元大統領の娘で、民主党内に一定の影響力を持つとされるキャロライン・ケネディニューヨーク・タイムズ紙でオバマに対する支持を表明した。

だが、2月5日に22州で行われた「スーパー・チューズデー」ではオバマが13州を抑えたものの、ヒラリーが大票田のカリフォルニア州や地元のニューヨーク州を抑えるなど、ヒラリーとの決定的差はなかった。しかし、スーパー・チューズデー後はミシシッピ州ワイオミング州ケンタッキー州オレゴン州を抑えるなど予備選で9連勝し、一気に指名争いをリードした。

クリントン陣営の混乱と「失言」

これに対してヒラリー陣営は、2月10日にパティ・ソリス・ドイル選対主任が「選挙戦の長期化」を理由に辞任した(実際は選対内の意見対立が原因とも言われている)ほか、ヒラリー本人が、2月23日にオハイオ州シンシナティで行われた集会で、オバマ陣営が配布した冊子の中でヒラリーが進める国民皆保険計画について「国民に強制的に保険を購入させる内容である」と記載していたことに対して「恥を知れ、バラク・オバマ」と、オバマを呼び捨てで非難した。これに対して多くのマスコミや民主党内からは「理性を失っている」との批判が沸き起こった。

なお、ヒラリーはこのような失点があったにもかかわらず、3月4日には大票田のテキサス州とオハイオ州で勝利をおさめたが、各種調査の結果、「選挙戦において完全に劣勢に立たされた」との評価を受けることが多くなった。この様な状況を受けてヒラリーと、夫で元大統領のビル・クリントンが、「クリントン大統領、オバマ副大統領」の政権構想を民主党内やマスコミに対して一方的に喧伝し始めた。これに対してオバマは「なぜより多くの支持を得ている私が副大統領にならなければいけないのか理解できない」と拒否した。

その後もオバマの優位は揺らぐことはなく、5月には特別代議員数でもヒラリーを逆転した。完全に劣勢に立たされたヒラリーは同月に「(敗北が確実視されているのに)選挙戦を継続する理由」として、かつて大統領候補指名を目指したものの、予備選最中の1968年6月に遊説先のカリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺されたロバート・ケネディ司法長官の例を挙げた。これは「オバマが予備選中に暗殺されること(そしてその結果自分に勝利が転がり込んでくること)を期待している」と受け取られ大きな批判を浴び、その後ヒラリーはケネディの遺族とオバマに対して謝罪した。

但しこの予備選の最中、ノーベル文学賞受賞の英女性作家ドリス・レッシングがキング牧師暗殺事件の例を引き合いに「オバマは暗殺される可能性がある」と発言するなど、米世論でも黒人候補であるオバマが暗殺の危機に晒されていると見られていた事は事実ではある。

予備選勝利

同年6月3日に大統領予備選の全日程が終了し、全代議員数の半数(2118人)を超える2151人の指名獲得を集めたオバマはヒラリーを下し、民主党の大統領候補指名を確定させた。なお、予備選の最中に、2006年に次いでグラミー賞朗読部門賞を受賞している。

一般投票に向けて

オバマは2008年民主党党大会3日目の同年8月27日、民主党大統領候補の指名を正式に獲得し、副大統領候補に上院外交委員長を務め、予備選で戦ったもののその後オバマへの支持を表明した上院議員のジョセフ・バイデンを指名した。

オバマは民主党党大会最終日の8月28日に、コロラド州デンバーアメリカンフットボール競技場「インベスコ・フィールド」において、84,000人を前に指名受諾演説を行った。オバマは「次の4年を(ブッシュ政権下の)過去8年と同じにしてはならない」、「未来に向けて行進しよう」と民主党内の結束を呼びかけた。外交問題については「粘り強い直接外交を復活させる」とし、「明確な使命がない限り、戦地にを派遣することはない」と表明した。ジョージ・W・ブッシュ政権下で行われたイラク戦争については、「責任を持って終結させる」とした。

オバマは共和党大統領候補として対決するジョン・マケインを、「ブッシュ大統領を90%支持してきた。残り10%に期待するわけにはいかない」と批判した。またオバマは、1963年のちょうどこの日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、ワシントン大行進においてアメリカにおける人種差別撤廃への夢について語った演説「I Have a Dream」を踏まえ、「われわれの夢は1つになることができる」と述べた。

同年10月29日プライムタイムには、全米4大TVネットワークのうちの3つ(CBS、NBC、FOX)およびユニビジョン(ヒスパニック向けのスペイン語ネットワーク)などを含む7つのテレビネットワークから放送枠を買い取り、30分のテレビCMを全米に放映した。このような大規模な宣伝を行えた背景には、7億4500万ドルという史上類を見ない豊富な選挙資金の存在が有った。

一般投票勝利、当選

2008年11月にオーバル・オフィスで行われたジョージ・W・ブッシュ大統領 (当時) とオバマ次期大統領の会談

2008年11月4日に全米で行われたアメリカ合衆国大統領選挙(大統領選挙人選出選挙)においてオバマは、地元のイリノイ州や、伝統的に民主党地盤である大票田のニューヨーク州(クリントン元候補の地元)やカリフォルニア州、ペンシルベニア州に加え、過去2回の大統領選で大激戦となったフロリダ州とオハイオ州、さらには長く共和党の牙城とされてきたバージニア州ノースカロライナ州インディアナ州でも勝利した。

また近年ヒスパニック系住民の増加が顕著な南西部のうちマケインの地元であるアリゾナ州以外の3州(コロラド州、ニューメキシコ州ネバダ州)でも勝利を積み上げ、選挙人合計365人を獲得してマケイン(173人)を破り、第44代アメリカ合衆国大統領に確定した。一般投票の得票率は52.5%(マケイン46.2%) だった。獲得選挙人数はクリントン(1992年370人、1996年379人)には及ばなかったものの、得票率が50%を越えたのは民主党候補では1976年ジミー・カーター以来だった。

現地時間11月4日午後10時頃、オバマの地元のシカゴ市内中心部のグラント・パークで、約24万人の聴衆が見守る中、公園内に備え付けられたスクリーンに「オバマ、大統領に当選」というテロップが流れると、会場は熱気と興奮に包まれる。約1時間後、家族とともに登壇したオバマは、歓声と拍手にどよ

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出典:wikipedia
2018/07/23 05:15

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