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パリとは?

【パリ】




上:エッフェル塔(前景)とパリ郊外ラ・デファンス地区(背景)
下:市旗(左)と紋章(右)
【行政】


フランス
地域圏 (Région) イル=ド=フランス地域圏(地域圏首府)
(département) パリ(県庁所在地)
(arrondissement) 20区役所所在地
小郡 (canton) なし
INSEEコード
75056、75101 - 75116
郵便番号
75001 - 75020、75116
市長(任期) アンヌ・イダルゴ
(2014年 -)
自治体間連合 (fr) メトロポール・デュ・グラン・パリ
【人口動態】

人口
市:2,148,271人
都市圏:12,532,901人
(2020年1月)
人口密度
20,382人/km
【住民の呼称】
Parisiens
【地理】

【座標】
北緯48度51分44秒 東経2度21分04秒 / 北緯48.86223度 東経2.351074度 / 48.86223; 2.351074座標: 北緯48度51分44秒 東経2度21分04秒 / 北緯48.86223度 東経2.351074度 / 48.86223; 2.351074
【標高】
平均:33m
最低:28m
最高:131m
面積
市:105.4km
都市圏:17,174km (10,540ha)
パリ

【公式サイト】
www.paris.fr
パリ
Paris

ランドサット衛星写真
位置

パリの行政区
位置
パリ
パリ (イル=ド=フランス地域圏)
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パリ
パリ (フランス)
フランスの地図を表示
パリ
パリ (北欧と中欧)
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パリ
パリ (ヨーロッパ)
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座標 : 北緯48度51分44.03秒 東経2度21分3.86秒 / 北緯48.8622306度 東経2.3510722度 / 48.8622306; 2.3510722
行政
フランス
パリ

パリ(: Paris巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。

フランス最大の都市であり、同国の政治経済文化などの中心である。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。行政上では、1コミューン単独でを構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。

概要

市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km。参考:東京都山手線の内側は63km、ニューヨーク市マンハッタンは59km)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。

EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンク2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドンニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドンニューヨーク東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数では、ニューヨークロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2019年のイギリスシンクタンクの調査によると、世界17位の金融センターと評価されており、EU圏内ではフランクフルトに次ぐ2位である。

パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができ、ルーヴル美術館ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。

パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィヤン)、女性がパリジェンヌ(: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィエンヌ)と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、さらに近年は中近東東欧中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。

市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である(INSEEによる)。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している。

標語

パリ市の標語は「たゆたえども沈まず(ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas) であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年パリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた。

風景

エッフェル塔からのパリの360度のパノラマ
トゥール・モンパルナスからのパリのパノラマ

歴史

国立中世美術館に残るクリュニー浴場のカルダリウム
9世紀のシテ島の地図
1223年のパリ
ヴァンセンヌ城
詳細は「パリの歴史」を参照
フランスの歴史」も参照

語源

語源はParisii(パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと)とも呼ばれていた。

古代

パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。

フランク王国

5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。

885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。

カペー朝

西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。

12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。

13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。

14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。

ヴァロワ朝

ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた15世紀のルーヴル宮殿
1550年パリ地図

1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。

15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年アラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。

この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城アンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。

16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。

その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。

ブルボン朝

メーリアンによる1615年パリ地図
1735年のパリの地図

1594年アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張、ポンヌフヴォージュ広場ドフィーヌ広場サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。

ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。

太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。

ルイ15世1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。

ルイ16世 (フランス王)治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。

18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、啓蒙思想が発展し、ヴォルテールジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロシャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。

フランス革命

バスティーユ襲撃
詳細は「フランス革命」を参照

1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

1790年にパリ県が成立し、1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。

19世紀

第二帝政および第三共和政下の都市改造
クロード・モネサン・ラザール駅1877年
パリ万国博覧会 (1889年)

混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門エトワール凱旋門を建て、ウルク運河(en)を開削するなどした。

第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期および1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的・文化的には繁栄した。

文化面では、ヴィクトル・ユーゴーオノレ・ド・バルザックエミール・ゾラスタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネモネドガルノワールセザンヌピサロモリゾギヨマンシスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラゴッホポール・ゴーギャンなどのポスト印象派新印象派へと続くものとなった。

1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道サン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道モンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道オステルリッツ駅、1846年に北部鉄道 (フランス)パリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅およびパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュール1852年から建設され始めた。

第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった。

普仏戦争 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/07 12:23

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