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フエとは?

フエ
Thành phố Huế
城舗化


フオン川(香江)にかかるチャンティエン橋(場銭橋)
位置
フエ (ベトナム)

地図

座標 : 北緯16度28分 東経107度36分 / 北緯16.467度 東経107.600度 / 16.467; 107.600
行政
ベトナム
トゥアティエン=フエ省
フエ
地理
面積 | 
域 83,3 km2 km
人口
人口 (2012現在)
域 344,581人
人口密度 4.807人人/km
その他
等時帯 UTC/GMT +7
公式ウェブサイト : http://www.huecity.gov.vn

フエ(ベトナム語: Huế / )は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していた阮朝の首都に定められていた。

フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある。フエの漢字名の「順化(トゥアン・ホア、Thuận Hóa)」は、14世紀陳朝が設置した順州・化州に由来する。二つの行政区画のうち、かつてフエの町が属していた「化州」の漢字音(hoá)が転訛して、町はフエと呼ばれるようになったと考えられている。フランス植民地時代にトゥアン・ホアを訪れた外国人は、町を「スェウナ」「スィネア」「シネア」と呼んでいた。

一部の歴史的建造物がユネスコ世界遺産(文化遺産)に、また宮廷芸能であるニャーニャック(雅楽)が無形文化遺産に登録されている。

目次

  • 1 地理
  • 2 歴史
  • 3 人口
  • 4 行政区画
  • 5 経済
  • 6 建築物
    • 6.1 旧市街
    • 6.2 王宮
      • 6.2.1 他の王宮内部の建築物
    • 6.3 遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓
    • 6.4 寺院・教会
    • 6.5 家屋
    • 6.6 フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯
    • 6.7 登録基準
  • 7 文化
    • 7.1 水上生活者
    • 7.2 音楽
    • 7.3 衣服
    • 7.4 食文化
    • 7.5 美術館・博物館
    • 7.6 スポーツ
  • 8 教育
  • 9 交通
  • 10 姉妹都市、友好都市
  • 11 脚注
  • 12 参考文献
  • 13 外部リンク

地理

フオン川

標高15m、南シナ海に面する海岸から約16km離れた内陸部に位置する。安南山脈の支脈が町の背後を囲み、町は丘に囲まれた沖積地の上に建てられている。

市の中央をフオン川(Hương Giang、香江)が流れ、北側にはボー川(蒲江)が流れる。フエはフオン川を挟んで旧市街と新市街に分かれており、チャンティエン橋(場銭橋)、フースアン橋(富春橋)などの橋が新市街と旧市街を結んでいる。9月から11月にかけての雨季にはしばしばフオン川が増水し、新市街の家屋の一階部分が水没する。1820年に旧市街を囲む城壁が、1904年にはチャンティエン橋が町を襲った洪水によって流された。

フエの郊外には宿泊施設を併設した温泉がいくつか存在する。

フエの気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
最高気温記録 °C (°F) 34
(93) | 36
(97) | 38
(100) | 40
(104) | 39
(102) | 40
(104) | 40
(104) | 40
(104) | 38
(100) | 35
(95) | 35
(95) | 32
(90) | 40
(104)
平均最高気温 °C (°F) 23
(73) | 24
(75) | 27
(81) | 30
(86) | 33
(91) | 34
(93) | 34
(93) | 34
(93) | 31
(88) | 28
(82) | 26
(79) | 23
(73) | 28.9
(84)
日平均気温 °C (°F) 20
(68) | 21
(70) | 23
(73) | 26
(79) | 28
(82) | 29
(84) | 29
(84) | 29
(84) | 27
(81) | 25
(77) | 23
(73) | 20
(68) | 25
(76.9)
平均最低気温 °C (°F) 17
(63) | 18
(64) | 20
(68) | 22
(72) | 23
(73) | 25
(77) | 25
(77) | 24
(75) | 23
(73) | 22
(72) | 20
(68) | 18
(64) | 21.4
(70.5)
最低気温記録 °C (°F) 8
(46) | 11
(52) | 12
(54) | 13
(55) | 17
(63) | 21
(70) | 20
(68) | 21
(70) | 18
(64) | 16
(61) | 12
(54) | 11
(52) | 8
(46)
降水量 mm (inch) 180
(7.09) | 90
(3.54) | 60
(2.36) | 60
(2.36) | 80
(3.15) | 90
(3.54) | 50
(1.97) | 130
(5.12) | 500
(19.69) | 680
(26.77) | 640
(25.2) | 370
(14.57) | 2,930
(115.36)
% 湿度 87 | 87 | 84 | 79 | 74 | 69 | 67 | 70 | 79 | 84 | 84 | 86 | 79.2
出典: Weatherbase

歴史

テト攻勢時のフエ

紀元前111年前漢によって設置された日南郡の首府は、フエ近郊に位置すると推定されている。

2世紀末に建国された林邑(チャンパ王国)の首都はフエ付近に存在したと推定されている。林邑の時代のフエは東南アジア内陸部の物品を中国に出荷する積出港として機能していた。中国の史料に現れるチャンパの地名「烏麗」「烏里」はフエに比定され、烏里には多くのチャム人が住んでいた。制氏、潘氏といったチャム人の名家は、フエがキン族化された後も名門の地位を保ち続けた。

1307年に北ベトナムの陳朝とチャンパ王国の間に結ばれた協定によって、烏里は陳朝に割譲されて化州と改称された。1401年から1402年にかけて、胡朝紅河デルタ地帯の住民をフエに移住させる。1407年に胡朝を滅ぼしたがベトナムを支配下に置いた後、陳朝の王族の生き残りはフエを拠点として、1413年まで明に抵抗を続けた。1558年阮潢(グエン・ホアン)入城までにフエのキン族化はほぼ完了していた。

15世紀末までのフエは北ベトナムの政権とチャンパ王国の国境に位置する都市に過ぎなかったが、16世紀から始まる南北抗争時代にフエは広南阮氏の本拠地とされ、1636年に富春(フースアン)都城が完成する。広南阮氏の時代のフエは南シナ海貿易の中心地として繁栄していた。西山党の乱の時代、1774年鄭氏1786年に西山阮氏の阮恵(阮文恵)がフエを占領した。フエを本拠地とした阮恵は北平王を称し、クアンビンからハイヴァン峠に至る地域を支配した。

1801年阮福暎(嘉隆帝、ザーロン帝)はフエを制圧し、町を阮朝の首都に定めた。ザーロン帝はヴォーバン様式に基づいた星型の城郭を持つ王城の建設を計画し、1805年にザーディンに置かれていた太和殿がフエに移されて王宮の建設が開始される。阮朝時代のフエは、中国的要素が強い北ベトナムで培われた文化に南ベトナムのチャンパ文化を取り入れて発展していく。阮朝第4代嗣徳帝(トゥドゥク帝)は広南阮氏の正史『大南寔録正編』を編纂させたことで知られるが、建築事業も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

1883年にフエはフランスによって占領され、この地で2回にわたって条約が締結された。第二次フエ条約(パトノートル条約)によってベトナムがフランスの保護国とされた後も、阮朝の皇帝は第二次世界大戦末期までフエの宮殿に住み続けた。1945年8月24日に皇帝バオ・ダイは退位を宣言してフエを去り、阮朝は滅亡する(ベトナム八月革命)。

1963年ティエンムー寺(天姥寺)のティック・クアン・ドック、トゥーダム寺(慈曇寺)のティック・ティウ・ディウらの僧侶が民主化・伝統的仏教の弾圧を行うゴ・ディン・ジエム政権に抗議して焼身自殺を行った。1968年テト攻勢では1月31日から2月24日にかけてフエで戦闘が展開され、町は多大な被害を被った。テト包囲戦の中で、およそ2,800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士によって殺害された(フエ虐殺)。

人口

【】
【1956年】
【1968年】
【1989年】
【1994年】
【1996年】
2005年
人口 95,000 | 156,000 | 211,000 | 274,102 | 286,000 | 305,000

行政区画

以下の27坊から構成される。

経済

象牙細工、ガラス細工がフエの特産品となっている。ほか、町では精米、製材、繊維、セメント工業が行われている。

フエの台所として知られているドンバ市場はコンクリート造りの2階建てのビルで、1階では雑貨や生鮮食品、2階では衣服が販売されている。1986年の台風でドンバ市場は一度は崩壊したが、後に建て直された。ドンバ市場の前のチャンフンダオ通りには、飲食店、電化製品店、雑貨屋などの商店が軒を連ねている。

建築物

 | フエの建造物群
(ベトナム)

午門

【英名】
Complex of Hué Monuments
【仏名】
Ensemble de monuments de Huê
【登録区分】
文化遺産
登録基準
(4)
【登録年】
1993年
【公式サイト】
世界遺産センター(英語)
使用方法・表示

フエの市街地と郊外には阮朝時代の王宮、皇帝廟、仏教寺院および遺跡が多数残されており、その中の一部は「フエの建造物群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

旧市街

かつてフオン川北岸(左岸)の旧市街(京師)には阮朝の官僚と庶民が住み、南岸(右岸)の新市街にはフランス人居住区が置かれていた。北の旧市街には王宮と下町、南側には官公庁、学校、病院が建てられている。また、ホテルも新市街に集中して建てられている。

旧市街は城壁に囲まれた碁盤の目状の方形都市であり、その南側に更に城壁と堀に囲まれた王宮がある。フエに建てられた阮朝の建造物群には、中国式の建築様式にバロック建築とベトナムの伝統的な建築が取り入れられている点に特徴がある。観光客は船でフオン川を下りながら、川沿いに建つ名跡を見学するツアーを利用する事もできる。

フエ旧市街を囲む城壁は、フランス帰りの建築家レ・ヴァン・ホク(Lê Văn Học、黎文学)が設計したものである。城壁内部の建築は北京の王城の形式に倣い、北京の紫禁城を4分の3に縮小した王宮が置かれている。このため、フエ王宮は中国の王宮の模倣と言われることもある。王宮の東側には、国子監や六部などの官庁が置かれていた。現在、王宮はフエ遺跡保存センターによって管理されている。

城壁は一辺2.2km、高さ6.6m、幅21mに及び、外には濠が掘られている。城壁には11の門があり、城壁の建設にあたっては各地から瓦、木材が集められ、およそ30,000人が動員された。函館市五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。1968年のテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍が旧市街に立て籠もった時にフエは戦火に巻き込まれたが、城壁は攻撃を耐え抜いた。城壁の外には鎮平台鎮海城などのフオン川の通行を監視するための砦が築かれ、それらの砦は川の波や嵐に耐えられるよう、丸い形をとっている。内部の建物の配置には風水説が取り入れられており、王宮や南の陵墓の造営にあたっては中国から招聘した風水師の意見が容れられている。

王宮の南側には、見張り台として使われていた旗台が存在する。台座の高さは17.4m、塔の頂上までの高さは29.59mに至る。旗台はベトナム戦争や天災の被害を受けて何度も破壊されたが、1969年に再建された。旗台の左右には9門の大砲が置かれており、右側の4門の大砲は四季を、左側の5門の大砲は五行思想を表している。大砲が実際に使用されることはなかったが、霊的な力によって王宮を守護する役割を果たしていたと見なされている。

王宮

太和殿

王宮地域は縦604m、横622m、高さ4m、厚さ1mの城壁で守られている。城壁の外には濠がめぐらされ、水量は四方の水門で調節することができる。王宮の建造物の上部はふんだんに使われた陶磁器やガラスの破片で装飾されており、これらの装飾には悪霊の侵入を防ぐ意図もあったと考えられている。屋根瓦の固定に使われている漆喰は、建物の装飾にも使用されている。王宮の建築物に代表される阮朝建築は、2つの建物を屋根で結合して1つの建物とし、広い空間を作り出す点に特徴がある。2つの建物の屋根の間には雨水を流すための溝(樋)が設けられているが、ベトナムの集中豪雨を樋だけで処理することは難しく、漏水、木材の腐食が問題になっている。

午門と呼ばれる王宮の正門は、正午になると太陽が門の真上に来るように設計されている。午門には複数の入口があり、中央の入口は皇帝専用の通り道になっていた。中央の入り口は鉄の柵で閉鎖されているため、使用する事はできない。午門が完成した1834年には門の上に木造2階建て、5つの望楼を有する五鳳楼が建てられ、建設当初の五鳳楼には金箔が貼られていたといわれている。かつて午門はシロアリによる多大な被害を受けていたが、ユネスコによる修復作業や日本からの援助によって、門の崩壊に対策が施された。フエ王宮の午門も、やはり北京の紫禁城に設けられている午門をモデルにしている。

午門を抜けると、左掖池と右掖池に挟まれた道が現れる。池の左側に設けられた空間では皇帝が騎乗する象と馬が飼われ、右側の空間には兵舎が建てられていた。王宮の中央には阮朝の政治の中心となっていた太和殿が建ち、太和殿の後方には塀で囲まれた禁裏(紫禁城)が置かれている。太和殿の大きさは縦30.5m、横44m、高さ11.8mに及ぶ。太和殿の屋根、柱、玉座には皇帝のシンボルである龍があしらわれている。1968年に太和殿は戦渦に巻き込まれて全壊したが、1970年に再建された。太和殿の大広間の中央には、皇帝が座る金箔張りの椅子と台座が置かれている。

他の王宮内部の建築物

遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓

カイディン帝廟
カイディン帝廟の内部
トゥドゥック帝廟

フエの内部と郊外には、多くの遺跡が存在する。旧市街の対岸に存在する虎園は直径約20mのレンガ造りの円形闘技場で、チャム人の遺跡の上に建てられている。虎園は1831年にミンマン帝(在位:1819年~1840年)の命によって造営され、その中ではゾウとトラの戦いが催されていた。虎園で戦うゾウは権力あるいは正義、トラは敵対者の象徴であり、トラの牙と前足の爪はあらかじめ抜かれてゾウに有利な戦いになるように仕組まれていた。虎園が建てられた理由について定説はなく、儒教思想による皇帝権力の誇示、キン族による先住民支配の強調などが理由として挙げられている。

町の郊外の南には南郊壇、フオン江の上流の丘陵には阮朝歴代皇帝の陵墓が建てられている。元来は皇帝の陵墓の敷地面積は明確にされていなかったが、阮朝最後の皇帝であるバオダイ帝(保大帝。在位:1925年~1945年)によってそれぞれの陵墓の範囲が定められた。

阮朝の第2代皇帝ミンマン帝の廟は公園とされ、市民に憩いの場として親しまれている。皇帝の存命中から建設計画が立てられていたミンマン帝の廟は、自然の地形を活用した構造になっている。ミンマン帝の廟には華美な装飾が施されており、中庭に並ぶゾウ、ウマ、官吏の石像は、死者の霊魂を守るために作られた。陵墓の敷地にはミンマン帝の霊廟のほかに、皇帝と皇后の位牌が納められた崇恩殿などの建物やハス池などが設けられている。雨季には敷地内の池に水が流れ込むため、水門を使って池の水量を調節している。洪水や台風の際にしばしば冠水し、外周壁、敷地内のマツが被害を受けた。ミンマン帝の霊廟は小高い丘の上に建てられているが、彼の遺体は陵墓に埋葬されておらず、実際の埋葬場所は明らかになっていない。

トゥドック帝(在位:1847年-1883年)の霊廟はもとは別荘として設計された中国様式の建築で、トゥドゥック帝の死後に墓所として改築された。敷地の中央には大きな湖があり、小船の乗りつけ場もあることから、在位中に舟遊びや釣りなどに使われていたとされる。

カイディン帝(在位:1916年~1925年)の廟の意匠にはバロック様式の影響が見られ、廟の内部の壁と天井は磁器やガラスで装飾されている。バロック様式だけでなく、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院、キリスト教寺院の特色が見られ、西洋と東洋の建築様式が混合した建物になっている。内部には金箔が貼られたカイディン帝の銅像が置かれ、像の約9m下に皇帝の遺体が安置されている。

ティエウチ帝(在位:1840年~1847年)の廟は小さく、皇帝本人の希望によって塀は立てられていない。

阮朝の創始者であるザーロン帝(在位:1802年~1819年)の陵墓は荒廃した状態に置かれている。他の皇帝の廟と異なり、自然の地形が生かされた構成になっている。ザーロン帝の廟は最も南に位置し、他の陵墓のおよそ5倍の面積を有する。陵墓の区画は3つに分けることができ、手前の区域にはザーロン帝の事績を記した石碑、中央の区域には位牌と形見の品が置かれ、最も奥の区域にザーロン帝の遺体が埋葬されている。

寺院・教会

ティエンムー寺
フエ大教会

多くの寺院が建つフエの町には「百の寺がある」とも言われる。フエの多くの寺院の中でも、チャム人によって作られたレンガの丘の上に建つティエンムー寺(ベトナム語: Chùa Thiên Mụ /

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/22 09:14

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