このキーワード
友達に教える
URLをコピー

パーヴェル・アクセリロードとは?

【通称:】
(本名)ピンフス・ボルフ(Пинхус Борух)
ロシア社会民主主義の賢人
【生年:】
1850年8月25日
【生地:】
オスマン帝国イスタンブール
【没年:】
(1928-04-16) 1928年4月16日(77歳没)
【没地:】
ドイツ国ベルリン
【思想:】
共産主義マルクス主義
【活動:】
ナロードニキ運動、社会民主主義運動
【所属:】
無政府主義サークル、労働解放団ロシア社会民主労働党メンシェヴィキ
【母校:】
キエフ帝国大学(退学)
【影響を受けたもの:】
社会民主主義思想、無政府主義思想

パーヴェル・ボリーソヴィチ・アクセリロート(ロシア語: Па́вел Бори́сович Аксельро́д, ラテン文字転写: Pavel Borisovich Akselrod, 1850年8月25日 - 1928年4月16日)は、ロシア社会主義者ユダヤ人。「ロシア社会民主主義の賢人」と称される、マルクス主義の理論家。一貫してレーニン主義に反対し、メンシェヴィキユーリー・マルトフの理論的後ろ盾となった。

1850年、イスタンブールで生まれる。本名、ピンフス・ボルフ(Пинхус Борух)。当時ロシア帝国領だったウクライナチェルニゴフ県に帰り、育つ。父親は宿屋兼居酒屋を営むユダヤ教徒であった。

中学時代に社会主義思想に目覚め、ラッサールの影響を色濃く受ける。1872年キエフ帝国大学に入学する。在学中にナロードニキ運動に参加するが、1874年逮捕される。 その後、脱走に成功し、ドイツベルリンに亡命する。さらにジュネーヴに移り、バクーニンの影響を受けた無政府主義のサークルに参加した。1875年から1979年にかけて、秘密裏に帰国し、雑誌の編集や労働運動に携わったが失敗した。

1881年スイスチューリヒに亡命する。この頃からマルクス主義に立場を移し、1883年「労働解放団Освобождение труда」の創設に参加する。また、インターナショナルチューリヒ、ロンドン大会に出席し、同時に晩年のエンゲルスプレハーノフとともに訪れた。1903年ロシア社会民主労働党第2回党大会では、マルトフの党規約案を支持。また、これに先立つ綱領案の討議では、レーニンの打ち出した土地の国有化を、プレハーノフとともに批判した。 アクセリロードは、メンシェヴィキの指導者の一人となり、プレハーノフの推薦で党機関誌「イスクラ」編集部に入った。イスクラに寄稿する中で、レーニン及びボリシェヴィキに対しては、たびたび批判を加え、レーニンが主張する党組織論を危険視し、ボリシェヴィキとメンシェヴィキが究極的には対立することを1905年から1907年の段階で予想するに至った。 1914年第一次世界大戦が勃発すると、ロシアが参加していた連合国側を支持した。その後、カウツキーら、ドイツ社会民主党(SPD)中間派に接近し、「勝ちもせず、負けもせず」のスローガンのもと、戦争反対に傾斜し、ロシア社会民主労働党組織委員会の在外書記や「イズベスチア」誌の編集者となる。二月革命後の1917年5月にロシアに帰国し、ロシア社会民主労働党組織委員会議長、党中央委員会議長に選出される。 その後、ペトログラードソビエトなどで活動するが、インターナショナルの準備のため、出国し、9月ストックホルムで演説。臨時政府を支持し、ボリシェヴィキに反対する立場を表明した。以後、ドイツで亡命メンシェヴィキ右派指導者として活動し、さまざまな論文・著作を著し、1928年亡命先のベルリンで死去。

外部リンク

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/01/17 21:45

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「パーヴェル・アクセリロード」の意味を投稿しよう
「パーヴェル・アクセリロード」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

パーヴェル・アクセリロードスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「パーヴェル・アクセリロード」のスレッドを作成する
パーヴェル・アクセリロードの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail