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ヒロシとは?

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ヒロシ

【本名】
齊藤 健一
(さいとう けんいち)
【生年月日】
(1972-01-23) 1972年1月23日(46歳)
【出身地】
日本熊本県荒尾市
【血液型】
O型
【身長】
175cm
【言語】
日本語
【方言】
共通語熊本弁
【最終学歴】
日本
九州産業大学商学部商学科卒業
【出身】
福岡吉本
【コンビ名】
ベイビーズ(解散)
【相方】
友納 一彦
【芸風】
漫談
【事務所】
ヒロシ・コーポレーション
【活動時期】
1995年 -
【同期】
バカリズム
ドロンズ石本
スパローズ
【他の活動】
タレント俳優
【配偶者】
未婚
【公式サイト】
ヒロシ・コーポレーション
【受賞歴】

第1回お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル優勝(2005年)

ヒロシ(1972年1月23日 - )は、日本お笑いタレント漫談師ベーシスト俳優。本名、齊藤 健一(さいとう けんいち)。

熊本県荒尾市出身(福岡県大牟田市生まれ)。ヒロシ・コーポレーション所属。九州産業大学商学部商学科卒業。身長175cm、体重70kg、血液型O型

趣味はキャンプ、キャンプグッズ集め、ジムニー、釣り家庭菜園、ベース演奏、熱帯魚飼育。特技は「あるんだったらテレビに出てるよね」(ヒロシ談)。小型船舶操縦免許取得。

目次

  • 1 来歴・人物
    • 1.1 生い立ちからデビューまで
    • 1.2 お笑い芸人
      • 1.2.1 福岡吉本時代
      • 1.2.2 ホスト時代
      • 1.2.3 「ヒロシです」誕生とブレイク
      • 1.2.4 ブレイク後
    • 1.3 俳優
    • 1.4 その他
  • 2 芸風
  • 3 作品
    • 3.1 書籍
    • 3.2 連載
  • 4 出演番組
    • 4.1 現在
      • 4.1.1 テレビ
      • 4.1.2 ラジオ
      • 4.1.3 Youtube
    • 4.2 CD
    • 4.3 DVD
    • 4.4 その他の作品
    • 4.5 過去
      • 4.5.1 テレビ・ラジオ
      • 4.5.2 ドラマ
  • 5 出演その他
    • 5.1 CM
    • 5.2 映画
    • 5.3 オリジナルビデオ
    • 5.4 舞台
    • 5.5 その他のDVD
    • 5.6 WEB
    • 5.7 ポスター
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 外部リンク

来歴・人物

生い立ちからデビューまで

熊本県荒尾市で生まれた。実家は万田坑のそばで、父は炭鉱マンだった。本名の「健一」は、「健康第一」という願いを込めて付けられたもので、弟・康次(診療放射線技師をしている)と一字ずつとって合わせると「健康」となる。炭鉱の街の炭鉱住宅に住み、みな生活レベルが同じだったため、貧富の差を感じたことがなかったが、中学生のとき神奈川県に住むいとこが遊びに来た際に、「汚いから」という理由でヒロシの家に泊まらずホテルを利用したことから初めて自分の家が貧しいということを知った。1981年の秋、ヒロシが小学4年生のとき、父親が仕事中の落盤事故で左ももから下を失った。炭鉱の落盤事故は珍しいことではなく、近所を歩けば片足を失った炭鉱マンと頻繁にすれ違っていたヒロシにとってそれは見慣れた光景であったが、父親が左脚を亡くした現実はなかなか受け入れることが出来なかったと語っている。父はその後、炭鉱の保健課の事務職として働いた。父は読書家で教養のある人物だった。勉強に関しては厳しく、ヒロシが宿題で分からないところがあると叱られたり、家の外に締め出されることもあった。ヒロシ自身は父が勉強に厳しかった理由は、自分のように危険な仕事ではなく、大学を出て安定した企業でサラリーマン生活を送るという道を息子に歩ませたかったのではないかと考えている。半面、父は身体を使う仕事に誇りを持っており、高校生のときにヒロシが飲食店の皿洗いのアルバイトをすると激怒して辞めさせたが、土木作業や駐車場整理のアルバイトは応援してくれた。

ヒロシが小学生のころ漫才ブームの真っただ中で、特に好きだったのがツービート漫才だった。「芸人」という職業に衝撃を受け、自然と憧れの気持ちが強くなったのもこのときだった。小学生の頃、家族に頼み込んでなんばグランド花月に行き、初めて生のお笑いライブを観劇。その中でひときわ面白かったのが、全国区になる前のダウンタウンで、劇場の外で待つ多くの女性ファンを見て「お笑いで頑張ればこんなにモテるんだな」と衝撃を受けた。小学生時代のヒロシは暗くいじめられっ子で、担任教師にさえ嫌われていた。中学は地元の荒尾市立荒尾第三中学校に進学。中学3年生の時の三者面談で、初めて芸人になりたいと打ち明けたが、先生に軽くあしらわれた。

熊本県立荒尾高等学校から指定校推薦で九州産業大学商学部に進学。大学1年生のとき、男友達2人を誘ってトリオ「貴族」を結成し、吉本興業が主催するお笑いオーディション番組「激辛!?お笑いめんたい子」(テレビ西日本)に応募。テレビ熊本で行われた熊本予選に参加するが不合格。就職活動大阪府福岡県などの企業を数社受けたが全滅。就職が決まらないまま大学を卒業し、実家に帰りしばらくダラダラとした生活を送る。その後見かねた両親が知人の伝手で保険会社に就職させ損害保険営業の仕事に就くも、極度に人見知り性格であったため営業の仕事が務まらず、サラリーマン生活自体不向きだと考えるようになり、入社から半年後、身内を一通り保険に加入させたところで退職した。23歳のとき、再び「激辛!?お笑いめんたい子」のオーディションに挑戦。前回一緒に出場した男友達2人には断られた為、1人で出場し、中森明菜近藤真彦物真似を披露。結果は不合格だったが、福岡吉本のスタッフが不合格者の中からどうしてもお笑い芸人になりたい人を募った。前回出場したときも同じような声かけはあったが、その時は勇気がなく手を挙げられなかった。しかし、2度目の挑戦のときは会社員として挫折を経験していたため、「もう逃げ道はない」という強い気持ちで、そのスタッフに連絡した。

お笑い芸人

福岡吉本時代

しばらくするとナインティナインが出演するイベントに呼ばれ、芸人になるきっかけが出来たと喜んでいたが、やらされた仕事はチケットもぎりであった。その後も雑用係としてイベント会場に呼ばれる日々が続いた。不安になっていたある日、突然「ライブをやるからネタを作ってこい」と言われた。そのとき残っていたのは十数組だけで、後の「福岡吉本6期生」として同期となるメンバーであった。その中には、パンクブーブー佐藤哲夫スパローズなどがいた。ネタ見せは福岡吉本の所長がいる中で行われた。ヒロシ自身、ネタの詳細は覚えていないが、下品で下ネタを含むネタを披露したところ、所長に激しく激怒されスリッパを投げつけられた。ネタを酷評されたことからピン芸人としてやっていくことに不安を感じ、元々漫才師を目指していたこともあり、コンビを組みたいという気持ちが強くなっていった。早速、同期に声をかけコンビを組むが、当時思い切ったことをやれば売れると勘違いしていたヒロシはその相方に「うんこを食ってみよう」と提案し、考え方が違うと拒絶され、舞台に1度も上がることなく1か月で解散。その後、3人組でコントをやり、そこそこ評判が良かったが、短期間で解散。そして、ツッコミが上手そうだった友納一彦を誘い「ベイビーズ」を結成し、落ち着いた。ヒロシがあがり症で大きな声を出したい気持ちが強かったため、ベイビーズ時代はキレ芸をしていた。ライブではそこそこウケるものの一向に売れる気配がなく、事務所からの評価も最悪だったことから、友納と多くの芸能プロダクションがあり、新人発掘のライブが頻繁に行われている東京で暮らした方が良いのではないかと考えるようになった。そこで、3年間所属した福岡吉本を辞め、26歳の時に上京。当時は芸人仲間6人(その中にパラシュート部隊の矢野ぺぺもいた)と中野区の6畳一間のアパート共同生活を送っていた。

ホスト時代

ベイビーズ時代、「熊本弁の認知度を上げたい」という気持ちやヒロシも相方も日常生活もままならないほど方言訛りがひどく標準語が話せなかった為、熊本弁でキレ芸を展開。ライブ後のアンケートではいつも「何を言っているのかさっぱり分からない」と不評だった。最初は「観客が理解するようになればいい」と強気だったが、人気投票でいつも最下位だったことから危機感を覚え、徐々に標準語にしていった。ライブへの出演が続いていたある日、相方と一緒に受けたテレビ番組のオーディションにヒロシだけ合格。それは建設現場のとび職の体験で足場の下に土佐犬が待っているというものだった。出番までの2か月間、その土佐犬の世話までさせられたが、出演料は2万5千円だった。仕事を終えて帰ると相方と温度差が出来ており、コンビは解散。相方は地元福岡に帰った。コンビ解散後、生活費に困っていたところ、ライブに出ていた芸人仲間から「ホストは稼げるし、モテるぞ」と聞いた。後々それはその芸人が自分がモテると自慢したいがためのだったと判明するのだが、ヒロシは騙されて知り合いの知り合いの彼女の更に知り合いという遠いつてをたどり、歌舞伎町の小さな店で働き始めた。源氏名は「冴神 剣(さえがみ けん)」で、殺し文句は「あなたの心を一刺し」。面接が飲めないと知らせていたにも関わらず採用されると毎晩大量の酒を飲まされ、飲まないと怒鳴られる、長時間労働で風呂も入らず仮眠をとっただけで出勤、高熱が出て仕事を休んでも罰金3万円を払わされるといった辛い日々が続いた。指名がほとんどなかった為、給料は月3万円程度で唯一の休みだった日曜日は、コンビニでアルバイトをしていた。週1回のアルバイトなのに、ホストよりコンビニのアルバイトのほうが給与がよかった。ホストクラブを辞めようとすると「代わりのホストを探せ」と脅され、逃げようとすると1日6万円で借用書を書かされ、取り立てに来られた。また、ホスト時代はホームレスになった。当時交際していた女性が二股をしており、ヤクザ風の男たちがヒロシが芸人仲間と共同生活をしていたアパートに押しかけてきた。身の危険を感じてから逃亡し、それ以降、そのアパートには戻らなかった。新しいアパートを借りる余裕もなかった為、ホストの客引きの時間に見知らぬ通行人に泊めてくれるように頼んだ。時々泊めてくれる人もいたが、何日もお金を払わずに居座ると追い出され、また新しい宿を探すという生活を続けていた。宿がなく、二日酔い状態で意識が朦朧とし、路上で倒れているときに、仲の良かったお笑いコンビサンドウィッチマンに偶然発見され、介抱してもらったこともあった。ヒロシは後に、29歳から31歳までのこのホスト時代を「まさに生き地獄」だったと回想している。また、「ヒロシです」のネタでブレークした頃、よく「ホストキャラ」と呼ばれたが、ホスト時代に辛い経験をしていた為、そういわれるのが嫌で仕方なかったと明かしている。

「ヒロシです」誕生とブレイク

ホスト時代、芸人に戻りたいと考えていたが、ライブやテレビ番組に出れば居場所を特定され連れ戻されるかも知れないという恐怖心を感じていた。心身ともに限界に達し、2003年の初日の出とともに誰にも告げずに荒尾市の実家に帰った。それから2か月間、実家に引きこもり、ひたすら大学ノートにネタを書き溜めた。幼い頃いじめられた経験、女性にモテなかった青春時代、ホストとしてお笑いが出来なかった悔しさなど様々な思いをネタにぶつけた。そのとき生まれたのが「ヒロシです」のネタであった。そのネタをいつもここから山田一成に見せに行ったところ、「いいじゃない!」と背中を押してくれた。「ヒロシ」という芸名は、フリーアナウンサー生島ヒロシに由来する。たまたま家にあった雑誌表紙に生島が写っており、「親しみやすい名前」だと思って採用した。早く「ヒロシです」のネタを広めたいと思い、多くのライブに出演した。数人だけが極端に笑うという状況が続き不安になって山田に相談したところ「間違ってないんだから、そのままでいい」と助言され、路線を変えずにネタを続けた。友人に借りてきたビデオカメラで「ヒロシです」のネタを収録し、若手芸人の登竜門と言われていた「爆笑オンエアバトル」宛てに送ったが、なんの音沙汰もなかった。その後も早朝に起きてネタを作り、オーディションを多数受け、月20本のライブ出演をこなし、深夜アルバイトをこなすという生活を送る。そんなある日、サンミュージックプロダクションから「うちで預かります」と声をかけられ、初めて正式に芸能事務所に所属した。それから間もなく「エンタの神様」に出演(キャッチコピーは「孤独な男のモノローグ」)、これが初の全国放送出演となった。放送から数日後、どれだけ人気が出たか確かめようと吉祥寺で行われたライブの会場周辺を「ヒロシです」のBGMを流しながら何度も往復したが、誰にも気づかれず、1度全国番組に出ただけでは何も変わらないと思い知らされた。2004年三宅裕司と同郷のくりぃむしちゅーが司会を務める「笑いの金メダル」に出演。当初は1回出演するだけの予定だったが、三宅とくりぃむしちゅーが気に入ってくれ、その後何度か出演し、ブレイクのきっかけとなった。ブレイクする少し前、「あっぱれ!!さんま大教授」に美輪明宏の今一番気になる人としてゲスト出演した。美輪からは「誰にでも思い当たるようなことをネタにするセンスと、照明やポーズを含めた自己演出に秀でている。すごく頭がいい芸人」と称賛された。それからヒロシは美輪の大ファンとなり、彼の舞台を何度も見に行った。「笑いの金メダル」に出演してから3、4か月たった頃、給料が30万円振り込まれ、初めて売れた実感を得た。お金が貯まると家賃2万円の4畳半から渋谷にある家賃13万円の2LDKのアパートに引っ越した。荷物の搬入が終わり、近くの吉野家牛丼を食べ終えて店を出ると週刊誌「女性自身」の記者に突撃取材を受けた。居場所が特定された恐怖心から動揺して人違いだと立ち去り、すぐに事務所に電話した。それからしばらくして「四畳半は卒業したとです…。2LDKピカピカのマンション新生活!」(2005年5月31日号)という見出しの記事がジーンズスニーカー姿の写真付きで掲載された。これが、ヒロシの雑誌デビューとなった。2005年の『R-1ぐらんぷり』では、前回に引き続き2回目の決勝進出を果たした。決勝戦では、結果は6位だった。2005年の『第1回お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』で見事初代王者となり200万円と車を獲得した。

ヒロシがお笑い芸人を目指したのは「女性にモテたい」というのが最大の理由だった。ブレイクしたとき、ライブ会場には出待ちの女性たちが何百人単位で詰め掛け、黄色い声援を飛ばした。「ヒロシ」と書かれたうちわを持ったファンもいた。ようやく訪れたモテ期だったが、人見知りの性格で話しかけられず、警備員に囲まれてそのままタクシーに乗せられるだけの日々が続いた。どうしても欲望に勝てなくなり、風俗店に通った。ある日、やっと購入した高級車ジャガーに乗って東京を代表する吉原の風俗店に行ったところ、それが「週刊女性」に「貧乏じゃなかとです…。白いジャガーで『ソープランド』」(2007年6月12日号)という題名で記事が掲載された。料金ほか、部屋の備品からヒロシの様子まで詳細が掲載され、ヒロシはとても恥ずかしい思いをしたが、後にこれを「ヒロシです。彼女の名前を知りません。」とネタにしている。絶頂期は月収1000〜3000万円が1年ほど続き、最高月収は4000万円だった。炭鉱街出身だった為、贅沢が性に合わず、その当時にした贅沢は3万円のアパートから家賃48万円の家に引っ越し、高級車ジャガーを購入したくらいで、その他の稼ぎは全て風俗への利用につぎ込んだ。

上記の売れても女性にモテないことや週刊誌による暴露的な報道、売れてから周囲の人間に「天狗になった」と陰口を叩かれるようになるなど様々な苦悩を経験したが、ブレイクして何よりもつらかったのは、各局の番組スタッフに嫌われたことだった。ヒロシ自身は思い当たる点がいくつもあると語っている。例えば、番組側が用意した「ヒロシです」のネタを披露するように言われたが自分の人生経験から生まれたこだわりのあるネタであったためそれを拒否したこと、大して面白い話も出来ないのに出演料を貰うのは申し訳ないという意味から「もうひな壇には出たくない」と発言したことなどである。いずれもコミュニケーション不足が招いた誤解だった。さらに極度のあがり症だった点もヒロシを追い詰めた。テレビ番組の収録ある時には、吐き気がして前日から眠れず、テレビ局に近づくと体が震え出した。楽屋で有名タレントに会っても緊張して話せず、収録中は意識が朦朧として、共演者が何を言っているのか、半分以上理解できない状況が続いた。幼い頃から、あがり症ではあったが「ここぞ」というときには力を発揮できるタイプで、テレビ出演を続ければ慣れると思っていたが一向に慣れなかった。精神的に限界を感じ、ブレイクから約5年後、事務所に「もうテレビに出ません」と伝えた。自分から断ったとはいえ仕事が減り、悩んでいたころ、4年ぶりに仕事で会った美輪明宏に「待つのも仕事なのよ」という言葉をかけられた。美輪はその後、ヒロシが2008年に発表した自叙伝「沈黙の轍 ずんだれ少年と恋心」の帯に推薦文を書いてくれた。ヒロシが一発屋と呼ばれ始めていた時期な上に金にはならない仕事であり、大物の美輪に頼むのは図々しいと思っていたが、美輪は快く引き受けてくれたという。

ブレイク後

事務所に「テレビに出ません」と宣言後、仕事は激減した。ただ、貯金や営業、インターネットテレビ番組への出演などで生活できる程度のお金はあった為、沖縄県旅行に行ったり、釣りにはまったり、寂しさを紛らわすためにガーデニングを始めるなど、本人曰く「早めの老後のような生活」を送っていた。2009年11月、古巣の「エンタの神様」に久々に自虐ネタで笑いを取り、復活かと話題になったが、番組自体が2010年に終了。2010年には収入が全くない時期が3、4か月あり、事務所から給与明細すら届かなかった。生活のために違う仕事をしようと思ったが顔が知られているため、アルバイト探しも大変であった。売れなくなった一発屋芸人がアルバイトをしているとなめられる場面が容易に想像できたためである。人に会わなくて済むだろうと思い長距離トラックの運転手を目指そうと思ったが、荷物の積み下ろしで人と会うのが怖くて断念。ラブホテルのシーツ替えのアルバイトの面接に行ったが、2人1組での仕事だと聞き、働いていることをばらされたり、偶然友達と会って気まずい思いをするのを恐れて断念。元々田舎暮らしが好きだった為、田舎で農作業をやろうと考えたが、田舎ならではの濃厚な人間関係の中に「ヒロシ」が登場することで訪れる騒ぎを恐れて断念した。

ブレイクから6年後、ある日の真夜中、途方に暮れ18階の自宅マンションのベランダから飛び降り自殺をしようとした。眠れない夜が続き、今までに感じたこともない不安感に襲われた。1人で家にいるのが怖くて外に出ようとしたがエレベーターに乗るが怖く、「人がいればいい」とコンビニに行ってみたがさらに恐怖感が増した。そんな時、自宅マンションのベランダに行き、「このまま死ねるな」とビルから飛び降りることだけは怖くないという今まで味わったことのない感覚になった。「このままだと危ない」と突然、我に返り福岡吉本の同期だったお笑いコンビたかしひできひできに電話をかけた。ひできはすぐに駆けつけてくれ話を聞いてくれたが、「ひできにも嫌われたらどうしよう」とひできにさえおびえてしまうという異常な事態だった。その翌日は雑誌のインタビューがあり、自分で車を運転して現場に向かったが、トンネルに入った途端、再び恐怖に襲われ、車を置いて飛び出したくなる恐怖に苛まれた。生命の危険を感じ病院精神科を受診したところ、パニック障害と診断された。医師からは「趣味を見つけなさい」と助言された。抵抗があった薬物治療も受けた。

そんなとき事務所からマネージャー佐方麻緒を紹介された。佐方に「ライブ、やったほうがいいですよ」と助言され、しばらくは、気力がなかったため断っていたが、会うたびに誘ってくれ、少しずつ気力を取り戻していった。2010年11月、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のコーナー「笑いニートを救え!ギャグマーケット」に出演。同番組への出演は6年ぶりで、名前が紹介されると出演者や観客は騒然となったが、ネタでは大きな笑いを取り、コーナー進行役のさまぁ〜ずにも絶賛された。2011年、以前からお世話になっていた放送作家高田文夫が主催するお笑いライブに出演し、テレビに出ていない間に考えた「ヒロシです」のネタを披露したところ、ライブに来ていた出版社スタッフにネタ本の出版を持ち掛けられた。ヒロシは何度も断ったが、スタッフの熱意に押され、2011年5月に東邦出版より「ヒロシです。華も嵐ものり越えて」を発表。このネタ本の影響か大きな仕事の依頼が次々に舞い込んだ。そのうちの1つが「しゃべくり007」である。テレビ番組で共演する大物芸人たちもネタで笑ってくれ、笑いを取るという快感を思い出し、徐々にやる気を取り戻した。2011年にサントリーBOSSのテレビコマーシャルに起用され、池脇千鶴の恋人役を演じたが、東日本大震災が発生し、テレビコマーシャルが自粛された時期だったため、あまり放映されなかった。2013年11月、新宿シアターモリエールで8年ぶりとなる単独ライブ『泥水』を行った。

2015年6月、バラエティ番組「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演。「極度の人見知りなのに芸能界に入ってしまった先生」として登場し、2004年から2005年のブレイクから仕事を失い、今に至るまでの話を語った。番組の終わりには、教訓として「しくじっても信念があれば、その先に幸せが待っている」と伝えた。番組の評判は良く、トークの面白さを評価する声がヒロシに届いた。9月、ヒロシの名言を集めた日めくりカレンダー「まいにち、ネガティブ。」を発売し、10万部以上のヒットを記録。2016年3月、11年ぶりに「徹子の部屋」に出演。この頃からテレビ番組の仕事が徐々に増えていった。2016年11月、カレンダー「今日のネガティブ。」を発売。

俳優

ドラマは『タイガー&ドラゴン』(TBS系)が初出演。役柄は、元ミュージシャン「デス・キヨシ」。2005年1月に放送されたスペシャル版と、連続ドラマ版の第7話に登場。その後、同年の『FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!』(フジテレビ系)枠内で放映された『THE WAVE!』に編成部員・谷口真治役で出演している。このドラマで主役を演じた明石家さんまは、いつものネタの時のヒロシとキャラクターが同じなので、笑いをこらえて演技しなければならないのが困る、と述べた。

2006年、『青春★ENERGY』で連続ドラマ初出演。2007年に公開された映画『転校生 さよならあなた』(大林宣彦監督)で映画俳優デビューを果たす。その後『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(大林宣彦監督)にも出演。いずれも本名の斉藤(本名は旧字の「齊藤」)健一で出演している。彼のファンである大林が出演を依頼したのだと言う。また、『転校生』で医大生を演じるにあたり、上京して以来ずっと金髪だった髪を8年ぶりに黒くした(その後金髪に戻している)。

2011年、土田英生演出による『バッド・アフタヌーン』にて舞台初主演。また同年、日本テレビ『しゃべくり007』出演を機に、メディアの露出が再び増え始める。

その他

2015年6月、カフェ&カラオケ喫茶「ヒロシのお店」を開いた。個人事務所ヒロシ・コーポレーションを設立したが、店はその事務所も兼ねている。 2018年8月にはカフェ&カラオケ喫茶「ヒロシのお店」を改装しCAFE「FOREST COFFEE」をOPEN。

芸風

自身の日常や失敗談を題材とする、いわゆる自虐ネタを得意とする。基本的なスタイルは、ポケットに手を突っ込み上目使いで「ヒロシです」と名乗ってから、うつむきつつ九州弁(詳しく言えば、肥筑方言の「 - とです。」)でネタを言って笑いをとる、というもの。この時、ラテン音楽のスローナンバーやブルースBGMとして流れる(主にペピーノ・ガリアルディの「ガラスの部屋」("Che Vuole Questa Musica Stasera") が使われる)。「ヒロシです」が3回以上繰り返される事でネタは終了する。「一発屋」と呼ばれることが多いため、近年は「給料が少なくなった」「熱烈なファンレターがパッタリ途絶えた」「テレビに出る機会が減った」などの売れなくなったネタが定番となっている。「ヒロシちゃん、あんなにテレビに出まくっていたのに、いっさい出なくなってやったぜ、ワイルドだろ?」や「安心してください、生きてますよ」など、そのときの流行りの芸人の持ちネタのパロディで売れなくなったことをネタにすることもある。

ネタのときに音楽を流すという手法は、尊敬するいつもここからに影響を受けたものである。彼らが「悲しいとき」のネタでBGMとして使用していたカノンが好きだった為、自身のネタにも音楽を付けたいと考え、近所のTSUTAYAに行き、クラシック音楽映画音楽などのCDを5、6枚選び、その中から他よりも哀しい雰囲気が圧倒的に良かった「ガラスの部屋」を採用した。同曲がイタリア語で失恋の歌と知ったのはそれからしばらく経ってからだった。

「ひろしです」の「ひろし」のアクセントは、初期は平板型であったが、途中から頭高型に変えている。また、日常的には共通語を話し、なまりはないものの、方言を使うことで下に見られてかわいげが出るのではないかという計算があったと語っている。

テレビでネタを放送するときには、必ず、音楽番組におけるソロ・アーティストのようなディゾルブを多用したカメラワークを用いられるが、これは2003年から、ほぼ毎月ライブ出演していた『お笑いCDTV』(TBS、 - 2004年)のカメラマンが開発したもので、それ以降、各局で用いられるようになった。『お笑いCDTV』は、ヒロシがテレビで初めてネタを披露した番組でもある。

作品

書籍

発行部数30万部を突破。
8日で発行部数12万部を突破。2は○囲みの2であるが、機種依存文字のため2としている。
三井三池炭鉱の炭鉱夫だった父との思い出や、1970年代から1980年代の少年時代の思い出を赤裸々につづった自叙伝
6年振りのネタ本。表紙の絵もヒロシが描いた。
ヒロシの半生を余す事無く紹介した38のエピソードを収録。イラストにヒロシがファンと公言している小田原ドラゴンが参加している。

連載

出演番組

現在

テレビ

ラジオ

Youtube

CD

DVD

その他の作品

たびたび、笑点で出演しているほか、地方番組でも活動しているという。

過去

テレビ・ラジオ

出典:wikipedia
2018/12/14 17:36

HAPPY Wikipedia

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