このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ビルマの戦いとは?

 | 

この記事には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2015年9月)
  • 脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2015年9月)

ビルマの戦い

ビルマの仏教寺院をパトロールする
日本軍兵士(1942年)。
戦争:太平洋戦争
年月日:1941年12月 - 1945年8月
場所:ビルマ(現在のミャンマー)
結果:連合国の勝利
交戦勢力
イギリス
イギリス領インド帝国
イギリス領ビルマ
中華民国(国民政府)
アメリカ合衆国 | 大日本帝国
ビルマ国
インド国民軍
タイ
指導者・指揮官
アーチボルド・ウェーヴェル
マウントバッテン
ウィリアム・スリム
羅卓英
衛立煌
スティルウェル
アルバート・ウェデマイヤー
アウンサン(1945/3/27から) |  飯田祥二郎
河辺正三
木村兵太郎
アウンサン(1945/3/27まで)
スバス・チャンドラ・ボース
セリルーングリット
戦力
- | -
損害
- | -
ビルマの戦い


ビルマ中部で象と遭遇した第255インド機甲旅団のM4中戦車
山脈を越えて延びる「レド公路

ビルマの戦い(ビルマのたたかい、Burma Campaign)は、太平洋戦争の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍ビルマ国民軍インド国民軍と、イギリス軍アメリカ軍中華民国国民党軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。

地名の表記については「地名の表記について」を参照。

概要[ソースを編集]

ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。

日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。

地理[ソースを編集]

第二次世界大戦当時のラングーン(現在のヤンゴン)の風景

ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インドバングラデシュ中国タイラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。

気候は熱帯モンスーン気候である。5月中旬から10月までは雨季である。雨が一日中降り続くことはあまりないが、断続的な激しい降雨にみまわれる。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量5,000ミリに達する世界一の多雨地帯である。雨季には河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となる。10月末から5月までは乾季である。ほとんど降雨はなく、乾燥して草木は枯れる。シャン高原では最低気温が氷点下になることもある。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくない。乾季には地面が固まって車両の通行は容易となり、機械化の進んだ連合軍にとっては有利な戦場となるが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなくなる。

1941年当時の人口は1600万人、内訳はビルマ族が1100万人、カレン族が150万人、シャン族が130万人、移住したインド人が200万人だった。首都ラングーン(現在のヤンゴン)は人口50万の近代都市だった。国民の多くは敬虔な仏教徒だった。僧侶は町の指導者を兼ね、多くの町ではパゴダ(仏塔)がランドマークとなっていた。寺院付属の学校は当時は全土で2万と言われ、識字率も高かった。

ビルマの気候は稲作に適している。当時は農業の機械化は遅れていたが、コメの年産は700万トンに達し、当時からコメの輸出国だった。日本軍は、フーコン河谷などの人口希薄な山間部を除けば、食糧調達を円滑に行うことができ、この点では日本兵が飢餓に苦しめられたニューギニアガダルカナルとは異なっていた。ただし戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが、数多くの従軍記・回想録に書かれている。地下資源は、イナンジョンに当時イギリス領最大の油田があり、石油輸出も行われていた。モチ(タングステン)、ボードウィン()、バロック(雲母)、タヴォイ(タングステン)などの鉱山もあった。

ビルマに接する中国雲南省西部地方は、南北に縦走する標高3,000メートル以上の山脈が連なり、その間を深さ1,000メートルもの峡谷を形成する怒江(サルウィン川上流部の別名)、瀾滄江(メコン川上流部の別名)などの急流が流れている。熱帯高原性の穏やかな気候で、稲作も当時から盛んだった。

背景[ソースを編集]

イギリスのビルマ統治と独立運動[ソースを編集]

ビルマは1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。1935年ビルマ統治法が制定され、1937年その発効により、ビルマはインドから分離し、進歩穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒否権はほとんど統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリスの行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。

ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」だった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加しており、学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。第二次世界大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成した。

ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏健な運動を目指す者もいたものの、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派中国国民党中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、オンサンは同志ラミヤンとともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国した。

ビルマルートとアメリカの中国政策[ソースを編集]

ビルマルートの空撮画像

日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蒋介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。

蒋介石政府への軍需物資の輸送ルート(援蒋ルート)には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた。

  1. 香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート):6,000トン
  2. ソ連から新疆を経るルート(西北ルート):500トン
  3. フランス領インドシナハノイからのルート(仏印ルート):15,000トン
  4. ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トン

ビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラシオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道(en)」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蒋介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。

1940年6月、ドイツ軍パリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蒋介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サルウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋(現在、中国が建設した Gongguoqiao Dam がある)」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。

アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蒋介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蒋介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。

南機関[ソースを編集]

詳細は「南機関」を参照

1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。

鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足した。

南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てていた。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年たちは海南島で軍事訓練を受けた。しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。

日本軍の南方作戦計画[ソースを編集]

1941年夏以降、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化していった。11月6日、大本営南方軍第14軍第15軍第16軍第25軍戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。南方軍総司令官には寺内寿一大将、第15軍司令官には飯田祥二郎中将が親補された。以降陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

それまで大本営はビルマへの進攻は考えておらず、南機関の活動は南方作戦計画とは無関係に進められていた。ビルマ作戦の詳細や兵力は開戦時においてすら固まっていなかった。計画では、連合軍の反攻に備える防衛線として、西はおおむねビルマを確保するとされていたが、占領地域を南部ビルマにとどめるのか、あるいはビルマ全土に手を広げるのかは未定だった。日本軍が使用できる兵力も限られており、第15軍を編成した当初の目的は、マレー作戦を実施する第25軍の背後を確保するためであって、ビルマ作戦を実施するためではなかった。ビルマ作戦に関する大本営の考え方は、緒戦の快進撃に応じて逐次具体化されていったのである。

日本軍の進攻(1941-1942年)[ソースを編集]

日本軍のビルマ進攻作戦
日本軍のビルマ中北部進攻と連合軍の退却経路

太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍はビルマ独立義勇軍の協力のもとイギリス軍を急襲し、首都ラングーンを早期に陥落させた。ビルマ中北部では連合国軍に蒋介石が送った遠征軍も加わり、激戦となったが、日本軍はビルマ全域を制圧した。連合軍は多くの犠牲者と捕虜を残して退却した。

日本軍のビルマ進攻作戦[ソースを編集]

詳細は「日本軍のビルマ進攻作戦」を参照

ラングーン陥落[ソースを編集]

詳細は「ビリン河の戦い」、「シッタン橋の戦い」、「ペグーの戦い」、および「タウッキャンの通行止め」を参照

1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍タイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手した。まず宇野支隊(歩兵第143連隊の一部)がビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン)を12月15日に占領した。南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。12月28日、「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。

タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈だったが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取った。沖支隊(歩兵第112連隊の一部)は1942年1月4日に国境を越えてタボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメン(現在のモーラミャイン)へ向かった。BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力した。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていなかったが、BIAとビルマ国民の協力により、給養には不自由せずに行動できた。さらにビルマの青年たちは次々とBIAへ身を投じた。

モールメンを含むテナセリウム(現在のタニンダーリ管区)を守るイギリス軍は英印軍第17インド師団だった。しかしこの部隊は準備不足で、日本軍の急襲を受けて退却に移り、2月22日、アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破した。日本軍はサルウィン川とシッタン川を渡って進撃し、3月8日首都ラングーンを占領した。ウェーヴェルは責任を問われて解任された。

連合軍総退却[ソースを編集]

ビルマから脱出するスティルウェル
詳細は「ビルマ公路の戦い」を参照

アメリカ政府はジョセフ・スティルウェル陸軍中将を中国へ派遣した。スティルウェルは中国で駐在武官として勤務した経験が長く、事情に通じ中国語も堪能だった。蒋介石はビルマルート確保のために遠征軍を送ったが、アメリカ政府は遠征軍をスティルウェルの統一指揮下に置くよう要求し、蒋介石も実質上の指揮権を留保しつつこれに同意した。中国軍はビルマ中北部に到着し、ウィリアム・スリム中将が指揮を引き継いだビルマ軍団、シェンノートの率いるフライング・タイガースとあわせて体勢を整えた。

詳細は「イナンジョンの戦い」を参照

日本軍では、シンガポール攻略が予想以上に順調に進展したことから兵力に余裕が生じていた。そこでビルマ全域の攻略を推進することとし、第18師団第56師団をラングーンへ増援した。両軍の戦闘は各地で激戦となった。特に孫立人少将の率いる中国軍新編第38師は4月17日からの3日間、イナンジョンにおいて第33師団と激しく戦った。

だが4月29日に第56師団がラシオ(現在のラーショー)を占領して中国軍の退路を遮断し、5月1日に第18師団がマンダレーを占領すると、連合軍は次第に崩れ始めた。第56師団はビルマ・中国国境を越えて雲南省に入り、5月5日怒江の線まで到達した。中国軍は怒江にかかるビルマルートの命脈「恵通橋」を自ら爆破した。

連合軍は総退却に移った。中国軍の大部分は雲南へ、孫立人をはじめとする一部はスティルウェルと共にフーコン河谷を経てインドのアッサム州へ脱出した。スリムのイギリス軍とビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミスチンドウィン川を渡りインパール方向へ退却した。5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。将兵は疲労と飢餓とに倒れ、多くの犠牲者と捕虜が残された。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。

日本軍のインド北東部進攻計画(二十一号作戦)[ソースを編集]

援蒋ルートは実はもうひとつ生き残っていた。アッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」(The Hump)と呼ばれる空輸ルートである。危険性が高く、輸送量は月量5,000トンが限度だったが、人と物資の往来は続けられ中国軍は戦力を蓄えていった。日本軍はハンプ越えを遮断すべく、雨季明け後の10月頃を目標に、第18師団と第33師団をもってインド北東部へ進攻する「二十一号作戦」を立案した。だが補給確保の困難を理由に第18師団長牟田口廉也中将も反対し、作戦は実施には至らなかった。

日本軍によるビルマ軍政[ソースを編集]

開戦時には日本軍はビルマの全面占領までは意図しておらず、第15軍は軍政部を持っていなかった。那須義雄大佐を長とする軍政部が設置されたのはラングーン占領後である。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。これまでオンサンもビルマの指導者としてバー・モウを推奨していたこともあって、8月1日、バー・モウを行政府長官兼内務部長官としてビルマ中央行政府が設立され、長官任命式が行われた。

BIAはビルマ作戦が終了した時点で23,000人に膨張していた。規律は弛緩し、部隊への給養も問題となっていたためBIAは解散された。選抜した人員をもって「ビルマ防衛軍」(BDA)が設立された。

日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、ビルマ国民の軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加は抑圧した。

対峙(1943年)[ソースを編集]

アキャブ(現在のシットウェ)での連合軍の反攻の初動は失敗したが、チンディット部隊は1回目のビルマ進入を果たした。連合国は東南アジア連合軍司令部を創設し、スティルウェルは中国軍の再建に着手した。バー・モウ政府は日本の後押しのもとビルマ独立を宣言したが、日本軍の占領政策には綻びも出てきていた。

泰緬鉄道[ソースを編集]

詳細は「泰緬鉄道」を参照
泰緬鉄道の経路

タイ・ビルマ国境のテナセリム丘陵北部のビラウクタウンサブレンジには、イギリスによる鎖国政策のため、鉄道はおろか満足な道路も整備されていなかった。日本軍は補給ルート確保を目的として山脈を越える全長約400キロの鉄道を計画し、建設工事は1942年6月から開始された。工事の指揮は鉄道第5連隊および第9連隊が取り、作業員として捕虜62,000人、募集で集まったタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人が参加した。日本軍は人海戦術による突貫工事を要求し、雨季の間も強引に工事を進めた。作業現場ではコレラが流行し、約半数とも言われる大量の死者を出した。こうした犠牲のうえに、鉄道は1943年10月に開通した。

第一次アキャブ作戦(三十一号作戦、第一次アラカン作戦)[ソースを編集]

詳細は「第一次アキャブ作戦」を参照

1942年から1943年の乾季、ビルマ戦線の連合軍にはまだ本格的反攻に移る余力はなかったが、2つの限定的な作戦を実施した。第1はビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェ)の奪回を目指した作戦、第2は「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦である。

アキャブはベンガル湾に面し、インドとの国境に近い最前線の要地だった。守備隊は宮脇支隊(歩兵第213連隊の一部)だった。1942年12月、イギリス軍第14インド師団が国境を越えて南下した。宮脇支隊はアキャブ前面まで後退し堅固な陣地を構築した。イギリス軍がこれを攻めあぐねている間に、日本軍第55師団が援軍に向かった。1943年3月末、第55師団主力はイギリス軍が横断不可能と判断したアラカン山脈を踏破して第14インド師団の側面を急襲した。奇襲は完全に成功し、第14インド師団は包囲されて大損害を受け、作戦開始地点まで後退した。こうして連合軍の反攻の初動は日本軍の快勝に終わった。

第一次チンディット(ロングクロス作戦)[ソースを編集]

詳細は「チンディット」を参照
ビルマへ進入するチンディット部隊

第2の作戦はオード・ウィンゲート准将の発案によるものだった。ウィンゲートは非正規部隊を指揮した経験から、小部隊が航空機による補給を受けつつ敵地奥深く進入する長距離挺進作戦を構想していた。ウィンゲートはこの作戦のために第77インド旅団を編成し、「チンディット」の通称を与えた。「チンディット」とはビルマの寺院を守護する神獣「チンテ」に由来する名前である。

1943年2月8日「ロングクロス作戦」が開始され、チンディット部隊3,200名は7個縦隊に分かれインパール方面からビルマ北部へ進入した。各縦隊はアラカン山脈を越え、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/02/26 18:58

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ビルマの戦い」の意味を投稿しよう
「ビルマの戦い」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ビルマの戦いスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ビルマの戦い」のスレッドを作成する
ビルマの戦いの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail