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フランクリン・ルーズベルトとは?

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2011年9月)
フランクリン・D・ルーズベルト
Franklin D. Roosevelt



任期 1933年3月4日1945年4月12日
副大統領 ジョン・N・ガーナー (1933-1941)
ヘンリー・A・ウォレス (1941-1945)
ハリー・S・トルーマン (1945)

任期 1929年1月1日1932年12月31日

任期 1913年3月17日1920年8月26日
元首 ウッドロウ・ウィルソン大統領

任期 1911年1月1日 – 1913年3月17日

出生 1882年1月30日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ハイドパーク
死去 1945年4月12日(1945-04-12)(63歳)
アメリカ合衆国ジョージア州ウォームスプリングス
政党 民主党
配偶者 エレノア・ルーズベルト
子女 アナ・ルーズベルト・ハルステッド
ジェームズ・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア(3世)
エリオット・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア
ジョン・アスピノール・ルーズベルト
署名

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国政治家。姓はローズベルトローズヴェルトとも表記。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)。

目次

  • 1 概要
  • 2 生い立ちと家族
  • 3 初期の政治経歴と海軍との関係
    • 3.1 ニューヨーク州知事から大統領選まで
  • 4 大統領職
    • 4.1 内閣
  • 5 第二次世界大戦への参戦
    • 5.1 隔離演説から参戦まで
      • 5.1.1 隔離演説
      • 5.1.2 隔離演説の反響
      • 5.1.3 ブリュッセル会議とパナイ号事件
      • 5.1.4 対中支援工作
      • 5.1.5 レンドリース法
      • 5.1.6 日米交渉から開戦まで
      • 5.1.7 対日・対中政策
      • 5.1.8 レイシスト・「人種改良論者」
      • 5.1.9 原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)
    • 5.2 連合国首脳との会談
    • 5.3 勝利を目前にした死
  • 6 その他
  • 7 マルチメディア
  • 8 フランクリン・ルーズベルトが登場する作品
    • 8.1 映画
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク
    • 11.1 スピーチ
    • 11.2 その他

概要

世界恐慌第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。しかし実際はニューディール政策は失敗しており、参戦による経済回復を狙った。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた(チャイナ・ロビー)。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。

アメリカ国内のイタリア系、日系、ドイツ系の移民の差別政策。ドイツ人、日本人に対する民間人の無差別虐殺の命令。経済政策の失敗を戦争に転化したとも言われている。後に諸外国からは戦争犯罪人と同じだとの評価もある。

生い立ちと家族

1884年撮影

1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。父ジェームズ・ルーズベルト(1828年 - 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家 は1650年頃にオランダハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。

父親とともに

18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。

フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)は、フランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり、デラノ一族は阿片戦争の頃から中国アヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた。

愛犬ファラとともに

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904年ハーバード大学1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供(注で一人ずつ説明)をもうけ、4番目の息子エリオットはのちに作家となった。

1911年10月11日にフリーメイソンに加入した。

初期の政治経歴と海軍との関係

1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、彼は民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった。

1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した。

ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダルに関連した報道で海軍次官を辞職し、副大統領候補として大統領選に出馬した。

1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党ウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった。

ニューヨーク州知事から大統領選まで

1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派との対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した。1928年大統領選でスミスは大統領候補に指名され、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。スミスは自らの地元でも共和党のフーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、ルーズベルトは知事に当選、改革派知事としてルーズベルトは多くの新しい社会計画を行った。

こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミスは何名かの有力者によって支持されたが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者であるジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーとの個人的な関係を持ち、その支援を自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがその支持をルーズベルトに行うとし、ルーズベルトはガーナーを副大統領候補に指名した。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」)の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)の用語を使用。選挙戦では、フーバー大統領の財政政策を無駄使いの権化と徹底的に批判し、連邦政府の運営コスト削減の仕事を自分に任せてほしいと、緊縮財政を主張して政権を奪取した。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミ暗殺されそうになった。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。


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この節の加筆が望まれています。

大統領職

ニューディール政策
米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、ルーズベルトの大統領就任は1933年
米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、1939年以前は推定値、ルーズベルトの大統領就任は1933年

世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA) 、公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA) 、社会保障局 (Social Security Administration)、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り、実質GDPが1929年を上回った1936年 の大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選を果たした。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退 もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDP や失業率 は1929年の水準までは回復しなかった。

その後1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大 によってアメリカ経済は完全に回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国連邦政府が公開している経済統計によると、アメリカ合衆国の実質GDPが1929年を上回った年度は1936年、名目GDPが1929年を上回った年度は1941年、失業率が1929年を下回った年度は1943年である。

前政権に増しての財政緩和政策、大統領令によって市民に金貨、金塊の保有を禁止しての管理通貨制度の確立は、ケインジアンの立場からは有効な政策であったとされている。

炉辺談話
マイクの前に座るルーズベルト

当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。

内閣

【職名】
【氏名】
任期
大統領 | フランクリン・D・ルーズベルト | 1933 - 1945
副大統領 | ジョン・N・ガーナー | 1933 - 1941
ヘンリー・A・ウォレス | 1941 - 1945
ハリー・S・トルーマン | 1945
国務長官 | コーデル・ハル | 1933 - 1944
エドワード・ステティニアス | 1944 - 1945
陸軍長官 | ジョージ・ヘンリー・ダーン | 1933 - 1936
ハリー・ハインズ・ウッドリング | 1936 - 1940
ヘンリー・L・スティムソン | 1940 - 1945
財務長官 | ウィリアム・ウッディン | 1933 - 1934
ヘンリー・モーゲンソウ | 1934 - 1945
司法長官 | ホーマー・S・カミングス | 1933 - 1939
ウィリアム・F・マーフィー | 1939 - 1940
ロバート・H・ジャクソン | 1940 - 1941
フランシス・ビドル | 1941 - 1945
郵政長官 | ジェームズ・A・ファーレイ | 1933 - 1940
フランク・C・ウォーカー | 1940 - 1945
海軍長官 | クロード・スワンソン | 1933 - 1939
チャールズ・エジソン | 1940
ウィリアム・フランクリン・ノックス | 1940 - 1944
ジェイムズ・フォレスタル | 1944 - 1945
内務長官 | ハロルド・L・アイクス | 1933 - 1945
農務長官 | ヘンリー・A・ウォレス | 1933 - 1940
クロード・レイモンド・ウィッカード | 1940 - 1945
商務長官 | ダニエル・カルフーン・ローパー | 1933 - 1938
ハリー・ロイド・ホプキンス | 1939 - 1940
ジェス・H・ジョーンズ | 1940 - 1945
ヘンリー・A・ウォレス | 1945
労働長官 | フランシス・パーキンス | 1933 - 1945
最高裁判所判事

第二次世界大戦への参戦

1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年ニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933年に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバチスタ政権ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国トルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣外交と表現している。1933年12月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をもたらした。

就任後から1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた。

1939年9月、ヨーロッパ第二次世界大戦が勃発。アメリカ政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたい、と考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。

また、名目上でもそうしなければならなかった理由として、ルーズベルトは大統領就任前の選挙中から「戦争はしない」という公約を掲げており、対日開戦はその意味でアメリカ国民に対する公約違反だとする批判も存在する。

戦時下のヨーロッパでナチ党アドルフ・ヒトラー率いるドイツ国防軍に、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスウィンストン・チャーチル首相や、日華事変で日本と戦闘状態にあった中華民国蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた。

当時、アメリカ政府はイギリスや中華民国に対し多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けることは避けたかった。ルーズベルト自身も選挙では戦争に介入をしない、と宣言して当選しており、参戦をしたくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。

隔離演説から参戦まで

隔離演説

1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューディール阻止の為に共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる。

1937年8月30日、中華民国は国際連盟に対して、日本の行動

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出典:wikipedia
2019/11/27 01:38

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