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フォークランド紛争とは?

フォークランド諸島の位置。アルゼンチン沖、南米大陸南端から500km沖に位置する。
フォークランド諸島は、東西の主要2島と多数の小島からなる。

フォークランド紛争(フォークランドふんそう、: Falklands War/Conflict/Crisisスペイン語では「マルビナス戦争」(西: Guerra de las Malvinas))は、大西洋イギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争のこと。

日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い。英語圏では「Falklands War(フォークランド戦争)」とも呼ばれる。ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「Falklands Conflict(フォークランドの争い)」の語を用いている。

概要

1982年3月19日アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと伴に、3月28日には、アメリカ合衆国連邦政府へ支援を要請、アメリカ軍アメリカ海軍原子力潜水艦派遣を決定した。

4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻してきた。4月25日には、サウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。しかしアルゼンチン軍は航空攻撃でイギリス海軍艦船を次々と撃沈するなど優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカ合衆国EC及びNATO諸国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて情報戦を有利に進め、アルゼンチンの海軍戦力を足止めさせるなど徐々に勢いを削いだ。6月7日には、フォークランド諸島にイギリス軍地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。

フォークランド紛争は、第二次世界大戦以降の西側諸国近代化された軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカフランスベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。

両国の国交が再開され、戦争状態が正式に終結したのは、1990年2月5日だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。

フォークランド問題の起源

フォークランド諸島の発見とイギリスの実効支配

最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。ヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年ポルトガルマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている。

同地は大西洋太平洋を結ぶマゼラン海峡ビーグル水道に近く、パナマ運河開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。1764年、フランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。当時、北米植民地の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け、1774年にはスペインの領有権が一時的に確立した。しかし1833年には、イギリスが派遣したスループ「クレイオー」によって無血占領に成功 (Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)) 、以後、実効支配を進めたことで、長らくイギリスの海外領土(属領)とされてきた。

アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始

1810年五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年アルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。1820年代には領有・課税宣言やアメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年シスプラティーナ戦争で忙殺されたほか、その後も大英帝国非公式帝国として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた。

その後、1929年の世界恐慌を経て、「忌まわしき十年間」にはナショナリズムが台頭し、第二次世界大戦後の1946年には左翼民族主義者フアン・ペロンが大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。このペロンが下野した後、ペロン派都市ゲリラと軍部、政党との間で衝突が続き、1960年代には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度のインフレに見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた。

この国民の不満をそらすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった。

しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。保守党ヒース政権は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった。

1967年3月にイギリス外務省が作成したメモランダムでは、「島民が望めば」という条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた。

諸島返還交渉の停滞と挑発行為

1975年、キャラハン外相の依頼を受けて、リオ・ティント社の重役でもあるエドワード・シャクルトン貴族院議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、自給自足に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万ポンドという莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した。

シャックルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日、イギリスの南極調査船「シャックルトン」 (RRS Shackleton) が南緯60度線近くのアルゼンチンの排他的経済水域で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、国防省は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」 (HMS Endurance) と海兵隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた。

同年のクーデターで権力を掌握したホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領サウスサンドウィッチ諸島南端の無人島、南チューレに無断で上陸し、アルゼンチン国旗を掲げる事件が発生した。イギリスの合同情報委員会(JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した。

1977年11月に合同情報委員会が作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「ドレッドノート」とフリゲートアラクリティ」「フィービ」および支援艦艇を派遣する (Operation Journeyman) ことを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について秘密情報部長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては、不明である。一方、イギリス側は交戦規定の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された。

リース案の検討と拒絶

1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相は外交経験がなかったことから、老練なピーター・キャリントンを外務大臣に迎えた。当時、外務連邦省と国防省では、南チューレ上陸事件への対応を踏まえて、任務部隊を諸島に常駐させるという「フォークランド要塞化」案を検討していたが、これにはかなりの財政的負担が伴うことから、キャリントン外務大臣およびリドリー外務閣外大臣は、名目上の主権をアルゼンチン側に委譲したうえで諸島をイギリスが借り受ける「リース案」を腹案としていた。1980年8月25日には、この案を携えたリドリー外務閣外大臣がアルゼンチンのカヴァンドーリ外務副大臣と会談し、おおむね好意的な反応を受けた。

しかしサッチャー首相は、国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていたのに対し、島民は自分たちが「イギリス国民」であることに固執しており、リドリー外務閣外大臣は11月22日にスタンリーを訪問して400名の島民と討論を行なったものの、惨憺たる結果となった。またイギリス側は議会への通知を後回しにして交渉を進めていたところ、マスコミにすっぱ抜かれて周知の事実となってしまったことで、議会も態度を硬化させてこの案を拒絶した。

アルゼンチンからの警告と情勢判断

アルゼンチン側は、イギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また1981年12月8日に新大統領に選出されたレオポルド・ガルチェリ大将は、翌年には陸軍司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた。

1981年当時、イギリスでは国防政策見直しの作業が進められており (1981 Defence White Paper) 、トライデント潜水艦発射弾道ミサイルの予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や空母インヴィンシブル」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将 (Jorge Anaya) は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将 (Juan Lombardo) に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された。

1982年1月27日、アルゼンチン外務省はイギリスに対して、主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、2月27日にはニューヨークで会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、3月1日、「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した。

これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、3月9日に開催された合同情報会議では、外交交渉が続いている限りアルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。ブエノスアイレス駐在のウィリアムス大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった。

サウスジョージア島上陸

詳細は「サウスジョージア侵攻#不穏な動き」を参照

3月19日、アルゼンチンのくず鉄回収業者、コンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウス・ジョージア島のクリトビケンに上陸した。これは旧捕鯨施設解体のためであり、この解体自体はイギリス政府との契約に基づくものであったが、上陸のための事前許可をサウスジョージア民政府から得ていなかったうえに、作業員のなかにアルゼンチン軍人が紛れ込んでおり、上陸すると、アルゼンチン国旗を掲げた施設を設置し始めた。

イギリス外務連邦省はアルゼンチン外務省に抗議するとともに、氷海警備船「エンデュアランス」に海兵隊員22名と軍用ヘリ「ワスプ」2機を乗せて同島海域に派遣したが、これに対抗して、アルゼンチン海軍もコルベット2隻を派遣した。アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、「エンデュアランス」をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するかという根本的な方針を定めないまま「エンデュアランス」を派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった。

3月23日、イギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとして、サウスジョージア島からアルゼンチン軍部隊が速やかに退去すれば外交交渉で妥協する用意があることを緊急に伝えた。しかしこの譲歩は既に手遅れであった。同日、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまっており、その上で部隊を撤収させた場合はイギリス側の恫喝に屈したことになるため、強硬派のガルチェリ大統領にとって、もはや受け入れがたい選択となっていた。

3月26日、アルゼンチンのコスタ=メンデス外相は、サウスジョージア島に上陸したアルゼンチン人同胞の保護のために海軍砕氷艦「バイア・パライソ」(ARA Bahia Paraiso)を同地に派遣しており、必要に応じてあらゆる措置を講ずる用意がある由を発表した。同艦から海兵隊員がサウスジョージア島リース港に上陸するに及んで、イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した。

開戦前夜におけるイギリスの情勢誤認

このように情勢が加速度的に悪化しているにもかかわらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は、3月22日になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。3月28日には、政府通信本部(GCHQ)により、アルゼンチン海軍の潜水艦「サンタ・フェ」がフォークランド諸島沿岸に派遣されていることが傍受されたものの、同日、アルゼンチン海軍総司令官アナヤ大将が「サウスジョージア島でアルゼンチン人が殺害されない限りフォークランドには手を出さない」と発言したこともあって、この情報の重要性は十分に認識されなかった。

3月31日の時点においてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。しかし同日、GCHQは、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対してすべての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した。

事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。サッチャー首相はアメリカ合衆国に事態収拾の仲介を要請しており、4月1日レーガン大統領はガルチェリ大統領に対する説得工作を行っていることとアメリカの立場がイギリス寄りであることを伝えたが、ガルチェリ大統領との連絡は困難であった。駐アルゼンチンのアメリカ大使が既にガルチェリ大統領と面会していたが、大統領は「何を言っているのか全く訳がわからない」状態であった。ワシントン時間で4月1日午後8時半頃、レーガンはようやくガルチェリと電話で話すことができたが、侵攻を思いとどまるよう説得するレーガン大統領に対し、ガルチェリ大統領は自分たちの大義について演説し始める始末であり、説得は失敗であった。

このような外交的手段と並行して、イギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していた。3月29日には、物資と海兵隊員200名を乗艦させたフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」が急派された。また4月1日には原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」も派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート艦「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになった。海軍は、今後も増派を続けるのであればこのような五月雨式の派遣を続けるべきではないと考えており、第一海軍卿リーチ提督は、空母機動部隊の編成を上申した。これを受けて、3月31日の時点で、サッチャー首相は任務部隊の編成を下令していた。しかしこれら先遣隊の到着は4月13日前後、そして空母機動部隊の出港も4月5日の予定であった。

これに対し、アルゼンチンにおいては、3月26日の時点で、軍事評議会によってフォークランド諸島侵攻に関する最終的な決断がくだされていた。現地時間4月1日19時、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動、同日23時、最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した。

アルゼンチン軍の侵攻

作戦計画の立案と前倒し (1981年12月-1982年3月)

上記の通り、フォークランド諸島侵攻作戦の具体的な計画作成は、1981年12月15日、海軍総司令官アナヤ大将から海軍作戦部長ロンバルド中将への下令を端緒とする。この際、アナヤ大将の指示は「マルビナス諸島を奪回せよ。しかしそれらを確保する必要はない」というものであり、イギリスの反撃は予期されていなかった。1982年1月中旬より、陸軍・空軍も加えて統合作戦計画作成が着手された。

この時点では、作成完了時期は9月15日とされており、その前に何らかの動きを取ることは考慮されなかった。これは真冬の過酷な天候が終わる時期であり、年初に招集されたアルゼンチン陸軍の徴集兵の訓練も進展しており、海軍航空隊にはシュペルエタンダール攻撃機エグゾセ空対艦ミサイルの配備が進み、またフォークランド周辺にイギリス海軍が有する唯一の軍艦である氷海警備艦「エンデュアランス」も解役されているはずであった。上陸部隊としては海兵隊第2歩兵大隊が選定され、2月から3月にかけて、フォークランドに地形が似ているバルデス半島で数回の上陸演習を行った。基本的な上陸計画は3月9日に軍事政権の承認を受けて、9月までかけて作戦計画は準備されるはずだった。

しかし3月下旬、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸を巡り、情勢は急激に緊迫し始めていた。3月23日、アルゼンチン政府は、イギリスによる業者の退去を阻止するためサウスジョージア島に兵力を送るとともに、この危機を口実にフォークランド諸島を占領することを決心し、侵攻計画の立案グループに対して、計画をどの程度前倒ししうるかを諮問した。3月25日、ロンバルド中将は、同月28日に出港してフォークランド上陸は4月1日であると回答した。軍事政権はこの回答を承認し、ただちにフォークランド上陸作戦とサウス・ジョージアへのさらなる兵力増強の準備に取りかかるよう命令した。

フォークランド諸島侵攻 (3月28日-4月1日)

ロザリオ作戦の経過。
詳細は「フォークランド諸島進攻」を参照

双方の態勢

アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り、海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で奇襲攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた。

イギリス側では、ちょうど同地の警備にあたる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付武官の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた。

特殊作戦上陸中隊の錯誤

3月28日、アルゼンチン軍侵攻部隊が出航した。当初計画では3月31日から4月1日の夜間に上陸する予定であったが、荒天のため24時間延期された。4月1日、フォークランド諸島総督レックス・ハント卿は、アルゼンチンの侵攻が迫っていることを本国より通知されて、これを島民に向けてラジオ放送した。これにより、アルゼンチン側は、既に戦術的奇襲が成立しなくなっていることを悟った。

4月1日21時30分(以下特記無い限りタイムゾーンはUTC-4)、ミサイル駆逐艦「サンティシマ・トリニダド」より、特殊作戦上陸中隊92名がゴムボート21隻に分乗して発進した。これらの部隊は二手に分かれ、サバロツ少佐に率いられた76名はイギリス海兵隊兵舎を、またヒアチノ少佐に率いられた16名は総督公邸を目指した。一方、イギリス側は、停泊中の民間船の航海用レーダーで港を見張っており、2日2時30分には、これらのアルゼンチン艦艇の動きを把握していた。また監視哨からも報告が相次ぎ、4時30分、ハント総督は緊急事態を宣言した。

アルゼンチン側の計画では、イギリス海兵隊が兵舎で就寝中のところを奇襲し、死傷者を出さずに制圧することになっており、サバロツ少佐はこれに従って催涙弾を投げ込んだが、実際にはイギリス海兵隊は既に全員が戦闘配置に就いており、兵舎はもぬけの殻であった。一方、ヒアチノ少佐の隊は、急遽この目標に振り替えられたため、総督公邸に関する情報を何も持っていなかった。ヒアチノ少佐は4名の部下を連れて降伏勧告に赴いたが、誤って総督公邸ではなく執事の住居に入ってしまった。そして公邸では、海兵隊員31名と水兵11名、退役海兵隊員1名が自動小銃を構えていた上に、総督付運転手が散弾銃を、そして総督自身も拳銃を構えていた。誤りに気づいて出てきたヒアチノ少佐たちに銃撃が浴びせられ、ヒアチノ少佐は戦死、1名が負傷して、降伏勧告に向かった全員がイギリスの捕虜となった。指揮官を失ったアルゼンチン側は次の動きを決められず、事態は膠着状態となった。

本隊の上陸とイギリス軍の降伏

一方、アルゼンチン軍本隊では、まず4時30分、潜水艦「サンタ・フェ」より水中障害破壊部隊のダイバーたちが出撃し、偵察を行うとともに、水陸両用車のための誘導灯を敷設した。続いて6時、戦車揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」よりLVTP-7装甲兵員輸送車およびLARC-5貨物車に分乗した海兵隊第2歩兵大隊が出撃し、母艦からの誘導に従って岩礁を迂回したのち、誘導灯に従って無事上陸した。上陸すると、まずスタンリー空港を確保し、イギリス側が滑走路に設置した障害物を撤去したのち、スタンリー市街に向けて前進していった。

7時15分にはイギリス海兵隊の小部隊による妨害攻撃が行われたものの、双方とも戦死者はなく、8時には市街を掌握した。既に海兵隊の砲兵部隊や予備隊も上陸し、スタンリー空港には増援の陸軍部隊を乗せた航空機が着陸し始めていた。イギリス側が保持している施設は総督公邸のみとなっており、ハント総督は、島民と軍人へ不必要な生命の損失を与える徹底抗戦を避けて交渉することにした。9時25分に武装解除が命令されて、フォークランド諸島における戦闘は一旦停止した。

サウスジョージア島侵攻 (3月24日-4月3日)

詳細は「サウスジョージア侵攻」を参照

双方の態勢

アルゼンチンは、サウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた。

サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉 (Keith Mills) 指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、グリトビケンのイギリス南極探検隊 (British Antarctic Survey) の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた。

サウスジョージア島占領

4月2日12時25分頃、グリトビケンのあるカンバーランド湾に「バイア・パライソ」が侵入してきた。本来、この日にサウスジョージア島への侵攻作戦も実施される予定であったが、極度の悪天候のために断念し、無線で「明朝もう一度来て通信する」と通告して去って行った。4月3日の夜明けには天候も回復しており、6時30分には再び来航した「バイア・パライソ」からのVHF通信で降伏要求がなされた。この間、アルゼンチン軍は、まずピューマ・ヘリコプターの

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出典:wikipedia
2020/02/28 05:11

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