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フェルディナント・ラッサールとは?

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フェルディナント・ラッサール
Ferdinand Lassalle
1860年のラッサール

【人物情報】

【生誕】
1825年4月11日
プロイセン王国
シュレージエン県
ブレスラウ
【死没】
(1864-08-31) 1864年8月31日(39歳没)
スイス ジュネーブ州
カルージュ
【出身校】
ブレスラウ大学ベルリン大学
【学問】

【時代】
19世紀中頃
【学派】
国家社会主義
【研究分野】
ヘーゲル哲学・社会主義・プロイセン労働運動
【特筆すべき概念】
夜警国家普通選挙、生産組合、事実的権力関係
【主要な作品】
『ヘラクレイトスの哲学』
『既得権の体系』
『労働者綱領』
公開回答書
『間接税と労働者階級』
影響を
受けた人物 ヘラクレイトスフィヒテヘーゲルハイネベルネサン=シモンフーリエルイ・ブランワーグナーローレンツ・フォン・シュタインマルクスエンゲルス
影響を
与えた人物 ビスマルク幸徳秋水片山潜ゲオルグ・イェリネックルドルフ・シュタムラー

フェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, [laˈsal]1825年4月11日 - 1864年8月31日)は、プロイセン政治学者、哲学者、法学者、社会主義者、労働運動指導者。

ドイツ社会民主党(SPD)の母体となる全ドイツ労働者同盟の創設者である。社会主義共和政の統一ドイツを目指しつつも、ヘーゲル哲学の国家観に強い影響を受けていたため、過渡的に既存のプロイセン王政(特に宰相オットー・フォン・ビスマルク)に社会政策やドイツ統一政策を取らせることも目指した。その部分を強調して国家社会主義者に分類されることもある。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 大学時代
    • 2.3 ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟
    • 2.4 1848年革命をめぐって
    • 2.5 離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功
    • 2.6 マルクスとの亀裂
    • 2.7 『既得権の体系』
    • 2.8 マルクスの帰国騒動
    • 2.9 政治運動への本格的参入
    • 2.10 ロンドン訪問とマルクスとの交友断絶
    • 2.11 ビスマルクの登場と憲法闘争の勃発
    • 2.12 進歩党との決別と全ドイツ労働者同盟結成
    • 2.13 ビスマルクへの接近
    • 2.14 デンニゲスとの恋愛騒動
    • 2.15 決闘死
  • 3 人物
  • 4 評価
  • 5 日本におけるラッサール
  • 6 ラッサールの著作
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

概要

1825年プロイセン東部ブレスラウに裕福なユダヤ人絹商人の息子として生まれる。商業学校からギムナジウムへ進学した。商業学校時代にハイネベルネなどの著作から最初の革命思想の影響を受けた(生い立ち)。ブレスラウ大学、ついでベルリン大学へ進学し、ヘーゲル哲学の影響を受けた。ヘーゲルの弁証法に似た部分のある古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの流転の素因の研究を行った(大学時代)。

ハッツフェルト伯爵家の伯爵夫人ゾフィーと親しくなり、1846年から1854年にかけて学問を中断して彼女の離婚訴訟を代行した(ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟)。1848年革命の際には彼の離婚訴訟が反封建主義闘争の一つとしてライン地方の革命派から注目されたため、一躍有名人となった。マルクスら他のライン地方の革命家と連携して革命の指導にあたったが、同革命は失敗に終わり、彼も官憲に逮捕されて禁固6か月の刑に服した(1848年革命をめぐって)。

1854年に離婚訴訟に勝利し、伯爵夫人が巨額の資金を得たことで彼の金回りもよくなった。ヘラクレイトスの研究に戻り、1857年にはベルリンに移住して『ヘラクレイトスの哲学』を出版。ベルリン哲学学会の寵児となり、学者としての名声を博した(離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功)。その後、金銭問題やイタリア統一戦争の評価を巡ってイギリス亡命中のマルクスとの亀裂が深まった。イタリア統一戦争をめぐってはマルクスは反ナポレオン3世の立場からオーストリア側に立ち、一方ラッサールは反オーストリアの立場からナポレオン3世・イタリア統一運動側に立っていた(マルクスとの亀裂)。

1861年には『既得権の体系』を出版。同書の中で「法の歴史が文化的進歩を遂げていくと個人的所有権は徐々に制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的法史観を説いた(『既得権の体系』)。1861年4月にはマルクスのプロイセンへの一時帰国を斡旋し、マルクスをもてなしたが、マルクスのプロイセン市民権回復はならず、マルクスとの関係も好転しなかった(マルクスの帰国騒動)。

1861年11月にイタリアを訪問してガリバルディと会見。彼の影響を受けて学問より直接的な政治運動が増えた。ローター・ブハーらを同志に得、労働者に向けた演説を開始した。その中で社会政策の必要性を訴え、自由主義ブルジョワの自由放任主義を「夜警国家」と批判した。また「憲法問題とは法の問題ではなく、現実の権力関係の問題である」ことを説き、自由主義的憲法を制定しても国王が事実上の権力を握る限り、なし崩しにされるであろうことを自由主義ブルジョワに警告した。1862年にはそれらの演説をまとめた『労働者綱領』を出版したが、官憲に危険視されて逮捕され、罰金刑に処せられた(政治運動への本格的参入)。

1862年7月にはロンドン万博訪問でロンドンを訪問し、マルクスの歓待を受けたが、ラッサールの浪費癖や自慢癖は生活苦だったマルクスには不快であり、二人の関係は余計に悪化した。最終的には借金問題で二人の交友関係は途絶えた(ラッサールのロンドン訪問とマルクスとの交友断絶)。

1862年9月にビスマルクがプロイセン宰相となり、無予算統治を開始したことにより憲法闘争が高まった。ラッサールは「封建主義勢力はもはや社会的な力ではブルジョワに勝てないので、似非立憲主義で延命を図ろうとしている」として、議会は自ら無期限休会を宣言して「似非立憲主義体制」を破壊すべきで、封建主義勢力がそれに根を上げた時にこそ本当の憲法を制定できると訴えたが、自由主義ブルジョワ政党ドイツ進歩党の立憲主義・議会主義(現在の憲法や議会が仮に「似非」だったとしても)は根強く、1863年1月にその提案は拒否された(ビスマルクの登場と憲法闘争の勃発)。

これをきっかけに彼は進歩党を見限り、1863年3月1日に出版した『公開回答書』の中で労働者階級は進歩党の指導から離れて、普通選挙を旗印にした独自の労働運動を起こすべきことを主張した。また社会政策の方針として労働者階級自らが企業家になるべきであるとして、労働者の自由な同盟と国家の援助による企業体「生産組合」の結成を訴えた。1863年5月にはこの方針を基にした全ドイツ労働者同盟を結成し、その指導者となった(進歩党との決別と全ドイツ労働者同盟結成)。この頃から宰相ビスマルクと秘密裏に会談するようになり、進歩党を共通の敵とすることや「社会的王政」、「普通選挙の欽定」などを話し合った(ビスマルクへの接近)。

1864年8月31日、恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。その後ドイツ労働運動はラッサール派とマルクス系のアイゼナハ派に分裂したが、1875年に至って両派は統合されて社会主義労働者党(社会民主党の前身)となった(ヘレーネ・フォン・デンニゲスとの恋愛騒動、→決闘死)。

ヘーゲルの影響を強く受けていたラッサールは、社会主義者ながら国家を重視した。君主制に対しても柔軟な姿勢をもっており、それがビスマルクとの連携を可能にした。権勢欲と虚栄心が強く、それが彼の独裁的な労働者運動指導につながったとしばしば指摘される。人間的魅力があり、大衆からの人気は高かった(人物)。

フィヒテロードベルトゥス国家社会主義(Staatssozialismus)の系譜を継ぐ人物とされることが多いが、その位置づけに対して異論もある。1959年に国民政党への転換が宣言されるまでドイツ社民党(SPD)はマルクスを「理論上の父」、ラッサールを「運動上の父」としてきた。労働運動家としては高く評価されることが多い一方、理論家としての独創性のなさが批判されることがあるが、ラッサールの『事実的権力関係』の理論はゲオルグ・イェリネック、国家と労働を結びつける『労働階級の国家理念』はルドルフ・シュタムラーに影響を与えたという擁護もある。労働運動の方針についてもマルクスからは批判があったが、メーリングはラッサールの労働運動指導はマルクス主義に則ったものだったと擁護している(評価)。

日本における社会主義黎明期の明治時代後期にはラッサールは日本社会主義者のスターだった。しかしロシア革命後にはマルクス=レーニン主義が社会主義の本流とされてラッサールは異端視されるようになり、社会主義者の間で語られることはほとんどなくなった。逆に反マルクス主義者の小泉信三河合栄治郎らから注目されるようになり、彼らと彼らの門下生を中心にラッサール研究が進められるようになった(日本におけるラッサール)。

生涯

生い立ち

1825年4月11日プロイセン王国シュレージエン県ブレスラウに裕福な改革派ユダヤ教徒の絹商人ハイマン・ラッサール(Heyman Lassal)の第2子として生まれる。母はその妻ロザリエ(Rosalie)。

ブレスラウをはじめシュレージエン地方の都市にはユダヤ人が多く暮らしていた。同じプロイセン領でもライン地方のユダヤ人はかつてのフランス革命ナポレオン法典の影響で自由主義的な気風の中で生活していたが、シュレージエンではユダヤ人蔑視が強く、貧しいユダヤ人の多くはゲットーに押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、激しいユダヤ人差別を間近に見ながら育つことになった。この点は同じユダヤ人であっても自由主義的なトリーアで育ち、ユダヤ人迫害をほとんど体験しなかったマルクスと決定的に違う点であった。

ラッサールは幼いころから優秀な神童として注目され、父親も「未来のユダヤ人解放者」として将来を嘱望していた。ラッサールはユダヤ人の自覚を強く持って育つも、徐々にユダヤ人にうんざりさせられていった。1840年5月にオスマン帝国ダマスカスで大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人に苛立った様子が日記から窺える。その中でラッサールは「天は自ら動く者を助ける」、「卑怯な民族よ、お前は浮かばれない」と書いている。

1840年5月にライプツィヒの商業学校に入学した。しかし商業にはまるで関心を持てず、文芸や古典に惹かれていった。ゲーテシラーヴォルテールバイロンハイネベルネなどに読み耽った。とくに同じユダヤ人のハイネとベルネからは民主主義共和主義革命主義の最初の影響を受けた。

大学で歴史を学びたいと考えるようになったラッサールは父親を説得のうえ、1841年8月に商業学校を退学し、ブレスラウのカトリックギムナジウムに転校した。カトリックはプロテスタント国家であるプロイセンにおいては少数派だったので同じ少数派のユダヤ人を差別することはないだろうと考えて、この学校を選んだものと思われる。ギムナジウムで猛勉強し、1842年中にアビトゥーアに合格した。

大学時代

若き日のラッサール。

1843年10月にはブレスラウ大学に入学できた。大学では文献学、ついで哲学を学んだ。特に古典とヘーゲル哲学を熱心に勉強した。しかしプロイセン王国ではユダヤ人に出世の道は開かれておらず、ラッサールもキリスト教に改宗して出世を目指す意思はなかったので彼が反体制派になっていくのは自然の流れだった。

英仏ほどではないとしても、プロイセンの大学でも自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まっていた。学生たちのそうした活動はブルシェンシャフトと呼ばれる学生団体によって行われていた。ラッサールもそうした学生団体に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった。この頃、ブレスラウ大学ではヘーゲル左派フォイエルバッハ准教授がプロイセン政府から「危険思想の持ち主」と看做され、大学を追放される事件があった。これに対して急進派学生たちはラッサールを中心に抵抗運動を展開した。この活動を通じてラッサールは学内随一の雄弁家として名をはせるようになった。大学からも「危険分子」と看做され、一時謹慎処分を受けている。

1844年4月、ヘーゲル哲学を本格的に学ぶべく、ベルリン大学へと移籍した。ヘーゲル研究の他にもサン=シモンフーリエルイ・ブランといった社会主義者から影響を受けた。この頃からユダヤ人のみならず、あらゆる被抑圧者の解放を志すようになり、社会主義者となっていった。

ベルリン大学の卒業論文では古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの研究に取り組んだ。ヘーゲルの弁証法とヘラクレイトスの流転の素因に似たところがあるからだが、同時にヘラクレイトスは難解といわれていたため、困難を突破したがるラッサールの闘争心が刺激されたものと考えられている。

1845年秋から1846年1月にかけて、ヘラクレイトス研究のため、フランス・パリを訪問した。パリでプルードンやハイネと会見する機会を得た。とりわけ同じユダヤ人のハイネとは意気投合した。ちょうど同じころにカール・マルクスがパリから追放されているが、この時点でマルクスと顔を合わせることはなかったようである。このパリ滞在中に「Lassal」姓をフランス風の「Lassalle」に変更した。フランスへの憧れ、あるいはユダヤ姓を連想させるLassalを嫌ったためといわれる。

ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟

ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー

パリからベルリンへ戻った後、ヘラクレイトスの論文の執筆を開始しようとしたが、ハッツフェルト伯爵家の伯爵夫人ゾフィーと知り合ったことでその研究は10年近く中断されることになる。

彼女の夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた。

ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった。結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは1846年から1854年までの長きにわたってこの訴訟に尽力することになる。

訴訟中の1848年2月、ラッサールは伯爵が次男に与えるべき財産を愛人に譲ろうとした伯爵の背信行為を証明する文書が入った小箱を愛人から盗み出したとされて、窃盗罪容疑で警察に逮捕された。

1848年革命をめぐって

ラッサールが逮捕された1848年2月にフランス・パリでは革命が発生し、ルイ・フィリップ王政が打倒され、共和政が樹立された。3月にはプロイセンやオーストリアにも革命が波及した(3月革命)。

独房の中からその様子を見たラッサールは改めて闘争心を掻き立てられた。8月11日のケルンの法廷では熱弁をふるって自らの闘争が自由と民主主義のための封建主義との闘いであることを印象付けた。法廷外でも伯爵夫人が様々な反封建主義集会に参加して世論を盛り上げ、ラッサールの法廷での闘いをサポートした。革命の渦中であったから陪審員にもラッサールを支持する者が多く、無罪判決を勝ち取ることができた。釈放されたラッサールは伯爵夫人やその次男とともにデュッセルドルフで暮らすようになった。ラッサールの無罪判決は革命派の勝利として大きな反響を呼び、ラッサールは一躍ライン地方の有名人となった。

ラッサールは引き続き伯爵夫人の離婚訴訟を支援しながらライン地方の民主主義派の革命活動に参加するようになる。また『新ライン新聞』を発行していたマルクスエンゲルスとも初会見した。5歳年上のエンゲルスは初対面からラッサールの「鼻持ちならない態度」に不快感を持ったが、一方7歳年上のマルクスはユダヤ人としての連帯感もあってか、当時はラッサールに好意的であり、彼の少ない財産の中から伯爵夫人の支援金を拠出してくれた。

ラッサールは8月29日に開催されたフライリヒラート逮捕への抗議集会で初めて大衆の前での演説を行い、以降マルクスらと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導して回った。しかし10月から11月にかけて革命は次々と失敗していき、反革命派による民主主義派への武力弾圧が本格化した。11月にはプロイセン国民議会も閉会させられた。これに対抗すべく民主主義派は消極的抵抗から武力抵抗へ転換し、ラッサールもデュッセルドルフで武装抵抗を促す演説を行ったため、11月22日には官憲に逮捕された。

「王権に対する武装抵抗の教唆」という重罪に問われたため長期間未決拘留された。1849年5月3日にようやく陪審制の裁判にかけられたが、陪審員にも民主主義派が多かったため、無罪判決が下り、ラッサールは釈放された。これに対抗して裁判所は一事不再理の原則に反する形で「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」の容疑でラッサールをふたたび逮捕した。今度は職業裁判官による裁判にかけられ、7月には禁固6カ月の判決を受けた。

判決の執行は少しの間だけ延期され、一時的に釈放された。この間、革命の失敗でほとんど一文無しでロンドンに亡命していたマルクスから最初の金の無心を受けた。ラッサールも楽な経済状態ではなかったが、マルクスのために幾らか用立ててやり、またマルクス支援の募金活動を起こしたが、マルクスは自分の惨めな生活を世間に知られたくなかったらしく、この募金運動の件を聞いて憤慨した。

1850年10月から1851年4月にかけて先の判決が執行され、服役した。

離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功

1854年、8年に及ぶ訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果、1854年に離婚訴訟は終了した。これにより伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人からかなりの年金を受けるようになり、裕福な生活を送れるようになった。この年金はラッサールにとって執筆業や政治活動に専念する上で重要な収入源となった。

金銭的にも時間的にも余裕ができたラッサールは、大学の卒業論文として書き始めてそのままになっていたヘラクレイトスに関する著作の執筆を再開し、1855年から1857年にかけてこれを完成させた。

伯爵夫人との関係が悪くなることはなかったが、訴訟が終わったことでデュッセルドルフの伯爵夫人邸にいつまでも居候することに居心地の悪さを感じるようになり、プロイセン王都ベルリンへの移住を希望するようになった。しかし1848年革命に参加した革命家であるため当局からの許可はなかなか下りなかった。1855年3月にはこっそりベルリンへ移住するも警察に逮捕され、強制送還されている。しかし1857年2月になって突然ベルリンへの移住許可がおりた。伯爵夫人とラッサールを切り離してライン地方の革命運動を弱め、またラッサールをベルリンに置いて監視を強化しようという官憲の企図だったという。ともかくこれにより同年5月からベルリン・ポツダム街に移住した。

出版業者フランツ・ドゥンカーと親しくなり、彼の書店から『ヘラクレイトスの哲学(Die Philosophie Herakleitos Des Dunklen Von Ephesos)』を出版してもらった。この本はたちまち評判になり、ラッサールはベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を開始した。ラッサールはロンドンのマルクスにも『ヘラクレイトスの哲学』を送って批評を求めたが、極貧生活に陥っていたマルクスはすっかり上流階級の仲間入りをしたラッサールを妬み、エンゲルスへの手紙の中で「博識の法外なひけらかし」「大学教授のお偉方がこの本を評価したのは世に偉大な革命家として名を馳せた青年が随分と古風だったことに喜んだからだろう」「ラッサールは労働運動を離婚訴訟に私的に利用した」「訴訟は終わったのにラッサールはいつまでも伯爵夫人から独立しようとしない」「ラッサールのベルリン行きは大紳士に成りあがり、サロンを開くためだ」と怒りをぶちまけている。

一方マルクスの不興を買い始めていることを知らぬラッサールは、ベルリンでフランツ・ドゥンカー夫人リナと情を通じるようになっていた。彼女には崇拝者が多かったため、ファブリスという官僚からブランデンブルク門で待ち伏せされて夜襲を受けたが、持っていたステッキで撃退することに成功した。この件は社交界でも評判になり、歴史家フリードリヒ・フェルスターからはロベスピエールのステッキを送られ、ラッサールは生涯これを大切にしたという。

しかし同時にベルリン警察から目をつけられるようになり、1858年6月にはベルリン追放命令を受けた。ラッサールはスイスへ逃れつつ、この頃自由主義勢力と関係を持っていた皇太弟ヴィルヘルムに助けを求めた。折しもヴィルヘルムが摂政となり、自由主義的保守派によって構成される「新時代」内閣が発足していたこともあり、10月にはベルリンに戻ることができた。

マルクスとの亀裂

「腐れ縁」と化していく友人カール・マルクス

1859年にはマルクスの『経済学批判』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らった。一方でこの頃からマルクスのラッサール不信は強まっていく。

同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された。

しかしもっと大きかったのはイタリア統一戦争をめぐって見解が相違したことだった。

この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した。

しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をするべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにフランスがドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的なサヴォワの併合だけ。」「オーストリアが弱体化してもドイツ統一の打撃にはならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国を併合するのだ。」といった趣旨の主張を行った。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際に行ったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された。

しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは決定的に相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られた。

またこの時期マルクスは、カール・フォークト批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールがいまいち乗り気でないことにも不満を持っていた。加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとっていたこともマルクスの不信を加速させた。ラッサールはマルクスに自身の金銭事情を説明したものの、マルクスは信じてくれなかった。

『既得権の体系』

1860年中に大著『既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte)』の執筆を行い、1861年に全2巻で出版した。伯爵夫人の離婚訴訟で培った法律の知識が結実した本であった。

この本の中でラッサールは一定の法律制度はその特定時における特定の民族精神の表現に他ならないと説き、権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、この普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害されたということはできないと主張する。

そして「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的結論を導き出している。すなわり初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになったということである。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことは農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味しているということである。そして現在の世界は、生産物価格と生産物生産にかかった労働賃金の合計額との間の差異が全額資本家に与えられていることが正しいのかという問題に直面しているとする。

しかしこの著作は難解すぎて『ヘラクレイトスの哲学』の時のような称賛は得られなかった。法学者にとっては哲学的要素が、哲学者にとっては法学的要素が多すぎた。また革命家たちにとっては思弁過剰だった。マルクスは全く読もうとせず、エンゲルスは「自然法に対する迷信的信仰」などと批判した。

マルクスの帰国騒動

1861年1月に摂政ヴィルヘルム王子が正式にヴィルヘルム1世としてプロイセン国王に即位した。ヴィルヘルム1世は政治的亡命者に対して大赦を発した。これを聞いたラッサールはマルクスにプロイセンへの帰国を勧めた。

マルクスも満更ではなく、4月1日にはラッサールとハッツフェルト伯爵夫人の援助でプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ラッサールと伯爵夫人はマルクスが様々な社交場で一流の人士と歓談できるよう取り計らってやり、オペラハウスでは国王ヴィルヘルム1世が座っている最高席から数フィートという距離の位置のボックス席にマルクスを座らせてやった。だが反君主主義者のマルクスにはこういう貴族的歓待は不快以外の何物でもなかったらしい。

マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りて早々にロンドンへ帰っていった。

この一件以来マルクスはますますラッサールの「虚栄的生活」を軽蔑した。この頃、マルクスは「(ラッサールは)モーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫だろう。(略)この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と評した手紙をエンゲルスに通信している。

政治運動への本格的参入

ラッサールの同志ローター・ブハー

1861年9月から12月にかけて伯爵夫人とともにスイスとイタリアを旅行し、11月14日にはカプレラ島ジュゼッペ・ガリバルディと会見した。ガリバルディ率いるイタリア行動党のオーストリアに対する攻撃計画に関心を持ったという。

帰国後のラッサールはガリバルディの影響で直接的な政治運動が増えていった。学究活動や文芸活動は減り、演説の草稿書きが主となっていく。この頃、政界ではブルジョワを中心とする自由主義左派政党ドイツ進歩党がプロイセン議会下院の多数派を握っていた。ラッサールは進歩党の名士とも交友関係があったものの、ブルジョワである彼らが ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/01/13 22:36

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