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プリンス_(ミュージシャン)とは?

【基本情報】

【出生名】
プリンス・ロジャーズ・ネルソン
【生誕】

【死没】

【ジャンル】

【職業】

【担当楽器】

【活動期間】
1976年 - 2016年
【レーベル】

【共同作業者】

プリンス・ロジャーズ・ネルソン(英語: Prince Rogers Nelson1958年6月7日 - 2016年4月21日)は、アメリカミュージシャンマルチ・インストゥルメンタリストシンガーソングライター作曲家音楽プロデューサー俳優。これまでに12作品のプラチナアルバムと30曲のトップ40シングルを生み出し、アルバム・シングルの総売り上げは1億3000万枚以上になる。後進のミュージシャンに影響を与えた存在として知られた。

概要

プリンスは1978年のデビュー以来、ロックファンクソウルブルースゴスペルハード・ロックサイケデリック・ロックを取り込んだ独創的なサウンドで音楽を創造することで信奉者を生み、ミネアポリス・サウンドの中心的存在である。

ジョニ・ミッチェルはプリンスについて「彼は芸術家として駆り立てられて音楽をやっている。形式やヒットでなく創造が動機となっている」と語っている。ジョニは、プリンスが若き日に送ってきたファンレターに「Uや4があった」ことで彼を覚えていたという。プリンスがもっとも影響を受けてきたミュージシャンは、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーンジョージ・クリントンPファンクなどである。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、また、どれほど優れた曲であろうとも「アルバムの流れから外れた曲は収録しない」という主義から、多くの海賊版発売の被害にもあっている。

デビュー以来、作詞・作曲・歌唱・演奏・プロデュースの全てを自ら行うスタイルを貫き、「27種類以上の楽器を演奏」できる。さらにジェームズ・ブラウンのパフォーマンスを引き継いだステップやスプリット(股割り)、マイクスタンドを用いた様々な技などのダンスパフォーマンスも披露していたが、後に楽器による生演奏と歌唱を中心とした「リアルミュージック・バイ・リアルミュージシャンズ」を掲げたライブになっていた。

曲のタイトル・歌詞の特徴として、toは「2」、forは「4」、youは「U」、are「R」など同音異字を用い、I (アイ)は「eye」の表象文字で記載されている。イメージカラーは主に「」。これはアルバム『Purple Rain』発売前からのもの。キャリア初期からセクシャルなイメージが強く、「I Wanna Be Your Lover」のミュージックビデオにビキニパンツにレッグウォーマーという衣装で出たり、アルバム『Lovesexy』のジャケット問題(下記)、さらには臀部が全開のパンツでパフォーマンスしたりと、様々な逸話がある。また、アルバム『Purple Rain』は、収録曲「Darling Nikki」の露骨に卑猥な歌詞により、ティッパー・ゴアによる「問題のある内容のレコード」に貼るウォーニング・ステッカーの第一号となった。

彼は改宗を機に「古くからのファンも家庭を持つ年齢になったから」とセクシャル路線をやめることを宣言した(後はマドンナに任せるとも言っていた)。ワーナーとの契約解消以降はアルバムの販売なども特別な手法を取った。その才能への敬意と Prince という名に因み、日本のファンは彼を「殿下」と呼んできた。

ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画で、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」において第1位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第30位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第27位、2011年に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第33位、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位にそれぞれ選ばれている。

経歴

生い立ち〜デビューまで(1958-1977)

プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、1958年6月7日午後6時17分、ミネソタ州ミネアポリスのマウント・シナイ病院で生まれた。ジャズミュージシャンを両親に持ち、音楽とともに育った。その少年期はさまざまな逸話に包まれている(その幾つかはプリンス本人によって話題作りのために広められた)。

その最たるものが「プリンスの父親は黒人で母親が白人である」ということである。これは自伝映画『パープルレイン』でも使われた設定であるが実際は両親ともに黒人であり、本人によると「父方にはイタリア系の血が、母方にはネイティブ・アメリカンの血が入っている」とのこと。

ジャズ・ピアニストだった父親のジョン・L・ネルソン(1916〜2001)は1960年代後半までプリンス・ロジャーという芸名でプリンス・ロジャー・トリオというバンドを組んでいたことから息子にその名を付けた。母親のマティ(1933〜2002)は17歳年下のジャズ歌手だった。プリンスが生まれたとき、ジョンには前妻との間に4人の子があり、プリンス誕生と同時期にも前妻との間に男児デュアンが生れ、その後マティとの間に女児ティカ(プリンスの実妹)をもうけた。幼少期のプリンスにはてんかんの持病があり、しばしば発作に見舞われた。

プリンスの両親はプリンスが子供の頃の1966年に離婚し、父親が家を出て行った。母親は再婚し、継父は10歳のプリンスをジェームス・ブラウンのコンサートに連れて行ってステージに上げたという、後のプリンスの音楽への影響を作ったことはあったが、プリンスは継父との折り合いが上手くいかず、家出を繰り返すことになる。実父ジョン・L・ネルソンはプリンスに大きな影響を与えており、プリンスの楽曲のいくつかにはその名前がクレジットされている。

ジュニアハイスクール時代に、友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現す。この時期に参加していた「94EAST」というバンドの音源は後年に発掘されることになる。シンセサイザーを主体としたファンクミュージック、いわゆるミネアポリス・サウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。

メジャーレーベルは、こぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザースと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する。

活動初期 (1978-1980)

1978年4月、プリンスはたった一人でデビューアルバム 『For You』 を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた「Soft and Wet」はR&Bチャートを賑わせた。

1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム『Prince(邦題:愛のペガサス)』』を発表。キャッチーな曲として「Why You Wanna Treat Me So Bad」、「I Wanna Be Your Lover」がR&Bチャートでヒットとなった。なお「I Wanna Be Your Lover」は全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。

1980年には『Dirty Mind』を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、「Head」と「Sister」の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。

全盛期 (1981-1989)

1981年には『Controversy(邦題:戦慄の貴公子)』を発表。同名シングルがソウル・チャートにランクインし、またビデオが放映されるなど、知名度が大きく上昇した。この時期に、ローリング・ストーンズの前座としてツアーに帯同していたが、公演によっては、ビール瓶やキャベツ等を投げつけられるなどストーンズ目当ての客からのブーイングを受けた。当時、ストーンズの楽屋を訪れたデヴィッド・ボウイが、トイレで泣いているプリンスの姿を見掛けたため、以後の自身のツアーでは前座ミュージシャンをつけることをやめたというエピソードが残っている。当時、オープニングアクトに起用したミックジャガーは、「お前達はプリンスがどれだけ凄いか分からないだろう」と言ったと言われている。

1982年頃から、プリンスはバックバンドをザ・レヴォリューションと名付けた。それに伴い、アーティスト表記もプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変わった。レヴォリューションは、メンバーを若干変動させつつ1986年まで存続する。それから1990年までは、特にバックバンドに呼称を与えない時期が続く。

2枚組アルバム『1999』(1982)をリリースしたプリンスは、ついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは「Little Red Corvette」(6位)、「1999」(12位)、「Delirious」(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンと共に名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から1990年代にかけて発売されていたCDからは「D.M.S.R.」が削られている。

パープル・レインのロゴ

1984年、自伝的映画『プリンス/パープル・レイン』で映画初主演、そのサウンドトラックとして『Purple Rain』が発表され大ヒットとなった。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた「When Doves Cry」、「Let's Go Crazy」の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという成果を達成した。なお、本作からは他に「Purple Rain」(2位)、「I Would Die 4 U」(8位)、「Take Me With U」(25位)がシングルカットされている。また、「When Doves Cry」は年間シングルチャートでも1位を獲得している。

プリンスの自伝映画として製作されたこの映画は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年の第57回アカデミー賞で歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像は、後にプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。

全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた「パープル・レイン」の収益でプリンスは独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立する。1985年にこのレーベルから「Around the World in a Day」を発表。前作とはがらりと作風を変えてきたこのアルバムも、全米チャートで1位を獲得する。

ベルギー・ブリュッセル公演 (1986年)

翌1986年には、監督をも務めた映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックとして『Parade』を発表。映画自体は興業的に失敗するものの、アルバムは全米アルバムチャートで3位となり、シングルカットされた「Kiss」は全米シングルチャートで1位を獲得する。この年、Parade tour で初の来日公演を果たしている。バックバンドザ・レヴォリューションは、このツアーの横浜スタジアムでの千秋楽を最後に解散する。

この『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』は、1987年のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で最低作品賞、最低監督賞、最低主演男優賞、最低助演男優賞(ジェローム・ベントン)、最低主題歌賞を受賞した。

1987年には、2枚組アルバム『Sign "☮︎" The Times』を発表する。タイトル曲「サイン・オブ・ザ・タイムズ」は、プリンスがブルースから強い影響を受けていることを示していた。なお、ツアーの撮影したものをベースに作成された、同名の映像作品も同時発売されている。

同年、『The Black Album』がレコーディングされるが発売直前になって発売が中止された。この音源は海賊版として流出し、世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは、最終的に1994年にワーナー・ブラザースから発売されている。

1988年には「The Black Album」のアンサーアルバムとなる『Lovesexy』をわずか4か月の制作期間を経て発表するが、そのジャケットが物議をかもし、CDでの曲間ジャンプが出来ないようにアルバム全体が1曲扱いになっているという仕様(ただし、発売国によっては異なる)のアルバムはセールス的には全米11位、売上50万枚と低迷した。同様に全米ツアーも低迷したが、その低迷分をヨーロッパと日本へのツアーで補うことができたという。

1989年、映画『バットマン』のサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(ダニー・エルフマンによる映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。サントラは初回限定で缶入りCDも発売され、アルバムおよびシングルカットされた「Batdance」はチャート1位を獲得した。「Batdance」は『とんねるずのみなさんのおかげです』内でパロディPVを作成したことや『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」で「Don't stop dancin'」の部分が「農協牛乳」と聞こえる空耳が紹介されたこともあり、日本で知名度の高いプリンスの曲のひとつとなっている。

またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。80年代末から90年代半ばまで『Glam Slam Yokohama』というディスコを横浜で経営しており、ツアーで来日した際にシークレットギグを開催したこともある。

3月には当時、恋仲が噂されていたマドンナのアルバム『ライク・ア・プレイヤー』が発売。『ラヴ・ソング』をマドンナと共作&デュエットした。

ワーナーとの確執、改名(1990-1999)

1990年、『Purple Rain』の続編となる映画『Graffiti Bridge』を制作するが興業的には振るわなかった。同名のサウンドトラックではザ・タイムジョージ・クリントンテヴィン・キャンベルメイヴィス・ステイプルズをフィーチャーしているが、チャート6位、売上50万枚と再び低迷する。

1991年には、前年のツアーバンドをザ・ニュー・パワー・ジェネレーション(略称NPG。NPGは現在も存続するが、結成時のメンバーは残っておらず、特定の音楽コンセプトの表象というよりは、バックバンドの代名詞となっている。)と命名し、プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーションとして『Diamonds and Pearls』を発表。全米チャートで3位、売上200万枚。シングルカットされた「Cream」が1位、「Diamonds and Pearls」が3位を獲得している。

1992年には、独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため、本国アメリカでは"Symbol"と呼ばれ、日本では『ラブ・シンボル』と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールスを記録した。

1993年、プリンスはワーナー・ブラザースと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザースの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードがプリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖、それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立した。プリンスはその後、ワーナー・ブラザースとの契約消化の為にハイペースでアルバムを発表し続ける事になる。

プリンス名義を示すシンボル(中央)

プリンスはその名前を捨てることとなった。1994年発売の『Come』において「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 - 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。

この時期から2000年代にかけて、プリンスは多くのライヴをこなしている。また、ライヴ会場は大きなアリーナだけではなく、小さなクラブで深夜にごく少数の観客を集めて行われている。ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたそれは、一般にアフターショウと呼ばれる、入場者が5人から2500人というような小規模なライヴは、1980年代中盤から積極的に行われており、コンセプト上メインのツアーではやらないようなカバーや、気ままなジャムセッション、リサーチもかねた新曲が披露され、公式に一部ビデオ化もされている。

1995年に『The Gold Experience」をリリースするが、ワーナー・ブラザースとの関係は悪化の一途をたどる。(このアルバムに収録された「Endorphinmachine」は格闘技大会 K-1 WORLD GP シリーズのオープニング・テーマに使用され、日本でプリンスを知らない層にも幅広く有名になった。)

1996年の『Chaos And Disorder』のジャケットは、踏みつけられたアルバム「1999」のレコード盤(瞳のイラスト)に涙が書かれ、その涙がワーナー・ブラザースのマークであるという意味深なデザインだった。ワーナー・ブラザース時代のオリジナルアルバムはこれが最後となった。

1996年、内向的かつ攻撃的であった前作のイメージとはうって変わって、大手レコード会社の契約から解放されたイメージの『Emancipation』を(EMI と1枚のみの配給合意)リリース。東京でワールドプレミアを開催した。 ワーナーから解放されたことを記念し、この時期には積極的にTVに出演し、プロモーションを行った。人気TV番組「マペット放送局」にも出演し話題となる。なお、マペット放送局はNHKで放送された。

1999年、ワーナー・ブラザースから、最後の契約枚数消化の為に未発表曲集『The Vault〜 Old Friends 4 Sale』が発表された。同じ年にアリスタと配給合意しアルバム『Rave Un2 The Joy Fantastic』を発表。プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされた。

シンボルから再びプリンスへ、そして復活 (2000-2009)

2000年、ワーナー・ブラザース傘下の出版会社ワーナー・チャペルが管理する出版権が切れるのを機に、自分の名前を正式にプリンスに戻すと発表した。

2001年、プリンス名義としては9年ぶりのオリジナルアルバム『The Rainbow Children』を発表。宗教的でスピリチャルな内容で、ターニングポイントの作品となった。

ワーナー・ブラザースを離れてからは主にオフィシャルサイト「NPG Music Club」を中心に活動していたが、第46回グラミー賞(2004年2月)のオープニング・アクトをビヨンセと共演。3月にはロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターはアウトキャストアリシア・キーズが務めた。4月にコロムビアと配給合意し、アルバム『Musicology』を発表。コンサートツアーが全米で年間最高の観客動員数と収益を記録し、第47回グラミー賞でも2部門を受賞。米音楽シーンの中心に返り咲いた。

2005年2月、プリンスは人種差別問題や社会問題などについての認知度を高めたという功績が認められ NAACP Vanguard Award を受賞する。また、ハリケーン・カトリーナの被害救済にいち早くチャリティ曲「S.S.T.」をネット配信した。12月、ユニバーサルと配給合意し、ニューアルバム「3121」からの先行シングル「Te Amo Corazon」をネット配信。

2006年3月にアルバム『3121』を発表、ビルボード総合アルバム・チャートで初登場1位を獲得した(通算4枚目の全米No.1アルバム、初登場1位は今回が初めて)。また、プリンス自身がプロデュースした「3121」という香水も発売したがプロモーションを全く行わず、香水会社との裁判になってしまった。5月にはアメリカンアイドル (シーズン5)ファイナルにゲストパフォーマーとして登場した。

同年11月、ワーナー・ブラザース配給映画『ハッピー フィート』に、新曲Song of the Heartを提供する。ラスベガスリオを貸切り、3121クラブをオープン。翌年4月まで毎週末にそこでライヴを行った。

ロンドン・O2アリーナ公演 (2007年8月)

2007年1月、『Song of the Heart』がゴールデン・グローブ賞主題歌賞を受賞する。

2月4日に行われた第41回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演し、雨の中パープル・レインを含むメドレーを披露した。視聴率は、アメリカのテレビ史上3番目の高さで約3億人が見たといわれている。また、このパフォーマンスは2014年にビルボードがネット上で発表した「最も優れたスーパー・ボウル ハーフタイムショー ベスト10」で1位に輝いた。

3月、NAACPの授賞式において、最優秀黒人アーティスト(イメージアウォード)を受賞した。5月31日、アメリカの携帯電話ベライゾン・ワイヤレスに、新曲「Guitar」を無料ダウンロードのサービスを開始。

7月24日に発売のニューアルバム『Planet Earth』が、同15日発売のイギリスの新聞デイリー・メールの日曜版、「The Mail On Sunday」に付録として無料で配布され、業界に波紋を広げた。

8月1日より、ロンドンのO2アリーナで、21公演を開始。

US.コーチェラ公演 (2008年4月)

9月14日、ファンサイトに対して著作権侵害を理由に、写真、似顔絵、歌詞、アルバムジャケットなどの掲載を一切やめるよう通告がおこなわれた。それに対し、複数の大手ファンサイト運営者たちは「Prince Fans United」を結成、11月5日に抗議文を発表する。プリンスはその回答として11月8日に「F.U.N.K.」をネット配信した。

2008年2月、第50回グラミー賞にて、最優秀R&B男性ボーカル賞を受賞する。

10月、2007年に行ったロンドンのO2アリーナ公演を記録したフォト・エッセイ本「21 Nights」(ライヴアルバム「Indigo Nights」が付属)をリリースした。

11月、香水「3121」の売れ行きが不振であったのはプリンスが契約を無視してプロモーションを全く行わなかったためであると香水会社に訴訟を起こされる。最終的に裁判はプリンス側の敗訴に終わり、2011年9月、約400万ドルの賠償金支払いがプリンスに命じられた。

フランス・パリにて (2009年10月)

2009年3月2日、アメリカの大手小売りチェーンターゲットはプリンスがかねてより製作していた3枚組のアルバムを同月29日に発売すると発表、プリンスの『Lotusflow3r』『MPLSOUND』と題された2枚のアルバムと、プリンスが発掘した新人女性シンガーブリア・ヴァレンティのデビューアルバム『Elixir』と組み合わせた3枚組アルバムとなる今回のアルバムは、大手レコード会社を通さず小売店と直接独占販売契約を結ぶという従来の音楽業界では異例の販売形態となった。それに伴い、新オフィシャルサイトLOTUSFLOW3Rを公開した。

晩年 (2010-2016)

2010年1月、プリンスの出身地であるミネソタ州が本拠地のミネソタ・バイキングスのトリビュートソングのレコーディングを行った。

6月7日、新曲Hot Summerを公開(この日は自身の誕生日でもある)。7月10日、イギリスとベルギーの新聞に新作である『20ten』を付録として配布。7月22日、ドイツの雑誌「Rolling Stone magazine」に『20ten』を付録として配布。

2012年11月、NPGのギタリストであるアンディ・アローのアルバムをプロデュース。

2013年1月、twitterに於いて「3RDEYEGIRL」なるアカウントがプリンスの新曲・スタジオライブ映像をYoutubeにアップロードし始める。その後、Youtubeに投稿された動画は削除されたため同アカウントとプリンスの関係が取沙汰されたが、「3RDEYEGIRL」で正式にサイトを開設し、プリンスの新曲や動画のダウンロード販売、コンサートのチケット販売が開始された他、「3RDEYEGIRL」がプリンスがプロデュースする女性グループである事が発表された。

2014年2月2日、アメリカ・FOXチャンネルの番組『New Girl~ダサかわ女子と三銃士 シーズン3』の2月2日放送回にプリンスがカメオ出演し、主演のズーイー・デシャネルをフィーチャーした新曲「FALLINLOVE2NITE」を公開した。3月18日、新曲「FALLINLOVE2NITE」の配信リリースを午前0時より日本のiTunes Storeでスタート。

4月18日、古巣ワーナー・ブラザースと新たに契約を結んだ事が突然公式発表される。加えて新曲「ザ・ブレイクダウン」のデジタル配信もスタートされる。以下はプリンスの弁 『実は新しいスタジオ・アルバムも出す予定なんだ。僕とワーナー・ブラザースはお互いの交渉にすごく満足してて、このパートナー関係が充実したものになるのが楽しみだよ』

7月4日、「Essence Festival」のヘッドライナーを務めたプリンスが、同フェスに出演していたナイル・ロジャースのセットに飛び入りし、デヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」をカバー。

9月30日、プリンス名義で『Art Official Age』を、3RDEYEGIRL名義で『PLECTRUMELECTRUM』を、前述のとおりNPGレコードからワーナー・ブラザースに独占的ライセンスされて同時リリースされた。これは、プリンスにとって4年ぶりのスタジオアルバムのリリースとなった。発売時には、自らそのセレブレーションとして、自身の所有するスタジオであるペイズリーパークからネットを介した世界同時中継を敢行した。この両作は、日本のオリコン週間チャートでも10位以内に入った。

2015年2月8日に行われた第57回グラミー賞にAlbum of The Year部門のプレゼンターとしてサプライズ登場。この時の、"Albums — remember those?(アルバムって覚えてる?)""Like books and black lives, albums still matter(本や黒人の命と同じように、アルバムもいつだって大事なんだ)"はアルバムの存在と、トレイボン・マーティン射殺事件などに対するスピーチとして話題となった。

9月7日にアルバム『HITnRUN Phase One』を、12月11日にその続編『HITnRUN Phase Two』を音楽ストリーミングサービスTidalから先行リリース。

献花された地元ミネアポリス1番街 (2016年4月)

2016年4月15日、プリンスは移動中の自家用ジェット機内にてインフルエンザによる体調不良が悪化し、病院に緊急搬送された。だが、翌日16日には地元ミネアポリスのプリンスの所有する「ペイズリー・パーク・スタジオ」にて催行されているダンス・パーティでファンの前に姿を現した。ところが4月21日の早朝、「ペイズリー・パーク・スタジオで誰かが亡くなったようだ」と米ゴシップ・サイトのTMZが第一報で報じ、その後、「発見された遺体がプリンスのものである」とAP通信など複数のメディアが報じた。CNNはその時「ペイズリー・パーク・スタジオ内で何が起こったか警察が現在調べている」と報じており、発見時の状況について「スタジオ内のエレベーターの中で意識不明の状態」とされていたが、6月2日にミネソタ州の検視当局により死因は鎮痛剤のフェンタニルの過剰投与による中毒死である報告書が公表された。

2016年6月、ミネソタ州知事のマーク・デイトンにより、6月7日を「プリンス・デー」とすることが発表される。

音楽性・他アーティストとの関係

プリンスはアフロアメリカンとして、音楽に革新をもたらし、ジェームス・ブラウン、ジョージ・クリントン、ジミ・ヘンドリックススライ・ストーンらと並び称された。プリンスは、スティーヴィー・ワンダーを憧れのアーティストの一人に挙げているが、エレキ・ギターに興味を持ったきっかけはアイク・ターナーであったという。また、ギタリストとしてはジミ・ヘンドリックスよりもジョニ・ミッチェルカルロス・サンタナの影響が大きいとインタビューで発言している。両親はジャズ・ミュージシャンであったため、幼い頃からジャズを聴き育ち、幼少時にジェームズ・ブラウンのバックバンドまで完璧にコントロールしたコンサートを観て「自分も同じようにやりたい」と思ったという。その他、カーティス・メイフィールドPファンク、ハードロックからも影響を受けた。後進のアーティストではコクトー・ツインズを好んで聴いていたとインタビューで度々語っている。

ギター、ベース、ドラム、ピアノとあらゆる楽器を弾けるマルチプレイヤーとして有名だが、

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出典:wikipedia
2021/03/04 02:28

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