このキーワード
友達に教える
URLをコピー

フォード・モデルTとは?

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2009年6月)
【フォード・モデルT】

フォード・モデルTラナバウト(1911年以前の最初期型)
フォード・モデルT(1915年型、元はラナバウトと思われる)
フォード・モデルTツーリング(1927年型)

【販売期間】
1908年–1927年
乗車定員
2/4人
【ボディタイプ】
4座ツーリング
2ドアカブリオレ/セダン
4ドアカブリオレ/セダン
(ほかバリエーション多数)
【エンジン】
水冷直列4気筒3ベアリング式、サイドバルブ(Lヘッド)
【駆動方式】
FR
変速機
足動マニュアル2速
【先代】
フォード・モデルN/S/R
【後継】
フォード・モデルA(2代目)
-自動車のスペック表-

フォード・モデルT (Ford Model T) は、アメリカ合衆国フォード・モーター社が開発・製造した自動車である。

アメリカ本国ではティン・リジーなどの通称があるが、日本ではT型フォードの通称で広く知られている。

1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した。

基本構造自体、大衆車として十分な実用性を備えた完成度の高い自動車であり、更にはベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車という点でも重要である。

自動車技術はもとより、「フォーディズム」の語に象徴されるように労働経済文化政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越して、20世紀前半の社会に多大な足跡を残した存在である。

歴史

モデルTの出現まで

モデルT以前

1896年に、自力で最初のガソリン自動車を開発したヘンリー・フォードは、1899年に新たに設立されたデトロイト・オートモビル社の主任設計者に就任するも、出資者である重役陣との対立で1902年に退社した。その後任には精密加工の権威であるヘンリー・M・リーランドが就任し、社名をキャディラックと変更している。

ヘンリー・フォードは1903年に自ら社長を務める新自動車会社フォード・モーター社を設立、デトロイトに最初の工場であるピケット工場を開設した。

その初期には、車体中央部床下に2気筒エンジンを搭載してチェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる種類の小型車を生産していた。当時のアメリカの道路は悪路が多く、ヨーロッパ車に比べて洗練されていない形態の「バギー」型車の方が、かえって実情に即していたからである。1903年の「モデルA」、1904年の「モデルC」、1905年の「モデルF」が「バギー」にあたる。

しかし、程なく本格的な自動車が求められるようになったことから、1905年の「モデルB」では、フォードの量産車としては初めて直列4気筒エンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトで後輪を駆動するという常道的なレイアウトに移行した。1906年には出資者であるアレグザンダー・マルコムソンらの意向で、大型の6気筒40HP高級車「モデルK」も開発したものの、生産の主流とはならなかった。フォード社は、当時からあくまで小型大衆車生産に重点を置いて活動していた。

モデルNの成功

1906年末には「バギー」モデルFに代わる本格的な4気筒の小型車「モデルN」を発売した。2気筒12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対し、4気筒17HPのモデルNは、量産段階におけるコストダウンが図られ、半値の500ドルで販売された。まもなく派生型として「モデルR」「モデルS」も開発されている。

モデルNはごく廉価で性能が良かったため売れ行きが良く、その成功は予想以上であった。このため部分的な流れ作業方式の導入が図られ、工場の拡張も進められたが、それでも生産が需要に追いつかなかった。

当初から量産を考慮して開発されたモデルNシリーズであったが、更なる需要に応じるには既存の体制では限界があり、フォードは生産性の根本的な向上を図ることを迫られた。そこで、モデルNの設計から多くを参考にしつつも、全体を一新して性能を向上させ、なおかつより大量生産に適合した新型車の開発を1907年初めから開始した。これがのちのモデルTである。

モデルTの開発

当時のフォードにおける先進性として、部品互換の達成が挙げられる。1900年代の自動車の多くが、個別部品の均一な加工精度確保に難があり、最終組立段階での手仕上げによる調整を強いられていた中、フォード社はこの時点で、既に先行するキャディラックのヘンリー・リーランドの流儀に倣い、マイクロゲージを基準とした規格化によって部品互換性を確保していた。ここではミシンメーカーであるシンガー社出身で、フォードのプロダクションマネージャーに短期間ながら就任していたウォルター・フランダース (Walter.E.Flanders) が重要な働きを行っている。部品互換の実現は大量生産の大前提であり、フォードはこの点で大衆車業界での競合他社に一歩先んじていた。

一方これと同じころ、冶金学の研究が進んでいたイギリスにおいて、新種の高速度鋼バナジウム鋼」が開発された。従来の鋼材に倍する張力を備えながら、軽くてしかも高速切削加工が可能という、自動車用の素材として理想的な材質である。ヘンリー・フォードはこれを知り、新型車にバナジウム鋼を多用して生産性向上と軽量化を図ることにした。

モデルTの開発作業は、1907年初めから開始された。ヘンリー・フォード自身をチーフとし、C.ハロルド・ウィリス (Childe Harold Wills)、チャールズ・ソレンセン (Charls Sorensen) など、社内でも限られたスタッフのみによって、極秘に進行されることになった。

作業にはピケット工場内の個室を特に充て、ヘンリーの指示に基づいてハンガリー出身のジョセフ・ガラム (Joseph Galamb) が作図を行い、別室では19歳の機械工チャールズ.J.スミス (Charles.J.Smith) が実際の部品製作に当たった。ヘンリーはしばしば長い時間揺り椅子にもたれつつ、部下に指示を行ったという。実験段階における初期の試験台には、実績のあるモデルNシャシーが利用された。

モデルTの成功

発売

1910年式モデルT・ツーリング。初期の典型的なモデルTである

モデルTは1907年10月に最初のプロトタイプ2台が完成、翌1908年3月に発表されたが、市販開始は同年10月からとなった。デトロイトのピケット工場で最初の市販モデルTの1台がラインオフしたのは、1908年9月27日のことである。

モデルTは、当時のアメリカにおいて小型車カテゴリーに当たるクラスで、最初600ドルの格安価格での販売を計画されていた。だが実際にはコストダウンが追いつかず、モデルNよりやや上級のクラスとして850ドル以上の価格で発売された。それでも同クラスの自動車が1,000ドル台の価格帯であっただけに非常な好評で、翌1909年4月までには3か月分のバックオーダーを抱えることになり、7月までの受注停止を強いられた。1909年の1年間だけでも1万台を越えるモデルTが生産され、当時としては桁外れのベストセラーとなった。

この大ヒットに直面したヘンリー・フォードは、並行生産していた小型車モデルN、R、Sや高級車モデルKの生産を停止し、モデルTただ1種に絞り込んだ大量生産を決断した。

以後のモデルTの歴史は、モデルTという単体の自動車自体の発展以上に、大量生産技術の発展の歴史であった。ヘンリー・フォードと彼のブレーンたちは、モデルTという元々完成度の高い実用大衆車を、速く大量に効率よく、そしてより廉価に供給することを目的に活動した。

フォード社は販売後のサービス体制にも配慮を怠らなかった。アメリカ全土で広域に渡るサービス網を整備し、補修パーツがストックされるデポを各地に設置した。モデルTは元々タフで故障も少なく、造りがシンプルで素人にも整備しやすかったが、アフターサービスの充実は、ユーザーからの信頼をより高める結果になった。初期モデルTの「Ford, the universal car(万能車フォード)」「Watch the Fords go by(フォードのやり方を見よ)」といった宣伝フレーズからも、ヘンリー・フォードがモデルTに抱いていた大きな自負をうかがえる。

1910年、ピケット工場に代わる主力生産拠点として、当時世界最大級の自動車工場であるハイランドパーク工場が、デトロイト郊外に完成した。60エーカー(=24ヘクタール)の面積を取った明るい工場は、大出力ガスエンジンと電気モーターを動力源に用いた近代的生産設備を備えていた。このころフォードでは、部品の大規模な内製化を始めた。外注部品の供給状況によって生産効率が左右され、ひいてはコストが上昇することを、ヘンリー・フォードが嫌ったためである。

モデルTは1912年型から生産性を高めるため、従来3種類から選択できたボディ塗色を、黒のエナメル塗り1色のみに絞り込んだ。黒塗りを選んだのは、黒塗装が一番乾きが早く、作業効率が良かったからである。

このころのフォード車=すなわちモデルTの販売台数の伸びはすでに著しいものがあった。増産体制が強化され、1912年には月産1万台を超えた月は4月と12月だけだったが、1913年に入ると1月以降生産台数は毎月1万台を超え、4月から6月にかけては月産2万台を超えた。

流れ作業方式へ

フォードのピケット工場における初期の自動車生産は、基本的には1か所に据えられた自動車シャシーに、各工程を担当する作業員が入れ替わり立ち替わり部品を取り付けていく形態であった。当時はどの自動車メーカーも似たり寄ったりの製造方式を採っていた。生産台数がごく少ないうちはこれでも済んでいたが、フォードのように大規模な量産に取り組む場合、据え置き組立では効率が悪すぎた。

フォードでは既に1908年の時点から、工場内の部品供給・移動の合理化によって生産効率を高める工夫が始められていたが、最後に生産効率改善のネックになってきたのは、組み上がっていく製品を移動させることだった。チャールズ・ソレンセンらフォードのエンジニアたちは、シャシーをソリに乗せて移動効率改善を図ってみるなど試行錯誤を重ねた。一方、複数工程をシンクロナイズして同時進行させ組立効率を高める「ライン同期化」への試みも行われている。

初期のモデルTの生産も、基本的にはモデルNと同様な手法が採られていた。ハイランドパーク工場稼働開始時点でも、フォードの生産方式はまだ従来の域を脱していなかったが、当時のアメリカは労働力不足の状態で、限られた人的資源の枠内で抜本的な変革を行い、生産効率を高めることが早急に求められていた。広大なハイランドパーク工場であっても、シャシー据え置き組立のままで月産2万台からさらに増産を図るには床面積が不足しており、1913年には6階建ての新工場棟、W棟・X棟(1棟のワンフロアあたり34万8,800平方フィート≒32,404.6平方メートル)の増築が行われたが、工場を単純に増築するだけで生産性が高まるわけではなかった。

フォードが本格的な流れ作業方式を導入したきっかけについては、「シカゴの食肉処理工場(缶詰工場という異説もあり)での実例を見たヘンリー・フォードの発案」という俗説があるが、実際にはそのように単純なものではなく、フランダースやソレンセンらによる数年間に渡っての試行錯誤の結果、ハイランドパークへの生産移行後に満を持して徐々に導入を始めたのが実情のようである。流れ作業という生産手法自体はフォード以前から存在していたのであるが、俯瞰的な視点から大規模な流れ作業システムを構築し、それら複数を連動して機能させるようにしたことが、フォード社の画期的な功績であった。

本格的な流れ作業導入の最初はエンジンのフライホイールだった。1913年4月時点で、モデルTのマグネトー組込式フライホイール生産は、一人の作業員が全行程を専属で行った場合、1個あたりの完成まで20分を要した。ベルトコンベアの流れ作業方式による分業体制を用い、各工程で作業員の動きに無駄の生じないポジションを取らせるなどの対策を採ると、フライホイール1個の完成所要時間は13分に減少し、更なる改良で1914年には、フライホイール1個を5分で組み立てられるようになった。前年の4倍の効率である。

この手法で、他の工程についても同様な分業による流れ作業方式を導入していった。1913年8月からシャシー組立のベルトコンベア方式切り替えを開始、同年11月からはエンジンについても同様にライン生産化に取り組み始めた。

フォード・システム

1913年-1914年頃のハイランドパーク工場におけるモデルTのボディとシャシーの架装ライン光景。立体化まで駆使した量産ラインの先駆例として引用される事の多い映像である

個別作業ごとの標準作業時間と手順が定められ、実験中にはヘンリー・フォード自らストップウォッチを手に作業員の動きを注視したという。結果として生産過程では、フレデリック・テイラー (Frederick Winslow Taylor 1856-1915) が提唱した科学的生産管理法「テイラー・システム」がいち早く実現されることになった。しかし、フォード自身はのちに「我々自身の研究の結果であって、テイラーの構築した手法を意識して導入した訳ではない」とコメントし、テイラーとの関係を否定している。

複雑な作業工程も、要素ごとに分解すればほとんどが単純作業の集積であり、個々の単純作業は非熟練労働者を充てても差し支えなかった。作業工程はベルトコンベアによって結合され、熟練工による組立よりもはるかに速く低コストで、均質な大量生産が可能になった。

1914年には、ハイランドパークでのモデルT量産手法はかなり高度な段階に達していた。流れ作業方式による複数の製造ラインを完全にシンクロナイズし、最終組立段階で合流させて計画通りの完成品とする生産システムが、完全に実現した。「フォード・システム」と言われる能率的な大量生産システムの具現化であった。

シャシーを1階で、ボディを2階でそれぞれ組立て、二階建てラインの末端でスロープを使ってボディを下ろし、シャシーに架装するというハイランドパーク工場の生産光景は、写真等でよく知られるが、この2階建てラインは1914年から見られるようになったものである。

1908年の製造開始当初、1台当たり14時間を要したモデルTシャシーの組立所要時間は、1913年からのベルトコンベア化とその後の改良で、1914年4月には1台当たり1時間33分にまで短縮されたと伝えられる。

1917年には更なる大工場、リバー・ルージュ工場の建設が始まった。自前の製鉄所まで備えた広大な工場敷地内では、鋼材に至るまでの一括内製が行われ、膨大な台数のモデルTを均質に量産できる体制が整えられたが、この工場が本格稼働するのは1920年代以降である。

モデルTの最盛期

日給5ドル宣言と労働者の実情

ヘンリー・フォードが"日給5ドル"宣言を行ったのは1914年である。単純労働者でもある程度継続して勤務すれば、当時の賃金相場(従来のフォードでの最低日給は2ドル台)の2倍程度に値する日給5ドルを支給するという、驚くべき爆弾宣言であった。

当時、熟練労働者の存在価値が低下しつつあったフォード社では、特に熟練層からの不満が高まり、離職率も高くなっていた。そこでフォード社の営業担当者だったジェームズ・クーゼンスが、労働者の定着率向上のために待遇改善を提案したところ、ヘンリー・フォードはワンマン経営者らしく、さしたる数値の裏付けもないまま大盤振る舞いを決定した。

日給5ドルは年収なら1,000ドル以上になり、当時、モデルT1台を購入してもなお労働者の一家がつましい生活を送りうる水準である。当然ながらフォードの工場には就職を希望する労働者が殺到した。

だがその高給は、生産ラインでの単調な労働に耐えることの代償だった。生産ラインを着実に動かすことが優先され、工場の稼働時間中、労働者は生産ラインの進行ペースに遅れることなく、刺激を伴うことのない単調な作業を休みなく続けなければならなかった。フォード工場の労働者はむしろ通常の工場労働以上に、肉体面・精神面での著しい負担を強いられることになった。

このため実際には5ドル支給時期に達する以前に職を辞する未熟練労働者も多かったが、退職者が生じても「日給5ドル」に惹かれる新たな就職希望者は後を絶たなかったため、既に単純労働の膨大な集合体と化していたフォードの生産体制に支障は生じなかった。

モデルTの大量生産の裏面には、このように過酷な現実があった。流れ作業方式は、のちにはチャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936)などで諷刺され、人間を生産システムの一部として機械同然に扱う非人間性の象徴ともされるようになる。そしてフォード社は、労働者らによる労働組合運動に対しては、デトロイトの自動車メーカー各社の中でも、とりわけ冷淡かつ暴力的な手段で厳しく対処したのである。

モダン・タイムス

その一方、流れ作業方式に代表される大量生産システムの発展によって生産効率が著しく高まったことで収益が増大し、非熟練労働者にも給与の上昇という形で還元されるようにもなった。可処分所得の大きくなった少なからぬ労働者がフォード・モデルTを所有するに至った。それは労働者階級を含む巨大な大衆層を担い手とした大量生産・大量消費時代の先触れであった。

未曾有の量産記録と低価格化

1924年、フォード車生産累計1000万台達成時の記念写真。ヘンリー・フォードの両側に、1896年の最初のガソリンエンジン試作車と、1000万台記念のモデルTが並ぶ。このときモデルTの生産ペースは絶頂期にあった

モデルTの年間生産台数は、1910年の1万8,600台強から、1年で50%から100%の割合で爆発的に激増した。

イギリスでの組立が始まった1911年、年間生産台数は3万4,500台以上であった。ハイランドパーク工場で流れ作業方式が開始された1913年には年間生産台数は16万8,000台以上となる。1916年には53万4,000台弱に伸び、1919年のみ第一次大戦後の終戦不況の影響で生産量が減ったほかは、年々増加した。

1921年には年間生産台数は99万台弱を生産し、翌1922年には121万台を超えて100万台オーバーの大台に達した。そして1923年には、1年間で205万5,300台以上を生産してピークに達する。その後、減少傾向を辿るものの、生産中止前年の1926年時点においても1年間で163万台弱のモデルTが生産されていたのであるから、いかに圧倒的な生産体制であったかが推し量れる。一時、アメリカで生産される自動車台数の半分以上がフォード・モデルTだった。

この膨大な規模の大量生産体制によって、モデルTの価格はひたすら下がり続けた。

(例)標準的な幌付きのツーリングモデル
1910年にいったん950ドルに値上げされたが、翌1911年には780ドルへ下がり、その後は年に50ドルから100ドルの割合で値下げが繰り返された。1913年には600ドル、1915年は490ドル、1917年には360ドルまで価格が下がった。さらに翌1918年にはアメリカの第一次世界大戦への参戦の影響を受けて物価は上がり、モデルTも物価上昇に併せて525ドルに値上げしたが、以後は再び値下げが進み、1922年には355ドル。そして1925年にはついに290ドルという法外なまでの廉価になった。これは、インフレーションを考慮して換算した場合、2005年時点における3,300ドル相当である。

モデルTTの開発と商用・農業分野への事業拡大

モデルTのシャーシ後部を、オープンタイプの荷台、またはクローズドタイプの荷室とした小型トラック的モデルは、モデルTの普及途上で、早い時期から市場での改造で出現していたが、元来小型軽量であったモデルTではヘビーデューティな用途に適さないきらいもあった。

これに対しフォード社はより本格的な商用モデルを公式に供給するため、1917年、モデルTを元に、シャーシとスプリングを強化してロングホイールベースとし、ウォームギア駆動の低速ファイナルギアを備えたコマーシャルシャーシ版の派生型「モデルTT」を開発、市場投入した。TTにはモデルT同様の大量生産手法が活用され、また特にコストのかかるエンジンと変速機についてモデルTと互換仕様とし、量産効果を高めたことで、先行各社の同級のコマーシャルシャーシに対して競争力のある価格が打ち出せた。

1トントラックシャーシとして設計されたTTは速度こそ遅かったが、モデルT同様の頑丈さと扱いやすさを兼ね備え、フォードは商用車部門でもシェアを一挙に獲得した。市場のボディメーカーの手で様々な用途の貨物用ボディを架装され、貨物用に留まらず小型バス等のベースとしても汎用に利用されて、1927年にモデルTと共に製造が終了するまでに、のべ150万台が生産される成功を収めている。なおモデルTの生産台数1,500万台には、一般にこのTT系の生産台数も算入されている。

並行して、ヘンリー・フォードは宿願である農業機械化のためにトラクター量産化にも乗り出していた。フォード・モーターからは別会社として設立されたヘンリー・フォード&ソン(Henry Ford & Son Inc 1920年にフォード・モーターに合併)では、1916年に20HP級の「フォードソン・トラクター・モデルF(Fordson Tractor model F) 」を開発した。ガソリン・ケロシン両用の直列4気筒エンジンブロックと後部ギアボックスユニットを結合し、フレームレス一体シャーシとして機能させるその画期的レイアウトは、その後世界各国の内燃機関トラクターの範となった。モデルFは1917年からやはり大量生産方式による低価格で市販され、内燃機関トラクターとして史上初の商業的ベストセラーとなった。

このように1910年代のヘンリー・フォードは大量生産技術を駆使し、大衆車・商用車・農業トラクターという、それぞれに未開の巨大需要を擁していた市場の開拓・制覇に成功し、一代で企業帝国を築き上げた「自動車王」として世界的な著名人となった。その莫大な資金力によって、1922年には経営難に陥った高級車メーカー・リンカーン・モーター・カンパニーを救済買収、自社傘下に収めている。

衰退期

前時代化へ

ヘンリー・フォードは1920年代に入っても、自らの製品をより廉価に、より大量供給する生産システムの革新にひたすら邁進したが、いったん完成した製品そのものの革新には無関心であった。ヘンリーは「モデルTは既に完成した『完璧な製品』であり、代替モデルを開発する必要はない」と頑なに信じ込んでいた。そのため、モデルTは小改良を加えられるだけで長く抜本的なモデルチェンジを施されなかった。

ヘンリーの息子エドセル・フォードは、1919年にフォード社社長に就任したが、叩き上げの父ヘンリーと違って高等教育を受けたインテリで、幼少期から自動車に親しみ、自動車技術の改良発展やカーデザインのあり方に対して優れた見識を身に付けていた。エドセルはフォード社の経営を広い視野から判断し、1920年代早々の時点で「モデルTには抜本的改革―モデルチェンジが必要だ」と考えていた。またフォード社の中でも将来を見る眼のあった幹部たちや、他社との販売競争にさらされている少なからざる傘下ディーラーも、同様な考えを抱いていた。

エドセルは単なる御曹司ではなかった。社長就任から程なくフォード社が買収したリンカーンを立て直すため、名門コーチビルダー架装のボディを載せて高級車市場にアピールする策で商業的成功を収めている。さらに後年、リンカーン・ブランドでは流線型の量産型高級車「ゼファー」を1935年に、さらにそれをベースとして史上屈指の美しい自動車と言われる高級パーソナルカー・初代リンカーン・コンチネンタルを1939年に生み出し、並行して1938年には新たな中級車ブランド「マーキュリー」を立ち上げてフォード社で長年手薄だった中級車部門拡充を成功させるなど、エドセルには先を見据える着実な手腕があった。ヘンリー・フォードも高級車部門の運営は早くからエドセルに委ねるようになっていった。

だがエドセルをフォード社社長職に据えたのも名目のみで、なお会社経営の実権を握り続けるヘンリーは、フォード・ブランドの大衆車生産では周囲の忠告や意見にも一切耳を貸さず、モデルTの継続生産にこだわり続けた。その実、モデルTの問題点は時代の変化に伴って顕在化しつつあった。

性能低下

モデルT自体のもたらした自動車の大量普及によって、アメリカでは道路整備が進展し、舗装道路も年々増加していた。それはとりもなおさず自動車の高速化と、エンジンの高馬力化を招いた。しかし道路のほとんどが未舗装であった時代に基本設計されたモデルTは、ロードクリアランスが高くとられて腰高であり、またそのシャシーも、軽量車体を未舗装路で低速走行させるには適当であったが、重量のある車体を高速走行させるには不適合であった。

1920年代、高性能車は6気筒から8気筒、12気筒といった多気筒エンジンを搭載するようになり、最高速度は70 - 80マイル/hに達するようになった。4気筒大衆車でも性能向上で55 - 60マイル/hに達するものは珍しくなくなっていた。これに対し、モデルTの速力は40 - 45マイル/hがせいぜいであった。

加えて装備品の充実に伴い、車重が増加しはじめた。基本モデルのツーリング型で1908年当初1250ポンド(545kg)であった車重は、電装部品の追加装備や内外装のグレードアップで年々増加し、1916年型で1400ポンド、1918年型で1500ポンド、1923年型で1650ポンド、1926年型では1728ポンドにも達した。

さらに第一次世界大戦後には、屋根付きのクローズド・ボディが市場の主流となっていく。モデルTのクローズド・ボディモデルは、オープンボディのツーリング型に比べ重量が200 - 300ポンドも増加したが、エンジンは一貫して20HP変速機も2段式のままであり、ドライブトレーンの性能が車重に釣り合わなくなっていった。

1920年代、「ティン・リジー(モデルT)は絶対に追い越せない。なぜなら何台追い抜いても、先に別のT型が走っているからだ」と言うジョークが生まれたが、台数の多さと同時に、極め付きの鈍足であったことをも物語っている。

経営・販売戦略の立ち後れ

シボレー シリーズ490(1918年)。車名は当時の販売価格が490ドルであったことから。モデルTの遊星ギアに対して3段ギアボックス、更にOHVエンジンを搭載

また、モデルTはボディ形態のバリエーションは非常に多かったものの、どれも実用を第一としたエナメルの黒塗り一色であり、後期にはデザイン面での魅力を欠くようになった。ボディデザインもそれなりのアップデートは図られたが、時代遅れの腰高なシャシーでは、時流に即したデザインのボディを架装することも、デザイン上のバランスと技術の両面から容易に叶わなかった。

競合他社は、性能面もさることながら、自動車の「ファッション」としての面をも重視した。競合メーカーであるゼネラルモーターズ(GM)は、自社の大衆車「シボレー」に多彩な塗装を用意するなどの戦略で、ユーザーにアピールしていた。また、スタイリングにも配慮がなされ、モデルTよりも低重心で、高級車を思わせるデザインが取り入れられて、商品性を高めた。

1923年にGM社長に就任したた辣腕経営者アルフレッド・スローンは、大衆がより上級の商品、より新味のある商品に惹かれることを理解していた。たとえ廉価な大衆車であっても、高級車を思わせる形態やメカニズムを備えることで商品力は高まり、単なる実用車に飽き足りない消費者の関心を惹き付けることができた。

元来、経営危機に陥ったGMの再建に外部からGM入りしたスローンは、企業経営管理に精通したビジネスマンであり、自動車会社経営の最終目的は「自動車を作ること」ではなく「収益を上げること」であると冷徹に見切っていた。スローンは巨大な企業組織をシステマティックに統括する近代的企業経営手法を構築し、綿密な市場調査と生産量のコントロールとを伴った高度な販売戦略を進めることで、GMの着実な利益確保を図ろうとした。この企図は1920年代を通じて着々と成果を挙げていた。

対してヘンリー・フォードは、GM等の手法を批判的に見ていた。ヘンリーはフォード社の専制君主として君臨し、モデルTを安く大量に生産・販売することのみに邁進していた。より安ければ当然よく売れ、またその普及が社会への還元にもなる、という、古い時代の単純素朴な奉仕思想が背景にあった。

また競合他社は割賦販売(分割払い、ローン販売方式)を導入して、収入の限られた人々でも上級モデルを購入しやすくし、販売促進を図ったのに対し、フォードは割賦販売の導入でも出遅れた。農民の家庭に生まれ育ち、家父長主義に代表される保守的倫理観を持っていたヘンリー・フォードが、借金としての一面を持つ割賦販売という手法を、道徳面から好まなかったためである。

だがそのような旧式な方針では、低価格化や収益確保、販売促進の面で、いずれ限界を迎えることは避けられなかった。自動車自体の商品性以外に、経営手法の面でもフォードは時代遅れになりつつあった。自動車市場と経済システムの双方が成熟するにつれ、フォードの姿勢は時代にそぐわなくなっていったのである。

モデルTの退潮

シボレー スペリア シリーズK(1925年)。1927年には生産台数でT型フォードを抜き、世界のベストセラーカーとしての地位を確立

1920年代中期のGMのマーケティング戦略はさらに尖鋭化し、シャシーは前年型と共通でも、ボディデザインに年度ごとの新味を与える「モデルチェンジ政策」を用いて、在来型を意図的に陳腐化させることが行われるようになった。GMが打ち出したこの商品戦略は、競合他社も否応なしに取り入れざるを得なくなり、1970年代までアメリカの自動車は、1年ごとにボディデザインを変化させることが当然となった。

シボレーが年々スタイリングを変化させ、時代の先端を行くデザインで大衆にアピールする一方で、根本的に古すぎ、普及しすぎたフォード・モデルTは、著しく陳腐化した「安物」的存在に堕していった。

モデルTの大量生産によって、1920年代に入るとさほど富裕でない大衆層にまで自動車が普及し、アメリカの大衆車市場はすでに飽和状態になっていた。このため新規需要に代わって、買い換え需要が自動車需要の大方を占めるようになった。

いざ買い換えの段になると、最新型でも旧型とさしたる変化のないモデルTを、好きこのんで乗り換えの対象とするユーザーは多くなかった。初めての自動車がモデルTだったユーザーも、GMなど競合他社の斬新なニューモデルに惹かれ、古いモデルTを下取りに出して他社の新車を購入するようになった。商品性に歴然とした差があったため、ユーザーは100ドル、200ドル程度の価格差はさほど意に介さなかったし、セルフスターターや屋根付きボディなどのオプションが付けば価格差がより縮まるため、モデルTの競争力は削がれた。

モデルTも、1925年からはオプションで競合他社並みのバルーン・タイヤが設定され、1926年には黒以外のボディカラー3色をオプション設定するなど、遅ればせながら対抗策を打ち出したが、より強力なエンジンと、比較的扱いやすいコンスタントメッシュ(常時噛み合い式)の3段変速機、安全性確保に効果のある4輪ブレーキを備えたスマートな競合車が多く出現する中で、非力なエンジンと2段変速機装備で後輪ブレーキのみの鈍重なモデルTは、商品寿命が尽きていることは明白であった。

モデルTの終焉と以後の展開

フォード モデルA(1928年) 横置きリーフスプリング式のサスペンションはT型同様だったが、大幅に近代化され、リンカーン風のスタイルを備えた
シボレー・モデルACインターナショナル(1929年)フォードのモデルAを迎撃するように同級の価格と排気量で1クラス上の6気筒50HPエンジンを搭載、商品力で差をつけた

ここに至ってワンマンのヘンリー・フォードも、ついにモデルTの撤収を決断せざるを得なかった。1927年5月26日、ハイランドパーク工場で1,500万台目のモデルT(ツーリング)が完成した――その日、モデルTの生産は終了したのである。ただし自動車用以外の用途を想定したモデルTエンジンの生産は同年8月まで続行され、T型部品の生産も続けられた。

アメリカ本国及び諸外国で19年間に生産されたモデルTおよびモデルTTの累計生産台数は1,500万7,033台であり、1972年2月17日にフォルクスワーゲン・ビートルが累計生産1,500万7,034台を達成するまで、約44年9か月に渡ってモデルチェンジなしの史上最多量産車の記録を保持した。モデルT4気筒エンジン単体の製品寿命は驚くほど長く、ハイランドパークほかの主力工場が新型車生産体制に移行した後も、実に1941年8月まで産業用エンジンとして生産が続いた。

ヘンリー・フォードはモデルTの製造終了時点まで、後継モデルのことを全く考えていなかった節がある。経営面への影響を考慮すれば異例を通り越して奇怪なまでの無神経ぶりであるが、その結果、同年末近くまで約半年以上、フォードの大衆車の生産自体が途絶することになった。巨大なリバー・ルージュ工場は機能停止し、2億ドル以上とも言われる操業停止コストが発生した。販売店への新車供給は9か月も途絶し、一方的に供給を断たれて経営に窮したフォード系列のディーラーには、フォードとの契約を解除して他メーカーの代理店になる事例が続出したという。

フォードの凋落とGMの首位獲得

フォード社でヘンリー・フォード自らの陣頭指揮により、急ピッチで新車開発が進められたが、新型試作車1号車がようやく完成したのは1927年10月21日(エンジンの完成はその前日)で、その時点でモデルTの生産中止から約5か月が過ぎていた。その後1か月で130台以上の増加試作車を製作しテストするという強行軍の末、1927年12月2日、全米の注目のもとにモデルTの後継車「フォード・モデルA」が発表された。それはモデルTに倍する40HP4気筒エンジンと標準装備のセルフスターター、一般的な手動3段変速機、機械式4輪ブレーキを備えた、モデルT類似だが大幅に強化されたシャシーと、専業ボディメーカーのブリッグスおよびマーレイの架装によるリンカーンの影響が強いボディ(むろん、複数の塗色を選択可能)を持つ、当時の大衆車として一級の水準に達した新型車であった。追ってTTに代わる商用シャーシについても、より商用向けに大型化・重積載特化した4段変速の「モデルAA」が新たに開発され、商用車市場の維持と、エンジン共用による量産効果確保が図られた。

だが、肝心の生産設備が新型車用に切り替えられ、モデルAの本格的な量産が始まったのは翌1928年に入ってからであった。フォード工場のあらゆる生産設備は、それ以前に生産されていたモデルT/TTのために、徹底して最適化されており、大改装を要したからである。GMはこのフォードのモデルチェンジに要した長すぎる間隙を見過ごさず、シボレー車の販売攻勢をかけた。それは他社も同様で、ハドソンの大衆車エセックス、新興のクライスラーが送り出した新ブランドの大衆車プリムスもこの時期大いに伸長した。アルフレッド・スローンは、この長期操業停止がフォード社の「異様な凋落」を招いたと評している。「モデルTを葬った」1927年-28年にフォード社が陥った危機は、一般の企業であれば倒産していたような事態であった。

発表されたフォード・モデルAそれ自体は、堅牢で実用的、かつ市場競争力のある大衆車で、後世からも当時における名作と評価される。GMのスローンも当時「流行に左右されない実用車、というヘンリー・フォードのポリシーを具現化した立派な小型車だと思った」むね後年回想しているが、それはGMの更なる反撃に繋がった。1928年に発表されたシボレー1929年型は中級車同様な直列6気筒エンジンを搭載した画期的モデルで、4気筒のフォード・モデルAをしのぐ性能を達成し、GMは大衆車市場の主導権を引き続き握った。そして1929年以降の大恐慌時代においては、GMが時宜を得た生産調整に早期に踏み切ったことで不況に対処できたのに対し、フォードは生産調整等に類する適切な利益管理手法を怠ったことによって、大きな損失を生じさせる結果となった。

ヘンリー・フォードのポリシーを、現実と妥協しつつもできる限り維持しようとしたモデルAは、実際にはGMが導入していた年次変更の圧力に競争上否応なく同調せざるを得ず、1930年型のビッグマイナーチェンジを経ても、1932年にV型8気筒エンジンを導入した後継車「モデルB」系へ移行するまでの4年間しか生産できなかった。モデルT最盛期のように「良い車を大量に供給する」だけでは、自動車会社(特に大衆車を量産する自動車会社)の経営は成り立たなくなった現実が、冷徹に示されたのであった。

1920年代-30年代、このような推移を経て、アメリカの(ということは、当時においては同時に「世界の」)自動車産業界におけるトップの座は、フォードからGMへ移行し、それは自動車業界の固定したパワーバランスとして長く恒常化した。フォード社はモデルTと共に大きく発展したが、最後にはそのモデルTによってつまずくことになったのである。マスプロダクションの極致を実現したフォードは、やがて大量生産の限界に行き着き、自ら招いた時代の変化に乗じたGMに、企業としての首位を譲らざるを得なかった。その過程は、モデルTの20年に渡る長い生産史から、如実にうかがい知ることができる。

メカニズム

モデルTのカットシャシー(制作時は「切開自動車」と称していた)。1917年式右ハンドル仕様。旧 交通博物館蔵。1920年代-1930年代に東京・田無町(現 西東京市)にあった東京自動車学校で教材として用いられ、1991年に関係者から博物館に寄贈された。現在はトヨタ博物館に貸与され一般公開されている
モデルTの前車軸回り。固定軸を横置きリーフスプリングで支持。前輪ブレーキはない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/04/06 17:57

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「フォード・モデルT」の意味を投稿しよう
「フォード・モデルT」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

フォード・モデルTスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「フォード・モデルT」のスレッドを作成する
フォード・モデルTの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail