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フレデリック・ディーリアスとは?

【基本情報】

【出生名】
フリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアス
【生誕】
(1862-01-29) 1862年1月29日
イギリス
イングランドブラッドフォード
【死没】
(1934-06-10) 1934年6月10日(72歳没)
フランス共和国グレ=シュル=ロワン
【職業】
作曲家

フレデリック・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Frederick Theodore Albert Delius CH 1862年1月29日 - 1934年6月10日)は、イギリス作曲家。本名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Fritz-)である。かつて日本語では「デリアス」と表記されることが多かったが、三浦淳史の解説などを通して、より原音に近い「ディーリアス」が一般的となった。

概略

イングランド北部の裕福な商人の家庭の生まれであったが、ディーリアスは商売の道に進みたがらなかった。1884年にはオレンジのプランテーションを運営するためにアメリカフロリダ州に送られるものの、仕事を放棄した彼は黒人音楽に感化されて作曲を行うようになる。1886年からしばらくはドイツで正式な音楽教育を受け、パリに移って職業作曲家としてのキャリアを開始した。その後、遠く離れないグレ=シュル=ロワンに居を構え、その地で妻のイェルカ・ローゼンと共に大戦時を除く生涯を過ごした。

ディーリアスが最初に成功を手にしたドイツでは、1890年代終盤からハンス・ハイムをはじめとする指揮者が彼の作品を紹介していた。祖国のイギリスにおいては、トーマス・ビーチャムが作品を取り上げた1907年より、彼の音楽は演奏会のプログラムの常連となった。ビーチャムの貢献は1909年ロンドンにおける「人生のミサ」の前全曲初演(彼は1908年にドイツで第2部の初演も行っている)、1910年ロイヤル・オペラ・ハウスにおけるオペラ村のロメオとジュリエット」の上演、1929年の6日間にわたるディーリアス音楽祭の開催、また多くのディーリアス作品の蓄音機録音などがある。ディーリアスはパリ時代の初期に梅毒に感染し、1918年からはこの病に苦しめられることになる。彼は身体が麻痺すると共に視力を失ったが、代筆者のエリック・フェンビーの助けを借りて1928年から1932年の後期作品の作曲を行った。

ディーリアスの初期作品に見られる叙情性には、彼がアメリカで耳にした音楽と、リヒャルト・ワーグナーや彼と親交があったエドヴァルド・グリーグなどのヨーロッパの作曲家の影響が見られる。その後、彼は自らの技法を確立していき、オーケストレーションや半音階的和声法に特徴付けられる独自の様式を築き上げるに至った。ディーリアスの音楽の人気には上がり下がりがあり、しばしば批判の的にもなっている。1962年に彼の熱心な支持者らが設立したディーリアス協会は、ディーリアスの生涯と作品に関する周知活動を続けており、毎年若手音楽家に授与されるディーリアス賞のスポンサーにもなっている。

生涯

幼少期

ヨークシャー、ブラッドフォードのヴィクトリア朝の市庁舎。ディーリアスはこの町で育った。

ディーリアスは、ロンドンの北北西約250kmに位置するヨークシャーブラッドフォードに生まれた。洗礼名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアスで、彼は40歳になる頃まで使用していた。両親はユリウス・デリウス(Julius Delius; 1822年-1901年)とエリーゼ・パウリーネ(Elise Pauline 旧姓クレーニッヒ Krönig; 1838年-1929年)で、フレデリックは4男10女の兄妹の次男、4番目であった。彼の両親の生まれはドイツヴェストファーレンビーレフェルトで、オランダ系の血筋であったが、ドイツ国内のライン川の近くの土地に定着して数世代を経ていた。ユリウスの父のエルンスト・フリードリヒ・デリウス(Ernst Friedrich-)は、ナポレオン戦争時にブリュッヘル元帥の指揮下で従軍していた。ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗上げるためであり、1850年に帰化してイギリス国籍を取得していた。エリーゼとの結婚は1856年のことである。

ディーリアス家は音楽一家であり、当時の有名な音楽家であるヨーゼフ・ヨアヒムカルロ・アルフレード・ピアッティなどが来客として訪れ、演奏を披露したこともあった。ドイツの家系に生まれながらも、幼いディーリアスはドイツ=オーストリア系のモーツァルトベートーヴェンではなく、ショパングリーグらの音楽により強く惹かれており、この好みは生涯にわたって続くこととなった。ディーリアスが受けた最初の音楽教育は、ハレ管弦楽団のバウアーケラー(Bauerkeller)によるヴァイオリンの指導であり、その後リーズのジョージ・ハドック(George Haddock)の下でさらに発展的な教育を施された。彼は後年ヴァイオリンの教師として仕事が出来るほどにヴァイオリンの腕を上げていたが、最も楽しみを見出していたのはピアノに向かって即興演奏をすることであり、彼が初めて音楽で我を忘れる体験をしたのはショパンのワルツであった。1874年から1878年にかけて、ディーリアスはブラッドフォード・グラマー・スクールで学んでおり、やや年長の学生にはテノール歌手のジョン・コーテスがいた。その後、彼は1878年から1880年の間にアイザルワースのインターナショナル・カレッジで学んだ。学生としてのディーリアスは利口でも勤勉でもなく、カレッジがロンドンにほどよく近かったためにコンサートやオペラに足を運んでいた。

父のユリウスはフレデリックが家業の羊毛業でひとかどの活躍ができるものと考え、続く3年間は彼に仕事をさせようと必死の説得を試みた。ディーリアスの最初の仕事はグロスタシャーストラウドにある商社の代表で、ここで彼はほどよく仕事をこなした。同じくケムニッツの会社の代表として送られてからの彼は職務を放棄して、音楽の中心であったドイツに向かってハンス・ジットの下で音楽を学ぶことを選んでしまう。そこで父は彼をスウェーデンへと向かわせるが、ここでも彼は商売より芸術に興味を向け、ノルウェーの劇作家であるヘンリック・イプセンやグンナー・ヘイベルグの影響を受けることになる。因習的な価値観に反旗を翻したイプセンに感化され、ディーリアスはますます商売の道とは疎遠になっていった。次に彼が送られたのはフランスの会社であったが、彼は頻繁に仕事を休んではコート・ダジュールへ出かけていた。ここまでくると、父のユリウスも息子が一家の家業を継ぐ見込みはないことを悟ったが、それでも彼は息子を音楽の道に進ませることには反対の立場であった。彼は代わりにオレンジのプランテーションを運営させるべく、息子をアメリカへと送り出したのである。

フロリダ時代

ソラノ・グローヴに程近いフロリダのセントジョンズ川。ディーリアスはここの農園の音楽から霊感を受け、いくつかの初期作品を作曲した。

アメリカ行きというアイデアが、ユリウスのものだったのかフレデリック本人のものだったのかは明らかではない。フロリダの大きな不動産会社は、ブラッドフォードなど英国内にも支社を持っていた。そこで、当時のフロリダで書かれたディーリアスに関する論文において、ウィリアム・ランデル(William Randel)が推測するところでは、父のユリウスがブラッドフォードの事務所を訪れてわがまま息子をオレンジ栽培のために送り出すことを思いついたか、フレデリック本人が実家の羊毛業から逃れる方策にこの案を父に進言したか、両方の可能性が考えられるとしている。ディーリアスがフロリダに滞在していたのは1884年の春から1885年の秋までの期間で、ジャクソンビルに近いセントジョンズ川岸のソラノ・グローヴ(Solano Grove)のプランテーション農場に寝泊りしていた。ここでもやはり彼は音楽に夢中なままで、ジャクソンヴィルで出会ったオルガン奏者のトーマス・ウォード(Thomas Ward)から対位法と作曲などの音楽理論の指導を受けるようになった。後年、ディーリアスは自分が受けた教えの中で有用だったものは、ウォードのものだけだったと述べている。

ディーリアスは後になって、ソラノ・グローヴでの住まいを「掘っ立て小屋」と表現するのを好んだが、建物は4部屋を有する大きなコテージであり、彼が来客をもてなすのに十分な空間があった。ウォードをはじめ、ブラッドフォードからの旧友のチャールズ・ダグラス(Charles Douglas)や兄弟のエルンスト(Ernst)も時おりここに滞在した。川から吹き込む風とオークの木で出来る木陰のおかげで度を超した夏の暑さから守られ、この家は住み心地のいいものであった。ディーリアスはオレンジの栽培という仕事にはほとんど目もくれず、音楽へ寄せる興味を探求し続けた。ジャクソンヴィルにはヨーロッパ出身の者にとっては豊かであると思われるような、一風変わった音楽が根付いていた。ランデルが記すところによると、地元のホテルではアフリカ系アメリカ人の給仕たちが歌手を兼業しており、日常的にパトロンのために、また通行人相手に歌を披露していた。これらがディーリアスが黒人霊歌に触れるきっかけとなった。加えて、船舶の所有者は甲板員らに仕事中に歌を歌うことを奨励していた。「昼夜を問わず、蒸気船が近くを通ると水面を越えてソラノ・グローヴの彼のベランダに届く、芳醇で透き通った歌声。ディーリアスは聞こえてくるそれを決して忘れることはなかった。これ以上の環境は想像しがたい。それほどまでに作曲に適した、そしてオレンジの栽培に不向きな環境であった。」

フロリダ在住中にディーリアスは最初の作品を出版している。「Zum Carnival」と呼ばれるピアノのためのポルカである。1885年の暮れ、ソラノ・グローヴで任されていた管理人の職を離れ、バージニア州ダンヴィルへと引っ越した。それからは彼は完全に音楽のみに打ち込むことになる。地元の新聞の広告にこういう文言が掲載された。「フリッツ・ディーリアスがまもなくピアノ、ヴァイオリン、音楽理論、作曲の指導を開始します。授業は生徒の家庭で行う予定です。期間は常識的範囲。」ディーリアスはフランス人やドイツ人にもレッスンの呼びかけを行っていた。ダンビルは音楽が栄えた町であり、彼の初期作品もそこで公開演奏されるなどしたのである。

ライプツィヒ、パリ時代

エドヴァルド・グリーグ 彼はディーリアスの初期作品に大きな影響を与えた

1886年になり、父親のユリウスもようやく音楽の道に進みたいという息子の希望に応え、ディーリアスが正式な音楽教育を受けられるよう学費を出した。ダンビルを離れたディーリアスはいくつかレッスンを行うためにしばらくニューヨークに留まった後、ヨーロッパへと戻った。ドイツへ向かった彼はライプツィヒ音楽院へと入学する。音楽の中心都市ライプツィヒでは、ニキシュマーラー歌劇場で指揮をし、ブラームスチャイコフスキーゲヴァントハウスで自作を披露していた。音楽院でライネッケの下でピアノを学んだものの、あまり進歩のなかったディーリアスであったが、ザーロモン・ヤーダスゾーンは彼の勤勉さと対位法の理解を称賛していた。また、ディーリアスはハンス・ジットからの指導も再び受け始めていた。ディーリアスの早くからの伝記作家であった作曲家のパトリック・ハドリーは、ディーリアスの円熟期の音楽には「一部の弱々しいパッセージを除いて」このようなアカデミックな教育を受けた痕跡は見当たらないと述べている。ディーリアスの成長にとってはるかに重要だったのは、ライプツィヒでグリーグに出会ったことであった。グリーグは先のウォードと同様に、ディーリアスの潜在能力を見抜いていた。1888年春、ジットは3人の聴衆のためにディーリアスの「フロリダ組曲」を演奏した。3人とはグリーグ、シンディング、作曲者自身である。グリーグとシンディングは熱狂し、ディーリアスを親身に支えるようになった。1888年4月のロンドンでの会食の席で、グリーグはユリウスに対しディーリアスが将来音楽で地位を築くと納得させたのである。

1888年にライプツィヒを後にしたディーリアスは、おじのテオドア(Theodore)のいるパリへと移った。おじは彼を招き入れて社会的、金銭的な面倒を見た。以降の8年間でディーリアスはストリンドベリムンクゴーギャンといった多くの作家画家と親交を築いた。フローラン・シュミットがディーリアスのオペラの最初の2作品「イルメリン」と「魔法の泉」をピアノ用に編曲しているものの、彼にはフランスの音楽家との交流はほとんどなかった。(後にはラヴェルもディーリアスのヴェリズモ・オペラである「赤毛のマルゴー」を同様に編曲した。)その結果、彼の音楽がフランスで知られることはなかった。ディーリアスの伝記作家のダイアナ・マクヴェイ(Diana McVeagh)が述べるところでは、この数年の間ディーリアスは「魅力的で、心優しく、自然体、そして好色な人物と知られていた。」一般的に、彼が後に健康の崩壊に繋がる梅毒に感染したのは、この時期のことであると信じられている。

ディーリアスのパリ時代は音楽的には多作な時期であった。交響詩「頂にて」は1891年クリスチャニア(現オスロ)で、1894年モンテカルロで演奏された。グンナー・ヘイベルグは1897年に自作の演劇「フォルケラーデット」への付随音楽を彼に委嘱している。また2作目のオペラ「魔法の泉」をプラハで上演できることになったものの、公演はどういうわけか実現せずに終わった。この時期の作品には他に幻想序曲「丘を越えて遥かに」(1895年-1897年)と、管弦楽のための変奏曲「アパラチア」(1896年;1904年に声楽と管弦楽のための曲に改作)がある。

最初の成功

フォンテーヌブローの森で犬を散歩させる画家 1882年 ルノワール

1897年、ディーリアスはドイツ人の画家であるイェルカ・ローゼンと出会った。彼女は後に彼の妻となる人物である。プロの絵描きであったイェルカはオーギュスト・ロダンとも親交があり、パリで開催される美術展のアンデパンダン展でも常連であった。彼女はすぐさま若き作曲家の作品への称賛を明らかにし、ドイツの哲学者ニーチェやグリーグの音楽への情熱を共有する2人は惹かれ合っていった。イェルカはパリから64キロ、フォンテーヌブローとの境に地点に位置するグレ=シュル=ロワン村に家を購入した。ディーリアスは彼女を訪ねてその地に向かい、一時フロリダへと戻った後は移り住んで彼女と暮らすようになった。2人は1903年に結婚し、ディーリアスはその後第一次世界大戦中にドイツ兵が進軍してくる危険に見舞われた一時期を除き、生涯をグレで過ごした。ディーリアスはこの頃から英国式にフレデリックと名乗るようになった。彼らの結婚生活は一般的なものではなかった。当初、夫婦の主な収入はイェルカの稼ぎであり、2人には子どもがおらず、さらにディーリアスは夫として信頼の置ける人物ではなかった。イェルカは夫の愛人関係にしばしば頭を悩ませていながらも、その献身的な態度が揺らぐことはなかった。

同年、ディーリアスは自作を支援してくれるドイツ人の庇護者と巡りあうことができた。エルバーフェルトの指揮者であるハンス・ハイムフリッツ・カッシーラーアルフレート・ヘルツデュッセルドルフユリウス・ブーツである。ハイムは1897年11月3日に彼の「丘を越えて遥かに」をドイツ語のタイトル(Über die Berge in die Ferne)で指揮しており、これがドイツ国内におけるディーリアス作品の最初の演奏であったと考えられている。1899年にはヘルツがロンドンのセント・ジェームズ・ホールでディーリアスの楽曲による演奏会を催し、そこでは「丘を越えて遥かに」、合唱曲「ツァラトゥストラの夜の歌」とオペラ「コアンガ」からの抜粋が演奏された。ロンドンでのオーケストラコンサートがまだ珍しかった当時にあって、この出来事は名の知られていない作曲家にとっては類い稀な機会であった。演奏会評は前向きなものであったが、再びディーリアスの作品が英国のコンサートホールで聴かれるのは1907年になってからのことである。

管弦楽曲「パリ:大都会の歌」が1899年に完成し、ハイムに捧げられた。ハイムはこれを1901年12月14日、エルバーフェルトにて初演している。この公演について地元の新聞がいくらか批判的な評価を寄せている。この評によると、ディーリアスは聴衆をバスに乗せてパリの夜の名所へ次々と連れ回すものの「彼は我々が大通りのカフェで豊かなジプシーの音楽を聴くことを許してはくれない。常にシンバルとタンバリンが、大体2つのキャバレーから同時に聞こえてきてしまうのである。」この作品はその後一年経たぬうちに、ベルリンフェルッチョ・ブゾーニの指揮によって再演されている。

この時期に行われたディーリアスの作品の初演は、大半がハイムもしくはその仲間のドイツ人指揮者らによって行われた。1904年にはカッシーラーが「コアンガ」を初演、同年にはエルバーフェルトで「ピアノ協奏曲 ハ短調」が初演され、デュッセルドルフでは管弦楽曲「生命の踊り」が初演された。デュッセルドルフでは翌年にも「アパラチア」(フロリダで採集したかつての奴隷の歌に基づく、合唱と管弦楽のための変奏曲)の初演が続いた。合唱曲「海流」は1906年エッセン、オペラ「村のロメオとジュリエット」は1907年のドイツで初演を迎えた。ディーリアスの名声は第一次世界大戦まで衰えることはなかった。1910年には狂詩曲「ブリッグの定期市」が、ドイツの36の異なるオーケストラによって演奏されている。

名声の高まり

ディーリアスの肖像画
1912年 イェルカ画

1907年までには、ドイツ各地で作品が取り上げられたことによって、ディーリアスはビーチャムの言葉を借りるならば「年が進むにつれてかさが増す繁栄の波の上に、危なげなく浮かんでいた。」ヘンリー・ウッドは同年に、「ピアノ協奏曲」の改訂版の初演を行っている。また、この年にはフリッツ・カッシーラーがロンドンで指揮台に登っており、ある演奏会ではビーチャムのニュー・シンフォニー・オーケストラを指揮して「アパラチア」を披露している。この時までディーリアス作品を耳にしたことがなかったビーチャムだったが、これに驚愕してその後の生涯にわたってディーリアスの音楽に心酔することになった。数週間後の1908年1月11日リヴァプールにおいてビーチャムは管弦楽のための夜想曲「パリ: 大都会の歌」のイギリス初演を行った。その年の暮れには。ビーチャムは「ブリッグの定期市」をロンドンの聴衆に紹介し、フェルナンデス・アルボスが「生命の踊り」を取り上げた。

1909年、ビーチャムは4人のソリストと2群の合唱、大オーケストラのために書かれた、ディーリアスの演奏会楽曲でも最大規模で最も野心的な「人生のミサ」を、初めて全曲演奏した。この曲はリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」と同じニーチェの作品に基づいていたが、シュトラウスの作品を完全な失敗作とみなしていたディーリアスは、彼の作品とは距離を置いていた。一方のシュトラウスもエルガーを称賛しながらディーリアスを認めようとはせず、ディーリアスに対し夜想曲「パリ」を指揮したくないと伝えていた。「私には交響的発展が乏しすぎるように見受けられ、さらにシャルパンティエの真似事のように思われる。」

20世紀初頭に作曲されたディーリアスの楽曲には、彼の作品の中でも最も人気を獲得した作品が含まれる。「ブリッグの定期市」(1907年)、「夏の庭で」(1908年、1911年改定)、「川面の夏の夜」(1911年)、「春初めてのカッコウの声を聴いて」(1912年)などである。これらに関してマクヴェイはこう述べている。「これらの見事な牧歌を聴けばほとんどの場合、作曲者がドイツの血筋を持ちフランスに居住した人物であるにもかかわらず、『イングランド』という言葉が思い浮かぶ。」1910年に、ビーチャムはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでオペラシーズンを催した。彼は自らの一家の巨額の資金を背景に、採算を度外視して集客の見込みが薄い演目もいくつか取り上げた。「村のロメオとジュリエット」などである。演奏会評はおおむね穏健なものであったが、タイムズ紙は曲の管弦楽的側面を称賛しつつこう批評した。「ディーリアス氏には、声楽のために劇的な曲を書く感覚が極めて乏しいようである。」曲には非常に美しい瞬間があるものの、楽劇としては効果的に書かれていないという点については、他の批評家たちも賛同している。

戦中、戦後

第一次世界大戦の最中には、ディーリアスとイェルカは敵襲を避けるためグレを離れた。2人はイングランド南部に仮住まいを設け、ディーリアスはそこで作曲を続けていた。1915年発行のミュージカル・タイムズ誌には、ディーリアスを称賛する作曲家ピーター・ウォーロックのコメントが掲載された。それは以下のようなものである。

彼はこの国(イギリスのこと)では音楽家として公的な職には何も就いていない。彼は音楽院等で教鞭を執るということもなければ、音楽教授や博士の名誉に与ってすらいない。彼は演奏会を開きもしないし、自分の音楽を宣伝することはない。オーケストラの指揮もしなければ、公に楽器を演奏することもないのである。(ベルリオーズですらタンバリンを演奏したというのに!)

ウォーロックは、ディーリアスを一心に自作へ集中する作曲家であると記述している。「ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない。ビーチャム氏の指揮する場合を除き、彼の作品の超一流の演奏に出会うことが滅多にないのは、一部にはこうした理由もあると思われる。」

ディーリアスの戦時中の主要作品のひとつである「レクイエム」は、「戦争に散った全ての若き芸術家の思い出に」捧げられている。この作品は伝統的なキリスト教の典礼には全く則っておらず、死後の生命や祝祭といった概念を避ける代わりに汎神論的な自然の再生を謳っている。1922年のロンドンにおいて指揮者のアルバート・コーツがこの曲を演奏した際には、無信仰な内容が一部の信心深い人々の反感を買った。こうした批判的姿勢はディーリアスの死後もくすぶり続け、イギリスで「レクイエム」が次に演目にのぼったのは1965年になってからのことで、1980年までに世界中でもわずか7回しか演奏されなかった。ディーリアス作品が日常的に取り上げられていたドイツでは、大戦の勃発と共に演奏されることはなくなり、元に戻ることはなかった。にもかかわらず、ヨーロッパ大陸の作曲家には変わらず彼を支持する者もいた。ビーチャムが残した記録によれば、バルトークコダーイはディーリアスを称賛しており、特に前者は自作をディーリアスに送って意見を求めると同時に、ハンガリールーマニアの大衆音楽に興味を持たせようとすることが習慣となっていたという。

ビーチャム

終戦までに、ディーリアスとイェルカはグレに戻ってきていた。彼には1880年代に感染したと思われる梅毒の症状が現れ始めており、1910年には第3期と診断されていた。彼はヨーロッパ中の医師を訪ねて治療を受けたが、1922年までには2本の杖で歩行するようになり、1928年には全身麻痺を起こしてついに失明してしまう。その間の1923年には、イェルカの手助けにより「ヴァイオリン・ソナタ第2番」を作曲している。彼に戦前のような栄華が再び訪れることはなかった。治療にかかる費用は追加の出費となり、視力を失った彼にとって困難となった創作活動は中断を余儀なくされていた。また、大陸では彼の作品が演奏されなくなっていたため、著作権収入も減少していた。ビーチャムは彼らにそっと財政的援助を行っており、また音楽家の後援をしていた作曲家のヘンリー・バルフォア・ガーディナーがグレに家を購入し、ディーリアスとイェルカが賃料を払わず暮らせるようにした。

ビーチャムは1920年から1923年にかけて、一時コンサートやオペラの舞台から退いていたが、1920年にはコーツが「高い丘の歌」を初演、ヘンリー・ウッドとハミルトン・ハーティクイーンズ・ホールハレ管弦楽団の演奏会にディーリアスの音楽を取り上げた。ウッドは1920年に「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」、1923年には「夜明け前の歌」と「ダンス・ラプソディ第2番」のイギリス初演を手がけている。ジェームズ・エルロイ・フレッカーの戯曲「ハッサン」(1923年)への付随音楽がハー・マジェスティーズ・シアターで281回の上演回数を数え、これによってディーリアスは金銭的、芸術的に成功を収めた。その後ビーチャムが復帰したことにより、ハドリーの言によればディーリアスは「彼の最も熱心な支持者たちも思い描いたこともなかったような人物、つまり真に大衆的な成功者」となった。ハドリーは特に、ビーチャムが総監督となって1929年にクイーンズ・ホールで行われた、6日間に及ぶディーリアス音楽祭を引き合いに出している。これには作曲者自身も車椅子(bath chair)で出席していた。「独唱や合唱が含まれていようがいまいが、彼の管弦楽表現の粋」が奏でられ、ホールは満員となった。ウォーロックが6つの演奏会のうち3つについて詳細なプログラムを作成し、ビーチャムの音楽祭の運営を補佐した。音楽祭では室内楽曲や歌曲をはじめ、「村のロメオとジュリエット」からの抜粋、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲が取り上げられ、声楽曲「シナーラ」と「去り行くつばめ」の初演が行われ、「人生のミサ」で閉幕となった。マンチェスター・ガーディアン紙の音楽批評家ネヴィル・カーダスは、音楽祭の期間中にディーリアスとあっている。彼は作曲者の身体が蝕まれていることを記しつつも「彼には惨めなことなど何もなかった(中略)彼の表情は力に満ち尊大で、そこに刻まれたあらゆる皺は彼の大胆不敵な生き様を物語っていた。」としている。カーダスによれば、ディーリアスは明らかなヨークシャー地方のアクセントで、「自分達の心の中(feelin's)を恐れる」ような人々が書いたイギリス音楽の大半は、2度と聴くべきではない薄っぺらな音楽として忘れてしまったと語ったという。

晩年

イギリスの若いディーリアスファンであったエリック・フェンビーは、ディーリアスがイェルカに口述することで作曲をしようとしていることを知り、無償の筆記者として彼に奉仕することにした。1928年からの5年間、彼はディーリアスの下で働き、ディーリアスが口で伝える新曲を書き留めるとともに、以前の作品の校訂作業も手伝った。彼らが2人で製作したのは「シナーラ」(詩:アーネスト・ダウスン)、「去り行くつばめ」(詩:ウィリアム・アーネスト・ヘンリー)、「夏の歌」、「ヴァイオリンソナタ第3番」、歌劇「イルメリン」への前奏曲と、30年前に作曲された短いオペラ「赤毛のマルゴー」の曲を再利用した「田園詩曲」(1932年)などである。マクヴェイは、イェルカに捧げられている、ウォルト・ホイットマン<

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出典:wikipedia
2020/07/04 14:25

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