パシフィック・リーグ(英: Pacific League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。連盟(リーグ)公式テーマソングは、1978年に制定された白いボールのファンタジー。
正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部。パ・リーグと呼称される。
1949年(昭和24年)11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である。初年度の1950年(昭和25年)は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。
当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの巨人戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟、いわゆるセントラル・リーグ(セ・リーグ)である。
この時代は南海と西鉄の黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年(昭和34年)にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年(昭和29年)のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(翌1955年のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年(昭和32年)2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、現在に至る。
1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、パ・リーグには逆風となった。1960年(昭和35年)11月、毎日新聞社が大毎オリオンズの経営から事実上撤退しており、1965年(昭和40年)には完全撤退に至った。
このような中、大毎のオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年(昭和37年)に「東京スタジアム」を完成させた。それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9(1965~1973年の9年連続日本一)をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。
1969年(昭和44年)オフに発覚した八百長問題は、「黒い霧事件」として問題が拡大した。特に、4名が永久追放処分、2名が1年間活動停止等の処分を受けた西鉄ライオンズに致命的なダメージを与えただけでなく、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった。西鉄は1972年(昭和47年)にライオンズを中村長芳に譲渡し球団経営から撤退した。さらに映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、大映(永田雅一 → 中村長芳)はロッテへ、東映は日拓ホーム → 日本ハムへと、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ。更にロッテに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテを参照)。
そして1975年(昭和50年)にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の2シーズン制の採用(1973年 - 1982年)、指名打者制度の採用(1975年 - )などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。
1970年代は阪急の黄金時代で、特に1975年(昭和50年)から3年連続日本一となっていた。しかし、関西ではスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は増えなかった。特に1977年(昭和52年)6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だった、と当時南海の監督であった野村克也は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。
1978年(昭和53年)、西鉄から譲渡を受けたものの経営難に陥っていた中村長芳からライオンズを買収した西武グループは、球団経営に革命を起こす。大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実、金に糸目をつけない選手補強などを行ったことで、それらの施策が功を奏し多くの観客が詰め掛け、1980年代には実に5回の日本一を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局も巨人戦一辺倒から西武戦をも放送するようになった。またその頃は清原和博、阿波野秀幸、西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。
1980年(昭和55年)に名称をパシフィック野球連盟に改称した。
しかし西武の健闘にも関わらず、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景が展開されるなど、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも格好のネタになっていた。また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年(昭和56年)に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年(昭和58年)には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。それでも観客増には結びつかず、南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに1988年(昭和63年)秋に南海はダイエーに、阪急はオリエント・リースに、それぞれ球団譲渡を行った。阪急の身売り発表が行われたのは、10月19日17時であり、リーグ2位の近鉄が、優勝をかけてロッテとのダブルヘッダー1試合目を行っている最中だった(10.19)。この試合は、パリーグとしては異例の注目を受けた。
1990年代前半は西武の黄金時代が続き、1990年 - 1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇を飾ることになる。その頃のペナントレースは、西武に近鉄と日本ハムが追う展開であった。1994年は彗星のごとく登場したイチローは1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属するオリックスも阪神・淡路大震災後の復興のシンボルとして、ファンからの後押しもあり1995年・1996年と連続優勝を成し遂げる。イチローの他にも野茂英雄・松坂大輔・清原和博・伊良部秀輝など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。
一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成したため、地元の誘致もあり、1991年(平成3年)にはオリックスが神戸総合運動公園野球場に、1992年(平成4年)にはロッテが千葉マリンスタジアムにそれぞれ本拠地を移転した。当時はまだ地域密着があまり注目されておらず、この移転の際に地名を含む名称へ改称したが、その後の長期にわたる低迷もあり、観客動員数は伸び悩んだ。
1993年(平成5年)に福岡ドームが、1997年(平成9年)に大阪ドームが新規開業したことに加え、1999年(平成11年)に西武ライオンズ球場の改装により西武ドームが誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの70%近くにまで増加した。
1999年(平成11年)には、福岡ダイエーホークスが日本シリーズを制覇。翌2000年(平成12年)にもリーグ連覇を果たしたことで「地域密着球団」の成功例として球界に大きなインパクトを与えた。これが、後の2004年に日本ハムが地域密着型球団を目指して北海道へ移転する大きな契機になった。また、この移転とともに球団名も「北海道日本ハムファイターズ」と改められた(これにより、東京都を本拠地とするパ・リーグ球団が消滅した)。
地域密着が本格的に注目されるようになったきっかけは、2004年(平成16年)6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表されたことである。これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア(仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げ、同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定した。
これにより、2005年以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体が変換されたことのない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。セ・パ両リーグは、再編問題を契機に同年から交流戦を開始した。またパ・リーグの各球団は、再編問題を教訓に、様々な地域密着方針を打ち出している。
2007年(平成19年)5月にパ・リーグ所属6球団により共同事業会社パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)を設立。当初は携帯電話向けの動画配信サービス「プロ野球24」を主業務としていたが、2008年シーズンからはパ・リーグ全球団のウェブサイト、携帯電話向けウェブサイト、インターネット動画配信、携帯電話向け動画配信がPLMにより統合管理され、「クライマックス・パ」をはじめとした共同プロモーション展開などを担うこととなった。現在はメジャーリーグベースボールのビジネスモデルを手本にしたリーグ統合型のビジネスを、球団の垣根を越えパ・リーグ全体で模索している。
2009年(平成21年)1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された(セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。
2010年(平成22年)、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年、2012年シーズンも継続していた。
2013年(平成25年)はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」にも協賛することになりモブキャストの冠を添えることになった。
2010年代、セ・パ交流戦では、勝数はすべての年でセントラル・リーグを上回り、優勝チームを7回出した。日本シリーズでも1回を除き所属球団が日本一となり、特にソフトバンクは、セ・リーグ全球団を相手に日本一となった。
以下に、実数発表となった2005年以降のペナントレース(リーグ戦+セ・パ交流戦)における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す。2017年シーズンには、平均観客数の上位3チームが札仙広福(地方中枢都市)に所在する地方球団(★)となり、下位3チームが三大都市圏に所在するチームになった。
※球団表記順は野球協約の保護地域表記順
1936年1月23日に阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を親会社として阪急軍(阪急職業野球団)を結成。宝塚球場を本拠地とする
1937年、阪急西宮球場に本拠地を移転
1947年、球団名を阪急ベアーズに改称(シーズン中に球団名を阪急ブレーブスに改称)
1988年、阪急電鉄がオリエント・リース(オリックス)に球団を譲渡
1989年、球団名をオリックス・ブレーブスに改称
1991年、球団名をオリックス・ブルーウェーブに改称。神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)に本拠地を移転
2004年、シーズン終了後に大阪近鉄バファローズと合併
2005年、球団名をオリックス・バファローズに改称。ダブルフランチャイズ制を採用
2007年、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠地に、神戸総合運動公園野球場を準本拠地とする
1938年3月29日に南海鉄道(後の南海電気鉄道)を親会社とした南海軍が日本野球連盟に加盟。堺大浜球場を本拠地とする
1939年、中百舌鳥球場を本拠地とする
1944年、陸上交通事業調整法による近畿日本鉄道の誕生(南海鉄道と関西急行鉄道との合併企業)に伴い、シーズン中に球団名を近畿日本軍に改称
1946年、球団名をグレートリングに改称
1947年、近畿日本鉄道による南海電気鉄道への事業譲渡に伴い、シーズン中に球団名を南海ホークスに改称
1948年、阪神甲子園球場に本拠地を移転
1950年、大阪スタヂアムに本拠地を移転
1988年、南海電気鉄道の球団株式売却によりダイエーが経営権を持つ
1989年、球団名を福岡ダイエーホークスに改称。平和台野球場に本拠地を移転
1993年、福岡ドームに本拠地を移転
2005年、ダイエーの球団株式売却によりソフトバンクが経営権を持つ。球団名を福岡ソフトバンクホークスに改称
1949年11月26日に西日本鉄道を親会社とした西鉄クリッパースがパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする
1951年、シーズン開幕前に西日本パイレーツと合併。球団名を西鉄ライオンズに改称
1972年、中村長芳(ロッテオリオンズオーナー)が球団を買収。太平洋クラブとの提携を表明
1973年、球団名を太平洋クラブライオンズに改称
1976年、クラウンガスライターとの提携を表明
1977年、球団名をクラウンライターライオンズに改称
1978年、国土計画(西武鉄道の元親会社)が球団を買収
1979年、球団名を西武ライオンズに改称。西武ライオンズ球場に本拠地を移転
1999年、西武ライオンズ球場のドーム化工事が完了。西武ドームとなる
2008年、球団名を埼玉西武ライオンズに改称
1945年11月6日にセネタースが日本野球連盟に加盟
1946年、東京急行電鉄が経営権を持つ
1947年、球団名を東急フライヤーズに改称
1948年、大映野球が経営参加を表明。球団名を急映フライヤーズに改称。後楽園球場を本拠地とする
1949年、大映野球の経営撤退に伴い、球団名を再び東急フライヤーズに改称
1953年、シーズン中に駒澤野球場に本拠地を移転
1954年、東映に球団経営を委託。球団名を東映フライヤーズに改称
1962年、明治神宮野球場に本拠地を移転
1964年、後楽園球場に本拠地を再移転
1973年、東映の球団株式売却により日拓ホームが経営権を持つ。球団名を日拓ホームフライヤーズに改称
同年、シーズン終了後に日拓ホームが球団株式売却。日本ハムが経営権を持つ
1974年、球団名を日本ハムファイターズに改称
1988年、後楽園競輪場跡地に開場した東京ドームに本拠地を移転
2004年、北海道移転に伴い球団名を北海道日本ハムファイターズに改称。札幌ドームに本拠地を移転
1949年11月26日に毎日新聞社を親会社とした毎日オリオンズがパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする
1957年、シーズン終了後に大映ユニオンズと合併
1958年、球団名を毎日大映オリオンズに改称
1962年、シーズン中に東京スタジアムに本拠地を移転
1964年、球団名を東京オリオンズに改称
1969年、ロッテが経営参加を表明。球団名をロッテオリオンズに改称
1973年、宮城球場に本拠地を移転
1978年、川崎球場に本拠地を移転
1992年、千葉県移転に伴い球団名を千葉ロッテマリーンズに改称。千葉マリンスタジアムに本拠地を移転
2004年11月2日に楽天を親会社とした東北楽天ゴールデンイーグルスがパシフィック・リーグに加盟。宮城球場を本拠地とする
1946年2月18日にゴールドスターが日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする
1947年、球団名を金星スターズに改称
1949年、大映が球団を買収。球団名を大映スターズに改称
1957年、シーズン開幕前に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021/01/24 17:50 HAPPY Wikipedia
あなたの考える「パシフィック・リーグ」の意味を投稿しよう
パシフィック・リーグスレッド一覧
「パシフィック・リーグ」のスレッドを作成する