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バリー・ボンズとは?

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バリー・ボンズ
Barry Bonds

【基本情報】

【国籍】
アメリカ合衆国
【出身地】
カリフォルニア州リバーサイド
【生年月日】
(1964-07-24) 1964年7月24日(53歳)
身長
体重 6' 2" =約188 cm
240 lb =約108.9 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
外野手
【プロ入り】
1985年 MLBドラフト1巡目(全体6位)
【初出場】
1986年5月30日
【最終出場】
2007年9月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴


この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


バリー・ラマー・ボンズ(Barry Lamar Bonds, 1964年7月24日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州リバーサイド出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。左投左打。

MLB歴代1位記録となる通算762本塁打、シーズン73本塁打長打率.863、出塁率.609、OPS1.422、史上唯一の500本塁打500盗塁など、そのキャリアを通じて数々の記録を残し、史上最も偉大な野球選手の一人とされる。

栄養補助食品会社バルコ(BALCO)の薬物醜聞(バルコ・スキャンダル)の捜査に関連して司法妨害罪と自身の薬物使用について嘘の証言をしたとして偽証罪で起訴され、2011年4月13日に司法妨害罪の有罪判決を受けたが、2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した。

父のボビー・ボンズも元MLB選手で、レジー・ジャクソンは従兄にあたる。名付け親はウィリー・メイズ

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 プロ入りとパイレーツ時代
    • 1.3 ジャイアンツ時代
    • 1.4 ジャイアンツ退団後
  • 2 選手としての特徴
  • 3 逸話
    • 3.1 性格・態度について
    • 3.2 日本および日本人選手との交流
    • 3.3 Splash Hit
    • 3.4 バット・使用道具
    • 3.5 父親との関係
  • 4 薬物疑惑
    • 4.1 概要
    • 4.2 疑惑に対する周囲の反応
    • 4.3 殿堂入り論争
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 タイトル
    • 5.3 表彰
    • 5.4 記録
      • 5.4.1 保持記録
      • 5.4.2 合同記録
    • 5.5 背番号
  • 6 脚注
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

カリフォルニア州リバーサイドで生まれ、サンカルロスで育った。3人兄弟の長男(次男・リック、三男・ボビーJr)。幼い頃は父が所属していたサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークに通い、試合をダグアウトから観ていたという。サンマテオジュニーペロ・セラ高校に入学し、野球の他バスケットボールアメリカンフットボールで優れた才能を発揮した。野球においては、入学当初は新人チームに所属し、後に1980年から1982年までの3年間選抜チームのメンバーとして活躍した。高校通算打率.404、3年時には.467を記録し、高校全米選抜チームに選ばれた。1982年MLBドラフトでジャイアンツから2巡目に指名を受けるが、球団側の契約金70,000ドルという提示に対し、75,000ドルを要求したため折り合いがつかず、アリゾナ州立大学へ進学。

大学では、3年間で打率.347・45本塁打・175打点を記録した。1984年には打率.360・30盗塁、1985年には打率.368・23本塁打・66打点を記録し、同年スポーティングニュースの全米選抜に選出された。大学オールスターには3年連続で選出された。大学2年時にはカレッジワールドシリーズにおいて7打数連続安打というNCAAの大学記録に並び、当時のチームは1996年にカレッジワールドシリーズにおける最高チームに選ばれた。1986年に大学を卒業し、犯罪学学位を取得した。また、ASU On Deck Circle MVPも受賞した。また、大学リーグでありながら非常にマイナーリーグに近いレベルとされているアラスカ夏季大学野球リーグアラスカ・ゴールドパナーズのメンバーとしてプレイしたこともあった。

プロ入りとパイレーツ時代

1985年のMLBドラフトピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。同年はA級で7月の月間MVPに選出されるなど打率.299・13本塁打を記録。

1986年AAA級で打率.311・7本塁打・出塁率.435の好成績を挙げ、メジャー昇格を果たす。

5月30日ロサンゼルス・ドジャース戦に「1番・センター」として先発出場しメジャーデビュー。16本塁打・48打点・36盗塁・65四球はいずれもリーグの新人選手で最高だったが、キャリアワーストの打率.223・102三振に終わる。2年目での慌ただしい昇格と、与えられた背番号が敬愛するメイズと同じ24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では6位に入る。

1987年は希望通り背番号を24に変更。開幕直前にアンディ・バンスライクの移籍に伴いレフトコンバートされる。バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったが、試合では連携を見せ広い守備範囲をカバーした。同年は25本塁打・59打点・32盗塁の成績。

1988年は打率.283・24本塁打を記録。

1989年は打率.248・19本塁打・58打点とやや不本意だったが、リーグ2位の14補殺を記録した。シーズン終了後にドジャースのジェフ・ハミルトンジョン・ウェッテランドとの1対2の交換トレードの噂が流れるが球団は否定し、結局トレードが行われることはなかった。

1990年は前半戦で打率.340・15本塁打・24盗塁の好成績で、オールスターゲームに初選出される。後半戦は打率.261ながら18本塁打・28盗塁を記録し、シーズン通算で打率.301・33本塁打・114打点、リーグ3位の52盗塁、リーグトップの長打率.565の成績で史上2人目の30本塁打50盗塁を達成するなどチームの11年ぶりの地区優勝に大きく貢献。シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.167と振るわず、チームは2勝4敗で敗退した。MVPの投票ではチームメイトのボビー・ボニーヤを抑えて初受賞し、シルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞も獲得した。

1991年は打率.292・25本塁打・116打点・107四球、リーグトップの出塁率.410を記録し、チームは地区連覇を果たす。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.148、本塁打・打点共に0とまたも振るわず、チームは3勝4敗で敗退した。MVPの投票では首位打者を獲得したテリー・ペンドルトンに次ぐ2位に入り、2年連続でシルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を受賞した。

1992年は打率.311・34本塁打・103打点・39盗塁、いずれもリーグトップの109得点・127四球・出塁率.456・長打率.624・OPS.1.080・32敬遠を記録して2度目の30本塁打30盗塁を達成し、チームは地区3連覇。前年に続きブレーブスと対戦したリーグチャンピオンシップシリーズでは第6戦でポストシーズン初本塁打を放ち3勝3敗のタイに戻す。最終第7戦は2-0とリードして9回裏を迎えたが、1点差に迫られた後の2死満塁からフランシスコ・カブレラ(後オリックス)に逆転サヨナラタイムリーを打たれて敗退。打球を処理しサヨナラのホームインを阻止しようとレフトから本塁へ送球するが及ばず、試合終了後に呆然としている姿をテレビカメラに写されている。2度目のMVPを受賞するが、ボンズ以外にもダグ・ドレイベック等主力選手の年俸が高騰し、再契約は難しいとの見方が出ていた。オフにフリーエージェントとなった。

ジャイアンツ時代

1992年12月8日にジャイアンツと総額・年俸共に当時史上最高額となる6年4,375万ドルの契約を結んだ。翌年以降パイレーツはポストシーズンどころか2012年まで20年間にわたり勝率5割にすら届かないシーズンが続き、ボンズの呪いではないかと言われていた。

1993年のボンズ

当初は球団の永久欠番となっていたメイズの背番号24を着用する予定でありメイズ自身も快諾していたものの、ファンや地元メディアの十分な賛同を得られなかったため、ジャイアンツ時代の父ボビーと同じ25を着用する事となった。

1993年10月1日のドジャース戦でキャリアハイの7打点を記録。打率.336、いずれもリーグトップの46本塁打・123打点・出塁率.458・長打率.677・OPS1.136の成績で、最多本塁打最多打点の二冠を獲得。チームは2位ブレーブスに最大10ゲーム差を付けるなど地区首位を独走していたが、9月7日から8連敗を喫して逆転を許す。シーズン最終戦を前に同率で並ぶが、宿敵ドジャースに大敗して1ゲーム差で地区優勝を逃した。2年連続3度目のMVPを受賞し、ジョー・ディマジオミッキー・マントルなど往年の名選手と肩を並べた。

1994年8月2日のレッズ戦で自身初の1試合3本塁打を記録。MLB選手会1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、打率.312・37本塁打・81打点、リーグトップの74四球を記録し、MVPの投票で4位に入った。同年、ジェームズ・ウッズアン・アーチャー主演の映画ジェーンズ・ハウスに父ボビーと共に本人役で出演した。

1995年はキャリア唯一の全試合出場を果たし、打率.294・33本塁打・104打点・31盗塁、共にリーグトップの120四球・出塁率.431・OPS1.009を記録し、自身3度目の30本塁打30盗塁を達成。

1996年4月27日フロリダ・マーリンズ戦でジョン・バーケットから通算300号本塁打を放ち、メイズ、アンドレ・ドーソン、父ボビーに次いで史上4人目となる300本塁打300盗塁を達成。打率.308・42本塁打・129打点・40盗塁、リーグ記録を更新する151四球の成績で、1988年のホゼ・カンセコに次ぐ史上2人目の40本塁打40盗塁を達成し、MVPの投票で5位に入る。

1997年は打率.291・40本塁打・101打点・37盗塁、4年連続リーグトップの145四球を記録して父と並ぶ通算5回目の30本塁打30盗塁を達成し、チームの地区優勝に貢献。フロリダ・マーリンズとのディビジョンシリーズでは打率.250・本塁打0に終わり、チームは3連敗で敗退した。MVPの投票では前年と同じく5位に入った。

1998年5月28日アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で、2点ビハインドの9回表2死満塁の場面で敬遠四球。8月23日のマーリンズ戦で通算400号本塁打を放ち、史上初の400本塁打400盗塁を達成した。打率.303・37本塁打・122打点・28盗塁を記録し、さらに通算8度目となるゴールドグラブ賞を受賞し、MVP投票では8位に入った。

1999年スプリングトレーニング時に例年より体重を増やした状態で登場。同年は好調なスタートを切ったものの、故障で2ヶ月近く離脱した影響で102試合の出場に留まり、打率.262・34本塁打・83打点と不本意な成績に終わる。ピークは過ぎたと見られることもあったが、355打数で34本塁打を放っており、本塁打率は自己最高を記録している。同年のMLBオールセンチュリーチームの投票では外野手部門にノミネートされたものの、当時の現役野手で唯一選出されたケン・グリフィー・ジュニアに阻まれ、選出には至らなかった。セイバーメトリクスの創始者であるビル・ジェームズはボンズを「90年代最高の野球選手」として評価しているが(2位にはクレイグ・ビジオが選ばれている。)、これについて「ボンズは私の見た中で最も正当な評価をされていない野球選手であろう。グリフィーは凄い人気があるが、ボンズの方が断然に優れた選手である」と異論を唱え、ボンズについて当時の時点で史上16番目に偉大な野球選手としている。また「将来的に歴史上5指に入る偉大な野球選手となるだろう」とも言及している。また同年はスポーティング・ニュースの選ぶ100人の偉大な野球選手のランキングにおいて当時の現役選手としては最高位となる34位に選ばれた。

2000年は打率.306・49本塁打・106打点・長打率.688、リーグトップの117四球を記録し、チームの3年ぶりの地区優勝に貢献。ニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズでは打率.176とまたも振るわず、チームは1勝3敗で敗退した。MVP投票ではチームメイトのジェフ・ケントに次ぐ2位に入った。

2001年4月12日から6試合連続本塁打、その間4月17日のドジャース戦で通算500本塁打を達成。5月17日から再び6試合連続本塁打、5月19日のブレーブス戦、9月9日コロラド・ロッキーズ戦で1試合3本塁打を記録。10月5日のドジャース戦で朴賛浩から71号本塁打を放ち、マーク・マグワイアの70本塁打を更新するメジャー記録を樹立。打率.328・73本塁打・137打点、共にベーブ・ルースのメジャー記録を更新する177四球・長打率.863の成績を残す。しかし打点王は取れなかった。シーズン最終戦の日の朝、アメリカはアフガン侵攻を開始したが、テレビ局ニュース記者によれば、アメリカ国民は「誰もアフガンなんて興味もない。ボンズのホームランに夢中」だった。チームは地区優勝を逃したが、史上初となる4度目のMVPを受賞した。

守備につくボンズ

2002年は開幕から2試合で4本塁打・9打点を記録。その後も8月27日のロッキーズ戦で3本塁打を放つなど好調を維持し、打率.370・46本塁打・110打点、いずれもメジャー記録を更新する198四球・出塁率.582・68敬遠四球を記録して自身初の首位打者を獲得し、チームのワイルドカード獲得の原動力となる。ブレーブスとのディビジョンシリーズセントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは計4本塁打を放ち、チームは13年ぶりのリーグ優勝。自身初出場となったアナハイム・エンゼルスとのワールドシリーズでは打率.471・4本塁打を記録する活躍を見せるが、シリーズ記録の13四球(内敬遠7)と勝負を避けられ、チームは3勝4敗で敗退し移転後初のワールドチャンピオンはならなかった。

2003年は父ボビーの死去(詳しくは下の「父親との関係」を参照)もあり、若干パフォーマンスが落ちたものの、打率.341、45本塁打、90打点を記録。ケントが移籍したこともあり相変わらず勝負を避けられることは多く、61敬遠は前年に自身が記録したものに次いで歴代2位だった。また6月23日のドジャース戦で通算500盗塁を達成したことで、同時に史上初の「500-500」を記録した選手となった(2016年現在においても、ボンズ以外には400-400すら達成者はいない)。前年に続けてチームはポストシーズンに進出したが、地区シリーズでは4試合で8四球(地区シリーズ記録)と歩かされ、敗退した。

2004年は打率.362、45本塁打、101打点を記録。40歳で2度目の首位打者を獲得した。また以前にも増して徹底的な四球攻めに遭い、120敬遠を含む232の四球を記録。出塁率は6割を超え、OPSは1.422を記録し、4つのMLB記録を更新。9月には史上3人目となる通算700号本塁打を達成した。

2005年は故障でシーズンの大半を欠場。9月になってようやく復帰したが、わずか14試合の出場に終わる。これはジャイアンツにとって大きな誤算となり、1996年以来9年ぶりの負け越しを記録することとなった。

2006年には5月28日のロッキーズ戦で715号を放ち、ベーブ・ルースの記録を更新。シーズン全体では130試合に出場し打率.270、26本塁打、77打点に終わり、更なる体重増加により守備・走塁能力にも衰えは明らかであったが、115四球はリーグトップ、38敬遠、出塁率.454はMLB全体トップを記録するなど、打撃技術は健在であることを示して見せた。

2007年、ロッキーズ戦でのボンズ

2007年は通算本塁打の記録更新が近付いていたため開幕から注目されていたが、メジャーデビューから22年目の2007年8月4日ペトコ・パークパドレス戦でハンク・アーロンの持つ755本のメジャー通算本塁打記録に並ぶ。それから三日後の8月7日AT&Tパークナショナルズ戦でマイク・バシック投手から756本目となる本塁打をライトスタンドに打ち込み、MLB通算本塁打記録を塗り変えた。ゲーム中にもかかわらず10分に及ぶセレモニーで新記録を祝い、自らマイクを握って挨拶を行い、「父さん、皆さん、ありがとう!」と締めくくった。チームメイトとの不和が盛んに囁かれていたが、この時はベンチ総出で祝福されている。

記録更新から約一ヵ月後の9月15日、756号の記念ボールが大方の予想を大きく上回る75万2467ドル20セント(約8600万円)で落札された。8月28日にオークションが始まった時点での金額は10万ドルだった。なお、落札者が実施した投票の結果、この記念ボールは参考記録を示す「*」マークを付けて野球殿堂に寄贈されることが決まった。

9月21日に、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針、薬物問題によるイメージダウンなどにより、サンフランシスコ・ジャイアンツは来期以降の契約を延長しない意思を伝え、シーズン中にも関わらず退団が決定した。その頃怪我で出場を見送っていたボンズは、26日のパドレス戦にスタメン出場し、3打数無安打に終わった。結果的にこの日が現役最後の出場となっている。シーズン全体では打率.276・28本塁打・66打点を記録。132四球、43敬遠、出塁率.480は2006年に続いてMLBトップの記録だった。

ジャイアンツ退団後

代理人は「ボンズはプレーする用意がある」との声明を発表し、本人も「まだ引退したつもりは無い」と語ったが、公に獲得を表明する球団は出なかった。

所属球団のないまま迎えた2009年12月11日、最後まで復帰に尽力してきた代理人が「MLBはもう、彼にチャンスを与えないだろう。私もこれ以上、彼の期待しているような仕事をする自信がない」とコメント。公式の引退表明こそないものの、以降はプレーしない意思を示しており、形式的な手続きをしていないが当年をもって引退した状態となっている。

2014年にはサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングトレーニングに特別コーチとして参加した。

2015年12月4日、マイアミ・マーリンズの監督ドン・マッティングリーが、ボンズの打撃コーチ就任を発表した。2016年10月3日、今シーズン限りでの打撃コーチ解任が発表された。

選手としての特徴

【映像外部リンク】

2002年6月8日
ヤンキースタジアム3階席を直撃する本塁打(MLB.comによる動画)

【映像外部リンク】

2002年8月17日
バットを折りながら本塁打(MLB.comによる動画)

【映像外部リンク】

1998年5月28日
満塁で敬遠されるボンズ(MLB.comによる動画)

2006年のバリー・ボンズ

キャリア初期から中期ともいえる1990年代においては、走攻守全てに際立った力を持つ5ツールプレイヤーとして君臨した。30本塁打30盗塁を5度、3割30本塁打30盗塁を3度、3割40本塁打40盗塁を1度記録している。このうち40本塁打40盗塁ホセ・カンセコアレックス・ロドリゲスアルフォンソ・ソリアーノ、そしてボンズの4名しか達成者がいない。足の速さ、外野手としての肩の強さ、守備範囲の広さもトップクラスで、ゴールドグラブ賞を8度獲得した。とりわけ、1997年のオールスターデビッド・コーンイバン・ロドリゲスの黄金バッテリーから盗塁を奪った事でボンズの高い走力を再確認したファンも多い。

ESPNスポーティング・ニュースはともに、90年代最高の選手としてボンズを選出している(歴代の受賞選手はタイ・カッブジミー・フォックステッド・ウィリアムズスタン・ミュージアル、ウィリー・メイズ、ピート・ローズマイク・シュミットなど)。通算7度のMVPのうち、この90年代に3度を獲得した。

2000年代に入ると守備と走塁は衰えた代わりに、打撃において驚異的な成績を残すようになる。2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年からは出塁率.500以上、長打率.700以上を4年連続で記録した。この二つの数字を足したものであるOPSにおいても1.200以上を記録、2004年には出塁率.609、長打率.812を記録しOPSはMLB記録の1.422を記録。一般にOPSは1.000を超えれば超一流といわれ、ボンズが突出した数字を残していることがわかる。四球記録は自身が3度更新、敬遠数は2度更新、出塁率も2度更新するなど、この頃はほぼ自分の記録との戦いであった。一方で、これらの記録には常に薬物使用疑惑が暗い影を落としており、「ドーピングの産物」と冷ややかに見る者も多い。

打撃ではパワーだけでなく、優れたミート能力も持っていた。年間100三振に達したのはキャリア一年目の102三振だけで、元から三振が少ない打者ではあったが、2001年に73本塁打を記録して以降は本塁打率が大きく上昇したのにも関わらず、三振率は低いままで、2004年には三振よりも本塁打の方が多い(45本塁打41三振)という珍しい記録を残した。一般に本塁打の多い打者ほど三振も多い傾向にあるが、ボンズの場合は本塁打数の少なかった若い頃の方が三振が多い。

大振りすることなく、コンパクトに振りぬくだけで場外へ運ぶパワーがあり、ボール球にはほとんど手を出さない。そのためチャンスの場面では歩かされることが多く、無走者での敬遠も41度(うち無死無走者の場面での敬遠が5度)、2ストライクを取られてから敬遠されたことが5度(うち0ボール2ストライクからフルカウントになり敬遠されたのが3度)ある。また前述の通り、1998年5月28日のダイヤモンドバックス戦では、9回ツーアウト満塁から敬遠された。

その打撃力を物語る話として、新人時代にこんな挿話がある。パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受けたその週に、ピッツバーグに招かれ当時の本拠地、スリー・リバーススタジアムで打撃練習を行った。その際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだところ、それを見ていたコーチの一人が、「そんなのは左打者ならみんなできる」と言った。すると「じゃ、これを見てみな」とレフトへ柵越えを連発した。

野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、ぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」と言った。チームメイトは違いが分からなかったがボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てた。

逸話

性格・態度について

大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトも陰口を叩いていたという。

マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢い良くやってきて「俺はバリー・ボンズ。ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな!」と怒鳴りつけたという。

オットーの新人教育は厳しく、大事な試合でも守備で怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、シーズン終盤にはオットーと20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。また、オットーによってクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという。

パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたバンスライク、更にジャイアンツ移籍当時の三塁手マット・ウィリアムスはベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある。 1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。 また、現在では、ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いているという。この専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。

「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」(かなり極端な発言ではあるが、投手にはサイ・ヤング賞があるため、実はボンズと似た考えの野手は少なくないとも言われている)、「ルースの頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。MLB史上最強の打者は俺だ」などの発言もある。

ジャイアンツにFA移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、ピッチャー1人1人を指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった。

2001年4月17日に通算500号本塁打を達成した後日、パイレーツ時代のGMだったシド・スリフトから祝福の電話を貰った時には「あんたが早く俺をメジャーに引き上げてくれていたら、(500号に)もっと早く到達できたんだがね」と言い放ったという。

このようなことから、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしており、チーム内でも孤立しがちであるとされる。しかし、全米の注目を一身に集める中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。

ボンズはマスコミ嫌いでもある。不振に陥っている時のロッカールームでのインタビューでは記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほど。本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。 1990・1992・1993年とMVPを獲得するパフォーマンスだったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている(この年MVPを獲得したのは打率.319・本塁打22・打点86・盗塁10のテリー・ペンドルトン。ただし、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手としてワールドシリーズ進出に貢献したことも評価されている)。

1998年のマーク・マグワイアサミー・ソーサシーズン最多本塁打記録争いの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。

前述の名付け親でもあるウィリー・メイズを尊敬している。パイレーツ時代までは彼と同じ背番号24をつけていた(ケン・グリフィー・ジュニアの背番号24も同じ理由である)。ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既に永久欠番になっていた24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。

時にユーモラスなジョークなどを言ったりもする一面もある。歴代本塁打記録の更新が注目された2007年には記者にその事を問われると、ポツリと“もっとバントをしなきゃな(I've got to bunt more)”と言ったり、友人・知人が少ない事で知られているボンズが、2007年は新人のフレッド・ルイスを弟のように可愛がっており、そのルイスが満塁本塁打を独立記念日に打ったり、母の日にサイクル安打を達成したりすると、“祝日にだけ打つつもりかよ(Are you just going to hit on holidays?)”などとからかったりした。

友達想いの優しい一面もある。2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/01/23 17:23

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