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バルバロッサ作戦とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月)
バルバロッサ作戦

左上から時計回りに:ロシア北部を通過するドイツ軍。火炎放射器を持つドイツ軍。モスクワ近くのドイツ軍の上空を飛行する赤軍のイリューシンIl-2。ドイツの収容所に向かう途中の赤軍の捕虜。ドイツ軍に向かって大砲を発射する赤軍。
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦)
年月日:1941年6月22日 - 12月
場所:ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
交戦勢力
 |  ソビエト連邦
指導者・指揮官
アドルフ・ヒトラー
ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
フランツ・ハルダー
ヴィルヘルム・フォン・レープ
フェードア・フォン・ボック
ゲルト・フォン・ルントシュテット
イオン・アントネスク
ペトレ・ドゥミトレスク
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
ジョヴァンニ・メッセ
イータロ・ガリボルディ |  ヨシフ・スターリン
ゲオルギー・ジューコフ
アレクサンドル・ヴァシレフスキー
セミョーン・ブジョーンヌイ
クリメント・ヴォロシーロフ
セミョーン・チモシェンコ
マルキアン・ポポフ
フョードル・イシドロヴィッチ・クズネツォフ
イワン・チュレネフ
ドミトリー・パヴロフ
ミハイル・キルポノス
戦力
4,000,000 | 2,680,000
損害
戦死 186,452
行方不明 45,000
戦傷 655,000 | 戦死 802,191
戦死・負傷・捕虜・行方不明者 3,000,000
航空機 21,200
戦車 20,500
独ソ戦


バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん、ドイツ語: Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサ英語: Operation Barbarossa)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始された、ドイツ国によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場合もある。枢軸国以外にも、親枢軸のスペインフランス国(ヴィシー政権)が派兵している。

作戦名は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名「Barbarossa」(「赤ひげ」、イタリア語のbarba「あごひげ」+rossa「赤い」 )に由来する。フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされた。それにあやかっての命名、また第3回十字軍総司令官として戦果を残し、ボヘミア王国ハンガリー王国神聖ローマ帝国の影響を拡大した実績から、対ソ戦にふさわしいと判断されたと考えられている。

ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があり、それの発展形とも考えられる。バルバロッサ作戦が頓挫した影響か、翌年の攻勢作戦はまた「青作戦」と純粋な色名に戻された。

背景

ドイツ

アドルフ・ヒトラーは自著『我が闘争』の中で、膨張するドイツ民族はより広い生存圏(レーベンスラウム)を必要としており、それを東方に求めることを明らかにしていた。ヒトラーはスラブ人を劣等人種と見なしており、スラブ人が住む東ヨーロッパの広大な土地から彼らを放逐して、そこにドイツ人の植民地を設けることを企図していた。1939年、ドイツはポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結。互いを敵視していたはずの独ソの条約締結は世界を驚かせた。しかし、ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険に過ぎなかった。ヒトラーはフランス侵攻を成功させると、軍に対してソ連への攻撃を命令した。1940年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、バトル・オブ・ブリテンには敗北し、イギリスを屈服させることはできなかった。ドイツ軍首脳部はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語した。ヒトラーはポーランドとフランスでの成功経験や、赤軍冬戦争において自軍よりはるかに弱小なはずのフィンランド国防軍相手に3か月以上の時間と多大な犠牲を払ってようやく勝利したという事実から、ソ連との戦いにも容易に勝利できると確信していた。また、赤軍に対する迅速な勝利がイギリスとの和平を促進すると期待していた。

ドイツ軍はソ連国境に3個軍集団300万の兵力を集結させた。ヒトラーとドイツ軍指導部は、攻撃・占拠目標としてソ連の特定の地方および大都市を割り当てた。北方軍集団は、バルト海沿岸に沿い旧バルト三国を経由して北ロシアへ侵入し、レーニングラード(現サンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標とした。中央軍集団は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標となった。南方軍集団はソ連最大の穀倉地帯であり、一大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原を抜け東方のヴォルガ川まで進軍するように計画を整えた。

ソビエト連邦

ソ連は、主要軍備の保有量と工業生産力においてドイツを上回っていた。ソ連の工業生産は資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた1930年代に急速に発展し、米国に次いでいた。重点は重工業、特に軍需産業に置かれていた。戦車も航空機も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵、もしくはそれを凌駕する性能を誇った。特に中戦車・重戦車はそれに類するものを持たないドイツ戦車を圧倒した。しかしながら、最新鋭の装備は全体からすると比率は低く、特に航空機は枢軸軍の兵器と比較するとはるかに時代遅れになっていた。

ヨシフ・スターリンは、1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起こしていた。また、ドイツ軍がフランスを電撃戦で破った後も、赤軍はドイツ軍の進軍速度を侮っていた。赤軍は、前衛がドイツ軍を国境沿いの要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃するという展開を想定していた。しかし、1939年までの国境線に構築された要塞であるスターリン・ラインは、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄された。新しい国境沿いの要塞は構築中で、途切れ途切れの点として存在しているに過ぎなかった。新要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であったが、国境付近に兵力を張り付ける配備に変更はなかった。また、精鋭部隊の多くはウクライナに置かれ、工業生産の中心はドイツ国境に近いヨーロッパ・ロシアウクライナに集中していた。

スターリンは独ソ不可侵条約の有効性を信じ、ドイツの攻撃意図を看過ごした。条約締結までソ連ではファシズムの脅威が宣伝され、国内の粛清の口実になっていたが、条約締結後は一転して反ドイツ的論調が抑圧された。ソ連情報部がドイツ軍の国境集結を報じ、ドイツ軍がソ連領に対して数多くの航空偵察を行ったにもかかわらず、ソ連政府も軍も目立った行動を起さず、前線部隊への警告も行われなかった。

対ソ侵攻計画

1940年7月3日フランツ・ハルダー参謀総長は参謀本部作戦部長ハンス・フォン・グライフェンベルク大佐にソ連攻撃計画の予備研究を命じた。その後もドイツ軍の各チームが作戦計画を研究し8月5日にドイツ第18軍参謀長エーリヒ・マルクス(de:Erich Marcks (General))少将が「東方作戦の草案」を参謀本部に提出した(マルクス案)。

マルクス案ではスモレンスク - モスクワ間とキエフを攻勢軸とし首都モスクワの奪取が「ソ連邦の経済的・政治的・精神的中核であるがゆえに、国家としての統合機能・調整機能を喪失させる」と結論付けられた。グライフェンベルク大佐と参謀本部次長パウルス中将協力のもと参謀本部のハルダ―も陸軍総司令部案(オットー)を立案した。陸軍総司令部案(オットー)では特定地域や特定都市の占領は重視されず、赤軍野戦部隊の殲滅に重点が置かれた。ミンスク、スモレンスク、モスクワなどソ連の主要都市は敵兵力を誘引するための囮として位置付けられた。1940年12月5日ハルダ―は「オットー」を陸軍総司令部案としてヒトラーに提出し、ヒトラーは計画に合意を与え訓令起案をヨードルに命じた。ドイツ軍最高司令部ベルンハルト・フォン・ロスベルク(de:Bernhard von Loßberg (Generalmajor))中佐が立案した「フリッツ」とウクライナとレニングラードの奪取を優先したいヒトラーの意向を考慮し最終計画案をヒトラーに提出、ヒトラーは12月18日に総統訓令第21号「バルバロッサの場合」を発令した。

・ロズベルク・プラン「フリッツ」

西部ロシアにおける陸軍の集団は装甲部隊の楔を遠く、躍進させる大胆な作戦によって殲滅すべし。戦闘力を残す部隊がロシア領奥深くまで撤退することは封じなければならない。しかるのちに猛然と追撃し、ロシア空軍の空襲が不可能となる地点まで到達すべし。作戦の最終目標はおおむねヴォルガ河とアルハンゲリスクを結ぶ線において、ロシアのアジア部分にたいする防止線を得ることにある。それによって必要な場合はドイツ空軍によりウラル山脈沿いに存在する、ロシアに残された最後の工業地帯を無力化することも可能になる。

北欧の鉱物資源に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラードを電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物と鉱物資源の宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だった。経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラーの意向を重視した陸軍総司令部はレニングラードとウクライナを第1目標に位置付けた。しかし各目標の優先度は曖昧なままだった。中央軍集団は白ロシアの赤軍殲滅後モスクワに進撃すべきなのか、それともウクライナやレニングラードにむかうべきなのか作戦案では明らかにされなかった。中央軍集団司令官ボック元帥と第3装甲軍集団司令官ホト上級大将は明確な回答を求めたが、参謀総長ハルダ―は回答をはぐらかした。戦略目標の不明瞭さは開戦まで解消されることはなく、ドイツ軍はモスクワを目前に控えて見解が割れることになる。作戦目標だけでなく戦争目標も不明瞭だった。1940年7月には戦争目標はロシアの生命力を断つことだと明記されたが、12月にソ連邦を屈服させることに変更された。開戦後の1941年8月にはイギリスの同盟国であるロシアの無力化に変更され、戦争目標がソビエト体制の打倒なのかロシアという国家を消滅させることなのかはっきりしなかった。

対独防衛計画

西部かキエフか

一方ソ連もドイツの膨張を警戒し対独防衛計画の立案を進めていた。1940年8月には赤軍参謀本部が参謀総長シャポシニコフの名で対独防衛計画を提出した。西部での仮想敵国をドイツ及び同盟国のイタリア、ルーマニア、フィンランドとし、ドイツ軍はポーランドと東プロイセンから出撃し白ロシアの首都ミンスクを突くとされ、プリピャチ沼沢地北部の防衛に重点が置かれた。プリピャチ沼沢地は白ロシアとウクライナを南北に二分する通過不能地帯であり、ソビエト領の防衛は南北どちらに重点を置くかが要点になる。このシャポシニコフ案で想定されたドイツ軍の攻勢計画は現実のバルバロッサ作戦の構想とほぼ同じだった。しかし国防人民委員チモシェンコは許可を出さず、新たに参謀総長に就任したメレツコフに作戦案の修正を命じた。スターリン研究家のドミトリー・ヴォルコゴーノフはチモシェンコは自身の出身であるキエフ特別軍管区の役割の軽視に反発したと語っている。1940年9月に改訂版である赤軍戦略的開進案が提出された。改訂版ではドイツ軍の攻勢は沼沢地南部のウクライナの奪取に重点が置かれるとされ、キエフ特別軍管区に最大の兵力が配置された。1941年1月に参謀総長に就任し計画案を継承したゲオルギー・ジューコフもキエフ閥の軍人であり、改訂版はキエフ特別軍管区の役割が大きかった。一方で白ロシアやバルトへの主攻勢の可能性も排除はされていない。

攻勢か防御か

赤軍は極めて攻撃的な軍事教義を採用した攻撃特化型軍隊であり、防衛計画も敵軍の包囲殲滅を前提とし自国領での防衛計画は想定していなかった。1939年のポーランド分割によりソ連領土は西に240km突き出たヴャリストク突出部を形成した。スターリンはポーランド領と白ロシアを統括する西部特別軍管区を設置、ドミトリー・パヴロフを司令官に任命し対独攻勢の前線基地とした。攻勢計画においてヴャリストク突出部はドイツ領土へと食い込んだ絶好の攻勢開始ポイントであったが、防衛計画においては敵領土に孤立した防衛ポイントであり、包囲殲滅の危険性をはらんでいた。パヴロフや参謀総長メレツコフ、国防人民委員代理のク―リクは攻勢に基づく従来の防衛計画を支持したが、キエフ特別軍管区司令官のジューコフと国防人民委員のチモシェンコは防衛計画の見直しを主張した。ジューコフは新国境での防衛上の不利(ヴャリストク突出部)を訴え、旧国境(スターリン線)での防衛を重視した。1941年1月攻勢論者のパヴロフと防御重視のジューコフが図上演習を実施した。最初はジューコフがドイツ軍(西軍)を担当し、パヴロフが赤軍(東軍)を担当した。パヴロフはドイツ軍の攻勢を15km~20kmの範囲で食い止め、ヴャリストク突出部から大規模な機械化兵力を出撃させ、東プロイセンを西側から包囲し殲滅する攻勢計画を実施した。しかしジューコフは機械化兵力の側面が薄いことを見抜き、西側面からの攻撃で機械化兵力を食い止め、予備兵力を投入して反撃に転じヴャリストク突出部を分断しパヴロフ側の防衛線を崩壊させた。この演習によりヴャリストク突出部の危険性が暴露され、パヴロフの持論である攻勢戦略の前提が崩れさることになる。2回目の演習は攻守が入れ替わり、パヴロフがドイツ軍をジューコフが赤軍を担当した。パヴロフはウクライナに攻勢の主軸をむけ、ジューコフは攻勢130kmの地点で反撃に転じた。深入りしたパヴロフの背後に特別打撃軍を迂回させ、ソ連領での包囲殲滅戦を成功させた。この演習の結果は赤軍の対独防衛戦略に大きな影響を与えた。演習から3日後ジューコフは参謀総長に就任し赤軍は攻勢重視の防衛戦略を改め、防御中心の縦深的な戦力配置に転換することになる。ドイツ軍が国境に集結し開戦が目前になるとジューコフは具体的な防衛計画を立案、国境防衛に第一梯団を配置し西ドヴィナ河~ドニエプル河に戦略的第二梯団を形成、さらに首都モスクワを防衛する第三梯団が配置された。ジューコフはとくに西ドヴィナ河~ドニエプル河に配置した戦略的第二梯団を重視し反撃時の決定的要素と見なした。ドイツ軍の侵攻計画をほぼ予見していたジューコフは先鋒の機械化兵力と後方の歩兵部隊の移動距離を整理し兵站を立て直すのは西ドヴィナ河~ドニエプル河のラインだと見抜き、このラインを決戦場に想定していた。実際バルバロッサ開戦が始まると戦略的第二梯団は有効に機能し、中央軍集団は参謀本部が事前計画で予定していた将兵達の休息と兵站整備を全く行えない状況に陥り、三か月以上足止めされることになる。ドイツ軍参謀本部は西ドヴィナ河~ドニエプル河以西での殲滅を作戦の第一段階とし戦略的第二梯団の存在を想定していなかった。独ソ開戦以前の段階で、兵力を縦深に配置した上で、西ドヴィナ河とドニエプル河の地峡部周辺を重要な決戦場と想定していたソ連赤軍参謀本部の対独戦への備えは、非常に的を射た判断であったと言える。また戦略的第二梯団は中央軍集団のキエフ方面への転身阻止の任務も担い、ドイツのバルバロッサ作戦はほぼジューコフの予見通りに進んだ。しかし旧国境の放棄はヴォロシーロフやク―リクら攻勢論者の反対により実現せず、防衛用の資材も新国境の要塞に優先的に配置された。ジューコフの強硬な反対にスターリンが介入し、砲兵と工兵は内陸部に旧国境に配置され反撃時まで温存された。1941年5月になるとジューコフは戦力移動を開始、4個軍を西ドヴィナ河~ドニエプル河のラインに配置し11個師団を戦略予備としてモスクワに置いた。またT34やKV重戦車などの新兵器も決戦場に想定した第二戦略梯団に優先的に配置され、国境を守備するパヴロフの第一梯団には送られなかった。パヴロフはジューコフの戦略を理解せず苦戦すれば第二梯団が駆け付けると誤解していた。しかし西ドヴィナ河~ドニエプル河を決戦場と想定し第二梯団を決戦兵力としたジューコフにとって、第一梯団は捨て石に過ぎなかった。パヴロフは開戦後真っ先にドイツ軍の奇襲を受けて大敗、その後責任をとらされドイツのスパイとして告発され銃殺されている。ちなみに大祖国戦争で銃殺となった正面軍司令官は彼一人である。

東部総合計画

ヒトラーは著書『我が闘争』においてソ連の征服とスラブ人の根絶を主張していた。ドイツが経済的に自立するためには東方のロシアを征服して新たな帝国を建設する必要があり、東方の征服に全力を注ぐには西の安全を確保する必要があると。ドイツの外交方針や軍事戦略は基本的にヒトラーの東方生存圏構想に基づいて策定された。バルバロッサ作戦はヒトラーの悲願である東方生存圏構想を実現する具体的な軍事作戦であり、同時期にソ連征服後に備えた東部総合計画が立案された。東方における主要な植民地計画の責任はドイツ民族性強化委員の親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが負っていた。ヒムラーには自由裁量権が与えられ、あらゆる国家機関、民間研究機関の協力を得られた。独ソ開戦日の前日ヒムラーはベルリン大学教授コンラート・マイヤーに東部総合計画の策定を命じた。3週間後にマイヤーは計画書を提出し、1942年7月に改訂版を提出した。計画の目的はドイツ人の入植と先住民であるロシア人、スラブ人の絶滅だった。4500万人の西シベリアへの強制移住が計画され、そのうち3000万人は人種的に好ましくないと見なされた。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケによって、包囲下に置いた地域から食糧を収奪することで数百万人のロシア人・スラブ人を餓死させるという計画が立案された(飢餓計画(en:Hunger Plan))。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込み、総合計画による移住計画はロシア人の絶滅を前提としたものであった。レニングラードへの封鎖戦も同計画に基づき実行された。計画の改訂版では捕虜や住民を労働力として利用するため餓死者や追放者は削減された。当初ナチス政府は東方労働者(ソ連人)を帝国で労働させることは民族政策上危険であると判断し、ソ連人労働者の労働動員を拒否していた。しかし戦況が悪化すると方針は変更され、1941年10月にソ連人労働者は労働資源として動員されることが決まった。 1944年8月時点で212万6753人のソ連人労働者が帝国で就業し、アルベルト・シュペーアの戦時経済も東部で獲得した膨大な強制労働者を前提としていた。計画への費用はソ連領での収奪や強制労働で賄われるものとされた。ナチスは東方のゲルマン化を推進し、占領したソビエト領への移住を呼びかけた。同時に占領地では人種の選別が実施され、独ソ開戦から九か月で特別行動部隊と多数の警察大隊が約100万人のユダヤ人、ジプシー、スラブ人を組織的に殺害した。またドイツ軍指導部や全陸軍部隊もナチスの絶滅政策に積極的に関与、もしくは黙認していたとされる。またウクライナや白ロシアのような農業主体国は帝国の主要な食料供給源と見なされ、徹底的な搾取の対象となった。ドイツ経済の戦略的利益とナチスの絶滅政策は深い因果関係にあり、占領地では大規模な餓死者が発生した。白ロシアではドイツ軍占領時代に170万人が死亡し、ソ連兵の捕虜200万人も強制収容所で餓死している。これらの餓死は自然発生的なものではなく、捕虜や住民の飢餓レベルを計画的に維持し食料供給率を上げるドイツ軍指導部の決定だった。陸軍国防経済局のトーマス大将は「ロシア人は何世紀もの間、飢餓、空腹、貧困に耐えてきた。ロシア人の胃袋は柔軟であり、したがって誤った同情は不要である。」と計画の背後にある根本的な理由を述べている。ゲルハルト・ヒルシュヘルトはナチスの占領政策と戦争目的は全征服地域の無制限かつ直接の支配を実行し、可能な限り全ての経済的人的資源を大規模に搾取することであったと要約している。

兵站計画

ロシアへの侵攻作戦が決まった時、戦場となる広大な領域での補給路確保が重要な問題だった。過去の戦争に比べて戦場となるロシアは広大であり、ドイツの補給ラインに対するロシア側の脅威が予想された。ドイツ軍は後方補給線保護に苦心した。アクティブとパッシブの後方警備対策が区別され、状況に応じた警備用の特殊部隊が複数設立された。一方で警備隊は予備役や退役兵など主に高齢者から構成され最低限の訓練しか受けていなかった。武器の補充も不十分で赤軍から鹵獲したロシア製の武器を利用していた。ドイツ軍の兵站業務は陸軍参謀本部の兵站総監部が統括していたが、バルバロッサ作戦では広大なロシアの領域をカバーするため各軍集団に現地事務所が設置され補給を担当した。しかしソ連の広大な領土で整備された街道はミンスク~スモレンスク~モスクワ間の一本しかなく、機甲部隊の通行に適さないデコボコの悪路が果てしなく続いていた。また雨が降ると地面は泥濘化し、雨季のまともな作戦行動は困難だった。侵攻開始から一か月で輸送用トラックの3割が故障し、機甲部隊の戦車も稼働率が激減した。ドイツ軍は道路の不整備を鉄道輸送で補おうと試みたがロシアとドイツでは間隔(ゲージ)が異なり、ゲージ変換作業に追われた。鉄道工作部隊が編制されたが補給路への負担は改善されず物資の積み替え駅では深刻な渋滞が発生した。7月31日時点でドイツ軍は東部の戦闘で21万3301人を喪失していたが補充されたのは4万7000人に過ぎなかった。鉄道網と道路の不備は前線に深刻な物資の欠乏を生じさせていた。また兵站の優先順位が曖昧であり、運行優先権をめぐって現地部隊が対立、酷い時は部隊間で物資を積み込んだ列車のハイジャックが行われた。

参加兵力

ドイツ軍

赤軍

概要

作戦開始から1941年7月
次の侵攻から1941年9月
キエフの包囲から1941年9月
最後の侵攻から1941年12月

1941年6月22日(奇しくもナポレオンロシア侵入は6月24日に始まり、ほぼ同じ時期である)にドイツ軍は攻撃を開始した。作戦には合計300万人の兵員が動員され、それまでの歴史で最大の陸上作戦だった。赤軍は何の対策もしておらず、一方的な奇襲を受けることになった。

2個装甲集団が配備され最強の戦力を持つ中央軍集団は、ミンスクスモレンスクなどでソ連の大軍を包囲撃破してモスクワ目指して進撃を続けていた。しかしヒトラーは、南方軍集団のウクライナ攻撃を支援するために中央軍集団から第二装甲集団を引き抜き、南方へ進撃してキエフを守る赤軍を背後から包囲するよう命じた。それは開戦後ウーマニ包囲戦などの限定的な成功はあったものの、赤軍が主力を配置していたため苦戦を強いられていた南方軍集団にキエフで赤軍主力を包囲撃破する機会を与えたが、この動きはモスクワに対する攻撃を遅らせた(ドイツ軍がモスクワをその攻撃の視野に入れ始めたとき、秋の雨季による泥濘と、続く冬の寒さがその進軍を停止させた)。ただし、陸軍総司令部などが考えていたモスクワ直進作戦を行った場合、補給が追いついていなかったこと、さらにソビエト連邦の大都市や資源が存在する南方での進撃が史実よりも困難になることから、南方への転進は正当な判断ではないかともいわれている。10月中旬に南方軍集団はキエフを占領し、650,000人を超える捕虜を連行した。その多くはナチの強制収容所で死んだ。キエフはその防衛戦闘により、のちソ連政府から英雄都市の称号を与えられた。

祖国を防衛するための ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/09/26 15:50

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