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ヘルマン・ゲーリングとは?

ヘルマン・ゲーリング
Hermann Göring
(1932年8月)

【生年月日】
1893年1月12日
【出生地】
ドイツ帝国バイエルン王国ローゼンハイム
【没年月日】
(1946-10-15) 1946年10月15日(53歳没)
【死没地】
連合軍占領下ドイツバイエルン州ニュルンベルク
【出身校】
プロイセン高級幼年士官学校ミュンヘン大学
【所属政党】
国家社会主義ドイツ労働者党
【称号】
国家元帥大鉄十字章血の勲章ダンツィヒ十字章
【配偶者】
カリン・ゲーリング(旧姓フォン・フォック)
エミー・ゲーリング(旧姓ゾンネマン)
【親族】
ハインリヒ・ゲーリング(父)
【サイン】

ドイツ国会議員

【選挙区】
4区(ポツダム)
【当選回数】
8回
【在任期間】
1928年5月20日 - 1945年4月23日
ドイツ航空相

【内閣】
ヒトラー内閣
【在任期間】
1933年5月5日 - 1945年4月23日
四ヵ年計画全権責任者

【在任期間】
1936年10月18日 - 1945年4月23日
国防閣僚会議議長

【在任期間】
1939年8月30日 - 1945年4月23日
その他の職歴

突撃隊最高指導者
(1923年3月1日 - 1923年11月9日)
ドイツ国会議長
(1932年8月30日 - 1945年4月23日)
ドイツ無任所相
(1933年1月30日 - 1933年5月5日)
プロイセン自由州内相
(1933年1月30日 - 1934年4月30日)
プロイセン自由州首相
(1933年4月10日 - 1945年4月23日)
ゲシュタポ長官
(1933年12月2日 - 1936年6月26日)
ドイツ森林長官
(1934年7月3日 - 1945年4月23日)
ドイツ狩猟長官
(1934年7月3日 - 1945年4月23日)
原材料及び外国為替担当国家弁務官
(1936年4月4日 - 1945年4月23日)
ドイツ経済相
(1937年11月27日 - 1938年1月15日)

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring 発音1893年1月12日1946年10月15日)は、ドイツ政治家軍人。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall)。

第一次世界大戦エース・パイロットとして名声を得る。戦後の1922年アドルフ・ヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ミュンヘン一揆の失敗で一時亡命生活を送るも、1928年国会議員に当選し、1932年の選挙でナチ党が第一党となると国会議長に選出された。ナチ党と上流階級の橋渡し役を務めてナチ党の党勢拡大と政権獲得に貢献した。1933年のナチ党政権誕生後にはプロイセン州首相航空相ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相、森林長官、狩猟長官など要職を歴任し、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。しかし政権内では対外穏健派だったため、対外強硬派のヒトラーと徐々に距離ができ、1930年代終わり頃から政治的影響力を低下させはじめた。第二次世界大戦中にドイツ空軍の劣勢が目立つようになると一層存在感を落とした。しかし戦後のニュルンベルク裁判では最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集めた。死刑判決後に服毒自殺した。

概要

1893年ドイツ帝国外交官の息子としてバイエルンローゼンハイムに生まれる(生まれ)。1900年から母の愛人だった大地主の城に同居するようになり、豪勢な生活の中で育った(上流階級の中での育ち)。1905年からカールスルーエの幼年士官学校に入学し、ついで1909年からプロイセン高級幼年士官学校に入学。1914年1月に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属された(幼年士官学校)。

同年7月から8月に勃発した第一次世界大戦では 初め陸上部隊を指揮してミュールハウゼン防衛戦で戦ったが、まもなく病を罹患して戦線から離脱(陸軍将校としての初戦)。回復後の同年10月から陸軍航空隊へ移籍し、偵察機の観測員となる(航空隊移籍、観測員としての活躍)。ついで1915年9月から戦闘機パイロットとなる。撃墜スコアを伸ばし、1917年5月に第27戦闘機中隊指揮官に任じられる。1917年代からはエースパイロットの一人として広く認知されるようになり、1918年6月にはプール・ル・メリット勲章を受勲した(エースパイロット)。1918年7月には「リヒトホーフェン大隊」指揮官に任じられた。ウーデットはじめエースぞろいの部隊をよくまとめ上げ、苦しい戦況の中で最後まで戦い抜いたが、同年11月に敗戦を迎えた(リヒトホーフェン大隊指揮官)。

戦後ミュンヘンへ帰り、右派の政治運動に名を連ねたが、1919年2月に共産党によるミュンヘン・レーテ共和国樹立があり、身の危険を感じてミュンヘンを脱出した(ミュンヘン・レーテ共和国をめぐって)。その後デンマークやスウェーデンに活躍の場を移し、曲芸飛行士として人気を博した(北欧で曲芸飛行士)。

1921年夏にドイツへ帰国し、1922年から1923年にかけてミュンヘン大学に在学。1922年にナチ党党首ヒトラーの演説を初めて見、彼に魅了されて同党へ入党。一次大戦の英雄の経歴から重用され、入党後ただちに突撃隊最高指導者に任じられた(ナチ党への入党)。1923年のミュンヘン一揆では突撃隊を率いて参加したが、一揆は失敗し、腰に銃弾を受けてオーストリアへ国外亡命した(ミュンヘン一揆)。銃弾摘出の手術でモルヒネが使われ、以降モルヒネ依存症となる。ナチ党の再建運動にも参加できず、妻カリンの実家のあるスウェーデンで失意の日々を送った(亡命生活)。

1927年秋にドイツ国会で政治犯の恩赦が可決されたため帰国(恩赦で帰国)。1928年の国会総選挙でナチ党候補者名簿の最上位に乗せられ、国会議員に当選。ナチ党議員団の長となる。社交界でナチ党と上流階級の橋渡し役を務め、大企業から企業献金を取りつけた。以降ナチ党は積極的な選挙活動を打てるようになり、議席を急速に伸ばし、1932年7月の総選挙では第一党となる(国会議員)。1932年8月にはゲーリングが国会議長に選出された。パーペン内閣に協力しないとのヒトラーの方針に従って、国会議長としての政府への協力を拒否した。しかしやがてナチ党の政治資金が尽き、1932年11月の総選挙、12月のチューリンゲン州議会選挙はナチ党が敗北。弱気になるヒトラーを説得して非妥協路線に戻し、シュライヒャー内閣との妥協路線に転じていたグレゴール・シュトラッサーを失脚に追い込んだ。その後ヒンデンブルク大統領の説得に尽力するなどヒトラー首相任命の下地作りに貢献した(国会議長)。

1933年1月30日に成立したヒトラー内閣には無任所大臣として入閣(ヒトラー内閣成立)。またプロイセン州内相(後プロイセン州首相)に就任し、警察署長をナチ党員にすげ替えたり、突撃隊や親衛隊を補助警察として採用したり、ディールスのもとにゲシュタポを創設するなどプロイセン警察のナチ化を進めた、2月28日の国会議事堂放火事件でオランダ人共産主義者が逮捕されると共産主義者全体の国際連帯によるテロ事件と断定して左翼を次々と検挙した。無法な取り扱いが多い突撃隊の私設収容所を憂慮し、これを一掃して州公認の強制収容所を設置し、政治犯はそこに収容することとした。突撃隊との対立が深まる中、プロイセン州以外の警察を支配下に収めていた親衛隊との連携を模索し、1934年4月には親衛隊にゲシュタポ指揮権を譲った(プロイセン州統治)。1934年6月末から7月初旬の長いナイフの夜事件では親衛隊とともに粛清に主導的役割を果たした。彼は粛清対象をナチ党内や突撃隊に限定したがり、親衛隊によるナチ党外への粛清拡大には慎重だった。パーペン副首相など危ぶまれていた非ナチ党の高官たちを庇護した(長いナイフの夜)。

1933年5月より航空相、1935年3月より空軍総司令官となり、ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の再建に中心的役割を果たした。ウーデットが推す急降下爆撃や短距離中距離爆撃機を重視する航空機生産を行わせた。これは第二次世界大戦前半の対ポーランド戦西方電撃戦で大きな成功につながった反面、バトル・オブ・ブリテンの敗退につながったと評価される。1936年からスペイン内戦にドイツ空軍を「コンドル軍団」として非公式参戦させ、新型機実験場として活用した(空軍総司令官として)。

1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、都市部のグリーンベルト設置を推進して自然保護に尽くし、また狩猟法制定で狩猟のルールを定めて動物保護に尽力した(動物・自然保護への功績)。1936年8月には四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、経済にも責任を負った。戦争に耐えうる経済の確立に努めた。また水晶の夜事件後には強制的アーリア化を推進し、ユダヤ人を経済活動から排斥した(経済における活動)。外交面では対英穏健派であり、対英強硬派のリッベントロップを嫌った。1938年9月のミュンヘン会談の成功に尽力したが、対外強硬姿勢を強めるヒトラーから徐々に疑念を持たれるようになり、この頃から政治的影響力を落とした。1939年3月のチェコスロバキア解体では政策決定から外されていた。この件でイギリスの態度が硬化したことを憂慮し、8月にはスウェーデン人実業家ダーレルスを通じてイギリスと交渉にあたったが、実を結ばなかった(外交における活動)。

彼は国民人気が高く、政策決定力が落ちた後でもヒトラーから重視され、開戦に際して総統後継者に指名されている(ヒトラーの後継者)。

1939年9月の対ポーランド戦、1940年5月からの西方電撃戦でゲーリング率いる空軍は爆撃で陸軍の進撃を助け、電撃戦の一翼を担った。対仏勝利後の1940年7月に国家元帥に叙された(ポーランド戦、→西方電撃戦)。つづくバトル・オブ・ブリテンでは航空施設爆撃の継続を主張したが、ヒトラーに押し切られてロンドン空襲に切り替えた。その結果損害が増して英国本土の制空権を握れる見込みは無くなった(バトルオブブリテン)。ヒトラーが独ソ戦を検討していることを知ると二正面作戦への反対を具申したが、ヒトラーに押し切られて結局賛同した。1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦でドイツ空軍は初戦こそ大戦果を挙げたが、やがて進撃は行き詰まった。1942年から1943年にかけては、スターリングラード攻防戦で無謀な空輸作戦を行って失敗し、その権威を大きく失墜させた(独ソ戦)。1942年から英米軍によるドイツ各都市への空襲が激しくなり、1943年7月のハンブルク空襲を機に彼は爆撃機より防空のため戦闘機増強に力を入れるべきとの方針を宣言したが、守勢に転じることを嫌がるヒトラーに退けられた。また彼は夜間戦闘機に不熱心だった。結果ドイツの防空体制はお粗末な物となり、空襲被害はますます甚大となった。日々冷遇されていく彼は、空軍の指揮をミルヒに任せて美術品収集など趣味の世界に没頭していった。それでも空襲被災地の視察などでは市民からの人気は衰えていない様子だったという(英米の空襲)。1945年4月23日、オーバーザルツベルクで「総統が自決の意思を固め、連合国との和平交渉はゲーリングに任せるつもりである」という情報を聞いた彼は、ヒトラーに自分に国家指揮権を移譲する意思はあるか問う電報を送った。官房長官ボルマンはこれを「ゲーリングの反逆」とヒトラーに讒言し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。さらにボルマンの独断で親衛隊部隊に逮捕命令が出されて一時監禁されたが、ヒトラー自殺後に親衛隊はゲーリングを解放した(「反逆」、→解任と逮捕)。

5月に自ら米軍の捕虜となり、四か月ほどルクセンブルク・バート・モンドルフで拘留された(米軍の捕虜に)。1945年9月にニュルンベルクへ移送され、11月から開廷したニュルンベルク裁判の最主要被告人となった。法廷ではヒトラーとナチスを雄弁に擁護し、検察が追及する「侵略戦争の共同謀議」や「ユダヤ人絶滅政策」などの容疑を否認した。アメリカ首席検事ジャクソンらと激闘を繰り広げて人々の注目を集めたが、1946年9月の判決で絞首刑判決を受けた(ニュルンベルク裁判)。死刑方法を銃殺刑に変更するよう嘆願するも拒否されたことを不服とし、死刑執行直前の1946年10月15日に独房内で服毒自殺した(自殺)。

生涯

幼年期から青年期(1893-1914)

生まれ

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、1893年1月13日にドイツ帝国領邦バイエルン王国南端のローゼンハイムにあるサナトリウムで生まれた。父はハインリヒ・エルンスト・ゲーリング。母はその再婚の妻フランツィスカ (Franziska)(旧姓ティーフェンブルンtiefenbrunn)。

父ハインリヒは、ドイツ帝国の外交官であり、かつてドイツ植民地南西アフリカ帝国弁務官(植民地の行政長官)を務めたこともある。さらにその後、ハイチの総領事に任命され、ゲーリングが生まれた頃にも父ハインリヒはハイチに在任していた。母フランツィスカは出産のためにハイチの夫の下を離れてドイツに帰国し、掛かり付けの医師ヘルマン・リッター(騎士)・フォン・エーペンシュタインの経営するローゼンハイムのサナトリウムに入院して、そこでゲーリングを出産したのであった。ハインリヒとフランツィスカ夫妻には5人の子供があり、ゲーリングはそのうち第4子の次男であった。

兄弟には兄カール・エルンスト(Karl Ernst)、姉二人、弟アルベルトがいる。さらに父ハインリヒは前妻との間にも5人の子供を儲けており、ゲーリングはハインリヒの計10人の子供の中では第9子にあたる。

ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインが代父になり、自らの「ヘルマン」の名を与えた。またミドルネームの「ヴィルヘルム」は皇帝ヴィルヘルム2世にちなんで付けられた。エーペンシュタインはベルリン出身の裕福な大地主貴族の医者でプロイセン王室の侍医をしていたため、宮廷に影響力があった。エーペンシュタインの信仰はカトリックであったが、彼の父親はユダヤ人であったので半ユダヤ人にあたる。彼は軍医だった頃にハインリヒ・ゲーリングが帝国弁務官を務めていた南西アフリカに赴任し、ここでハインリヒと知り合い、以降深い親交を結んでいた。母フランツィスカはエーペンシュタインの掛かり付けの患者であり、また彼の愛人でもあった。二人が愛人関係を持ち始めたのはゲーリングの弟アルベルトが生まれる9カ月から1年前と見られており、そのためアルベルトは実際にはエーペンシュタインの子供ではないかと言われる。

母フランツィスカはゲーリングを生んだ後、父ハインリヒのいるハイチへ戻り、ゲーリングはフュルトにある母の友人の家に預けられた。ここで三歳まで実の両親と離れて育てられた。1896年に両親がドイツへ帰国し、この後1900年までプロイセン首都ベルリンフリーデナウで両親と一緒に暮らした。父ハインリヒは高位の外交官ではあったが、子だくさんもありそれほど裕福ではなく、ここでの生活は慎ましかった。

ハインリヒはドイツ帝国高官にしては珍しく比較的自由主義的な人物で植民地現地民の有色人種たちを人間扱いするかのような発言を繰り返していたため、帝国内での立場を弱め、帰国後には社会主義者のレッテルを貼られるようになり、早めの退官を余儀なくされた。

上流階級の中での育ち

マウテルンドルフ城
ヴェルデンシュタイン城

1900年からエーペンシュタインは彼の所有であるオーストリアザルツブルク郊外マウテルンドルフにあるマウテルンドルフ城、ついでドイツ・ニュルンベルク北方ノイハウス・アン・デア・ペグニッツにあるヴェルデンシュタイン城にゲーリング一家を招き、一家はこれらの城で暮らすようになった。

エーペンシュタインは中世の貴族のような生活に憧れを抱いていたので、その城の中は大変に豪華な装飾がなされ、従者たちは中世の宮廷風の服を着て働いていた。またその領民に対しては絶対的支配者として接していた。ゲーリングの後の華美な装飾への嗜好もこの時期にエーペンシュタインから影響を受けて培ったものと見られる。

一方、父ハインリヒは退官後、アルコール浸りの毎日を過ごしており、幼少期のゲーリングの目には頼りない父親に映った。そのためこの頃のゲーリングはエーペンシュタインを実の父以上に尊敬していた。エーペンシュタインもゲーリング一家の子供たちを可愛がっていた。特にはじめは自分の息子と思われるアルベルトを可愛がっていたが、アルベルトは気が弱くて内向的であるなど気質はエーペンシュタインに似なかったため、まもなく社交的で大胆で冒険に憧れるゲーリングに一番関心を寄せるようになったという。

エーペンシュタインとフランツィスカはしばしば夜を共にした。同居者であるハインリヒは不満を感じながらもそれを黙認していた。両親とエーペンシュタインの三人は奇妙な三角関係の生活をエーペンシュタインの城で送った。この状態はエーペンシュタインが1913年にリリーという若い娘と再婚してリリーの要求でゲーリング一家が城から退去してミュンヘンへ移住することになるまで続いた。

ゲーリングは10歳の頃から登山に夢中になっていた。13歳の頃には険しい岩登りをして標高3600メートルのグロースグロックナー山の山頂の登頂に成功している。狩猟にもよく連れて行ってもらった。ゲーリングの狩猟好きもエーペンシュタインの影響だった。

学業では1904年にフュルトの小学校 (Volksschule) を卒業し、その後アンスバッハの寄宿制のギムナジウムに入学した。しかしこの学校は規律が厳しく、入学当初からゲーリングの気性に合わなかったという。ゲーリングがこの学校から逃げだす決定的な要因となったのは「尊敬する人」というお題の作文だった。ゲーリングがエーペンシュタインのことを書いたところ、校長から呼び出しを受け、「エーペンシュタインはユダヤ人だ。アンスバッハ校の生徒がユダヤ人を尊敬することなど許されない」と注意された。ゲーリングはエーペンシュタインはカトリックと反論したものの、聞き入れられず、校長の命令で「ユダヤ人を賛美した作文は二度と書きません」と100回書かされたうえ、ユダヤ人名録をAからEまで書き写させられた。この処分は学友の間にも広まり、ゲーリングは学校中で嘲笑された。そして「私の代父はユダヤ人です」というプラカードを首にかけさせられて蛙跳びを強要されるイジメを受けたのが直接のきっかけで学校から抜け出してノイハウスのヴェルデンシュタイン城へ帰ってしまった(この際に学校の楽器の弦を全部切っていくという復讐をした)。

幼年士官学校

1907年。カールスルーエの幼年士官学校時代

この後、ゲーリングは騎兵将校だった父ハインリヒや代父エーペンシュタインの尽力で、1905年からバーデン大公国カールスルーエの幼年士官学校 (kadettenanstalt) に入学した。父は息子の反抗的な性格は軍隊に馴染まないのではと不安をもっていたが、幼年士官学校はどんな荒々しい精神の少年でも慣らしてしまうことで知られており、ゲーリングも元気でやる気のある少年として歓迎された。1909年には教練、騎乗、歴史、英語、フランス語、音楽で優秀の成績を修めてこの幼年士官学校を卒業した。

ついで1909年から1914年にかけてベルリン・グロス・リヒターフェルデにあった名門のプロイセン高級幼年士官学校に在学した。ここでも活発に活動し、同校のクラブの中でもっとも入会条件の厳しいクラブに選抜されたり、ルーレーベンの競馬に参加したり、ヴァンゼーの水泳大会に参加したりしたうえに、学業もほとんど全ての学科でトップクラスの成績を収めたことから、女性からももてはやされた。

1911年に「優」の成績で下級曹長級士官候補生(Fähnrich)試験に合格して、下級曹長級士官候補生に任官する。また1913年にはアビトゥーアにも合格している。

名門士官学校の優秀な士官候補生であったゲーリングは、ベルリン社交界にデビューでき、上流階級との交際も経験した。

1913年12月には父ハインリヒがミュンヘンで死去した。若い頃には父をそれほど尊敬していなかったゲーリングだったが、ミュンヘンのヴェストフリートホーフ墓地での父の葬儀には涙を流した。

1914年1月に陸軍少尉に任官し、帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンミュールハウゼンに駐留していた第112歩兵連隊「プリンツ・ヴィルヘルム (Prinz Wilhelm)」(バーデン大公国歩兵連隊)に入隊した。

第一次世界大戦(1914-1918)

陸軍将校としての初戦

1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した。

ゲーリングの所属する第112歩兵連隊はフランス国境地域エルザス=ロートリンゲンに駐留していたため、対仏開戦後、すぐに戦場に動員された。ゲーリングの率いる部隊はミュルーズ(ドイツ語名:ミュールハウゼン)の攻防戦の中でフランス軍の前哨拠点の一つを攻撃して4人のフランス兵を捕虜にする戦功をたてた。この功績で二級鉄十字章を受章している。しかしまもなくリューマチ熱を罹患したため、フライブルク・イム・ブライスガウの病院へ送られた。

航空隊移籍、観測員としての活躍

フライブルクの病院で入院中に第112歩兵連隊の友人で航空隊に移籍していたブルーノ・レールツァーのお見舞いを受けた。彼はフライブルクで飛行訓練を受けていた。彼の話を聞いているうちに航空隊への憧れを抱き、航空隊移籍の志願書を提出したが、初め許可が下りなかった。しかしゲーリングは命令に違反して原隊に戻らず、レールツァーのアルバトロス飛行機の観測員として独断で訓練を受け始めた。軍法会議が命令不服従の容疑でゲーリングの捜査を行い、出頭拒否で兵舎拘禁21日の判決を下した。しかし宮廷に影響力がある代父ヘルマン・フォン・エーペンシュタインに手を回してもらって、第5軍司令官皇太子ヴィルヘルムの命令により判決の執行はされず、さらにゲーリングの航空隊への配属が認められた。

1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊 (Feldflieger Abteilung 25 (FFA25)) 所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出撃して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。そして地上から激しい銃撃を受ける中で数分かけて目標物の撮影を行った。登山の経験があるゲーリングはこれをうま

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出典:wikipedia
2020/10/23 17:06

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