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フェラーリとは?

フェラーリ
Ferrari N.V.

種類
株式会社
【市場情報】
NYSE RACE
イタリア証券取引所: RACE
【本社所在地】

イタリア
オランダ アムステルダム(登記上の本籍地)

イタリア Via Abetone Inferiore, 441053, マラネッロ(実質的な本社機能)
【設立】
1947年
業種
自動車製造
【事業内容】
自動車の製造および販売
【代表者】
ジョン・エルカーン(会長)
ピエロ・フェラーリ(副会長)
ルイ・カミッレーリ(CEO)
【売上高】
28億5400万ユーロ(2015年)
【純利益】
2億9000万ユーロ(2015年)
【従業員数】
2,850人(2014年)
【主要株主】
エクソール(23.5%)
ピエロ・ラルディ・フェラーリ(10%)
一般株主(66.5%、議決権無し)
(2016年1月3日時点)
【主要子会社】
フェラーリ・ファイナンス
フェラーリ・ジャパン
フェラーリ・ノースアメリカなど
【関係する人物】
エンツォ・フェラーリ(創業者)
ルカ・ディ・モンテゼーモロ(元会長)
エンリコ・ガリエラ(シニア・バイスプレジデント)
マッティア・ビノット(スクーデリア・フェラーリ代表)
【外部リンク】
公式ウェブサイト

フェラーリ (Ferrari N.V. ) は、イタリアモデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカー

目次

  • 1 概要
  • 2 沿革
  • 3 車種一覧
    • 3.1 純正オプション
  • 4 限定生産モデル
  • 5 スペチアーレ
    • 5.1 ワンオフモデル/フォーリセーリエ
      • 5.1.1 創業-1950年代末
      • 5.1.2 2008年以降
      • 5.1.3 ワンオフモデル一覧(2008年以降)
      • 5.1.4 非公認ワンオフモデル
    • 5.2 コンセプトモデル/ミューロティーポ
  • 6 フェラーリ・アプルーブド
    • 6.1 導入
    • 6.2 付帯サービス
  • 7 フェラーリ・クラシケ
    • 7.1 レストア
    • 7.2 認証委員会
    • 7.3 鑑定書
  • 8 モータースポーツ
    • 8.1 イタリアのナショナルチーム
    • 8.2 分割
    • 8.3 F1
    • 8.4 コルセ・クリエンティ
      • 8.4.1 コンペティツオーニGT
      • 8.4.2 フェラーリ・チャレンジ
      • 8.4.3 XXプログラム
      • 8.4.4 F1クリエンティ
    • 8.5 主な成績
  • 9 オーナー向けサービス/イベント
  • 10 ブランド
    • 10.1 カヴァッリーノ・ランパンテ
    • 10.2 コーポレートカラー
    • 10.3 ブランド展開
      • 10.3.1 ブランド維持への取り組み
      • 10.3.2 ブランドビジネス
      • 10.3.3 テーマパーク
  • 11 日本におけるフェラーリ
  • 12 その他
  • 13 出典
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

概要

イタリアの元レーシングドライバーのエンツォ・フェラーリによって、イタリア北部のモデナ近郊に1947年に設立されて以来、レーシングカーと王侯貴族富裕層に愛用される高級スポーツカーのみを製造している自動車メーカーである。

また、F1世界選手権等のモータースポーツコンストラクターでもあり、FIA 世界耐久選手権ル・マン24時間レースミッレミリアタルガ・フローリオなどのレースで活躍し、数々の伝説を残していることもあり、イタリアのみならず世界的にも高い人気とブランドイメージを持つ。

設立以来独立した運営を続けていたが、1969年アニェッリ家率いるフィアット・グループの傘下に入り、2016年にはフィアット・クライスラー・オートモービルズ (FCA)から離脱独立した。しかしその後もFCAの大株主のアニェッリ家が経営に影響力を持ち続けており、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在である。

沿革

ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ
スクーデリア・フェラーリのアルファロメオとベニート・ムッソリーニ(車内)、エンツォ(左から2番目)、タツィオ・ヌヴォラーリ(右から3番目)、ルドルフ・カラツィオラらと
アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ 815(1940年)
125S(1947年)


1929年12月に、アルファロメオのレーシングドライバーで、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初は裕福なモータースポーツ愛好家をサポートする、アルファロメオディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった。

1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォはドライバーを引退してチーム運営に専念し、1933年国営化されたアルファロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして当時イタリアを率いていたベニート・ムッソリーニの主導によるイタリア政府のサポートも受け、タツィオ・ヌヴォラーリなどの強力なドライバーラインナップを擁して数々の勝利を記した。

その後チームは1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。

アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ

1940年にエンツォは、アルファロメオとの誓約項目を避けるために「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、4月28日から行われたミッレ・ミリアに参戦し好成績を上げた。

しかしその直後の6月10日に、イタリアが日独伊防共協定鋼鉄条約を組んでいた同盟国のドイツ国を支援するために、イギリスフランス宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。このためイタリアにおけるモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、イタリア軍の兵器製造のための粉砕機などの工作機械製造を行うようになった。

その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏したものの、その直後にイタリア北部は事実上ドイツ軍の占領下になったこともあり、モデナの工場が連合国軍機の空襲を受け多くの工場が破壊された上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。しかしエンツォは、戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。

設立

1945年5月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結すると、この後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったジョアッキーノ・コロンボらを擁して、1946年より自前のレーシングカーを開発するようになった。なお1945年には、エンツォと愛人のリーナ・ラルディとの間に、現在フェラーリの副会長を務めるピエロが生まれた。

1947年には晴れて自らの名を冠した「フェラーリ」を設立した。処女作は創業初年度に製造したレーシングスポーツ「125S」であった。「125S」は、フェラーリの手で同年開催されたローマグランプリに参戦し、いきなり優勝をあげることでフェラーリの名を一躍有名にした。なお生産台数は2台のみであった。

また「125S」は、エンツォが懇意にしていたタツィオ・ヌヴォラーリが、フォルリパルマのレースで連勝するなど、フェラーリのみならず、戦後におけるチャンピオンの復活も印象付けることになった。

生産開始

その後、1948年に発表した「166インター」よりGTカーの少数受注生産を開始し、ヴィットリオとジャンニーノ・マルゾット伯爵らの4兄弟が率いる「スクーデリア・マルゾット」や、アルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵、ブルーノ・ステルツィ伯爵などのモータースポーツに参戦するイタリアの裕福な貴族などに販売するとともに、ワークスとして「ミッレミリア」や「タルガ・フローリオ」、「ル・マン24時間レース」や「ツール・ド・フランス」などのヨーロッパの著名なレースに参戦し、その多くで優勝を飾った。

さらに1950年には、同年より開始されたフォーミュラ1(F1)世界選手権への参戦を開始し、1951年イギリスグランプリでアルゼンチン人ドライバーのホセ・フロイラン・ゴンザレスが初勝利を挙げた。なおフェラーリは、同選手権が開始されてから現在まで参戦している唯一のレーシングチーム及び自動車メーカーである。

その後、エンツォの友人で1949年のル・マン24時間レースにフェラーリで勝利(パートナーはセルスドン男爵)した優秀なレーシングドライバーで、かつアメリカ東海岸でフェラーリの正規輸入販売代理店「ルイジ・キネッティ・モーターズ」を経営することになるルイジ・キネッティの勧めにより、当時の世界最大の自動車市場であるアメリカ市場向けの「340アメリカ」 (1951年)や「340メキシコ」(1952年)、「212ヴィニャーレ」(1950年)など、次第に車種と販路を拡げていったが、いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンして市販車に仕立て上げ、欧米の王侯貴族や大富豪、映画スターなどの非常に限られた層を中心に販売していたものであった。

なお当時のフェラーリは車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、ボディはツーリングヴィニャーレ、スカリエッティやピニンファリーナ、ボアノなどのカロッツェリアに委託していた。その後2010年代まで60年以上続くピニンファリーナとの関係は「212インター・カブリオレ」(1952年)より始まる。

市販車製造

その後「250」シリーズで初めてレーシングカーを基にしない純粋な市販車の製造を開始した。この市販車として製造された1950年代初期の「250」は、「暑い」、「うるさい」、「乗り心地が悪い」、「故障が多い」などオーナーからの不評も多かったが、シリーズを重ねるごとに改良は進み操作性や快適性は増して行き、1960年代前半に「世界最速の2+2」と称された「250GTE」などいくつかのモデルは、その実用性と快適性が高い評価を受けた。なお故障の多さをめぐるエンツォとフェルッチオ・ランボルギーニのやり取り、その結果の「アウトモビリ・ランボルギーニ」の設立は、今も真実であるかは置いておき語り草になっている。

その一方で、「250MM」や「250GT TdF」などの2シーターモデルは、モータースポーツへの参戦のためのホモロゲーション取得を目的としたもの、もしくは多少のモディファイをすることで各種レースへの参戦も可能とした「ロードゴーイング・レーサー」であった。実際に、エンツォは自社の市販車に「スポーツカー」という、軟弱かつ公道での使用を強くイメージさせるような言葉は用いなかったばかりか、公道での乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでさえいた。

さらにエンツォは「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」と公言していたという逸話が残っており、実際にこの逸話通りに、この頃生産されていたすべての市販車はコロンボやアウレリオ・ランプレディが設計したV型12気筒エンジンを搭載していた(ただし、当時フェラーリのレース専用モデルには、レギュレーション合致や軽量化による性能向上の観点から4気筒や6気筒エンジン搭載モデルが多数存在していたため、この発言は多分に市販車の販促効果を意識したものと取られている)。

なお、「250GTルッソ」や「275GTB/4」をはじめとして、1973年にデビューした「365GT4BB」から1995年に生産を中止した「512TR」までの期間を除き、現在の旗艦モデルの「812スーパーファスト」に至るまで、限定生産車を除く市販車のトップレンジを担っているのはフロントエンジン(FR)、V型12気筒のモデルである。

高い評価

その後フェラーリの市販車は品質や機能性、生産効率を高めて行き、1957年にはピニンファリーナと高級スポーツカーカテゴリーにおけるデザイン及びボディ製造の独占契約を結び、デザイン面と生産効率面における優位性を獲得することで生産台数を順調に増やして行ったものの、その価格は依然として高価なものであり、その購買層は非常に限られていた。

しかし、これらのフェラーリの市販車は、F1世界選手権や「ミッレミリア」、「ル・マン24時間レース」や「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」をはじめとするレースにおける活躍によるブランドイメージの向上や性能の高さ、デザインの美しさが高い評価を受けて、1950年代にはヨーロッパや北米を中心に高性能市販車としての地位を確固たるものとしていった。

この頃には各国での販路の拡大も進め、当時から現在において主要市場の1つであるイギリスでは、自社のワークスドライバーかつ正規輸入販売代理店を務めていたマイク・ホーソーンの死後に、自動車業界の経験豊富なロナルド・ホーア大佐率いるマラネロ・コンセッショネアーズに販路を委託するとともに、右ハンドル仕様をほとんどのモデルに用意した(さらに同社は1970年代には日本への輸出にも関わることとなる)。

またアメリカにおいても、キネッティの手によりハリウッドのある西海岸にも販路を広げるとともに、フェラーリのアメリカにおけるセミワークスチーム的存在の「ノース・アメリカン・レーシング・チーム」が創設され、「デイトナ24時間レース」や「セブリング12時間レース」、「ル・マン24時間レース」をはじめとする様々なレースに参戦し好成績を上げることでその名声を高めることになる。

また、欧米においてはスウェーデングスタフ6世国王やイランモハンマド・レザー・パフラヴィー国王などの王族や貴族、アーガー・ハーン4世ポルフィリオ・ルビロサなどの大富豪やジェット族、ロベルト・ロッセリーニやその妻のイングリッド・バーグマンなどのアーティストや映画俳優などといったセレブリティが愛用し、その姿が世界各国のニュース映画や雑誌の紙面を飾ったこともそのブランドイメージを押し上げる結果となった。なお、フェラーリは、現在に至るまで自社製品の広告を全く行わないことでも知られている。

なお、1957年にはエンツォが「ミッレミリア」におけるアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵と観客死傷事故の責任を問われ起訴され、モータースポーツ参戦中止や賠償金の支払いによる経営への影響が危惧されたが、その後無罪となる。

「宮廷の反逆」と経営危機

このようにフェラーリは世界各国で高い名声を勝ち取り、その生産台数も順調に増加を続けたものの、エンツォによる過剰なモータースポーツへの投資や、手作業が多い旧態依然とした生産設備による生産コストの高さが収益を圧迫した。

さらに当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争と、それがもたらした度重なるストライキサボタージュなどが経営に悪影響を与え、1959年のF1イギリスグランプリでは、メカニックのストライキによりマシンの整備ができずに出走を取りやめることになってしまったために、トニー・ブルックスが僅差で年間チャンピオンを逃すという事態になってしまった。

また1961年10月には、エンツォの妻のラウラによる過度な製造及び開発現場への介入に反対する、カルロ・キティやジオット・ビッザリーニ、ロモロ・タヴォー二、エルマーノ・デ・ラ・カーサ、フアウスト・ガラッソ、ジローラモ・ガルデイーニ、フェデリコ・ジヴェルディ、エンツォ・セルミら8人の部署長級のメンバーが、弁護士を経由してエンツォに抗議を申し出た手紙を送付したものの、これに怒ったエンツォに会議の場で全員が解雇される事件「宮廷の反逆」が起きたことも影響し社内が混乱し、1960年代初頭には経営が苦境に陥った。

ASAの失敗

この様な状況を打破すべく、エンツォは安価な小型スポーツカーを投入することで収益構造を改善することを企画し、ジョアッキーノ・コロンボが開発した高性能な4気筒エンジンとジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたスタイリッシュなボディを、ジオット・ビッサリーニが設計したシャシーに搭載した小型2ドアクーペ「ASA 1000 GT」を1961年のトリノ・モーターショーにて発表した。

当初は「フェラリーナ」と呼ばれフェラーリの廉価版として販売、生産することが検討されたが、社内の反対によりフェラーリのブランドは与えられず、エンツォの友人であるオロンツィオ・ディ・ノーラ率いるミラノに拠点を置く化学系企業の「ディ・ノーラ」内に本拠を置いた「ASA(Autocostruzioni Società per Azioni)」ブランドで販売されることになった。しかし発表時にはエンツォ自らプレゼンテーションを行ったほか、フェラーリのディーラー網を通じて販売されるなど、フェラーリの影響が色濃くみられるモデルとなった。

そのスタイリングと操縦性、エンジンは高い評判を得たものの、1000cc級の4気筒エンジンを搭載した小型クーペとしては価格が高価であった上に、フェラーリのブランドが与えられなかったこともあり販売は芳しくなく、1963年にはスパイダーモデルが追加されたほか、1800ccにパワーアップしたモデルがルイジ・キネッティの手によりアメリカでも販売されたものの、1962年から1967年にかけてクーペとスパイダー併せて120台程度が生産されたのみで、エンツォが意図したフェラーリの経営と収益構造の改善には貢献しなかった。

フォードとの買収騒動

このような状況を受けて1963年には、ベビーブーム世代の顧客へのアピールを狙い、モータースポーツ部門の拡大を考えていたヘンリー・フォード2世会長率いるフォードの取締役のドン・フレイ率いるチームとの間で買収交渉を進めたが、マラネッロでの買収契約調印の寸前にエンツォが交渉を止めたことで決裂した。

交渉決裂の理由は明らかにされていないが、モータースポーツ部門における決定権の委譲をエンツォが嫌ったという説、金額の不一致という説、フェラーリを外国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップのジャンニ・アニェッリの意向など、複数の理由が影響していたという説がある。

ル・マンでの戦い

これに不快感を持ったヘンリー・フォード2世は、「250LM」などのマシンで連勝を続けていたフェラーリをル・マン24時間レースで破るべく、その資本力にものを言わせて膨大な資金を投入して「アドバンスド・ビークル」部門を設立して短期間のうちにレーシングカー「フォード・GT40」を開発した。

フォードは膨大な予算と人材を投じてマシンを開発し実戦に投入したものの、実戦経験の不足と性急な開発はすぐに実を結ばず、ル・マン24時間レースやスパ・フランコルシャン、デイトナなどで数多くの敗北を経た上に、ジオット・ビッザリーニの後任としてフェラーリのレース部門の開発責任者となったマウロ・フォルギエーリの引き抜きさえ画策している。これに対してエンツォも、ボブ・ボンデュラントの引き抜きに成功している。フォルギエーリの引き抜きには失敗したものの、レース経験が豊富なキャロル・シェルビー率いる「シェルビー・アメリカン」などからの技術的提供を受けマシンの開発を進めたことにより、1966年のル・マン24時間レースでフェラーリを破ることになる。

なお、ここまでヘンリー・フォード2世がフェラーリを破ることにこだわったのは、エンツォに買収交渉を袖にされたことだけではなく、当時不倫をしていた(その後1965年に結婚)イタリア人のマリア・クリスティナ・ベットーレ・オースティン が、フェラーリのファンであったことも影響されていると言われている。

なおフェラーリは、フォードにル・マン24時間レースで敗れたものの、フォードの地元のアメリカで開催された1967年デイトナ24時間レースに「330P4」で参戦し1位-3位を独占し、さらに翌年に発表した「365GTB/4」に「デイトナ」の愛称をつけフォードに一矢を報いることになる。

フィアットとの提携とディーノ

その後、F2用エンジンのホモロゲーション取得のため、新たに開発された軽量かつ高性能なV型6気筒エンジンを通じて、イタリア最大の自動車メーカーであるフィアット・グループとの提携が始まる。1956年に亡くなったエンツォの息子であるアルフレード「ディーノ」の名を冠したV型6気筒エンジンは、市販車の「206/246」と、2+2モデルである「208GT4/308GT4」に搭載された。

これらのV型6気筒エンジン搭載車は、前述の「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」というエンツォの言葉通り「ディーノ」ブランドが与えられ、フェラーリの名が冠されることはなかった(後に「246」のアメリカ市場向けモデルの後期型に、販売戦略上フェラーリのロゴが付けられることとなった他、「208GT4/308GT4」の後期型には正式にフェラーリの名が冠され、「ディーノ」ブランドは廃止された)。

このV型6気筒エンジンはフィアット・グループ内の様々なブランドでも取り扱われ、「フィアット・ディーノ・クーペ/スパイダー」と、ラリー界を席巻した革命的なマシンである「ランチア・ストラトス」が生まれた。キャブレター、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で排気レイアウトの関係上フィアットの方が有利なのにもかかわらず、マーケティング的配慮とチューンの関係から馬力が少ない仕様になっていた。

フィアット傘下へ

その後フィアットとの提携が進み、1969年にフェラーリは完全にフィアット・グループ傘下に入ることで経営の安定と、多額の経営資金を得ることで新技術の導入を図ることになる。その後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、モータースポーツ部門(スクーデリア・フェラーリ)の指揮に専念した。なおフェラーリの株の10パーセントはエンツォが引き続き所有するなど、名目上での資本関係は保ちつづけした。

その後、フィアット・グループのジャンニ・アニェッリ会長の指揮のもと、フィアットからの人員を開発から経理に至るまで様々な部門で受け入れる中で、1973年に当時成績不振に陥っていたスクーデリアのマネージャーに就任したのが、フィアット・グループ創業者のアニェッリ一族につながる家柄の出身で、のちにフェラーリ会長(とフィアット・グループ会長)を務めるルカ・ディ・モンテゼーモロであった。

モンテゼーモロは、その後スポーツカーレースからのワークス参戦の撤退やマシンの開発撤退などチーム内の再編を行い、さらにスクーデリア内では1974年から加入したオーストリア人ドライバーのニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。様々な社内外からの抵抗にあったものの、この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1975年にはラウダがドライバーズチャンピオンを獲得するなどチームを立て直し1977年まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任する。

なお1969年には、かねてから関係の深かったカロッツェリア・スカリエッティと資本関係を結んだ(その後1977年に同社を買収し、ボディ製造部門とする)ほか、1972年にはマラネッロの本社工場の西側にある果樹園を取得し、新たにF1をはじめとするレース専用車や市販車のテストコースとして使われる「フィオラノサーキット」が造られ、併せてサーキット内にエンツォの別宅やピットなども設けられるなど、フィアット・グループの傘下に入ったことで流れ込んだ資金と人材を、市販車とレース部門に積極的に活用し始める。しかしながら、本社正門前にある「リストランテ・キャバリーノ」が1975年に売却されている(しかしその後も同社は事実上関係会社と思われている)。

1973年には、名車と称された「365GTB/4」を引き継いでフェラーリのトップレンジを担う12気筒モデルとして「365GT4BB」が登場した。同車はフェラーリの市販車として初めて最高時速300キロを超えるモデルとなり(公称時速302キロ)、またV12気筒ミッドシップはその後約20年に渡り生産されるヒット車種となる。

V型8気筒エンジンの登場

市販車部門を親会社のフィアットの意向が支配するようになった結果、6気筒エンジンを搭載した「206/246」に代わる最廉価モデルかつミッドシップの量産2シーターとして、1975年に「208/308」が生まれた。これらのモデルは新たに開発されたV型8気筒エンジンを、ピニンファリーナレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたFRPボディに搭載した(これはイタリアの労働ストライキにより当初予定していたスチール製ボディの生産が間に合わなくなったためであり、1977年には通常のスチール製ボディに戻された)。

これらのV型8気筒エンジンを搭載したモデルは、6気筒エンジン搭載モデルとは違い最初からフェラーリブランドが与えられ「ピッコロ・フェラーリ(小型フェラーリ)」と称された。「ピッコロ・フェラーリ」シリーズは、「208/308」の後継モデルの「228/328」や、「208GT4/308GT4」の後継モデルの「モンディアル」と併せて2万台以上が生産される、フェラーリ史上最大のヒット作となった。

さらに「208/308」と「モンディアル」に搭載されたV型8気筒エンジンは、高い性能と汎用性を生かして、フィアットの意向を受けてフィアット・グループ内のランチアの世界耐久選手権(WEC)参戦用のレーシングマシン「LC2」にも使用されたほか、1980年代には同社の高級セダンである「テーマ8.32」に使用された。

この時に始まったフェラーリのV型8気筒路線はその後「348」、「F355」、「360」、「F430」や「カリフォルニア」、「458イタリア」、そして現在の「488GTB」と「ポルトフィーノ」へと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの収益の屋台骨を支える系譜となった。

なお、同時期に12気筒エンジン搭載モデルの刷新も行われ、「365GT 2+2」は「365GTC/4」を経て1972年に発表された「400」に、1973年に発表された「365GT4BB」は1976年に改良版である「512BB」に引き継がれ、さらに1984年には新設計のミッドシップに12気筒エンジンを搭載した「テスタロッサ」とその後継の「512TR」へ引き継がれた。

その後のエンツォ

エンツォは1977年にはフェラーリの会長職を退くものの、その後も市販車からスクーデリア・フェラーリの運営まで大きな影響力を保ち続けた。さらに1981年にはスクーデリア・フェラーリの代表としてF1のコンコルド協定締結の立会人となるなど、F1界で多大な発言力を有していた。また1987年には、FIAゴールドメダルを受賞している。

その為もあり、イタリア国内では「北の教皇」(南の教皇とはヨハネ・パウロ2世)と呼ばれるほどモータースポーツや自動車業界への影響力は大きかった。

限定生産

1984年には、WRC(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーであるグループBホモロゲーション(参戦公認)を得ることを目的に「288GTO」を開発したものの、WRCで戦うマシンのトレンドが四輪駆動車に急激に移りつつあったために参戦を断念し、限られた台数が生産され販売された。

「288GTO」は、あくまでグループBの公認を取得するための規定生産台数をクリアするため限定生産となったものであり、わずか272台が生産されたに過ぎなかったが、その後「288GTOエボルツィオーネ」を経て、創業40周年記念モデルの「F40」が限定生産、販売され、生産開始直後のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博し、更には「F40 コンペティツィオーネ」や「F40 LM」も生産されたことから、以降はこのような限定生産を節目の年に行うことになる。

創業50周年を迎えた1997年には「F50」、創業55周年には、当時ピニンファリーナに在籍していた日本人デザイナーの奥山清行がデザインした「エンツォ・フェラーリ」、そして2013年にはフェラーリとして初めてのハイブリッドである「ラ フェラーリ」や「ラ・フェラーリ・アペルタ」といった限定生産モデル(スペチアーレ)や、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」や「599GTO」、「SA アペルタ」や「F12 TdF」などの既存車種を改良した限定生産モデルを発表し、フェラーリ自らが選択した顧客に対して販売している。

エンツォの死

80歳を超えてもエンツォは多忙な公務にいそしんでいたものの、1988年2月1日にモデナ大学から物理学名誉学位を授与された際の式典以降は社外に姿を現さなくなり、6月にヨハネ・パウロ二世がマラネッロの本社工場を訪問した際にもメッセージのみで姿を現さなかったことから、イタリアのマスコミからは「深刻な状態にあるのではないか」と噂された。

実際にエンツォはこの時腎不全に侵されており、その後も賢明な治療を続けたものの、回復することなく8月14日に没した。90歳であった。なお、夏の休暇を考慮され、発表は8月17日に行われた。イタリアが世界に誇る自動車会社の創始者かつ、F1世界選手権におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際し

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出典:wikipedia
2019/07/24 15:35

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