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ベンジャミン・ディズレーリとは?

イギリス政治家
初代ビーコンズフィールド伯爵
ベンジャミン・ディズレーリ
Benjamin Disraeli
1st Earl of Beaconsfield

ディズレーリ(1878年)

【生年月日】
1804年12月21日
【出生地】
イギリスロンドン
【没年月日】
(1881-04-19) 1881年4月19日(76歳没)
【死没地】
イギリス、ロンドン
【前職】
小説家
【所属政党】
保守党
【称号】
初代ビーコンズフィールド伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
【配偶者】
メアリー
【親族】
カニングスビー(甥)
【サイン】

首相

【在任期間】
1868年2月27日 - 1868年12月3日
1874年2月20日 - 1880年4月18日
女王
ヴィクトリア
大蔵大臣

【内閣】
第一次ダービー伯爵内閣
第二次ダービー伯爵内閣
第三次ダービー伯爵内閣
【在任期間】
1852年2月27日 - 1852年12月17日
1858年2月25日 - 1859年6月
1866年7月6日 - 1868年2月27日
貴族院議員

【在任期間】
1876年 - 1881年
庶民院議員

【選挙区】
メイドストン選挙区
シュルーズベリー選挙区
バッキンガムシャー選挙区
【在任期間】
1837年7月24日 - 1841年6月29日
1841年6月29日 - 1847年7月29日
1847年7月29日 - 1876年8月21日

初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS1804年12月21日 - 1881年4月19日)は、イギリス政治家小説家貴族

ユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年1874年 - 1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党ウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 出生と出自
    • 2.2 少年期
      • 2.2.1 イングランド国教会に改宗
    • 2.3 青年期
      • 2.3.1 投機、事業の失敗
      • 2.3.2 処女作『ヴィヴィアン・グレイ』
      • 2.3.3 神経衰弱
      • 2.3.4 南欧・近東旅行
    • 2.4 政界進出:4回の選挙落選
    • 2.5 借金と小説執筆
    • 2.6 ヴィクトリア女王即位
    • 2.7 一介の保守党代議士として
      • 2.7.1 当選
      • 2.7.2 処女演説
      • 2.7.3 結婚
      • 2.7.4 チャーティズム運動支援
      • 2.7.5 ピール内閣に入閣できず
      • 2.7.6 「ヤング・イングランド」
      • 2.7.7 ピール内閣倒閣をめざして
      • 2.7.8 保守党分裂
    • 2.8 保守党庶民院院内総務、大蔵大臣として
      • 2.8.1 党の指導的地位をめざして
      • 2.8.2 保護貿易主義の限界
      • 2.8.3 第一次ダービー伯爵内閣蔵相
      • 2.8.4 野党としての戦術
      • 2.8.5 クリミア戦争をめぐって
      • 2.8.6 パーマストン子爵内閣倒閣をめざして
      • 2.8.7 第二次ダービー伯爵内閣蔵相
      • 2.8.8 イタリア統一戦争と自由党の結成
      • 2.8.9 再び野党
      • 2.8.10 グラッドストンの選挙法改正法案を阻止
      • 2.8.11 第三次ダービー伯爵内閣蔵相、第二次選挙法改正
    • 2.9 首相、保守党党首として
      • 2.9.1 第一次ディズレーリ内閣成立
      • 2.9.2 グラッドストン内閣倒閣を目指して
      • 2.9.3 第二次ディズレーリ内閣
        • 2.9.3.1 内政
        • 2.9.3.2 外交
          • 2.9.3.2.1 三帝同盟の切り崩し
          • 2.9.3.2.2 バルカン半島の蜂起をめぐって
          • 2.9.3.2.3 露土戦争
          • 2.9.3.2.4 ベルリン会議
          • 2.9.3.2.5 エジプト半植民地化に先鞭
          • 2.9.3.2.6 ヴィクトリア女王をインド女帝に戴冠させる
          • 2.9.3.2.7 第二次アフガニスタン戦争
          • 2.9.3.2.8 トランスヴァール併合
          • 2.9.3.2.9 ズールー族との戦い
        • 2.9.3.3 叙爵、貴族院へ
        • 2.9.3.4 総選挙で惨敗して退任
      • 2.9.4 晩年
      • 2.9.5 死去
  • 3 人物
    • 3.1 貴族的素養・貴族意識
    • 3.2 君主主義・貴族主義・民衆主義
    • 3.3 帝国主義
    • 3.4 ユダヤ教・ユダヤ人について
    • 3.5 プリムローズ
    • 3.6 女性に人気
    • 3.7 その他
  • 4 ヴィクトリア女王との関係
  • 5 ディズレーリとグラッドストン
  • 6 小説
  • 7 栄典
  • 8 ディズレーリを演じた俳優
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の仕事に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。

その後しばらく南欧近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年解散総選挙で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド」を結成・主導、また小説『カニングスビー』や『シビル』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。

党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。

1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など超党派的法案のみ可決させた。同年の総選挙で保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の理由にして首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。

以降5年ほど野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交を批判した。その間、小説『ロゼアー』を出版してベストセラーになっている。

1874年解散総選挙で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅状況の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生化、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を遂行し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には"Empress"(女帝、皇后)の称号を欲しがるヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から1878年露土戦争ではロシア帝国地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国大ブルガリア公国を分割させてロシアの地中海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年トランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。

グラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。

1880年総選挙で自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任した。退任後に小説『エンディミオン』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。

ディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。

生涯

出生と出自

1804年12月21日イギリス首都ロンドンに生まれた。祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられた。

父アイザック・デ・イズレーリ

父はイタリア系セファルディムユダヤ人の作家アイザック・デ・イズレーリ。母は同じくセファルディム系ユダヤ人のマリア(旧姓バーセイビー)。父母ともに裕福であり、そのおかげで貴公子的な生活環境の中で育った。姉にサラがいる。また後に弟としてナフタライ、ラルフ、ジェームズが生まれている。

祖父ベンジャミン1730年教皇領フェラーラ近郊のチェントに生まれたが、1748年にイギリスへ移住し、結婚を通じて株仲買人として成功し、1816年に死去した際には3万5000ポンドという遺産を残した。

ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年カスティーリャ女王イサベル1世アラゴンフェルナンド2世による異端審問ユダヤ人追放の勅令によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住し、のちディズレーリと改名し、商人として成功した。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させた。しかしこの話は疑わしく、スペイン出自家系やディズレーリの大伯父がヴェネツィアで銀行業をしていたという資料は見つけられない。また、祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ( D'Israeli)を名乗るまで姓はイズレーリ (Israeli)であったが、これはスペイン語系ではなくアラビア語系である。そのためセシル・ロスは、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移民した家系であろうと推測している。またディズレーリは、祖父ベンジャミンの最初の妻レベッカの旧姓がラーラだったことからスペインの名門ラーラ家と縁続きだと言い張っていたが、レベッカの実家ラーラ家はポルトガル系であって、スペイン系の名門家ラーラ家と特に関係はない。

セファルディム系ユダヤ人社会では、スペイン系やポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と看做すことが多く、ディズレーリがスペイン系出自にこだわっていたのはそのためであると考えられる。

一方母方の祖母の実家カードソ家はまさにそのスペイン系ユダヤ人であり、1492年以降の異端審問でスペインを追われイタリアへ逃れ、17世紀末にイギリスへ移住した家柄であった。しかしディズレーリは母親嫌いから母の家系にほとんど関心を持たず、この事実を知らなかった。いずれにしてもディズレーリは強い「貴種」意識を持っていた。

少年期

ディズレーリはイズリントンにあった女子学校に通い、その後、非国教徒が校長を務めるブラックヒースの学校に通い、13歳まで在学した。この学校での同級生によるとディズレーリはサージェスというもう一人のユダヤ教徒の生徒とともに礼拝に参加しなかったという。またユダヤ教ラビが週に一度やってきてディズレーリにヘブライ語を教えていた。子供の頃から気位が高かったディズレーリは、しばしばユダヤ人ということで教師からも学友からも滑稽な目で見られていることに傷付いていた。またディズレーリは、学校内で唯一同じユダヤ教徒であるサージェスを自分より劣っていると見下しており、非ユダヤ教徒の生徒たちと友達付き合いする方を好んだ。

イングランド国教会に改宗

ディズレーリが洗礼を受けたロンドン・ホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会

19世紀初頭のイギリスにおいて反ユダヤ主義は大陸ヨーロッパ諸国と比べると比較的弱かった。とはいえ1829年までイングランド国教会の信徒以外は公職に就けなかった。

ディズレーリの父アイザックはヴォルテール主義者であり、ユダヤ教会にお布施を収めていたが、ユダヤ教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザックがユダヤ教会に籍を置いていたのは父親ベンジャミンを喜ばせるためであった。アイザックは1813年にユダヤ教のベービス・マークス集会の長に選出されたがこれを拒否するとユダヤ教の掟で40ポンドの罰金が科されたため、これに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮してユダヤ教会に籍を置いていたが、1816年の父の死去を機に、1817年3月にディズレーリ家はユダヤ教会の籍を離れた。

アイザックはユダヤ教会離籍後、何の宗教にも入信しなかったが、親友である弁護士・考古学者シャロン・ターナーが子供たちは将来のためにイングランド国教会に入籍させた方がいいと勧めたので、ディズレーリは13歳でホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会において洗礼を受けて改宗した。

アイザックはディズレーリを名門イートン校に通わせたがっていたが、改宗したばかりのユダヤ人が歓迎されるとは思えず、結局非国教徒ユニテリアン派の牧師エリーザー・コーガンが運営していたハイアム・ヒルの学校に入学した。この学校には裕福な中産階級の子供が多く、ラテン語ギリシア語でディズレーリは他の生徒らに後れを取っていたが、文章の創造力にかけてはディズレーリの右に出る者はいなかったという。スポーツにも熱心に打ち込み、やがて学友たちのリーダー的存在となっていった。しかしこのことでディズレーリが来る前から学校を仕切っていた復習監督生たちに目を付けられ、ディズレーリにユダヤ臭をかぎつけて馬鹿にした。ある時、ディズレーリとすれ違った復習監督生のグループがディズレーリを嘲って口笛を吹いたという。それに対してディズレーリは振り返って彼らに「今、口笛を吹いた者は前に出たまえ」と述べたという。復習監督生の一番年長の者が前に出てきて「外国人に引きずりまわされるのはもうウンザリなんだよ」と言い放つと、ディズレーリはその男の顔を殴り、殴り合いとなった。ディズレーリは小柄で力も貧弱だったが、軽やかな足さばきで合理的に戦い、年長の復習監督生を血塗れ状態にした。校長コーガン牧師はディズレーリを煙たがるようになり、アイザックになるべく早く御子息を引き取ってほしいと依頼した。こうしてディズレーリは1819年1820年(15歳)にはハイアム・ヒルを退学した。この後1年ほど自宅の父の書斎や書庫で古典を読み漁って過ごした。

青年期

ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が文学の世界に浸かって神秘主義的になっていくのを懸念し、弁護士事務所で働くようディズレーリを説得した。ディズレーリは弁護士を「法文とダジャレで過ごし、うまくいけば晩年に痛風准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと拒否したが、父は「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と説得した。1821年、17歳の時にオールド・ジェリー街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務したが、すぐに飽きた。1824年7月末にはベルギーライン地方を旅行し、ライン川下りをしている時に弁護士業を止める決意をした。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、すでに法曹になる意思を無くしていた。後年ディズレーリは弁護士事務所の勤務時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。

投機、事業の失敗

出版業者ジョン・マレー

弁護士事務所を辞めた後は定職をもたず、父の友人である出版業者ジョン・マレーの手伝いをしたり、書評をした。「上流階級の人間になるには血筋か金か才能が必要」と考えていたディズレーリは、弁護士事務所の顧客が儲けているのを見ていた南米鉱山投機に弁護士事務所の書記仲間とともに手を出した。しかし、ディズレーリは大損し、6月には7,000ポンドもの借金を抱えた。この間ジョン・ディストン・ポウルズという投機家が南米鉱山に対する信用を取り戻そうとパンフレットの出版を計画し、その執筆をディズレーリに依頼してきた。ディズレーリはこれを引き受け、いくつかのパンフレットを書き、南米鉱山株投機に疑問を投げかける政治家を批判しつつ、鉱山会社の宣伝を行った。しかし結局同年10月末に南米鉱山株が暴落し、12月までにシティは大混乱に陥った。ディズレーリも破産した。

一方、『クオタリーレビュー』誌で成功を収めたジョン・マレーは日刊紙を出版しようと考えていた。破産する前のディズレーリもこの企画に参加した。新聞の名称はディズレーリが『リプレゼンタティブ』と名付けた。しかし破産によってディズレーリは出資金を出せる見込みがなくなったので、計画から外された。

処女作『ヴィヴィアン・グレイ』

ディズレーリの処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』の初版

破産したディズレーリは文筆で生計を立てる決意をし、1826年前半頃に『ヴィヴィアン・グレイ』を著した。この小説は1826年4月に出版業者ヘンリー・コルバーンによって匿名で出版された。野望に燃える主人公ヴィヴィアンが、ジャーナリストから庶民院議員となり政界で中枢の地位を得る物語である。賛否両論ながら評判となり、社交界でも話題になったが、やがて作者が社交界に入ったこともない21歳の若者だと判明した時、嘲笑に晒された。「貴族でもない癖に貴族かのように滑稽に気取っている」、「(ディズレーリは)急いで世の中から消え、忘れ去られた方が幸せである」などという厳しい評論がなされた。

またマレーは作中登場するカラバス侯爵(高い地位にあるが、頭の悪い飲んだくれで、ヴィヴィアンはこの男を操って政党を作らせ首相になろうとする)が自分をモデルにしていると感じ、ディズレーリへの怒りを露わにした。この頃のマレーはディズレーリに騙されて『リプレゼンタティブ』紙の事業をやらされたと思っていたので怒りは尚更であった。マレーは保守党の政治家たちに強い影響力を持っており、後にディズレーリが保守党の政治家としてやっていくうえでマレーとの不和は苦労する材料となる。また保守党所属議員からもディズレーリが保守主義者ではない証拠としてこの小説の様々な部分が引用されることになる。

ディズレーリ当人も後年『ヴィヴィアン・グレイ』を大いに恥じ、「若気の至り」「青臭い失敗作」と語り、1853年の全集に載せることにも強く抵抗したが、結局大幅に書き換えることを条件に掲載を許している。

非難の嵐から逃げるようにディズレーリはフランスイタリアの諸都市の旅行に出た。2か月ほどの旅行だったが、イギリス国内ではいまだに『ヴィヴィアン・グレイ』批判の余韻が残っていた。しかし金銭に困っていたディズレーリは、1826年秋に『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆し、再びコルバーンが出版した。

神経衰弱

ディズレーリの友人エドワード・ブルワー=リットン。ディズレーリと同じく小説家から政治家となる。

『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆後、神経衰弱を起こして倒れた。この後3年にわたって体調が悪いままで、その間法律の勉強に戻った。1828年には1825年春季学期以来、ほとんど通っていなかったリンカーン法曹院に通うようになったが、1831年に退学した。

1828年に『ポパニラ(Popanilla)』という小説を執筆して公刊し、功利主義者や穀物法植民地支配を批判した。しかしこの小説はほとんど評判にならなかった。

1829年末頃に健康を回復し始めたディズレーリは再び長期旅行の計画を立てた。その資金を稼ぐために『若き公爵(The Young Duke)』の執筆を開始し、1830年3月までには完成させて原稿をコルバーンに送った。この本はディズレーリが近東旅行中の1831年4月に出版された。相変わらず貴族の言葉遣いや作法が分かっていない部分や現実離れした部分もあったものの、『ヴィヴィアン・グレイ』よりは出来が良く、大衆受けする内容であったので批評家もまずまずの評価を下した。

この頃ディズレーリの父アイザックを尊敬する小説家エドワード・ブルワー=リットンと知り合い、親しく付き合うようになりお互いに影響しあった。

南欧・近東旅行

1830年5月末、姉サラの婚約者メラディスとともにロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かい、南欧近東を旅行した。特にエルサレム訪問はユダヤ人としてのアイデンティティを再認識するきっかけとなった。また、この旅行中からディズレーリは「デ・イズレーリ」という外国人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。カイロ滞在中の1831年7月、同行者メラディスが天然痘により病死したため、ディズレーリも急遽帰国の途に付き、12月末に帰国した。この帰路の船中でディズレーリは2本の小説(ユダヤ人について描いた『アルロイ(Alroy)』と文学の道へ進むか政治の道を進むか悩む若い詩人を描いた『コンタリーニ・フレミング (Contarini Fleming)』)を書いている。

政界進出:4回の選挙落選

1830年代初頭のイギリスでは産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが緊急の課題となっていた。1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生した。

ディズレーリの友人ブルワー=リットンも1831年の総選挙で当選を果たして急進派に所属する庶民院議員になった。リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった。ディズレーリは自分も庶民院議員になりたいと思うようになった。ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのため友人リットンと同じく急進派に接近した。

グレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した。ディズレーリはリットンの伝手でジョゼフ・ヒューム合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった。

ウィカム選挙区補欠選挙

この頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリは旧選挙法のもとで出馬した。リットンはディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子グレイ大佐を対立候補として擁立した。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた。ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした。しかしウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名のみでこのうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した。

1832年総選挙

1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法のもとでの ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/08/19 05:21

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