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フランス革命とは?

【種類】
市民革命
【目的】
自由・平等・友愛(初期は「自由・平等・財産」だった。)
【対象】
旧体制(アンシャン・レジーム)
【結果】
王政と旧体制が崩壊
封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立
革命の結果による国有財産の所有者の移動が追認された
ナポレオン・ボナパルトの台頭
フランス革命戦争の発生
【発生現場】
フランス王国
【期間】
1789年7月14日 – 1795年8月22日
【指導者】
フランス革命関連人物一覧
【関連事象】
ハイチ革命
フランス7月革命
フランス2月革命
奴隷制廃止運動
フランスの歴史


先史時代

古代

中世
フランク王国

メロヴィング朝
481–751
カロリング朝
751–987
西フランク王国

フランス王国

カペー朝
987–1328
ヴァロワ朝
1328–1498

近世
ヴァロワ=オルレアン朝
1498–1515
ヴァロワ=アングレーム朝
1515–1589
ブルボン朝
1589–1792

近代
フランス革命
1789
立憲王政
1791–1792
第一共和政
1792–1804
国民公会 1792–1795
総裁政府 1795–1799
統領政府 1799–1804
第一帝政
1804–1814
復古王政
1814–1830
七月革命
1830
七月王政
1830–1848
二月革命
1848
第二共和政
1848–1852
第二帝政
1852–1870
第三共和政
1870–1940
パリ・コミューン
1871

現代
ヴィシー政権 · 自由フランス 1940–1944
共和国臨時政府
1944–1946
第四共和政
1946–1958
第五共和政
1958–現在

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年表


フランス革命(フランスかくめい、: Révolution française, : French Revolution 1789年7月14日1795年8月22日)とは、フランス王国に起きた資本主義革命(ブルジョア革命)。フランス革命記念日(パリ祭)はフランス共和国建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている。

フランス革命を代表とする資本主義革命は、封建的な残留物(身分制領主制)を一掃し、

を成し遂げた。

フランス革命はアメリカ独立革命とともに、資本主義革命の典型的事例である。フランスでは旧支配者(宗教家君主貴族)の抵抗がきわめて激しかったため、諸々の階級対立闘争がもっとも表面化した。

資本主義革命(ブルジョア革命)」、「資本主義憲法(ブルジョア憲法)」、「経済的自由権(人権)」、および「資本民主主義(ブルジョア民主主義)」も参照

概要

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出典検索: "フランス革命"ニュース 書籍 スカラー CiNii J-STAGE NDL dlib.jp ジャパンサーチ TWL
(2020年12月)

フランス革命とは、フランスにおいて領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。ブルジョアジーは権力を握ったが、貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続けた。フランス革命は貴族と上層市民を対等の地位にした。

フランス革命以前は国王がフランスの5分の1の領土を持つ最大領主だった。その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。しかし、ある段階で国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョアジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。そこで「権力を取らないことには自分たちの破滅につながる」と感じた商工業者,金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。1789年7月14日のバスチーユ占領がその始まりとなった。この時点では上層銀行家と株式仲買人を中核とする金融業者の一団が、雑多な群衆を反乱に向けて組織した。さらにパリ駐屯のフランス衛兵が反乱を起こし、国王軍と群衆の衝突の中で、国王軍を敗北させた。この軍の反乱には下士官を構成する下級貴族の役割が大きかった。この革命によって宮廷貴族の減免税特権は廃止され家柄万能の時代は終わり、フランスの近代化が始まった。

革命以前の絶対主義

宮廷貴族の特権

アンシャンレジームを風刺した画(第三身分者が聖職者と貴族を背負う)

フランス革命で倒された旧体制はアンシャン・レジームと呼ばれ、日本では絶対主義と呼ばれている。この言葉は中世の封建制度に比べると、国王の権力が強まり、国王の絶対的権威は王権神授説によって理論化され「朕は国家なり」という言葉がその本質を表していた。フランス絶対主義はルイ13世の時代にリシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。しかし、絶対主義という言葉で呼ばれているにもかかわらず、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなかった。国王はフランスの領土の5分の1を持ち、最大の領主であったが、あくまで領主の一人にとどまり、最大の領主であったというにとどまる。絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやマザランなどの一群の大領主であった。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった。宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された。

これらの西洋の領主騎士階級を日本語では通常「貴族」と呼んでいるが、実態は平安時代の「貴族(公家公卿)」よりも江戸時代の「武士(大名旗本等)」に近いものであり、「貴族」というよりは「西洋の武士階級」とすべきものである。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた。宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた。これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた。

宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた。当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた。これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職だけに8万リーブル(約8億円)が必要であった。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた。

また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた。これらは宮廷貴族による国庫略奪であった。

フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えたこの場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった。

法服貴族

詳細は「法服貴族 (フランス)」を参照

宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した。国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった。立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた。法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた。彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった。

自由主義貴族

宮廷貴族の中にはオルレアン公爵ルイ・フィリップラファイエット侯爵など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったので、王に服従せず自由主義派になった。彼らは宮廷貴族の反主流派だった。

ブルジョアジー

フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった。商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた。

ブルジョアジーには徴税請負人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた。その徴税の仕方は極めて厳しかったので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった。調整請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた。

銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた。しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた。ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった。

領主の土地支配

フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた。全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた。それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に貢租を支払った。その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった。ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた。農民で領主であった者は一人もいなかった。農民やブルジョア地主は領主に領主権を支払いながら、国王には租税を払った。彼らは二重取りされていた。

身分制度

絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。

フランス革命前夜

国家財政の悪化

ルイ14世の晩年以来フランスの国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世の時代になって財政は完全に行き詰まり、1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(2017年時点の日本円で54兆円相当)にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した蔵相たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた。財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はテュルゴーやネッケル等の改革派を蔵相に任命せざるを得なくなった。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた。宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された。

ブリエンヌの弾圧と抵抗運動

ルイ16世

1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョアジーに対して負担が重い税だった。パリ高等法院は印紙税の登録に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した。この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。1788年8月の初めにブリエンヌは「国庫は空になるだろう」という報告を受けた。8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした。ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte) 紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた。国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。パリ高等法院は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した。

これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった。

三部会の招集

ジャック・ネッケル

1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した。高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された。ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された。各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された。第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった。国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった。三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった。また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった。

革命の開始

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(2020年12月)

国民議会の結成

第三身分は1789年6月17日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった。

このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した。貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した。1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた。

球技場の誓い

ダヴィッドによる『球戯場の誓い』

国民議会の議長バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた。これがのちに「テニスコートの誓い」と呼ばれるようになった。6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した。これによって国王と国民会議は全面的対決となった。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた。

国民議会との対立

宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった。この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう。ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった。こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった。

7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった。

バスチーユの占領

『バスティーユ襲撃』(“La Prise de la Bastille”) Jean-Pierre Louis Laurent Houel

国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公爵の私邸パル・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した。

すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた。7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスチーユ要塞監獄に向かった。群衆が占領したバスチーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。

ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と言い和解を宣言した。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった。

この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった。

この時生まれた革命のスローガンは「自由・平等・財産」だった。

革命による財政改革

国王軍に勝利した商工業者(ブルジョアジー)の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った。宮廷貴族に負担をかぶせ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した。

初期の国民議会の改革

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(2020年12月)

特権身分への課税

勝利の後、自由主義貴族と上層ブルジョアジーの最上層の政権。旧体制の特権や領主権に深い関わり合いを持った者達の政権ができた。彼らは金の力で領地を買い、貴族の力を手に入れ、裁判権や地方都市の財政長官や徴税請負人の地位を持っていた。ネッケルが呼び戻されて蔵相に再任され、ネッケル派の大臣も返り咲いた。ネッケルは強制借款を取りやめた。国民会議では財政委員会を選出して財政の立て直しを図ったが、その基本方針は特権身分への課税、特権身分への支出の削減、停止であった。バスチーユ敗北直後から一部の宮廷貴族は復讐を恐れて亡命した。

領主権の部分廃止

革命直後から大恐怖と呼ばれる農民の暴動が各地で起こった。農民は領主の城や館を襲撃した。農民に襲撃された領主の中には革命派の貴族も含まれていた。中には武器を持って農民に立ち向かった自由主義貴族もいた。国民議会では農民暴動を武力弾圧せよという強硬派と、暴動に正面から立ち向かうことは不利であると考える勢力が激しい討論を繰り広げた。国民議会はまだヴェルサイユに駐屯する国王軍の脅威を受けていた。国王軍は撤退しただけでいつでも反撃できる体制にあった。国民議会が農民の反感を買うと農村の支持者を失って、国王軍の反撃に敗北するかもしれなかった。

そこで妥協案として封建権利を二つに分けて「人にまつわるもの」(十分の一税と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など)と「土地にまつわるもの」(封建貢租と不動産売買税)に区別し、前者は無償で廃止するが、後者は有償で廃止する提案が1789年8月4日に出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。この結果農民暴動は収まった。

8月4日の宣言

8月4日の宣言には「租税の平等」「文武の官職に全ての市民を登用する」「金銭的特権を廃止する」「貴族の官職独占の否定」「官職売買の禁止」人権宣言も含まれていた。これらの宣言にネッケル派とムーニエ派が反対したが多数派に敗北した。ネッケル、ムーニエ派は国民議会のこれ以上の改革を阻止しようとした。国王はこれを見て9月18日に親書を送り、8月4日の宣言を認めないことを通告した。

国王と議会のパリ移動

7月14日前後からパンの値段が異常に値上がりした。これは商人の買い占めによるものだった。10月5日にパリの婦人の一団がパンを要求しにベルサイユへ行き国民議会に押し入り、国民衛兵と武装した男性たちもベルサイユに集まった。10月6日の朝、近衛兵が発砲し一人が死ぬと、群衆は怒って王妃の部屋に乱入した。群衆は国王が出てくることを望み、国王一家と国民議会はパリに移転することに決まった。国王は宮廷貴族から切り離されて軟禁状態に置かれた。国王が連れ去られると、まだ残っていた宮廷貴族が亡命を始めた。ムーニエを初めとして貴族議員の200人や貴族将校も亡命した。

しかし食料不足は解決せず、小規模な暴動がたびたび起こったが、国民議会と国民衛兵によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された。

ベルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった。

アシニアの発行

12月2日に僧侶財産の国有化が可決され、そのあと国民議会の財務委員会がネッケルの反対を押し切って、国有化された僧侶財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアシニアと呼んだ。アシニアを受け取った者は僧侶財産を買い入れることができた。国家がケース・デスコントから借り入れていた1億7000万リーブルはアシニアで返済された。

国内改革と身分制の廃止

1790年1月に地方自治体の選挙が行われ83県に分割され、県の下に群が置かれた。1790年3月に国民議会の中に度量衡委員会が作られ、ラボアジェ等の活躍で1793年8月のメートル法公布となった。1790年6月に第一身分と第二身分が廃止され貴族の称号の使用が禁止された。以後全ての人は「市民」(シトワイヤン)とよばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた「ムッシュ」「マダム」が普通の人に対しても使われるようになった。1791年3月20日に総徴税局が廃止され徴税請負人が廃止された。1791年6月14日にル・シャプリエ法(Le Chapelier Law 1791)が公布され、経済的自由主義のもとに労働者の組合結成と争議の禁止、同業組合再建が禁止された。

革命政権の変遷

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出典:wikipedia
2021/05/14 10:00

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