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プロイセン王国とは?

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プロイセン王国
Königreich Preußen

 | 1701年 - 1918年 | 





(国旗) | (国章)
国歌: プロイセンの国歌
プロイセンの歌(ドイツ語 : Preußenlied)
皇帝陛下万歳(ドイツ語 : Heil dir im Siegerkranz)
(共に非公式)

ドイツ帝国時代のプロイセン王国領(赤)
公用語 ドイツ語
首都 ベルリン
国王
1701年1月18日 - 1713年2月25日 フリードリヒ1世(初代)
1888年6月15日 - 1918年11月9日 ヴィルヘルム2世(最後)
首相
1848年3月19日 - 1848年3月29日 アドルフ・ハインリヒ・フォン・アルニム=ボイツェンブルク(初代)
1918年10月3日 - 1918年11月9日 マクシミリアン・フォン・バーデン(最後)
面積
1910年
348,779.87km²
人口
1816年
10,349,031人
1871年
24,689,000人
1910年
34,472,509人
変遷
成立 1701年1月18日
フランスによる占領
1806年10月14日
国土回復
1815年6月9日
立憲君主制導入 1848年12月5日
ドイツ帝国成立 1871年1月18日

通貨
ライヒスターラー(1750年以前)
プロイセン・ターラー(1750年-1857年)
フェアアインスターラー(1857年-1871年)
ゴルトマルク(1871年-1914年)
パピエルマルク(1914年)
【現在】
ベルギー
チェコ
デンマーク
ドイツ
リトアニア
ポーランド
ロシア
北ドイツ連邦ドイツ帝国(1867年-1918年)の時代は、プロイセン宰相はドイツ宰相を兼職

ブランデンブルクプロイセンの歴史
ノルトマルク
965 - 983 | プルーセン
先史 - 13世紀
リューティチ族
983 - 12世紀
ブランデンブルク辺境伯領
1157 - 1618 (1806) | ドイツ騎士団国
1224 - 1525
プロイセン公国
1525 - 1618 (1701) | ポーランド王領プロシア
1454/1466 - 1772
ブランデンブルク=プロイセン
1618 - 1701
プロイセン王国
1701 - 1772
プロイセン王国
1772 - 1918
プロイセン自由州
1918 - 1947 | クライペダ地域
1920 - 1939 / 1945 - 現在 | 回復領
1918/1945 - 現在
ブランデンブルク州
1947 - 1952 / 1990 - 現在 | カリーニングラード州
1945 - 現在

プロイセン王国(プロイセンおうこく、: Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパ王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。

プロイセンの語源となったプルーセンドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムはオランダ総督との姻戚関係によって威勢を増し、1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利したのちプロイセンを盟主とするドイツ帝国が誕生する。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政プロイセン自由州となった。(#歴史)

概要

プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年オリヴァ条約ポーランド王国封土の地位から独立したプロイセン公国(首都ケーニヒスベルク)、および神聖ローマ帝国ブランデンブルク辺境伯領(首都ベルリン)である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯プロイセン公フリードリヒ3世ケーニヒスベルクにおいて王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ帝国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位するまでプロイセン王国は続いた。

王国はユーラシア大陸西部にあり、北をバルト海に接する丘陵地帯に誕生した。領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部、カリーニングラード(当時はケーニヒスベルク)、ユトランド半島からなるが、領土のあちこちに穴があり、埋め合わせることは困難だった。ヴァイクセル川下流域を境とする北東部は東プロイセンと呼ばれ、東方植民によるドイツ人入植地としては事実上の北限であった。

国名

バルト海沿岸の地域をドイツ語プロイセン(Preußen)と呼んだことから、これが国名になった。プロイセンの地名は、バルト海沿岸の先住民族で自らをプルーサと名乗っていたプルーセン人に由来する。プロイセンは英語ではPrussia、フランス語ではPrusse、プロシア語ではPruqsasとなる。

日本語での表記は、ドイツ語に由来する「プロイセン」のほか、英語に由来する「プロシア」や「プロシャ」がある。漢字による表記では、普魯西と表記され、「」と略される。なお、明治時代には孛漏生の字も当てられた。「」と略されて、江藤新平が漢詩にこの字を用いている。

住民

プロイセン王国の人口は、建国当時から消滅まで年々増加傾向にあった。そのプロイセンを形成する住民は殆どがドイツ人であり、元々プロイセン地域に住んでいたプルーセン人は少なかった。これは、13世紀頃にドイツ騎士団による東方植民によってプルーセン人がドイツ化され、人口が減少したからである。それでも、プルーセン人は少なからず住んでいた。

主要民族はドイツ人だが、東部のポーゼンおよびオーバー(上)シュレージエン地方にはポーランド人が農村部を中心に多数居住していた。王国が産業革命期になると彼らは職と高収入を求めて、ドルトムントなどといった王国西部の工業地帯の諸都市に大量に移住した(オストフルヒト)。また、東プロイセン南部の湖沼地帯(マズール地方)のマズール人(ポーランド人のうちのマズリア地方住民)・西プロイセン北部のカシューブ人等、スラヴ系の少数民族や、北部からのデンマーク人、先進諸国から迫害を受けて、自由を求めてプロイセンに亡命してきたイギリス人フランス人なども居住していた。ベルリンブレスラウケーニヒスベルクなどの大都市にはユダヤ人が多数居住した。財政は宮廷ユダヤ人が支えた。初期にはレフマンとイツィヒの活躍がみられた。やがてゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダーが台頭した。これら民族は、プロイセン産業の発達に大きく活躍した。なお、フランス人はルイ14世治下でフォンテーヌブローの勅令により迫害されたユグノーが主体であり、ポツダム勅令で保護され定住した。ナポレオンによるロシア遠征の失敗後、生き残った“大陸軍”の将兵の一部が東プロイセンに逃れ、同地に定住した例もある。

歴史

王国の誕生

プロイセン王国の基幹となるブランデンブルク選帝侯領プロシア公領ヨーハン・ジギスムントの下で同君連合となったのは1618年のことであった(ブランデンブルク=プロイセン)。オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増したフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、大洪水時代(ポーランド・スウェーデン戦争)の北方戦争で両国の間で政治的にうまく立ち回った。1657年ヴェーラウ条約および、1660年のポーランドとスウェーデンとの間で締結されたこの戦争の講和条約であるオリヴァ条約によって、プロシア公領はポーランドスウェーデンの宗主権から解放された。これによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができたのである。

ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった。目前に迫ったスペイン継承戦争のために兵力を集めていた神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、8,000の兵を援軍として派遣することを条件に、フリードリヒの王号を認めたのである。しかし1700年11月16日に結ばれたこの王冠条約が認めた称号は、神聖ローマ帝国の領域外の「プロイセンにおける王」(König in Preußen)に過ぎず、「プロイセン国王」(König von Preußen)という王号ではなかった。それでもバロックの時代における王という称号の魅力はとても大きく、フリードリヒ1世が帝国内外のあちこちに散らばった世襲領の臣下たちの心を1つにまとめることに成功したことは確かであった。

フリードリヒ1世はユグノーに影響されてルイ14世に倣った華美な生活を愛した。そのため彼の浪費は常に国庫を圧迫し続けた。王は教養人でもあり芸術と科学のアカデミーを設立、シャルロッテンブルク宮殿を造営し、ベルリンを開拓地から「シュプレー河畔のアテネ」と呼ばれる文化都市に作り変えた。プロイセン科学アカデミーの初代院長はライプニッツである。またこのころ彫刻家アンドレアス・シュリューター(Andreas Schlueter)がフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の騎馬像を制作している。プロイセンは農業が衰え工業化が進んだ西欧諸国とは異なり、ユグノーとユンカーが運営する大規模農業が存続した。彼らは西欧諸国に農産物を大量に輸出して王国を繁栄させた。

この頃、プロイセン王国の領域は、ホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク選帝侯国(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)と旧プロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。これらばらばらの領土は防衛に不利なこと甚だしく、プロイセンを守ることはすなわち、これらをつなぎ合わせるための不断の膨張を意味していた。歴代の国王は地理的な統合を求めて相続・侵略を繰り返していくことになる。

軍国プロイセンの発展

フリードリヒ1世1713年に死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位した。「兵隊王」とあだ名されたこの王は、父王とは正反対の性格であった。質実剛健を旨として宮廷費を8割削減、ヴィンケルマンのようなアカデミーの学者たちはあまりの待遇のひどさにプロイセンを去るほどで、執務中は服がインクで汚れないよう袖カバーを着用するなどの極端な節約家ぶりは人々を驚かせた。王はそれによって生じた余剰金を全て軍事費に振り向けたため、プロイセン常備軍は4万から8万にふくれあがった。またペストによって人口の減少した東プロイセンに、フランスから亡命してきたユグノーたちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めたりした。1720年に大北方戦争の終結によって結ばれたストックホルム条約で、プロイセンは前ポンメルンウーゼドム島ヴォリン島などを獲得している。1727年ザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルド・アントン・エロイテリウスが始めた新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)は1731年から1733年には最高潮に達し、東プロイセンへの追放者約2万人を受け入れたため、王国は繁栄にむかった。国王が宮廷費を削減し、産業の発展に注ぎ込んだために、王国の産業は大きく発展した。

「大王」フリードリヒ2世は即位した1740年に多くの啓蒙主義的な改革を行った。拷問の廃止・宗教寛容令・アカデミー復興・新聞の創刊を実現し、ベルリンはユグノーらと栄えた。王立銀行(後のプロイセン銀行)も彼が創設した。ここの頭取をカール・テオフィル・ギシャールが務めた。兵隊王の残した軍隊はさらに増強され、豊かなシュレージエンを侵攻、オーストリア継承戦争七年戦争という2度の苦しい戦いを耐え抜き、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定する。1772年ポーランド分割により西プロイセン、エルムラントネッツェを獲得し、大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった。プロイセン王はもはや誰はばかることなく「プロイセン国王」(König von Preußen)を名乗ることができた。

大王の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続けた。米独立戦争後の1791年、アンスバッハ=バイロイト辺境伯のカール・アレクサンダーに終身年金を与え、その領土を譲り受けた。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は受領と管理のためにカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクを責任者として赴任させた。ユグノーらの投資がきっかけとなった1792年1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒトルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。1789年にはラングハンスが王の命により、ギリシャの列柱門を模したブランデンブルク門をベルリンに建設している。

危機と改革の時代

しかし続くフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代はプロイセンにとって危機の時代だった。消極的で優柔不断な国王は暗愚にして軍隊は旧態依然、意気揚がるナポレオン軍にかなうはずもなく、1807年ティルジット条約によってエルベ川以西の領土は全て失われ、領土と人口は約半分になった。王妃ルイーゼはこのとき優柔不断な国王を激励し、自らもナポレオンと会談するなどしてプロイセンの存続に尽力したため、非常な尊敬を集めた。危機は改革を呼び、シャルンホルストグナイゼナウクラウゼヴィッツが軍制改革を、シュタインに続いてハルデンベルクが自由主義的改革によって農民解放、行政機構の刷新を行った。

フランスによる支配はドイツ人に民族としての自覚を生み、フランスからの解放者としての役割をプロイセンに求める人々が現れた。芸術はロマン主義の時代に入り、クライストフィヒテのような熱狂的愛国者がナショナリズムを鼓吹したため、ドイツ統一を目指す運動が始まったが、プロイセンはまだそのような一部の自由主義者の理想とは程遠かった。これはオランダに似て、これまでのプロイセンに他国の移民や亡命者を受け入れる文化があったためである。

復古と反動の時代

1812年、プロイセンはユダヤ人に市民権を与えた。この年ナポレオンロシア遠征軍で最左翼に参加していたプロイセン軍であったが、12月30日に国王の許諾なくロシア軍と協定し寝返った。ブリュッヘル将軍は1815年ワーテルローの戦いでナポレオンを破り、プロイセンは再び大国となる。同年のウィーン会議でプロイセンは、かつてポーランド分割で獲得した領土の一部を事実上ロシアに譲ることになったものの、ティルジット条約以前の領土に加えてザクセン王国の北半分、ヴェストファーレンラインラントを獲得し、人口は1,000万に達した。同年にはドイツ連邦にも加盟し、盟主であるオーストリア帝国とその勢力を二分した。

しかしこの時代はプロイセンにとって精神的な停滞を招く反動の時代だった。ロシア・オーストリアと結んだ神聖同盟によって、1815年におこったブルシェンシャフト運動などの自由主義的潮流は弾圧され、1819年カールスバート決議の後、エルンスト・モーリッツ・アルントシュライエルマッハーは追放、体操の父フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは逮捕された。

1817年、ロンドンで世界初ポンド建て5%利付国債を発行した。このころコッカリル兄弟の羊毛紡績工場が誘致された。さらに駅馬車の交通網が発達して時刻表が発行されるようになった。1818年ロスチャイルドの勧告により王有地を担保として再びロンドンで5%国債を額面の72%で50万ポンド発行した。この年に蒸気船ブランデンブルクの運河を航行し始めた。1837年ベルリンにはボルジッヒ鉄工所が建設され、1838年9月21日にはポツダムツェーレンドルフ間に鉄道が開通した。1834年ドイツ関税同盟はプロイセン中心のドイツ経済圏を形成した。産業は飛躍的に発展し、農業国だったプロイセンの工業化が進んだ。

立憲体制へ

1848年革命の前夜の1845年1847年、ヨーロッパは不作と金融危機に襲われた。ベルリンはじめ各都市では市民暴動が多発するようになった(じゃがいも革命)。折しもドイツでは自由主義者の活動が活発になっていたが、経済危機の中でそれは増幅された。こうした中、1847年2月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は勅令を出して第一回プロイセン連合州議会を召集した。これは8州の議会の三身分会(騎士・都市・地方自治体の代表者)と領主会(王族、侯爵、伯爵の代表者)をベルリンへ集めた身分制議会であった。

1848年2月にはフランスで2月革命が発生。それがドイツにも波及する形で3月にはベルリンで3月革命が発生した。市民軍と国王軍の衝突が発生する中、国王は自由主義者と妥協する道を選び、軍をベルリンから退去させてルドルフ・カンプハウゼンを首相、ダーフィト・ハンゼマンを蔵相とする初の自由主義政府を誕生させた。自由主義内閣はプロイセン憲法制定議会としてプロイセン国民議会を設置したが、1848年夏以降革命の機運はヨーロッパ中で衰退へ向かった。11月にはプロイセンでも保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が首相に就任し、革

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出典:wikipedia
2020/08/06 22:25

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