ベルリン州(ベルリンしゅう、独: Land Berlin)、通称ベルリン(独: Berlin、ドイツ語発音: [bɛɐ̯ˈliːn] ( 音声ファイル)、伯林)は、ドイツの首都。16ある連邦州のうちのひとつで、都市州である。
ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置する。市域人口は360万人で、同国最大の都市である。
ベルリンの名称の元は明らかでないが、おそらくは西スラヴ人が今日のベルリン一帯に住み着いたことにより、古いポラーブ語で湿地を意味するberl-/birl-とつながる説がある。民間語源的にはドイツ語で熊を意味するBärと関係があるとされている。これは今日のベルリンの紋章にも表現されている。標準ドイツ語の会話における一般的な発音では「ベアリーン」[bɛɐˈliːn] となる(発音例)。漢字では伯林という表記があてられる。なお第二次世界大戦まで、国内電気産業従事者の約半数がベルリンで働いた。それでエレクトロポリスという異名もついている。
ベルリンが属するベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の人口は590万人に達し、190カ国を超える海外出身者も暮らす。ベルリンは北ヨーロッパ平野に位置し温帯の季節的な気候の影響を受ける。市域の3分の1は森林、公園、庭園、河川や湖で構成されている。ベルリンが最初に文書に言及されたのは13世紀のことで、それ以後プロイセン王国(1701-1918)やドイツ帝国(1871-1918)、ヴァイマル共和政(1919-1933)、ナチス・ドイツ(1933-1945)の首都であった。1920年には「大ベルリン」の成立により市域が大幅に拡大し、現在とほぼ同じ領域となった。1920年代には世界で3番目に大きな都市であった。第二次世界大戦後、ベルリンは東ドイツの首都である東ベルリンと、西ドイツの事実上の飛び地で周辺をベルリンの壁(1961-1989)で囲まれた西ベルリンに分断された。1990年のドイツ再統一によりベルリンは再び首都としての地位を得て、147の大使館が置かれる。ベルリンは文化や政治、メディア、科学の世界都市である。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界14位の都市と評価された。
経済的にはサービス産業を基盤とし創造産業やメディア産業、コンベンション会場などが包括されている。ベルリンはまた、欧州大陸の航空や鉄道交通の中枢でもあり 、代表的な観光地である。重要な産業にはIT、製薬、生物医学技術、生物工学、電子工学、交通工学、再生可能エネルギーが含まれる。 ベルリンは有名な大学や調査機関、著名人が本拠としており、多数の博物館、世界的なオーケストラ、オペラ座を持ち、ベルリンマラソンなど多くのスポーツイベントも催されているほか、都市の光景や歴史的な遺産は国際的な映画製作には人気な場所となっている。ベルリンでは多く祭典や多様な建築、ナイトライフ、現代芸術、公共交通機関の路線網、世界で最も居住に適した都市など様々な分野でも良く知られた都市である。
ドイツ最大の都市であり立法・行政の中心地ではあるが、地方分権の歴史が長いドイツでは、司法の中心地はカールスルーエ、金融と交通の中心地はフランクフルト、産業の中心地はルール地方、ミュンヘン、シュトゥットガルト、ケルンとされ、東京(日本)やソウル(韓国)、パリ(フランス)のような首都一極集中という状態はない。戦間期には科学技術や文学、哲学、芸術などが発展しヴァイマル文化によりドイツはもっとも進んだ国となった。1988年の欧州文化首都に選ばれている。現代の都市ベルリンは発展の一方で、特に東側の人口停滞などから都市構造の変革が進められている。
ベルリンはドイツ東部に位置し、ポーランドとの国境から西側に60km離れた場所に位置する。ベルリン周辺部は主に森林が広がり平坦な地形で低地の湿地帯である。広大な北ヨーロッパ平野の一部でこの平野はフランス北部からロシア西部まで延びている。ベルリン-ワルシャワ間はUrstromtalと呼ばれる原流谷で、北の低バルニム台地から南のテルトウ台地までは氷床から流れ出た融水によりヴァイクセル氷河期(最終氷期)の終わりに形成された。シュプレー川はこの谷を現在流れている。
シュパンダウはベルリンでもっとも西にある区であるが、シュプレー川はそこでハーフェル川と合流する。ハーフェル川は北から南に向かってベルリン西部を流れている。ハーフェル川の流路には湖が点在し、最大の湖はテーゲル湖と大ヴァンゼー (湖)である。これらの湖からはシュプレー川上流に水が流れ、ベルリン東部のミュッゲル湖を通っている。
現代のベルリンはシュプレー川流域の両側に都市が大きく広がっている。ライニッケンドルフ区とパンコウ区の両区の大部分はバルニム台地に位置し、シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区、シュテーグリッツ=ツェーレンドルフ区、テンペルホーフ=シェーネベルク区、ノイケルン区のほとんどはテルトウ台地に位置している。
シュパンダウの一部はベルリン原流谷とナウエン平野に位置し、これはベルリン西部に延びている。ベルリンの最高地点は市の郊外ではトイフェルスベルクとミュッゲルベルゲ、中心部ではクロイツベルクである。クロイツベルクは海抜66m、トイフェルスベルクとミュッゲルベルゲは海抜115mある。なおトイフェルスベルクは第二次世界大戦の瓦礫により人工的に築かれた丘である。
ベルリンの気候はケッペンの気候区分によれば西岸海洋性気候に属している。夏は温かくしばしば湿気があり、平均最高気温は22-25℃、平均最低気温は 12-14℃である。冬は比較的寒冷で平均最高気温は3 °C (37 °F)で平均最低気温は-2-0℃であり、時に-10℃を下回ることもある。春や秋はひんやりするか穏やかである。ベルリンは市街地の建物により微気候(ヒートアイランド)が起こり気温は1-4℃ほど周辺地域より高くなる。
年間降水量は570mmで年間を通じて平均的である。12月から3月にかけての冬季にはそれ程多くはない降雪も見られるが雪が長い期間残ることはない。2009/2010年のシーズンは12月後半から3月上旬までずっと雪が残っていた例外的な期間であった。
ベルリンと言う名称が歴史的文書で最も古く遡れるのが1244年である。1448年にはブランデンブルク辺境伯がブランデンブルクからベルリンに宮殿を移した。
1618年から1648年にかけての三十年戦争ではベルリンは人口の半分を失った。1709年にプロイセン王国の首府となった。
1871年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世が皇帝となってドイツ帝国が成立し、ベルリンはその首都となった。ビスマルクの外交手腕とオーストリア・ハンガリー帝国の凋落により、ベルリンはヨーロッパにおける国際政治の中軸となる。人口は飛躍的に増え、30年戦争勃発時には1万人程度であったのが19世紀初頭に17万となり、1860年には50万、1877年の統計では100万を数えた。1873年(明治6年)には日本の岩倉使節団がベルリンを訪問しており、その当時のベルリンの様子が一部銅版画も交えて『米欧回覧実記』に詳しく記されている。1882年(明治15年)には日本の憲法を起草するための調査に伊藤博文等がやってきている。また、1884年(明治17年)には森鷗外が留学し、留学中の経験をもとに小説『舞姫』(1890年(明治23年)『国民之友』)を著している。
第一次世界大戦でドイツ帝国は崩壊し、戦後はヴァイマル共和国の首都となった。ベルリンはなおもヨーロッパの芸術・学問の中心として栄えた。その一方でベルリンは政治的に「赤いベルリン」の異名を持つ社会主義・共産主義の牙城であり、1928年の選挙では票が社会民主党が33%、ドイツ共産党が25%であるのに対してナチスは2%であり、ヒトラー政権成立直前の1932年11月の選挙では共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となった。1933年にナチスが政権を奪取し、ベルリンはそのゆがめられた政策によって文化が衰退する。1939年時点で人口434万人の大都市となっていたが、第二次世界大戦でナチス・ドイツの最後の戦場となり徹底的に破壊され(ベルリン市街戦)約125,000人の市民が犠牲となった。ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。ヒトラー政権下のベルリンには、日独関係強化のために派遣された日本の外交官や軍人のほか、商社員、留学生など、常時400人以上の日本人が在留し、欧州で一番日本人の多い都市のひとつだった。
第二次世界大戦後、ベルリンとその周辺地域はソビエト連邦(ソ連)に占領されるも、ベルリンは連合国の合意でアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域の中に位置する飛地である西ベルリンとなった。1948年にはソ連が西ベルリン封鎖を行ったが、西側は空輸作戦でこれに対抗した。この作戦は1948年6月24日から翌1949年5月11日まで続けられていた。
1949年に東西ドイツが分裂して独立し、ソ連占領地区はドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都・東ベルリンとなり、西側3か国占領地域は東ドイツの中の飛び地のまま、形式的には米・英・仏の共同占領地ながら、実質的にはドイツ連邦共和国が主権をもって実効的に統治する西ドイツ領・西ベルリンとなった。西ドイツは首都をボンに置いた。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の管理下に置かれたため、テーゲル空港など西ベルリンの空港への乗り入れは米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザドイツ航空の乗り入れは禁止されていた。
ヨシフ・スターリンの死から3か月後の1953年6月、東ベルリンで、直接的にはノルマ引き上げなどを理由とする大規模な反政府デモが起きたが、ドイツ人民警察と在独ソ連軍によって6月17日に鎮圧された(ベルリン暴動)。
西ベルリンの主要な道路であるシャルロッテンブルガー・ショセーは、この事件を機会に「6月17日通り」と改名された。旧西独はこの日を「ドイツ統一の日」とした(現在では「ドイツ統一の日」は、実際に東西ドイツが統一された10月3日に変更されている)。なお、この通りはちょうど東西ベルリンの境界となったブランデンブルク門を境に名前が変わる。東ベルリン側にあたるのがウンター・デン・リンデン通りである。
東西ドイツの国境が封鎖された後も東西ベルリンの間だけは往来が自由であったため、東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツ、と脱出する人が続出した。労働人口の流出を恐れた東ドイツ政府は1961年8月13日に東西ベルリンの境界線を封鎖。後には西側占領地区と東ドイツとの境界線上にベルリンの壁を建設した。この時代のベルリンは、東西冷戦の最前線であった。また超大国・米ソ両国の戦車が睨み合う場面があった。1971年に4者合意により西ベルリンへの車や列車によるアクセスが保証され、アクセスルートの東ドイツからの妨害の可能性が排除された。
1989年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を開放し、ベルリンの壁は崩壊する。
1990年10月3日には東西ドイツが統一し、1991年にはベルリンが東西統一ドイツの首都と定められた。以降、東西に分断されていた道路網や地下鉄も含む鉄道網などの交通網を東西で直結する工事が行われ、インフラ整備や再開発が旧東ベルリン地区を中心に進行した。また、再度首都と定められて以降、ボンからの連邦政府諸機関の移転も漸次進められた。首都機能移転は2001年5月2日に完了し、現在では再度、名実ともにドイツの首都となった。ベルリンの壁が撤去され市内中心部には広大な空き地が出現した。その一つであるポツダム広場は再開発され、巨大なビジネス・商業エリアになっている。
ベルリンはドイツ連邦共和国の首都で、元首の連邦大統領、政府の長である連邦首相、および連邦の議会両院を擁する。公式の大統領官邸はベルヴュー宮殿である。首相官邸は連邦首相府である。首相府と向かい合うのが、改修された帝国議会議事堂であり、ドイツ連邦議会はここで開催されている。1998年以来、ドイツ連邦共和国の政府はベルリンにある。連邦参議院の議員はドイツの各連邦州の代表者で構成されており、かつてのプロイセン王国貴族院からの流れを組む。ほとんどの中央官庁はベルリンに本庁を置いているが、若干は現在でも西ドイツの首都であったボンに置かれているベルリン・ボン法により支庁は残されている。2006年にはベルリンが首都であることが憲法に明記された。なお、最高裁判所に相当する連邦憲法裁判所と連邦裁判所はベルリンには所在せず、ドイツ南西部の都市カールスルーエにある。
1990年10月3日のドイツ再統一以来、ベルリンはハンブルクやブレーメンとともに3つある都市州として、全16の連邦州を構成している。1995年4月27日にはブランデンブルク州と州首相同士が合併に合意し、合併案は両州の議会を通過したが、翌1996年5月5日の住民投票でブランデンブルク州側の反対が多く否決された。
ベルリン州の議会はベルリン市議会(Abgeordnetenhaus)であり、160議席で構成されている(2016年9月現在)。議員の任期は5年。ベルリンは都市州であるため、議会は市議会と州議会の権限を併せ持つ。
ベルリン市長(Regierender Bürgermeister、直訳的には「統治者である市長」)は、議会議員選挙のたびに議会によって選出され、ドイツ連邦議会が任命する。2014年12月11日よりSPDのミヒャエル・ミュラーがその職を務める(2019年12月現在)。
ベルリン市長は州政府(ベルリン市参事会、Senat von Berlin)を率いる。州政府は、市長のほか8人の閣僚(Senat、直訳的には「元老」)によって構成される。閣僚はそれぞれ州政府の「省」を率いる。閣僚のうち2人は副市長(Bürgermeister、直訳的には「市長」)を務める。市長および州政府の執務は赤の市庁舎で行われる。
2016年ベルリン市議会選挙の結果、ドイツ社会民主党 (SPD) ・左翼党 (Die Linke)・緑の党 (Die Grünen)の3党が連立を組み、州の政治を担っている。
過去、2001~2011年にはSPDと左翼党が連立していた。その後の2011~2016年は、SPDとCDUによる連立政権であった。この時期、ドイツ海賊党がベルリン市議会の議席を有しており、同党としてはこれが州議会レベルで初の議席獲得であった。
ベルリン州の年間予算規模は2007年度で205億ユーロでこれには8,000万ユーロの余剰金も含まれる。この数値はベルリンの政治史の中で初めての黒字を示している。歳入の増加によるもので、ベルリン参事会では2008年に増加する予算の余剰金を計算している。ベルリン州の予算額の合計には約55億ユーロのドイツ政府か連邦州の財源が含まれている。一方で再統一に関連しベルリンは他のドイツの州よりも多くの負債があり、2007年12月現在の負債は600億ユーロに上る。2011年には高いレベルの公債により連邦および州安定理事会 (Stabilitätsrat von Bund und Ländern) より財政危機都市の宣言をするよう促されている。
ベルリン州は12の行政区(Bezirk)で構成されている。2001年まで23区が設置されていたが、現在は行政改革によりそれぞの区の権限が強化され、行政区の再編が行われた。各行政区には複数の地区(Ortsteil)が含まれる。その歴史は1920年10月に設定された大ベルリン以前の旧自治体に由来する。大ベルリンに合併され都市化されたが、多くの市民は自分の居住する地区や行政区に強い一体感を持っている。現在のベルリンには96の地区があり、それらは通常、いくつかの街区を形成しベルリンの方言で Kiez(キーツ)と呼ばれ小規模な住宅地を指している。
それぞの行政区には、選挙で地区から選ばれた議員からなる区議会(Bezirksamt)を有し、区長(Bezirksbürgermeister)と5人の参事委員(Bezirksstadträte)からなる執行機関がある。各行政区は自治体としては独立していないが、基本的な行政サービスの提供を担い、ベルリン州政府(ベルリン参事会)の補助的な役割を果たす。12の区長は「区長会議」を設置し(議長は市長が務める)、州政府に助言を行う。
Ortsteile には行政的な権限や義務は無く、以前の地区の代表者であった Ortsvorsteher は区長に引き継がれている。
ベルリン州は、12の区(Bezirk)に区分される。
2008年のベルリンの都市GDPは950億ドルであり、世界第69位である。ロンドン(5,650億ドル)やパリ(5,640億ドル)の6分の1程度と経済規模はさほど大きくない。ベルリンにおける経済は、政情にしばしば振り回されてきた。この町はかつて製造業や金融の中心地として繁栄していたが、冷戦期における東西ベルリン分断によって、東西ベルリンはそれぞれ東ドイツと西ドイツの経済に組み入れられることとなる。東ベルリンは、東ドイツの商業、工業、金融、輸送の中心となり、シュプレー川の重要な内港としての機能を擁し、運河によってバルト海とも結ばれた。一方、第二次世界大戦で破壊された西ベルリンの経済は、ソ連が1948年から1949年に実行したベルリン封鎖によって再び打撃を被った。しかし1950年代に入ってからは、アメリカによるマーシャル・プランの経済援助のおかげでベルリンは復興を始める。急速に工業化がなされ、国際金融や学術、研究、映画産業の中心ともなり、高速道路や鉄道、運河、空路で西ドイツと結ばれた。1989年のベルリンの壁崩壊によって、東西ベルリンは再び一つの町となる。経済統合は公式には1990年7月に開始し、特に東ベルリンの経済はかつての国有企業が民営化されるなど大きな変動を経験することとなった。東西再統一を果たしてからは、ベルリンの経済状況は当初思われた程には向上しなかった。ドイツの首都にして最大の人口を擁する都市ではあるが、都市間のネットワークを重視した世界都市調査(GaWC)では、ドイツ国内ではフランクフルト、ミュンヘン、ハンブルク、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・